2018年4月13日 (金)

西部邁氏の自殺に思う

 西部氏が自殺をしたが、2人の弟子に手伝わせて死んでいたということが報道されている。

 私は西部氏を詳しくは知らないが、各方面で活躍されていた人であるという認識だけはあった。東大出身で東大でも教鞭をとられていたようである。彼は彼なりの死生観があったものと思われる。
 はたして、私たち人間は、自分で自分の死を決めていいものか。
 聖書によれば、いのちは、神からの賜物であり、自殺するということは神への挑戦である。
 本来ならば、神からいただいたものは、神が決めるべきことであり、自分の好きなように自分勝手に決めてはならない。
 自殺する人というのは、その点を理解していない。自分が「神」になっているのだ。
うつ病だったといわれているが、うつ病であったとしても、神は「乗り越えられない試練」を私たちに課すことはなく、必ず「逃げ道」を用意してくれていると信じることができれば、自殺などしなくて済む。
 「自殺のいったい何が悪い?」と思っている人は、聖書を勉強することをお勧めしたい。
自殺とは、立派な殺人である。被害者と加害者が同じというだけで、やっていることは殺人と同じだ。そして殺人はまぎれもなく罪である。
 

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2018年3月20日 (火)

世界の名門大学の講座が無料で視聴できる

私が英語を学んで本当に良かったと思うのは、今や、インターネット上で世界の名門大学の講座が無料で視聴できることである。

 

もう一度いう。無料だ。完全に無料なのだ。それがcousera だ。

 

興味のある人はリンク先に飛んで行ってみてほしい。

 

https://www.coursera.org/

 

哲学も学んでみたい、経済学も学んでみたい、心理学も学んでみたい、大脳生理学も学んでみたい、言語学も学んでみたい、数学も学んでみたい…。

 

しかも、それを英語で学べるとしたら…

 

しかも、世界の名門大学の講座だったとしたら…。

 

私は、カリフォルニア大学、エジンバラ大学、バージニア大学、エモリー大学などの講座を修了した。すべて無料である。終了証書は有料だが、それは欲しい人だけが購入できるというだけであり、購入する義務はない。だから無料で視聴したい人は無料で視聴できる。

 

言語学の講座の1動画がyoutubeにアップされていたので、どんなものか一つ見て頂ければ分かりやすいと思う。

 

 

 

手前みそになるが、私は中学・高校と英語はずっとトップだった。そんな私に対して、英語が苦手だったある友人はこういった。

 

「英語なんて社会に出たら何の役にも立たない。第一、しゃべれなければまったく役に立たない。僕はそんなものを学ぶ意義などまったく感じない。あまりにもバカバカしいから勉強しないだけだ」

 

しかし、英語ができれば、今、このように世界のトップレベルの大学の講座が無料で視聴できるのだ。留学しなくても、世界トップレベルの学生と同じ内容の講座を視聴できるのだ。

 

couseraは、英語だけでなく、フランス語、ドイツ語、中国語など、世界の多くの言語でも講座があるようだ。

 

実は私は couseraの講座をフランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、中国語でも視聴するのを楽しみにしているのである。

 

外国語ができれば世界が広がる。まさにそれを体感させてくれるのがcouseraだ。

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2018年3月14日 (水)

赤裸々告白;私がTOEICを受けなくなった理由

若かりし頃、私はTOEICを毎回のように受けていた。TOEICの問題集はやることはほとんどなかったが、英語の実力アップを計る物差しとして使っていたのだ。

 

青学大3年のときに初めて受けたときのスコアは520点だった。当時のクラスメートには800点台レベルの人も何人かいたが、彼らは帰国子女ばかりで、純粋に日本だけで勉強していた学生の中では、それほど悪い方ではなかったと思う。

 

そこから私のTOEICのマニアっぷりが始まった。520点の次は655点に大幅アップしたことに大感激し、気をよくした私は独学で英語を学び続け、大学卒業時には685点になっていた。

 

英語とは無縁の職場に就職したが、TOEICは受け続け、やがて710点になり、730点になり、780点になり、820点になり、900点になった。900点に達するまで、なんと15回も受け続けており、26歳になっていた。「留学でもしないと無理だ」と思っていた900点台に乗せることに成功し、私は有頂天になった。

 

