WEB検定(WEBプロデューサー)チケット申込み

 惰性で日々を繰り返していると、いつの間にか月日が経ちます。

 ですから、日々、自分の目標を見据えて、努力していくことが大切です。

 私は、次なるチャレンジとして「WEB検定(WEBプロデューサー)」を1月上旬に、「オーストリア政府公認ドイツ語検定」を1月下旬に受けることとし、申込みをしました。

 2つで約27000円もします。

 しかし、こうやって次々と努力していくことが、今の私の「仕事」です。ですから、お金が惜しいとは思いません。どんどんチャレンジしてきます。

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哲学を学べる幸せ

 私は、慶應大学文学部で哲学の勉強ができたことを、とても良かったと思っている。

 何が良かったのか。

 ショーペン・ハウアーがカントの哲学を知って、「まるで目の見えない人が、白内障の手術をしたかのように急に見えないものが見えるようになった」と言ったように、私も哲学を勉強して、見えないものが見えるようになった。(もちろん、まだまだ見えないものはたくさんあるのではあるが…)

 といっても、幽霊が見えるようになったとか、そんな話ではない。今まで気づかなかったことに気づくようになった、ということである。しかも、こればっかりは、哲学を勉強しなければ、気づけるようにはならないものである。それに気づこうが、気づくまいが、お金儲けにも昇進にも関係はない。しかし、気づいたほうがそれだけ幸せな人生が歩めるような気がするのである。

 たとえば、どんなことか具体例をあげて説明してほしいと言われても、たくさんあるのですべてはあげることができないが、一つ例にあげると、「何を目指して生きればいいのか」である。それが哲学を勉強する前と後とではガラリと変わった。

 哲学の勉強をしていない人なら、「お金持ちになりたい」「昇進したい」「たくさん友達がほしい」「試験に合格したい」…ということを目指して生きるだろう。それが「善い」ことのように思えるからだ。

 しかし、哲学の勉強をすれば、ガラリと人生観が変わる。目指すものが違ってくる。「より善き人になる」という人生の究極の目標を意識して生き始めるのである。

 私は、5年くらい前までは、仕事、仕事、仕事…で生きてきた。年収も4桁あった。今は年収もがた落ちである。しかし、5年前の私より、遙かに幸せに生きているという自負がある。哲学を勉強したおかげだと思っている。

 

 

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私が学問を志す理由

 私は今、6つ目の大学で勉強している。

 他の人から見れば、「なんでこの人、こんなお金にもならないことを精一杯やっているの?」としか思えないだろう。しかも、92種類の資格ももっているのに、まだまだ挑戦しようとしている。試験代だけでも、いくらあっても足りないくらいなのである。

 では、それは一体何のためか?

 (昔の私はちがったが)少なくとも今の私は何か外的なもの(お金、報酬、名誉、地位、評判…)などを求めて学問や勉強をやっているのではない。そんなものは、どうだっていいのだ。いや、どうだっていい、といったらちょっと言い過ぎかもしれない。たしかに、どうでもいいというわけではない。できれば外的なものも手に入ればそれに超したことはないだろうし、それはそれで嬉しいことだ。

 しかし、そんな外的なものが真の目的ではない。あくまで理性を磨くことでより善い人間になる、というのが真の目的である。だから、外的なものは、得られようが得られまいが、あまり関係ない。だから得られなくても、ショックを受けることもほとんどない。

 カントは仮言命法定言命法を説いた。

 仮言命法とは、「もし○○を手に入れたいなら、△△をしなさい」という命令である。

 「お金持ちになりたいなら、一生懸命働きなさい」「合格したいなら、一生懸命勉強しなさい」「スリムになりたいなら、ダイエットしなさい」など、いくらでも仮言命法は考えられる。

 実は、世の中の多くの人は、この仮言命法で生きている。彼らが何かに一生懸命取り組むのは、「○○」が欲しいからだ。つまり、一生懸命働くのはお金持ちになりたいからであるし、ダイエットするのはスリムになりたいからだ。

 かくいう私は、今、仮言命法で生きているというよりも、定言命法で生きている。

 定言命法とは、「もし○○を手に入れたいなら」がなくて、「△△をしなさい」だけである。例えば、「理性を磨きなさい」「誠実に生きなさい」「つねに善き人となるよう努力しなさい」…。こういうのが定言命法である。

 カントの言葉でいえば、「なんじの意思の格率が常に同時に普遍的立法として妥当しうるように行為せよ」ということになるのだが、早い話、「人間である、という、ただそれだけで命じられること」と言えるだろう。

 そう、私は、「人間である、という、ただそれだけのことで(神から)命じられていること」を忠実に守ろうとしているだけであり、「○○が欲しいから」といった個人的な欲望を満たすために学問をしているわけではない。

