2017年10月22日 (日)

台風

10月22日(日)、東京は台風で大雨であった。

それでちょうど思い出したのが、数年前に受けた宅建だった。
万全の態勢で準備をしていたが、その日は横なぶりの大雨。
最寄り駅から会場に着くころにはびしょびしょになっていた。
当然、調子を崩したが、それがたたってか、不合格となった。
それ以降、宅建は受けていない。
もともと自己啓発のつもりで受けたからだが、そもそも私が宅建を自己啓発として取っても、それほど有意義でもないと思いなおしたからでもある。
今日の雨はそのときの雨と同じくらいのひどい。
もしかして、今日は宅建の試験日か?
とも思ったが、どうやら今年の宅建は10月15日だったようだ。
しかし、今日、TOEICの試験日だったみたいである。
東京で受験された方は、大変だったのではないだろうか。
特に最寄り駅から会場まで離れている場合、徒歩で行くと大変そうだ。
私も今後様々な試験に挑戦しようと思うが、こういう大雨の日は、場合によっては最寄り駅から会場までタクシーに乗ろうと思っている
ズボンもべちゃべちゃ、靴もべちゃべちゃでは、実力が発揮できないと思うからだ。
さて、今年、私には仏検とTCEEが残っている。
全力投球だ。

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2017年10月17日 (火)

ホリエモンの言葉使い

人間関係が悪化するときというのは、言葉使いが間違っている場合が多いように思う。

ホリエモンが『なんで保育士の給料は低いと思う?』という記事に対し、「保育士の給与が低いのは誰にでもできる仕事だから」と発言し、物議をかもした。

保育士の仕事が「誰でもできる仕事」というのはホリエモンの単なる偏見であり、真実ではない。なのにホリエモンがあたかも真実を知っているかのごとく、上から目線で「保育士の給与が低いのは誰にでもできる仕事だから」と発言するから物議をかもすのである。こんな言い方をすれば、「保育士の仕事を馬鹿にしているのか」と怒りだす保育士が出てくるのは当然だ。

ホリエモンの発言に対し、「国家資格が必要だから誰にでも出来るわけじゃない」といったコメントが寄せられたが、驚くことにホリエモンはそのコメントに対し「論点がずれている」と述べたらしい。しかし私は論点はずれていないと思う。「誰でもできる仕事」というホリエモンの発言に対し、「誰でもできる仕事か否か」という論点で反論がなされているからである。

ホリエモンはその後、自身の発言の真意を「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事だから希少性が低く(コンビニバイトなどと同様に)給料が上がらない構造になっている」と補足したという。

しかしそういう補足説明をすること自体、自分自身の最初の発言が妥当でなかったことを認める形となっている。最初は「誰にでもできる仕事」だと言っていたのが、反論があったために「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る仕事」と表現を変えたからである。それならば最初から「誰にでもできる仕事」と言わずに「やろうとしたら大抵の人ができる仕事」と言えばよかったではないか。

しかし私はさらに言いたいのである。

保育士の仕事は「やろうとしたら大抵の人ができる」というのもホリエモンの偏見である。その証拠に保育士の仕事は保育士の免許が必要である。保育士試験の合格率は10%~20%であり、簡単な試験ではない。つまり、やろうとしても「大抵の人ができる仕事」ではないといった方がより真実に近いのだ。

新約聖書には「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」と記されている。言葉使いには十分に気をつけるべきなのだ。

誰でも偏見はもっている。だから偏見を話したらいけないとは言わない。しかし、偏見を話すのであれば、少なくとも自分の偏見であることを自覚したうえで、「私は〇〇という印象を受けています」とか「私には〇〇に思えます」という言葉を添えて話すようにしたらどうかと思う。偏見なのにそれを自覚せずに、上から目線で偉そうに話してばかりいると敵を作りかねないと思う。

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2017年10月15日 (日)