今、TOEICで900点といっても、たいしたことがないと思われるかもしれないが、当時の旧TOEICでは960点くらいしか出ないものと思い込んでいた。新TOEICでは990点を取る人はけっこういるみたいだが、旧TOEICでは、どの英語関連の雑誌を見ても、せいぜい950点か960点くらいの人しか見当たらなかった。だから私は「900点の大台に乗ったからもういいか」って思ってしまったのだ。つまり、「大台に乗った」ということで満足してしまったというのがTOEICを受けなくなった理由の一つだ。

 

といえば、カッコがつくが、実は、900点を超える点数を出す自信がないというのが本音である。というのも、私の900点というのは、リスニング495点(満点)、リーディング405点なのだ。これは一見、「リーディングの伸びしろがある」と思われるかもしれないが、逆にいえば、「リスニングは伸びしろはまったくない」のである。いや、もっと正確に言えば、「リスニングは落ちる可能性が極めて高い」のだ。実際、リスニングで1問なり2問なり躓いたら、その後どんなに頑張っても、リスニングの点数は落ちてしまう。そしてリスニングが落ちてしまえば、リーディングで頑張ってもトータルスコアとしてはたいして伸びない。ということで、リスニングにものすごいプレッシャーがかかってしまうのである。

 

実は、900点を出した後、3回くらい受けたことがある。しかし、リスニングで1つミスをすると、もうその時点でモチベーションが下がってしまって調子が滅茶苦茶狂った。そしてその結局、895点とか880点とか865点とか、そういうスコアで終わってしまったのである。これはリスニングでなまじっか満点(495点)を出してしまった苦悩とでもいえよう。

 

「なんだよ! 弱音を吐くなよ! 不撓不屈の精神で990点を狙えよ!」とハッパをかけられるかもしれない。

 

しかし、私がTOEICを受けなくなった理由はもう一つある。それは、TOEICのスコアにこだわるより、もっと大切なものがあるということである。TOEICは優れた試験だと思うし、スコアアップを目指して頑張るのもいいと思う。事実、私は900点達成まで15回もお世話になったのだ。

 

しかし、TOEICは万能な試験ではない。例えば、TOEICで翻訳の実力は計れないし、語彙力だってどれだけ正確に計れるか分かったものではない。会話能力を計る物差しとしても十分ではない。だからこそ、私は別の側面に目を向けるようになったのである。カッコを付けた言い方になるが、TOEICのスコアアップ以外にも重要なことはたくさんあるのだ。

 

ということで、赤裸々告白をまとめれば、

(1)「900点という大台に乗った」ということで満足してしまった

(2)なまじっかリスニングで満点を出してしまったこともあり、もうこれ以上の点数を出すのは難しいと思うようになった

(3)TOIECのスコアアップ以外にも重要なことがたくさんあると思うようになった

という3つの理由が、私がTOEICの受験をやめた理由である。

 

ただそうは言っても、990点とか980点とか970点とか実際にとっている人をうらやましいと思うことがないわけではないというのが本音中の本音でもある。

 

まあ、でも、今の私には仏検1級1次とか伊検1級1次、中検1級1次、西検1級1次、独検1級1次といった別の外国語の目標のほうの重きが大きいのでTOEICは受けないだろうが…。

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2018年3月 8日 (木)

英語・イタリア語ボキャブラリーコンテスト

英語学習者とイタリア語学習者に朗報!

 

2018年4月15日(日曜日)に、東京の月島で「英語ボキャブラリーコンテスト」および「伊語ボキャブラリーコンテスト」が開催されます。

 

キャンペーン中につき、参加費は無料、しかも優勝者にはクオカードの賞品が贈呈されます。

 

語学学習でボキャブラリーを磨くことは大切ですよね。

 

この機会をご自身のボキャブラリーを磨くモチベーションにされてはいかがでしょうか。

 

詳しいことは以下のサイトに記載されています。

 

http://w-sophia.com/news/201837/

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2018年3月 1日 (木)

言葉使いに気を付けよう

翻訳家という職業柄、言葉の使い方には非常にこだわりがある。

 

思えば、世の中の人々の間で繰り広げられる口論も、その多くは誤った言葉使いが原因ではないだろうか。

 

桂春蝶氏が、次のような文をツイッターにあげて大炎上し、テレビでも取り上げられていた。彼の文章は以下の通り。

 