 だから、周りの人から見れば、なんでまた6つも7つも大学を出ようとしているのか? そんなことしてお金になるのか? いったい何を求めているのか? と不思議で不思議でしかたがないだろう。

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新年に受ける資格

 今、私は日本大学法学部の定期試験の直前です。

 民法や知的財産権法の勉強に全力投球です。来年は、法学検定や宅建などの法律関係の資格にチャレンジしようと思っています。

 さて、年末に近づいていますが、私は新年そうそう3つの資格にチャレンジしようと考えています。

 一つは、「WEB検定(WEBプロデューサー)」です。新年そうそう受けるつもりです。

 二つめは、「GTEC」。ベルリッツが行っている英語検定です。

 三つめは、「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」です。

 そういうわけで、日本大学から課せられているレポートもありますし、年末年始も毎日勉強に明け暮れることとなりそうです。

 毎月、検定試験料だけでも数万円がかかりますが、私は「自分自身への投資」だと考えていますので、もったいないとは思わないのです。というのも、こういう自分自身の投資をしないで大きく成長することはできないと思うからです。

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『神は妄想である』

 先日、読者の方から、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』という本を紹介された。

 気になっていたので、今日、図書館に立ち寄ったときに、同書を探して、パラパラとめくってみた。かなり分厚い本なので、今はじっくり腰をすえて読むというわけにはいかない。というのも、私は今、定期試験の直前だからだ。というわけで、同書は将来、時間が取れれば、読むかもしれない。(ただ、多忙なので、どうなるか分からないが)

 神が存在するか否か、神の存在を信じたほうがいいのか否かという問題は、だれもが考えたことがあるだろう。

 たしかヴィトゲンシュタインだったと思うが、哲学の問題はすべて言葉遣いの問題である、といったようなことを述べた哲学者がいる。これはどういうことか。例えば、「大阪城を建てたのはだれか?」と聞かれたとき、「豊臣秀吉だ」といっても正解だし、「大工さんだ」といっても正解である。ただ、「建てた」が何を意味しているかをどう解釈するかの違いによって答えが変わる、ということである。「建てる」という意味を別々の意味として解釈しているのであるから、お互いに「あなたの答えは違うよ」と喧嘩してもしかたがないのである。

 実は、哲学上の論争は、すべてこれと同じように、言葉遣いの解釈のちがいで論争が起きているのだとヴィトゲンシュタインは看破したのである。

 そういうわけで、神は存在するのか否かというときの、「神」をどう解釈するかによって答えは幾通りもでてくるわけである。

 例えば、プラトンは最高の存在、つまり「神」を「善」と捉えた。するとプラトンに「神は存在するか?」と問うたとすると、それは「善はあるのか?」と問うたのと同じになる。

 仮にプラトンの考えで行くとすると、「神は存在するのか?」は「善は存在するのか?」と同じ意味になるわけであるから、「神がいることを信じて生きたほうがいいのか否か」も「善(というもの)が存在すると信じて生きたほうがいいのか否か」と同じ意味になる。

 私の捉えている「神」は、プラトンのいう「善」、丹波哲郎のいう「秩序」といったものに近く、「宇宙の設計者」というイメージからはほど遠い。

 したがって、だれかが私に「あなたは神が存在すると思いますか?」と聞かれれば、「(普遍的な)善(というもの)が存在すると思いますか?」と聞かれたのと同じような答えをすると思う。すなわち、「存在すると思います」と。ただし、「(普遍的な)善(というもの)」が存在することを証明してみろ、と言われても、証明はできない。だから、「ただそう信じているだけです」としか言えないのである。

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私がこれから狙う資格

 私は、現在、92種類の資格を保持している。(同じ種類の資格の異なる等級の資格を複数もっている場合は1種類としてカウント)

 今後もどんどん資格試験に挑戦していきたい。

 今後狙う資格は、「WEB検定(WEBプロデューサー)」

 「オーストラリア公認ドイツ語検定(B1)」

 「ドットコムマスター★★」

 「ITパスポート試験」

 「法学検定」

 「宅建」

 来年は法律関係の資格にもどしどしチャレンジします。

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投資について

 投資は、「儲けてやろう」という欲でやっても、うまく行かない可能性が高い。

 だから私は、あまり欲を出さないで、堅実に投資をしている。

 そのおかげで、ハラハラドキドキもなく、いつも安心して分配金や家賃を得ながら、学問や勉強、仕事に集中できる。

 ディトレーディングが流行っているらしいが、私はあまり興味がない。というのも、そんなことをやってハラハラドキドキして、エネルギーと時間を使って、実際はどれだけ儲かるか分からないからだ。

 もちろん、ディトレーディングでもの凄く儲けている人もいるだろうが、私はそこまでして大もうけしたいとは思ってない。なぜなら、私が一番したいことは、お金を儲けることではなく、真理を追究すること、つまり学問だからだ。(これはもちろん、お金を儲けたくない、という意味ではない。お金はお金で儲けたいが、それが一番したいことではない、というにすぎない)。

