いつまでも色あせない幸せを手にするには
幸せになりたければ「善そのもの」を人生の第一の目的とすることである。
これは言い換えれば、「より善い人間になることを第一の目的にせよ」ということである。「仮象の善」は求めてならないものではないが、けっして第一の目的にはしてはならない。
世の中のほとんどの人は「善そのもの」ではなく、「仮象の善」を第一目的として生きている。「善そのもの」が何かが分からないからだ。いや、「善そのもの」は何かを知ろうとさえしていない。しかし、それでは幸福にはなれないし、逆に、不幸になる可能性のほうが高い。
例をあげて説明しよう。
「仮象の善」とは、言い換えれば、「目に見える目標」といっていい。合格、昇進、名誉、権力、金銭、就職、結婚…。多くの人はこうした「仮象の善」が手に入れば幸せになれると勘違いしている。だから、あれこれと画策して、こうした「仮象の善」を手に入れようとするのだ。
例えば、「仮象の善」を第一目標としている人が、子供に書道をやらせる場合、書道を通して自分を磨くという真の目的のためではない。「書道をやっていれば、履歴書に綺麗な字で書けるから、いいところに就職できるかもしれない」という「仮象の善」を求めているためである。
同じように、ある程度のレベルの大学に行ったほうがいいと考えるのも、レベルの高い大学ではそれだけ質の高い学問を通して自分が磨けるという真の目的のためではない。「いい大学のほうが、いいところに就職できる可能性が高まるからだ」という「仮象の善」を求めているからだ。
あるいは、難関試験を受けるにしても、その目的は、専門的な知識を身につけることで自分を高めようという真の目的のためではない。「合格して、その資格を武器にしよう。そうすれば資格手当も入ってくるし、昇進に役立つかもしれない」という「仮象の善」を求めているからだ。
あるいは、ブログで文章を書き続けるのも、良いブログを作り上げ、読む人のためになるブログにしようという真の目的のためではない。「ブログでアフィリエイトをやっていればお金儲けになる」という「仮象の善」を求めているのだ。
しかし、努力し続けていても、「仮象の善」が達成せきそうにないと分かることがあるだろう。例えば、努力し続けても試験に合格しそうにない。努力し続けてもお金儲けにつながらない。努力し続けても思い通りの名誉が手に入らない。
そんなとき、「仮象の善」を求め続けてきた人は、ふと思うのだ。
「こんな試験に通ったところで、いったい何になるんだ。ばかばかしい」
「書道なんてやって何になるんだ。字を書く機会なんてないじゃないか、ばかばかしい」
「ブログなんて書き続けて何になるんだ。お金儲けにならないじゃないか、ばかばかしい」
しかし、最初の最初から「善そのもの」のために頑張っている人は、「仮象の善」(昇進、金銭、名誉、権力)などに執着していないので、仮に「仮象の善」が手に入りそうにないことが分かっても落胆しないのだ。
例えば、学問を志し、社会人になってから難関の大学院を目指している人がいるとしよう。その究極目的は「合格すること」ではなく、「より善い人間になること」だったとしよう。すると合格することそのものは、それほど大切なことではなくなる。なにしろ、究極目標は「善い人間になること」なのだから、「合格するか否か」など小さな小さな目標にすぎなくなるからだ。その人にとっては少しでも善い人間になるほうが、合格するよりも遙かに大切なのだ。
逆に「合格すること」そのものにこだわって生きている人は、合格するか否かだけが関心事になる。だから不合格になれば落ち込むことになるのだ。不合格になれば、「俺っていったい何のために頑張ってきたんだ? ばかばかしい。こんなの、何の得にもならないじゃないか」ということになるのだ。
何度でもいう。
これをすればお金儲けにつながるかとか、そういう目先のことばかりにとらわれて生きるな。そういうお金とか、権力、地位、名誉、快楽といった「仮象の善」があなたを幸せにしてくれることはないのだ。一時的には幸せにしてくれるかもしれないが、あくまで一時的なものにすぎない。そんなものを手にしたところで、いずれすぐに色あせる。「これを手にすれば幸せになれると思っていた。だが、手に入った今思うことは、『なんだこのていどのことだったのか』ってことだ」と思うのだ。あなたはそんな「すぐに色あせる幸せ」を手に入れるためにアクセクしたいのか?
いつまでも色あせない幸せを手に入れようと思えば、善い人間になることでしか方法はないのだ。少しでも善い人間になることを第一の目的にすることだ。それ以外の方法で、いつまでも色あせない幸せが手に入ることはないのだ。しかも、意外なことに、そういう人ほどお金は寄ってくるものなのだ。
| 固定リンク