この世に執着せずに生きる

中島義道氏は「日常に絶望していないことこそ絶望的だ」と述べ、日常に絶望して生きることを勧めている。
同氏は続けていう。
「人生とは不幸の連続であり、自分がたとえ今たまたまた不幸でなくとも、周囲には膨大な不幸な人がひしめいている。いかに渾身の努力を傾けても、いかに誠実のかぎりを尽くしても、明日ポックリ死んでしまうかもしれない。何を試みても、努力とは別に運不運がつきまとう。(中略)他人から軽蔑され、嫉妬され、差別され、嘘をつかれ・・・くたびれはてて最後には死ぬ。(中略)誰でもこうした不条理をある程度は感じているはずである」
同氏のいう「日常に絶望していないことこそ絶望的だ」という主張は、一度読んだだけでは分かりずらい文だが、私には同氏の言いたいことがよく分かる気がする。そして部分的には共感もする。しかし共感できないところもある。
おそらく同氏の「日常に絶望して生きよ」という主張は「この世に確かなものは何もないのだから、最初から甘い期待をかけることなく絶望して生きたほうがよい、最初から絶望して生きていればたとえ不条理なことが起きても悲嘆にくれることもない」という意味であろう。
この世に確かなものは何もない。それはテレビのニュースを見ても垣間見れることだ。
手塩にかけて育てた息子が覚せい剤に手を出すかもしれない。
心から信じ切っていたはずの配偶者が不倫をするかもしれない。
健康に十分気を付けて生きていたのに突然末期ガンの宣告を受けるかもしれない。
突然、自然災害で何もかもがめちゃくちゃにされるかもしれない。
何の落ち度もないのに追突事故を起こされるかもしれない。
長年信じていたビジネスパートナーがとんでもない裏切り行為を働くかもしれない。
「まさかこんなことになろうとは…」という事件が自分の身に降りかかり、誰も助けてくれないと知ったとき、わたしたちは絶望してしまう。口では同情するようなことを言ってくれる人はたくさんいても、ほんの少しでも自分に負担がかかると知るや否や、一目散に逃げていくのだ。それが現実だ。
だからこそ、同氏は「日常に絶望して生きよ」と言いたいのであろう。
しかし、言葉の使い方にこだわる私は、同じことを言うのでも、こう言い直したいのである。
「この世に確かなものは何もないのであるから、この世に執着せずに生きよ」あるいは、
「この世に確かなものは何もないのであるから、この世に心のよりどころを求めずに生きよ」と。
私は別に「日常に絶望する」必要はないと思う。その点が同氏に共感できない点である。
たしかにこの世に確かなものは何もないが、だからといって、そんなに酷いことばかりが起こり続けるわけでもない。努力していれば、それなりに努力が実ることもあるし、親切な人も意外と多い。毎日毎日が不条理なことばかり起こるわけでもなく、周りにいる人たちも悪人ばかりではないのだ。
同氏の主張する「日常に絶望していないことこそ絶望的だ」を私流に言いかえれば、「日常(金・地位・名誉・人間関係等)に執着して生きることこそ絶望的だ」になる。逆に言えば、日常に執着しさえしなければ、希望をもって生きていいと思うのだ。

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2017年10月13日 (金)