 欲を出さないのが功を奏して、私は投資を始めてから、一切、ハラハラドキドキもすることなく、分配金と家賃で暮らせていけている。そしてその分配金をさらにまた投資しているので、ますます分配金が雪だるまのように増えていっている。

 なお、投資に関するブログを作りました。

 http://sheffieldkeio.seesaa.net/

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日本大学の定期試験に全力投球

 今月、日本大学法学部の定期試験を受けます。

 今、そのために全力で勉強を続けております。

 私は、勉強をしていて、つくづく、今の大学に入って良かったと思っています。

 今までまったく知らなかった法律の世界も、勉強してみると、興味深いことが分かりました。

 すでにレポートも5つ合格をいただきました。

 この調子でいけば、2年後には法学士の学位を取得できるのではないかと思っています。

 ただし、私の勉強はそこで終わるのではありません。日本大学法学部を卒業したあかつきには、また次の学位を向けて勉強するつもりです。それは単なる夢物語ではなく、しっかりとしたビジョンがあります。

 また、12月末頃には「WEB検定(WEBプロデューサー)」の再受験も考えています。

 いつも、当ブログをご覧いただいている皆様、ご関心をお持ち頂きありがとうございます。今後ともより良いブログになるよう、努めてまいります。

 

 

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神はいるのか、死後の世界はあるのか?

 「神はいるのか?」、「死後の世界はあるのか?」。

 だれもが一度は考えたことがあるテーマではないでしょうか。

 カントをはじめ、多くの哲学者の間では、「神はいるのか?」「死後の世界はあるのか?」といった問題は、人間には証明ができないということで見解が一致しています。

 言い換えれば、神や死後の世界の存在の問題は、単に信じるか信じないかの問題、つまり、信仰の問題ということになります。

 ただし、人間には証明できないということが、すなわち、神は存在しない、死後の世界は存在しない、ということにはなりません。たんに人間には証明できないというだけに過ぎません。

 「神」をどういう存在として捉えるかにもよりますが、「神」を人間のような格好をした存在としてではなく、最高の存在として捉えるならば、多くの哲学者は「神」が存在していることを認めています。例えば、プラトンなら「善」、プロティノスなら「一者」、アリストテレスなら「神」、スウェーデンボルグなら「霊界の太陽」、丹波哲郎なら「秩序」というようにそれぞれ名称はちがいますが、「最高の存在」がいることを信じていました。ただ、その存在を証明することができなかっただけにすぎません。

 さて、「神はいるのか?」「死後の世界はあるのか?」は、信じるか信じないかの問題、つまり信仰の問題だといいました。

 では、はたして「神の存在」や「死後の存在」を信じている人は大丈夫なのでしょうか。信じたほうがいいのでしょうか、信じないほうがいいのでしょうか。

 実は、私たちは、だれしもが何らかを信じて生きているのです。例えばある人は「大学なんか出てもしかたがない、高校を出たら働いたほうがいい」と信じています。これも一つの信仰です。「タバコを吸う女にはロクなのがいない」と信じる人もいます。これもまた一つの信仰です。

 信仰するとき、大切なことは、信じようと思っていない人を巻き込まないことです。「神はいる」と信じたければ信じてもいいでしょう。「大学なんか出てもしかたがない、高校を出たら働いたほういい」と信じたければ信じてもいいでしょう。しかし、それを、信じようとは思っていない人にも無理に信じさせようとすると、そこに問題が生じるのです。

 何を信じようが、基本的には、本人の自由だと思いますし、それを信じようと思わない他人に強制しようと思わなければ、何の問題もないものと思います。

 かくいう私自身はどうかといえば、神の存在も死後の存在も信じています。ただ信じているだけにすぎず、証明はできません。また、神の存在や死後の存在を信じようと思わない他人を説き伏せてまで信じさせようとも思わないのです。

 読者の方々、当ブログをお読み頂き、ありがとうございます。当ブログは現在のところ、基本的に「コメント欄」を開放しておりません。ただし、私の運営している他のブログ「霊界研究」は(確実にお返事ができるかどうかお約束まではできませんが)基本的に「コメント欄」を開放しております。

 「霊界研究」のリンク先は次のとおり。

 http://aoyamakeio.seesaa.net/

 

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悩んだとき、救いになる本

 人間、生きていると、いろいろなことで悩むことがあろう。

 そのときそのときによって、悩みが違うだろうから、一概に、悩んだときにどうすればいいかとは言えない。

 ただ、どういう人間を目指せばいいのか分からなくなったとき、お勧めしたい本がある。

 『マズローの心理学』である。

 私はこの本を何百回も読んだ。そして、こう生きるべきだ、という指針を得た。

 あなたも一読をお勧めしたい。

 

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