「この国では、どうしたって生きていける。働けないなら生活保護もある。我が貧困を政府にせいにしている暇があるなら、どうかまともな一歩を踏み出してほしい。この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ

 

最後の「この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ」という表現が読者の反発を買って、ツイッターが大炎上したという。

 

本人はテレビに登場して、このツイッターの文の意味を解説していたが、こんなことを言っていた。

 

「もしも私が「この国での貧困は絶対的に「自分だけのせい」なのだ」と書いていたのなら、すぐに撤回して謝罪していたと思う。私は、この国では、100%社会のせいという貧困や、100%政治のせいという貧困はないと思っているのだ」

 

もしそうなのであれば、最初の最初から、「この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ」などと書かないで、「この国では、100%社会のせいという貧困や、100%政治のせいという貧困はないと思っている」と書いておけば大炎上など起きなかったのではないか。

 

どうしても「自分の責任もある」ということを伝えたかったのであれば、「この国での貧困は、その原因の何割かは自分に責任があるように、今の私には思える」とでも書いておくこともできたのではないか。

 

ここで下のAとBを比較をしてみてほしい。

 

(A)「この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ

 

(B)、「この国での貧困は、その原因の何割かは自分の責任があるように、今の私には思える」

 

ここで読者の方に検討していただきたいのは、上記AとBとでは、どちらが真実に近いかということである。

 

真実からかけ離れればかけ離れるほど、それはその発言者の「偏見」ということになろう。そして、その「偏見」の度合いが大きければ大きいほど反発は出てくると思う。

 

言葉使いに気を付けるようにすれば、口論の多くはもともと起こらずに済むもののように私には思えるのである。

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2018年2月27日 (火)

産業翻訳家と翻訳検定

私が産業翻訳家として企業に勤めていたとき、英日翻訳のチェックは京大卒社長が行い、日英翻訳のチェックはオーストラリア人校正者が行っていた。翻訳スタッフが一人で訳文をしあげてそれを商品として出すということはなかった。もしも誤訳があったり、不自然な表現があったら、会社の名に傷がつくからである。

 

京大卒社長のチェックは厳しかった。誤訳が見つかろうものなら、こっぴどく叱られた。社長は椅子に座ったまま叱るのだが、私たちは、社長の机の横に立たされたまま、延々と説教されるのだ。10分ていどで終わればいいが、30分40分と続くこともあった。これはかなり堪える。心身共に疲れる。

 

それに懲りた私は、自分がしあげた訳文をありとあらゆる観点から見直し、誤訳していないか十分に吟味し、日本語として不自然でないか何度も推敲して社長のチェックを受けるようにしたが、それでも毎回毎回叱られた。考えてみれば、英日翻訳など、ケチをつけようと思えば、いくらでもケチはつけられる。誤訳がなくても、「日本語として不自然だ」ともいえるのだから。

 

社長には叱られっぱなしだった私だったが、そんな私でもすでに当時、英検1級1次に合格していたし、翻訳検定の英日翻訳士3級日英翻訳士3級を持っていた。その他、ありとあらゆる英語関連の資格の一番上もしくは二番目の資格を保有していた。

 

「英日翻訳士3級」といえば、レベルが低いと思われがちだが、この試験の3級は「商品としての訳文を一人でしあげることができるレベル」であり、言い換えれば、フリーランスとしても一人でやっていけるレベルである。であるから「3級」といっても英検1級1次よりは難しいと思う。事実、長年の経験のある翻訳家が受けても、3級にすら受からないケースもあった。

 

一方、社長はどうかといえば、京大こそは出てはいるものの、大学卒業後は特に英語の勉強をしていたわけではなく、英語関連の資格はもちろん翻訳検定も受けたことがなかった。

 

しかし、それでいて、私の訳文をチェックし終えてから、自身が「お化粧直し」した訳文を評しては、満面の笑みを浮かべてよくこんなことを言っていた。

 

「これこそが英日翻訳士1級の訳だよ。どうだね、君、それが分かるかね? 君は英日翻訳士3級を持っているらしいが、私が受けたら1級だね。どんなに調子が悪くても2級は行くね」

 