孤独が楽しめる人生

世の中には、「寂しい寂しい」を連発する人が少なくない。

不思議なもので、その「寂しい寂しい」を連発する人が多くの人に囲まれて生きていることがある。すなわち、恋人がいたり、家族がいたり、親戚がいたり…。何がそんなに「寂しい」のかと思うことがある。きっとそういう人は、精神的に自立できていないのだろう。
しかし、人間、ひとりで生まれてきて、死んでいくときもひとりだ。死んでいくとき、だれかが付き添ってくれるわけでもない。
中島義道氏は著書「孤独について」の中でこう述べている。
あなたは間もなく死んでいくのだ。あなたをまもなく襲う死をおいてほかにもっと大切な問題があるのだろうか。(中略)もし、あなたが死を最も大切な問題だと考えているのなら、孤独になるしか方法はない
孤独になるとは、他人に自分の時間を分け与えることを抑えることである。(中略)なるべく他人のためではなく自分のために時間を使うことである
不思議なもので、自分のために時間を使っていると孤独が怖くなくなる。他人に囲まれていなくても寂しくなくなる。
「自分のために時間を使う」とは、私流にいえば、本当に打ち込めるものに時間を使うことだ。
人によっては、それは学問かもしれないし、芸術かもしれない。スポーツかもしれないし、ボランティア活動かもしれない。心の底からやりたいと思うこと、それが本当に打ち込めるものだ。
中島氏がいうように、私たちは「間もなく死んでいく」のだ。
私の場合、その時は20年後かもしれないし、15年後かもしれないし、10年後かもしれない。いや、5年後であっても、もう不思議ではない年齢になりつつある。たとえ20年あったとしても、本当に「あっ」という間にすぎるはずだ。
自分の死を見つめたとき、残りの人生を自分がそれほど好きでもないことに費やそうという気はなくなる。
逆に、できるだけ自分が好きなことに打ち込みたいと思うようになる。
自分の好きなことをやってお金が入るのならやりたいが、お金が入ることであっても、それほど好きではないことのために時間を費やしたくはない。そういうわけで、私のもとに著書や訳書の出版依頼がときどき来るが、心の底からやりたいと思わない場合は、断ることにした。(そういうことをやればやるほど仕事がなくなるが、それはそれで仕方がない)。
もう一度いう。もう間もなく私たちは死んでいくのである。死ぬまでの時間を大切に生きようと思えば、重要でないことにかかずらっている暇などない。
そうして、自分の好きなことに打ち込めば打ち込むほど孤独が楽しくなる。

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2017年10月11日 (水)

他人は孤独を解消してくれない

中島義道氏は孤独についてこう語ってくれている。

他人はけっしてあなたの孤独を解消してくれない。一時あなたの孤独を巧妙に隠蔽するのを手伝ってくれるかもしれないが、あなたの孤独自体を根絶してはくれない。このことを心底から自覚するとき、人は孤独から逃れるのではなく、孤独を選ぶようになる。孤独を嘆くのではなく孤独を楽しむようになる
「他人はけっしてあなたの孤独を解消してくれない」という点は共感する。配偶者であれ、子供であれ、両親であれ、兄弟であれ、恋人であれ、親友であれ、どんな人も、あなたの孤独を解消してくれはしない。
ただ単に一時的にあなたの孤独を隠蔽する手助けをしてくれるだけのことだ。ほんの一時期のことかもしれないし、ある一定期間続くかもしれない。しかし、あなたの孤独を永遠に解消しれくれはしない。
自分の孤独を解消できるのは自分しかいない。自分の孤独を解消しようとして、他人に何かを求めること自体が間違っていると思う。
では、孤独を解消するにはどうすればいいか。
中島氏は広義の「仕事」を見つけることだと述べている。
すなわち、世間一般でいうところの仕事を含め、人によっては哲学かもしれないし、宗教かもしれない、芸術かもしれない、ボランティア活動かもしれない。「何か打ち込めるもの」がその人にとっての広義の「仕事」である。
そういう「打ち込める何か」を見つけた人は孤独から解放される。だから他人に寄り掛からなくてもよくなる。何かとすればすぐに他人に寄り掛かろうとする人より、「打ち込める何か」を持っている人のほうが、他人に依存しなくても生きていけるという点では遥かに幸せではないかという気がする。

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2017年10月 8日 (日)

