2017年8月14日 (月)

外国語学習者の「宝物」を発見

宝物を発見しました! 

 

なななんと、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、フランス語、中国語…とさまざまな言語で、書籍を朗読したものが無料で聴けるサイトが見つかりました。以下のリンク先です。

 

http://www.loyalbooks.com/

 

私は英語は大昔から勉強していますが、リスニングを鍛えるために買った音声教材は莫大な数になりました。いったいいくらお金を費やしたことか…。

 

その後、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、中国語と勉強してきましたが、CDがついている書籍が中心。なので、どれもこれも値段が高い。

 

4~5冊買ったかと思うと、すぐに1万円を越えたりするのですよね。

 

他のお金のかかる趣味よりははるかに安上がりな趣味ですが、それでもCD付きのものばかり買っていると本代が馬鹿にならない。

 

しかし、中検、伊検、仏検、HSK…とどれもリスニングが重要な検定ばかり狙っているので、リスニングは無視できない。

 

とはいえ、CD付きの書籍そのものがなかなか数多く見つかっているわけではなく、今後どうやってCD付きの本を見つけていこうかと頭を悩ませていました。

 

そんな折、今日、上記のサイトを発見。

 

今までもこういうのを見たことがありましたが、CD付きの本を買えばすむはなしだと思ってスルーしてきていました。

 

が、よく考えれば、これを利用しない手はない。

 

上記のサイトの書籍の朗読の音源が無料なのは、著作権が切れているものを読んでいるからでしょうね。本も中古で買ったりすれば安く手に入ると思いますし、中古がなくても、CD付きで買うよりは安上がりです。

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2017年7月28日 (金)

金をたくさん稼ぐ人間が立派なのか?

 今の日本には、金をたくさん稼ぐ人間が見上げられる風潮がある。

 しかし、聖書には、金は諸悪の根源と書かれてある。
 先日亡くなられた聖路加国際病院の日野原重明氏の著書にこう書かれてある。
「アメリカの商社の人が日本で仕事を始めるにあたって、聖路加国際病院に挨拶にみえました。うちの社員が病気になったらどうぞよろしくということなのですが、そのとき、まだどうなるかわからないが、もしも利潤が出れば、収入の1%は病院に寄付をしますというのです。日本には多くの商社がありますが、そういう話を受けたことは絶無です。日本の商社はただ儲けるためだけに働いていて、儲けた利潤の一部を社会のために還元するという精神がどこにもありません」
 金、金、金…と金儲けのことしか頭になく、社会に貢献しようという気持ちをもたなければ、いくらお金を稼いだところで、単なる「金の奴隷」にすぎない。生き方そのものが他律的なのだ。
 聖書には、「神の奴隷になれ」と書かれてある。私たちは、神に造られ、神に生かされているのであるから、何をすることが神をもっとも喜ばせることになるかを考えて生きるべきなのだ。
 そういう心構えで生きていれば、金のことを心配しなくても、金のほうから勝手にやってくる。
 金に執着するからこそ、欲におぼれ、その結果、金が逃げていくのである。
 いかに社会に貢献できるか、それを第一に考えて生きていれば、金は自然と寄ってくるのではないか。

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2017年7月21日 (金)

中国語の名言、格言

 中国語の名言、格言を学んでいるところである。今日学んだ名言の中に次のものがあった。

 为人民服务
  これは「人の命には限りがあるが、人民のためによいことをすれば、人類の役に立ち無限の徳となる」という意味だそうだ。
 私は今、ボキャブラリーコンテストなどのイベントを主催しているが、「为人民服务」の精神で行っている。
 世の中、お金、お金、お金…とお金儲けにばかり精を出す人が多い。
 
 あたかもお金にならないことはやっても無意味といわんばかりである。
 そういう意味では、私の主催するイベントはいまのところお金儲けになっていないので、馬鹿がやることだと思う人もいることだろう。
 しかし、多くの参加者の方に楽しんでいただいているという自負はある。
 将来は、何百人、何千人が参加するようなイベントにしていきたいという夢もある。
 それはお金儲けが目的ではなく、「人類の役に立ちたい」という真心からである。
 

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2017年7月18日 (火)

私利私欲のために働くことの何が悪いか?