しかし考えてみればわかると思うのだが、「何もない状態から訳文をしあげる作業」と「しあがった訳文をチェックし、いわゆるお化粧直しをする作業」とでは前者のほうが何倍も難しい。社長がやっているのは、いわゆるお化粧直しにすぎないのであって、それは「何もない状態から訳文をしあげる」ことと比べれば、10分の1ていどの労力で済むことである。

 

しかも翻訳検定はかなり難しい。プロの翻訳家でも3級に落ちる人もいるのに、2級はさらに難しく、1級は「合格者は出ない」とまで言われていた。それなのに社長は平気な顔で「私が受けたら1級だね」と笑いながら言うのであった。

 

そんな社長は我々翻訳スタッフに翻訳検定の資格を受けることを強くすすめていた。私はすでに3級をもってはいたが、2級以上を狙えと言われていた。

 

そんなある日、社長は私の訳文をチェックしながらいつものフレーズを口にした。

 

「私も翻訳検定受けてみたいよ。私ならまちがいなく1級だろうね。どんなに調子が悪くても2級だな、私が3級なんてありえない話だよ」

 

それに対して私はこういった。

 

「では、お受けになってはいかがでしょうか?」

 

「いや、私は老眼がひどくてね、小さい字を見ていると、目がしょぼしょぼしてくるんだ。だから実力が発揮できないと思う。拡大コピーでもして、もっと字を大きくしてくれたら、ぜがひでも受けたいんだがなぁ。残念でしかたがないよ」

 

東大大学院出身の翻訳スタッフは社長のこうした発言を聞いて「社長は、受けたい受けたいって言っているけど、受けるわけはないよ。だって、3級にも受からなかったら、大変なことになるじゃない。今まであんな偉そうなことを言っておきながら、3級にも受からなかったら、信頼が一気になくなるじゃない。社長はそれを恐れているのよ、受けるわけないよ」と言っていた。

 

当時私は翻訳検定の主催者の方と懇意にしていたこともあり、「老眼の人で受けたいと言っている人がいるのですが、問題を拡大コピーしてもらうことはできないでしょうか」と尋ねてみたところ、「おやすい御用ですよ」と快い返事をもらった。

 

そんなある日、京大卒社長がまた「私が受けたら1級間違いなしだ。目さえよければ、ぜひとも受けたいんだがなぁ」といつものフレーズを口にしたので、私はこう提案した。

 

「この前、主催者の人に聞いてみたんですが、問題を拡大コピーしてくださるそうですよ。ですから、お受けになってはいかがでしょうか?」

 

すると社長は困ったような表情を浮かべながら、こういった。

 

「おおそうか、じゃあ、受けようかな。よし、じゃあ、次回受けよう」

 

当時、その検定は東京の1会場の1部屋だけで行われており、受験生の数もせいぜい40~50人しかいなかった。私は2級以上の級を狙うために受けに行ったのだが、どこを探しても社長の姿はなかった。

 

それ以降、社長が翻訳検定のことを口にすることは一切なくなったのである。

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2018年2月22日 (木)

最初の翻訳書でいくら入って来たか

出版翻訳の仕事をしていると、よく言われます。

 

「出版翻訳だけで食べていけるの? いけないですよね、いくらなんでも。そんな人聞いたことがないし」

 

「出版翻訳ほどお金にならないものはないってよく言われるけど、実際どうなの? 割に合わないですよね」

 

いやらしい話ではありますが、お金の話は避けては通れないので、ここで最初の翻訳書でいくら入ってきたか、赤裸々にお話ししましょう。

 

出版翻訳の場合、たいていは印税契約になります。つまり、たくさん売れれば売れるほど入ってくるのです。ですから万が一、大ベストセラーにでもなれば、入って来るものも青天井。

 

でも、現実は、そんな話はほとんどありません。昨今では、ほとんどは初版どまりと言われています。

 

では、私の場合、最初の翻訳書でいくら入ってきたのか。

 

印税率は、古き良き時代は8%と相場は決まっていたようですが、出版不況が続き、8%が7%に、7%が6%に、6%が5%に、5%が4%という風に、だんだんとそのしわ寄せが翻訳家にやってきているようです。特に新人翻訳家は、実績も乏しいゆえに、叩かれることが多いようです。

 

といっても、翻訳家と出版社が合意のもとに契約が結ばれるので、嫌なら最初から出版しなければいいのです。

 