知恵かお金か

知恵かお金か、どちらがほしいかと聞かれたら、どちらだと答えるだろうか。

お金は大切であることに異論はないが、ごく普通に生活できるお金さえあれば、私はそれ以上欲しいとは思わない。
そもそも、お金をたんまりため込んだところで、死んであの世に行くときに1円たりとてあの世にもっていけない。そんなものに興味をもてと言われても、少なくとも私は、知恵以上に興味はもてない。
巷には、年収の高いことが人間の偉大さを計る物差しであるかのごとくいう人がいるが、少なくとも私は「年収が高いこと」=「人間の偉大さ」とは思ってはいない。
旧約聖書の中の「箴言」には繰り返し繰り返し、知恵の大切さが書かれてある。お金よりも知恵のほうが大切だというのである。
あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、
精銀よりも、むしろ知識を得よ。
知恵は宝石にまさり、
あなたがたの望むすべてのものは、
これと比べるにたりない」(箴言8)
知恵はその家を建て、
愚かさは自分の手でそれをこわす」(箴言14)
さとき者の心は知識をたずね、
愚かなものの口は愚かさを食物とする」(箴言15)
知恵を得るのは金を得るものにまさる、
悟りを得るものは銀を得るよりも望ましい」(箴言16)
大昔になるが、このブログのコメント欄に「資格試験ばかり受ける宮崎さんには本当にがっかりだ。そのほとんどは社会に役に立たないものばかりではないか。一体何やってるんだ。もっと社会に役にたつことをやれ」という書き込みがあった。
別に私は覚せい剤に手を出したわけではないし、不倫をしたわけでもないし、他人に暴力をふるったわけでも、暴言をはいたわけでもない。そのコメントの主と何か約束をしていて、その約束をやぶったわけでもないし、そのコメント主に対して嘘をついたわけでもない。ましてや犯罪をおかしたわけでもない。
なのに、そのコメント主は私が様々な資格試験に挑戦していることに勝手に腹を立てて「試験ばかり受ける宮崎さんには本当にがっかりだ」と私を「非難」していたのである。
しかし当時も今も私は仕事をしているし、それによって金銭的報酬も得ている。そういう意味では社会に貢献している。あくまで暇な時間を使って資格試験を受けているだけなのだ。「資格試験ばかり受ける宮崎さんには本当にがっかりだ」と「非難」されたが、資格試験を受ける以外に仕事はしているのである。暇な時間に何をしようが私の自由であるはずだ。
私は、その人のハンドルネームがあまりにもふざけたハンドルネームであったこともあり、その人のコメントをコメントとして承認しなかった。コメントに値しないものはコメントとして承認する義務はないからである。
旧約聖書にこう書いてある。
怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、
気の短い者は愚かさをあらわす」(箴言14)
私はカッとなってもすぐに喧嘩するのは控えている。理不尽なコメントが書き込まれても、最初から相手にしないので喧嘩になりようがない。「怒りをおそくすること」、これも一つの知恵だと思う。お金をたくさん稼ぐことよりも、「怒りをおそくすること」のほうが、遥かに人間を豊かにしてくれると思うのである。

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2017年10月 6日 (金)

お金と知恵とどちらが大切か

 お金を欲しがる人は多い。

 私はここ数年、静かに暮らしているつもりだが、それでもたまにセールスの電話や訪問があってうんざりする。彼らは、あの手この手を使って私にお金を使わせようする。
「そんなにしてまでお金が欲しいのか」とも思ってしまう。
 旧約聖書にはこう書いてある。
知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。
知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、
その利益は精金よりも良いからである。
知恵は宝石よりも尊く、
あなたの望む何物よりも、これと比べるに足りない
 お金がかかってしまう趣味を持つとお金がいくらあっても足りないだろうが、学問や勉強(特に文系科目のそれは)それほどお金がかかるわけでもない。本代など安いものだし、図書館で本を借りて読めば、その本代だって浮かすことができる場合がある。
 旧約聖書にあるとおり、「知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物よりも、これと比べるに足りない」のである。
 お金をたくさん稼ごうと考えるより、知恵をたくさん得ようと考えたほうが、何倍も幸せに近づけるような気がする。

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2017年10月 3日 (火)

口を制する

 どんなに腹が立つことがあっても、けっして悪口は言わないように心がけている。

 新約聖書にこうある。
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソの信徒への手紙)
 人間関係が悪化する最大の原因は、言葉使いを間違えることではないかと思う。
 言葉使い一つで大げんかになることがあるが、逆に言えば、言葉使いを間違えなければ、それほど大げんかにならなくて済むこともあるということでもある。
 旧約聖書にもこんな言葉がある。
言葉が多ければ、とがを免れない。自分のくちびるを制する者は知恵がある。正しい者の舌は精銀である、悪しき者の心は価値が少ない」(箴言)
 一回、口に出してしまったら、もう取り消すことはできない。「悪い言葉を一切口にしてはならない」ということを肝に銘じて生きようと思う。
 近年ではメールでのやりとりも多くなった。口から発する言葉だけでなく、メールの言葉にも同様に気を付けるべきだろう。 