 「私利私欲のために働くのが何が悪いのか、私は金のために働いている、他人に迷惑がかからなければそれでいいじゃないか、ほとんどの人が働いているのも金がほしいからだろう、金のために働いているのだろう?」といった主旨の記事を見かけたことがある。

 かかる主張を考える前に、まず「私利私欲」の定義を確認してみよう。
 goo辞書では「自分の利益や自分の欲求を満たすことだけを考えて行動すること」とある。
 実社会でもこの定義のニュアンスで使われることが多いものと思われる。
 「私は金のために働いている、ただその結果として、社会貢献はしている。だからその対価としてお金が入ってきているのだ、その何が悪いのか」と主張したいのは分かる。
 しかし、金を稼ぐことがその人の究極の目的だとすると、社会に貢献すること自体(あるいは他人にサービスを提供すること自体)は、単に金を稼ぐための手段に過ぎなくなる。
 金を稼ぐことがその人の究極の目的だとすると、いくら大金を稼ごうが、それによっていくら社会に貢献しようが、そこに道徳的価値は無いことになる。結局、その人が社会貢献しているのは、社会貢献がしたくてしているのではなく、金がほしいからしているからだ。
 カント信奉者の私から言わせれば、それでいくらお金を稼いだとしても、人間として尊敬には値しない。その理由は、そういう人は結局のところ私利私欲だけでしか動いていないからだ。
 一方、私利私欲のためではなく、隣人愛のために働いている人はどうか。
 そのような人は、金を稼ぐことが究極の目的ではない。社会に貢献すること自体(あるいは他人にサービスを提供すること自体)が究極の目的なのだ。
 では、私利私欲のために働くことの何が悪いのか。
 聖書にはこう書いてある。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」
 「私利私欲のために働くのが何が悪いのか、私は金のために働いている、他人に迷惑がかからなければそれでいいじゃないか」と主張する人が、例えば、個々のクライアントから報酬を受け取る弁護士等だったらどうなるか考えてみてほしい。
 金を稼ぐことしか関心のない弁護士であれば、金になりそうにないクライアントはぞんざいな扱いをするようにならないだろうか。おそらくなるだろう。少なくとも「金になりそうにもないクライアントでも、延々と時間を割いてくれる弁護士」にはなりそうもない。 
 世の中の皆が、金、金、金…と私利私欲だけで働く世界は、とてもおぞましいものだと思う。
 私は、金の大切さは否定はしないが、「金のために働く」という人間にはなりたくはない。
そんなことをしなくても、神は生かせてくれるはずだ。聖書にもこう書いてあるではないか。
 「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 私から言わせれば、「金のために働いている」という人は、金の奴隷だ。自分の意思で動いているように思っているかもしれないが、自分の意思ではなく、金銭欲に動かされているのである。
 

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2017年7月13日 (木)

言葉の威力

 「このハゲ~~」と男性秘書に叫んだ女性議員がマスコミをにぎわしている。

 

 聞いているだけでも不快になるものだが、昨夜はとうとう夢の中にこの議員が出てきた。

 

 恐怖のあまり飛び起きた。

 

 ちょうどトイレに行きたかったこともあって、用を足して眠りについたが、驚くことにまた同じ議員が夢の中に出てきて、「このハゲ~~」と叫び、びっくりして飛び起きた。

 

 まだ深夜だったので、もう一度眠りに入ったのだが、驚くことに、またまた同じ議員が夢の中に出てきて、今度は、私が不倫をしているとののしった。

 

 恐怖のあまり飛び起きたが、まだ4時頃だった。

 

 すると、またまた同じ議員が夢の中に出てきて、ありとあらゆる罵声を私に浴びせかけた。

 

 総じていえば、昨夜の私の夢は、ほぼその議員に占領されていた。

 