しかし、大半の人は、自分の翻訳書が出ることを望んでいる。そういうわけで、出版社の言いなりにならざるを得ないという側面もあります。

 

私の場合、最初の翻訳書は、本当にふってわいたような話だったため、出版社の言いなりでした。とにかく私としては、自分の名前で翻訳書が出るという夢の夢の夢の話。断るわけがありません。

 

条件は最初にこう言われました。

 

「初版は5000部、定価は1200円、印税は5%です。それで良ければウチで出したい」

 

もちろん、断るわけもなく、すぐにOKしました。なにしろ初めての翻訳書です。

 

よく、「一冊売れればいくら入る」という風に印税を計算する人がいますが、実際に売れた部数で計算されるよりも、印刷した部数で計算されることが多いようです。私の場合も、印刷部数での計算でした。

 

私の場合、5000部を印刷しましたので、それをベースに計算されました。その計算式は以下のとおり。

 

5000部×1200円×0.05=30万円。

 

10%の源泉所得税が引かれますので、実際に振り込まれたのは27万円。

 

その後、重版となりましたが、重版部数は1500部。

 

重版も印刷部数で計算された印税をいただけました。

 

1500部×1200円×0.05=9万円。

 

10%の源泉所得税が引かれて、振り込まれたのが81000円。

 

というわけで、最初の翻訳書を出して入ってきたのは、35万1000円だったわけです。

 

約200ページを訳して、それだのお金が入ってきたわけですが、お金よりも、当時の私としては、自分が惚れ込んだ本を自分の手で訳したものが書店に並んだことの方の精神的な喜びのほうが何十倍も大きかったのは言うまでもありません。

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2018年2月20日 (火)

ひょんなことから出版翻訳家になった

「自分の翻訳書が全国の書店に出回るなんて…」

 

20歳のころ、将来、自分が訳した本が書店に出回るのを夢見始めました。

 

でも、それは夢の夢の夢の夢。

 

どうやって出版社にコネをつければいいのかもわからなかったし、そもそも翻訳の実力もなかったのですから、実現するわけはないと思っていました。

 

でも、それは30歳になったときもそうです。27歳から産業翻訳の仕事は始めていたものの、どうやって出版社にコネをつければいいのかが分からない以上、実現するとは思えなかったのです。

 

私は30歳でイギリスに留学しましたが、修士号を取得して帰国したときは32歳になっていました。

 

帰国後すぐに就職が決まると思っていましたが、なかなか就職が決まらず、朝から晩まで何もしない日々が過ぎていました。仕事がない日々を送るのは当時の私としてはとても辛かった。

 

当然、日に日に生活費はかかるもので、やがて貯金は底をつき、借金生活に入ったものの、就職も決まらないまま。

 

ですから毎日毎日やることがないのです。就職活動はしていても、それ以外には毎日毎日やることがない。

 

しかし、何もしないままだとどんどん蟻地獄にはまっていくだけなので、そうならないのためにも夜な夜な、イギリス留学中に読んで面白かった原書を1ページ、また1ぺージ、また1ページと訳し続けました。

 

もちろん訳したからといって、それが翻訳書になるとは思っていません。第一、関心をもってくれる出版社だって見つかってはいません。

 

でも、それ以外に取り立てて何もすることがないので、苦し紛れに夜な夜な翻訳に取り組んでいました。

 

そんなことを繰り返していると、数か月たったころ、50ページ程度、訳し終えていました。

 

帰国後半年たったころ、ようやく英会話講師の職を見つけました。

 

借金は膨れ上がっていましたので、返済するのも一苦労。もう毎日毎日がお金の悩みで地獄の日々でした。結局、借金を返し終えるまで1年かかりました。

 

50ページほど訳した原稿は、ある出版社に郵送していましたが、もちろん、なしのつぶて。

 

それから2年くらい経った頃だったでしょうか。とっくの昔に忘れていたその翻訳原稿が編集者の目に留まったのでした。

 

お電話をいただき、「面白そうだから、ぜひウチで出版したい。残りを大至急訳してもらえないか」と言われました。もちろん、印税も支払ってくれるとのこと。

 

私は残りの150ページを1か月で訳すと、その2週間後には、なんと書店に並んでいたのでした。

 

34歳にして初の翻訳書出版にこぎつけた瞬間でした。ありがたいことに、その本は重版になり、重版印税も入ってくるという僥倖に恵まれました。

20歳のころに夢見ていたことが、ひょんなことから15年近くの歳月を経て、実現したのでした。

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2018年2月18日 (日)

社会人に英語力は必要なのか?