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2017年9月30日 (土)

聖書を書き写す

 私がロンドン大学神学部(遠隔教育)に入学したのは、40代も後半になってからのことである。

 

 ロンドン大学哲学部を3年で卒業し、こんなに安く、しかも日本から一歩も外に出ることなく正規の学位が取れるのであれば、神学部でも学んでやろうという目論見であった。

 

 私はクリスチャンではなかったが、神学部には必須科目として「新約聖書入門」があり、避けては通れなかったため、新約聖書を読み始めたのであった。

 

 結果として、私は「新約聖書入門」を3年連続で履修する羽目になった。

 

 その理由は、1年目は試験勉強が不十分だったために試験を放棄し、2年目は受験したものの不合格となり、3年目でやっと合格したからである。

 

 さすがに3年も履修していると新約聖書は手垢で真っ黒になるくらいまで読むこととなった。普通の人が私の新約聖書を見れば、敬虔なクリスチャンだと思うことだろう。それくらい手垢で真っ黒だ。

 

 今や、新約聖書が私の一番の愛読書になったのある。

 

 さて、私はこれを外国語のライティング力を上げるのに利用している。

 

 新約聖書のイタリア語版、スペイン語版、フランス語版、ドイツ語版、中国語版をもっており、感銘を受けた箇所を大学ノートに書き写している。

 

 「写経」という言葉があるが、私の場合は、お経を書き写すのではなく、新訳聖書を書き写しているので、「写聖」とでもいおうか。

 

 「写聖」をするのは、1週間に1回とか2週間に1回とかという、非常にゆるやかなペースではあるが、これをやると私の心が洗われるような、すがすがしい気持ちとなる。

 

 やがてイタリア語版、スペイン語版、フランス語版、ドイツ語版、中国語版も、私の手垢で真っ黒になるまで読み込んでやろうという気持ちになる。

 

 正直、私がロンドン大学神学部で学んだ最大の収穫は、新約聖書に出会えたことだと思っている。別にクリスチャンだとかクリスチャンでないとか関係なしに、非常に価値のある書物だと思うのである。

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2017年9月29日 (金)

男は女に触れないほうがよい

 私がロンドン大学神学部に入学したのは、40代も後半だった。

 私はクリスチャンではなかったが、必須科目に「新約聖書入門」という科目があり、3年連続で履修したため、新約聖書はかなり読んだ。
 ちなみに3年連続で履修した理由は、1年目は試験勉強が間に合わずに試験放棄し、2年目は試験は受けたものの落ちてしまったからで、3年目にようやく合格したのである。
 今では新訳聖書が私の愛読書となっており、暇を見つけては読んでいる。
 もう手垢で真っ黒になっている。
 その中にこういう箇所がある。
男は女に触れない方がよい
未婚者とやもめは、ひとりでいるのがよい
 世間一般では、独身を貫いていると「負け組」とされることが多いが、新約聖書では、独身者こそが神の声がもっともよく聞けるとされている。
 舛添要一氏はあっちこっちで女性を作り、子供もたくさんいるが、そのおかげか、石原元都知事からも揶揄されてしまった。
 菊川怜氏の夫も、婚外子が4人もいるという。婚外子が4人もいたら、その養育費だけでも大変な負担だ。もう、神の声を聞こうなんてことは考えられなくなるのではないか。
 その点、異性と接しない生活をしていれば、心安らかにやりたいことに専念できるという利点がある。
 若い時は、結婚しないことは「負け組」だと思いがちだが、見方を変えれば、「勝ち組」という見方もできなくはない。新約聖書を読めば読むほど、そういう見方になってくる。
 新約聖書には「男は女に触れないほうがよい」とある。
 なるほど、異性に触れなければ、不倫にもならないし、恋愛トラブルにもならないし、ましてや子供もできやしない。恋愛のイザコザから完全に解放されるのだ。
 見方によれば、異性と付き合わないことは「さみしいこと」かもしれないが、神の仕事を持っている人にとっては、異性と付き合うことで生じるイザコザがないことほどありがたいことはない。
 

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