 私はハゲではないし、不倫もしていない。なのに、ここまで不快にさせられた夢は初めてた。マスコミに流れるその議員の声色の衝撃がよっぽど強かったのだろう。

 

 思い返してみれば、私の人生において、あそこまでひどい罵声を浴びせられたことはなかった。私がもしあんな罵声を浴びせられたら、怖くてその日のうちに仕事をやめるのではないかと思う。

 

 それからまた思い返してみた。

 

 私は、一時期親友だったのに、ひどい悪口を言われたために、疎遠になった人が数人いる。

 

 例の議員の罵詈雑言から比べれば、全然たいしたものではないが、それでも私は彼らの悪口が許せなかったのだ。明らかに悪意があるし、明らかに私を軽んじていたからだ。

 

 言葉は使い方が大切だ。

 

 言葉によって愛が生まれることもあれば、憎悪が生まれることもある。

 

 聖書にこう書いてある。

 

「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」

 

「あなたは自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪ある者とされる」

 

 言葉使いには気をつけるべきだ、という認識がさらに高まった日であった。

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2017年7月 6日 (木)

無料で受けられる科学検定

 ここ数年、フランス語、イタリア語、スペイン語、中国語といった外国語の検定試験にチャレンジし続けているので、それ以外の検定試験はあまり受けていない。

 ネットで無料で受けられる「科学検定」というのがあったので軽い気持ちで7級を受けてみた。(興味のある人は「科学検定」で検索すると出てくると思う)。
 結果は合格。
 7級は小学生レベルなので受かって当然といえば当然だが、正解率は83%だった。
 上の級になると有料になるようだ。
 

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2017年6月29日 (木)

外国語学習における「臨界期」

外国語学習について多くの学者が「臨界期」説を唱えています。

 

12歳くらいまでにその言語が話されている国に移住しなければ、いくら努力してもネイティブ並みに堪能にはならないというのが外国語習得における「臨界期」。

 

この「臨界期」説に異論を唱える学者もいますが、かなり少ない。

 

でも思うのですが、「堪能になるか否か」という基準って、ネイティブ並みに話せるかどうかという点に重点を置きすぎじゃないですかね?

 

私の個人的な意見ですが、日本に住み、日頃日本人としか接しない日本人は、ネイティブ並みに話せるようになることを目標にするよりも、ネイティブ並みに読んだり聞いたりできることを目標にしたほうが実りが多いと思うのです。

 

ネイティブ並みに話せるようになったところで、例えば、イタリア語にしてもスペイン語にしても中国語にしてもドイツ語にしても、その言語でネイティブスピーカーと話す機会って、ごく普通の日本人にどれだけありますかね?

 

私は東京在住ですが、英語を話す機会だって、ほとんどないです。英語を話すコミュニティーに飛び込んでいけば話は別でしょうが、そうでもしないかぎり、自然と英語を話す機会が生じるわけではない。日本語だけで十分生活は成り立つ。

 

だからネイティブ並みに話せるようになることを目標にしても、モチベーションの維持が大変だと思うのです。

 

一方、ネイティブ並みに読んだり聞いたりできれば、その報酬ははかりしれないくらい大きいと思うわけです。

 

で、思うんですが、ネイティブ並みに読んだり聞いたりできるようになることに関して言えば、「臨界期」なんて無い! だから、たとえばアラフィフの人間がまったくのゼロからまったく知らない言語を学び始めても、努力しだいではネイティブ並みに読んだり聞いたりできるようになる

 

私は言語学界における「臨界期」という常識をぶち壊してやるという意気込みで勉強しようと思います。

 

目指すは「英検1級、仏検1級1次、独検1級1次、西検1級1次、伊検1級1次、中検1級1次、HSK6級」。

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2017年6月26日 (月)