ロンドンブーツの田村淳氏がabematvの「青学一直線」という番組で青学の一般入試に挑戦している。(関心のある人は無料で視聴できるので「abematv」で検索してみるといいと思う)。

 

青学出身の私は興味をもって見ていたが、全学部入試の結果は不合格だったようだ。本人の弁では英語ができなったのが敗因のようである。

 

大学で学問をやりたいというのなら、社会人入試やAO入試、あるいは青学以外の通信制の大学に入学するという手もあったはずなのに、彼は青学の一般入試を受けたのである。青学に合格するには、それなりに英語力がなければならないが、それをあえて一般入試に挑戦したわけである。

 

彼の青学挑戦にはネット上でも様々な賛否両論がある。しかし、ここではそれは論じない。ここでは、はたして社会人にとって英語力は必要なのかを考えてみたいと思う。

 

私は、日本に住む社会人で、かつ、日本国内だけで生活し、(英語力が必要とされない)仕事をし、日頃外国人と接する機会がない人であれば、英語力は必要となることはまずないと思っている。

 

もちろん英語を勉強したければすればいいし、英語を勉強する意義は途方もなく大きいとも思う。しかし本人が興味がないのであれば、英語など勉強しなくてもまったくかまないし、英語ができなくても日本語を通して学問もできるとも思う。

 

本当に大学で学問をしたいのであれば、社会人であれば、通信制の大学という手だってあるのである。というより、仕事をしている社会人が本気で卒業を考える場合、通学課程よりも通信課程のほうが現実的である。通学課程の場合、すべての科目を授業に出席して履修しなければならないし、ゼミも卒論もある。さらにゼミ合宿があるゼミもあるだろうし、通学していると人とのかかわりは避けられない。非常に負担が大きいのである。

 

私は慶應大学文学部、日本大学法学部、日本大学商学部、ロンドン大学哲学部を通信制の課程で学士号を得ている。

 

ロンドン大学の場合は英語力がなければ学位は取れないが、慶應大学や日本大学の場合は、「英語」の科目で単位が取れる程度の英語力さえあれば、学位は取れる。正直に言うが、慶應大学通信課程の「英語」の科目で単位を取るのは、慶應大学に一般入試で入る英語のレベルよりも低いレベルでも可能だ。

 

では、通信制の大学でどんな科目が学べるのか。例えば、日本大学法学部の場合、民法、商法、会社法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法、憲法、知的財産法…と法律関係の専門科目が学べる。そして、こういう法律関係の専門科目を学ぶ際に、英語力はまったく必要とされないのである。同じように、慶應大学文学部にしても日本大学商学部にしても、専門科目を学ぶ際に英語力はまったく必要とされない。(ただし、一部の英語関連科目は除く)

 

もちろん大学教授になり、国際的なレベルで学問を究めたいという人であれば、英語力はあったほうがいいだろう。というより、英語力がなければ、ほとんどの分野で最先端の研究はできないだろう。だからそういう意思のある人は英語力が必要となってくる。

 

しかし、そういった学問を究めたいというごく少数の人を除けば、英語力などなくても学問はできるのだ。

 

もっと言えば、大学に入らなくても、独学で学問をすることもできると私は思う。例えば、経営学に興味があれば「経営学検定」を受けるのもいい。経済学に興味があれば「経済学検定」を受けるのもいい。法律に興味があれば「法学検定」や「ビジネス実務法務検定」などの法律関係の資格に挑戦するのもいい。ITに興味があればIT関連資格もたくさんある。外国語に興味があるのなら仏検、独検…とたくさん外国語の検定もある。それらのほとんどすべては英語力がなくても合格できるのである。

 

結論として、日本に住む社会人で、かつ、日本国内だけで生活し、(英語力が必要とされない)仕事をし、日頃外国人と接する機会がない人であれば、英語力は必要となることはない。しかも、(たいていの人にとっては)学問も日本語だけで十分にできる。ただし、英語を学びたい人が英語を学ぶのはいいことだし、実際、英語を学ぶ意義は途方もなく大きいと私は信じている。

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2018年2月15日 (木)

米国一流大学院卒翻訳家解雇事件

これも産業翻訳家時代の怖い怖い話。

 

京大卒社長は学歴を通して人を判断する癖があり、ある日、マサチューセッツ工科大卒ミシガン大学大学院修了の初老の男性を学歴に惚れ込んで採用してしまった。翻訳部のリーダー兼育成係を期待していたようだった。

 

彼はネイティブ並みの英語をしゃべり、翻訳の経験は数十年。自宅で1人で翻訳会社を経営してきた「一匹オオカミ」的存在だった。

 

ところがこの初老の男性、過剰に自分に自信を持ち、他人のことを小ばかにする癖があった。

 

あげればきりがないが、例えば、オーストラリア人校正者が風邪で2日休んだことがあったのだが、その翌日彼が出勤してきたら、その初老の男性は開口一番でそのオーストラリア人にこう言い放った。

 

「You' ve been lazy a couple of days(この数日、会社さぼってたな、お前)」

 

自分ことを「lazy」と言われたオーストラリア人、顔を真っ赤にして、「風を引いていたんだ」と反論。怒っていたのは誰の目に明らかだった。

 

このように、この初老の男性は、他人が不快になることをいちいち口に出すものだから、みんなから好かれるはずはない。口を開けば、自分の自慢か、他人の悪口かのいずれかだった。もちろん、私もさんざんバカにされた。

 

しかし、なんといってもマサチューセッツ工科大卒でありミシガン大学大学院修了である。エリート中のエリート。しかも翻訳会社を経営して何十年である。その学歴・経歴たるや、ピカピカである。

 

そんなある日、大手企業から大量の翻訳の依頼が来たのだが、契約を結ぶ前に日英翻訳のトライアルを課された。トライアルに合格すれば大型契約を結ぶ段取りになっていた。

 

日英翻訳を担当したのは、もちろんこの初老の男性だった。なんどでもいうが、彼は米国一流大学の卒業者であり、長年、翻訳会社を1人できりもりしてきた実績のある人なのである。彼が最も適任者だったのだ。

 

そんなある日だった。この初老の男性が、残業代をちょろまかして請求していることが発覚した。残業代は自己申告なのだが、例えば、午後6時から午後7時まで残業した場合、「1800から1900まで残業」と書いて、残業時間は60分で請求できる。

 

しかし、この初老の男性は、「1800から1900まで残業」でも85分残業をしたことにしたり、「1800から1930まで残業」でも130分残業したことにしていた。こういう風に残業した日のほぼ毎日、20分から30分くらい水増しで請求していたのだ。

 

経理担当から注意を受けていたが、懲りずに、水増し請求は続けていたようだ。こんなあからさまな水増し請求は子供でもしないだろう。それとも米国ではそういう習慣でもあったのだろうか?

 

やがてトライアルの結果がかえってきた。

 

結果は100点満点の40点で不合格だった。もちろん、大型契約は白紙撤回となった。

 

この結果にその初老の男性は怒り爆発。

 

「こんなのは、言語道断だ!」と言い放ち、「40点/100点満点」と書かれた紙に「言語道断」の4文字を大きく書いて、なんとその企業にファックスしてしまったのである。

 

その初老の男性がこういうことをしたおかげで、その大手企業とわが社の縁は完全に切れてしまった。

 

社長は、かねてからその初老の男性が残業代を水増し請求するのを苦々しく思っており、しかも口を開けば他人の悪口しか言わないため、他人に悪影響がおよぶことを懸念していた。

 

そのうえで、トライアルで40点しか取れなかったので、その初老の男性をその時点で見限った。翻訳の実力があれば会社としても必要性を感じるが、肝心の翻訳の実力すら無いことが露呈したのだ。

 

社長はその初老の男性にこう宣告した。

 

「給料は契約期間中は満額おしはらいますので、明日からお越しいただかなくて結構です。自宅待機してください」

 

「自宅待機」とはいっても、実際にはそれ以降その初老の男性に仕事を頼むことは一切なかったのだから、実質的には解雇になったのであった。契約期間がどれくらいかは私は知らないが、きっと1年だったのだろう。会社にとってはとんだお金の無駄使いになったのである。

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