賢いとうぬぼれてはならない

 豊田真由子議員の暴言・暴行がマスコミをにぎわしている。

 今はネットですぐに拡散するので、豊田議員も、隠し撮りをされていると知って、さぞかしショックを受けたことだろう。しかし、あまりにもひどい内容である。
 その豊田議員の学歴がすごい。
 東大法学部卒業後、ハーバード大学大学院修了。それで国会議員である。
 エリート街道まっしぐらという人のすべてではないが、中には自分のことを賢いとうぬぼれている人もいるだろう。豊田議員もその一人だったのではないか。
 私は、この世の知識など、いくらため込んでも、それで賢くなるとは思わない。
 聖書にも、こう書いてある。
 「あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」
 思い返してみれば、私は大手出版社の社長を相手取って訴訟を起こしたことが何度かある。
 
 いずれも一流大学卒。しかも大手出版社の社長になっているエリートだ。
 が、いったん訴訟が始まると、嘘八百の準備書面を延々と出してきた。
 そんな嘘がいつまでも通用するわけがないのに、彼らは嘘に嘘を重ねて保身を図った。
 結局、最終的には私に頭を下げることになったが、とても賢いとは思えなかった。
「この世の知恵は神の前では愚かなもの」と聖書に書かれてあるとおり、いくらがり勉をして一流大学を出たところで、それだけではけっして賢いということにはならない。単に勉強がよくできたというだけの話だ。
 人間にとって本当に何が大切なのか、それが分かる人間にならなければ、いくら勉強ばかりしても、それはそれだけのことだと思う。
 今回の豊田議員のニュースを見て、ますますそう思うようになった。東大卒だろうがハーバード大学院修了だろうが、それだけでは賢いとは言いきれないのだ。
 

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2017年6月20日 (火)

あと何日生きるのか?

 たしか『人生の残り時間の思考法』というタイトルだったと思うが、そんな本を読んだことがある。

 健康なうちは、自分があたかもずっと生きていられるような感じになる。
 しかし現実は、人間、ずっと生きていられるわけではなく、いつどんな形でこの世を去るかもしれないのである。
 
 私の両親は早死にだった。
 
 私もあと何日この世に生きていられることか。
 5000日か、7000日か、9000日か。
 人生の残り時間を意識し始めると、もう、無駄なことはしたくなくなる。
 自分にとって本当に大切なことに時間も労力もお金も使いたくなる。
 逆に言えば、「本当は好きではないけど、もしかしたら将来役に立つかも」という準備みたいなことをやっているのは、まだまだずっと生きていると思っている証拠だといえる。
 若い時はそれでもいいかもしれないが、中年以降ともなれば、「将来の準備」ばかりやっていたのでは、いざとなったとき後悔しかねないと思う。
 
 そうこうしている間にも1日、1日と消えてなくなる。
 この世に生きている間に悔いが無いように生きていこう。
 

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2017年6月14日 (水)

藤井四段

 今、将棋界が大変なことになっている。

 中学生の棋士、藤井四段がプロデビューから負けなしの25連勝をし、過去最高の28連勝に迫っているからだ。

 彼の才能や努力は計り知れないだろう。だが、その才能を開花させる土壌もあったに違いない。

 思い返せば、私も中学生のころはめっぽう将棋が強かった。
 学校に将棋クラブがあり、部員は11名だったが、常に私が1番だった。
 正直、負けた記憶はない。
 しかし、母も姉も、将棋を指す男の子は嫌いだった。
 
「そんなしょうもないことをしても何の役にも立たないよ」
「男の子ならスポーツをしなさい。将棋だなんて爺さんくさい」
 こういってよく非難されたものだ。
 結局、将棋は中学でやめたが、続けていたらどうなっていただろうか。
 もっとも、プロなんてのは高嶺の花だったろうが、でも、一つ言えることは家庭環境は大きいというものだ。いくら本人がやりたがっても、家族でガンガン非難されつづければ、やる気もなくなるというものだ。子供は家族の影響をもろに受ける。
 藤井四段は家庭環境にも恵まれていたのだろう。
 これからどこまで連勝を続けるか、楽しみである。
 こういう頑張っている人を見ると、自分も自分の道で頑張らなければという気持ちが湧いてくる。

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