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2008年10月

2008年10月31日 (金)

独学の難しさ

 今まで、私は学問の楽しさをこのブログで語って来たが、楽しいだけではなく、苦しさもある。

 何が苦しいかといえば、モチベーションを維持すること自体が難しい。

 強制的にやらなければならない勉強とは違って、やってもやらなくても生活に支障が出ないという学問の場合は、やらなくてもいいわけだから、自分で自分を動機づけないかぎり、ピタリと止めてしまいかねないのだ。

 そういう意味でも、学問を続けたい人は、どういう形でであれ、学ぶ機関に属したほうがいいだろう。属していれば、なんだかんだで、勉強を続けざるを得なくなるわけで、続けてさえいれば、道は開けて来るからである。

 今の私は、大学院入試に向けて、ドイツ語と哲学の勉強を中心にがんばっているが、これとて、「やってもやらなくても生活に支障が出ない」ことである。だから、めんどくさくなければ、ずっと遊んでいてもいいわけである。それを自ら強制するとなると、よほど自分に強くなければならない。

 今は、とにかく、ドイツ語検定2級合格あるのみだ。これに合格できないようでは、大学院合格などないだろう。検定まであと3週間となった。頑張るしかない。

 

 

 

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2008年10月30日 (木)

学問の魅力

 私は、今、4つ目の大学に在学しており、問題がなければ来年春には卒業をする。

 しかし、まだまだ学問は続けて行きたい。

 では、何が学問の魅力なのか。なぜ、そこまでして学問を続けたいのか。

 学問の魅力を語れば一冊の本になるだろう。だが、簡単に一言で言うとすれば、「心が洗われるような清々しさを感じることができる」とでも言おうか。点数を取るためだけに勉強している人には到底理解できないだろうが、そういった精神の高揚感が得られるのだ。

 日常の喧噪から離れ、本当に心からやってみたいという学問に打ち込んでいると、生きている喜びに打たれる。「うわ~、すごいことを知ったぞ。そうか、そうだったのか、分かったぞ。今まで、こんなこと考えたこともなかったけれど、こういうことだったのか」。そういう感動が得られるわけである。

 青山学院時代、私は長期休暇中などは、図書館にこもって読書や翻訳の通信教育に打ち込んだ。武者小路実篤、志賀直哉、森鴎外、石川達三、夏目漱石、三島由紀夫、トルストイ、イプセン…などを読みまくった。翻訳の通信教育では、英和大辞典と格闘しながら、一語一語、原稿用紙のマス目を埋めていった。できあがったときの喜びはひとしおだった。

 シェフィールド大学時代は、読む本が英語の本になったという違いはあるが、やはり私は図書館にこもり、読書を続けた。試験勉強のためではない。自分を成長させるという、ただそれだけのためにだ。『7つの習慣』の原書に出会ったのもこのときだ。その他、デール・カーネギーの原書を含め、さまざまな本を英語で読んだ。英語だからそんなに速くは読めないが、2年間の留学期間中に読んだ本は200冊は超えていただろう。

 慶應大学に入ってからも、読書に打ち込んだ。プラトン、アリストテレス、カント、ウエーデンボルグなどなど。それまで読んだことのなかった哲学者の原典に取り組んだ。なんだかんだで1000冊くらいは目を通したのではないか。もちろん、金儲けのために読んだ本ではない。言ってしまえば、「金儲けにならない本」ばかりを読んだとも言えよう。

 多くの人は疑問に思うかもしれない。

「そんな本を読んで、いったい何になるの? お金儲けにつながるの? 俺だったら、お金儲けに直接つながる本を読むね。株や、投資信託、アパート経営、アフィリエイト。そういった金儲けに直結する本を読むね。そんな小説や哲学の本、あるいは、英語の本を読んで何になるの? 世の中、金だよ。金がすべてだよ。そんな金儲けにならないことやっても意味はないよ」

 私も、お金儲けに直結する本は読んでいる。しかし、そういった本をいくら読んだところで、「心が洗われるような清々しさ」など得られたためしはない。

 なんといったらいいのか、学問に打ち込んで、清々しさを感じてしまうと、それこそが本当に人生で大切なものだという感じになってしまうのだ。そして、もっともっと真実を知りたい、もっともっと学問に打ち込みたい…となってしまうのだ。人生観がガラリと変わってしまい、この世のモノ(金、名誉、地位、権力など)を追い求めることに興味が薄れてしまうのだ。もっとも、こんなことが言えるというのも、私がお金に困っていないからかもしれないのだが。

 

 

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2008年10月29日 (水)

投資信託の考え方

 私が投資信託(毎月分配型)を勧めるのは、それがマネーツリーになってくれるからである。

 だから、投資信託は、基準価格が値上がりしたときにキャピタルゲインが得られると考えている人向けではなく、ずっと寝かしておき、分配金をちょうど家賃のように得ようと考えている人向けである。もしそう考えることができれば、年の利回り7~8%程度入ってくるわけだから、けっして悪くはないのだ。

 しかし、今、基準価格が暴落して、多くの人は大騒ぎしている。損した、損した、損した…。彼らは、あたかも、投資信託などすべきではなかったと言わんばかりだ。

 でも、よく考えてほしいのだが、マンションにしろ、アパートにしろ、購入しても、毎年資産価値は上がったり下がったりするだろう。それをいちいち心配するだろうか? 家賃さえ入ってきていたら、資産価値などあまり関係ないだろう? というより、資産価値など気にしていたら、マンションにしろ、アパートにしろ、買うことすらできなくなる。マンションにしろ、アパートにしろ、数十年という単位で見るのが普通であり、5年や10年で売り飛ばすために買おうと思っている人などほとんどいないだろう。 

 それと同じで、投資信託も20年~30年というスパンで見たらどうだろうか

 正直、私は、基準価格が下がっても、ほとんど何も心配していない。私は5年も前から投資信託にかけているので、すでに投資した額の4分の1程度は、分配金で戻ってきているのだ。言い換えれば、基準価格が4分の1ほど下がっても、「トントン」なのだ。

 今、基準価格が下がって、「投資信託なんてダメだ」と言っている人に聞きたいのだが、ではもしも基準価格が期待以上に上がっていたらどう言っていたのだろうか? 「いや~、投資信託って素晴らしいよ。マンション経営なんかより、よっぽどいいよ」と言っていたのではないか? 

 短期的にも長期的にも、自分の目標をよく把握して、投資することである。投資なのであるから、どんなことをしても、リスクはある。マンション経営にしても、空室が出る可能性もあれば、ひどい場合は地震でマンションが倒壊することだってありうる。リスクがゼロという投資などないのだ。

 

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2008年10月28日 (火)

ドイツ語検定まで4週間

 ドイツ語検定2級まで後4週間となった。

 今のところ、合格する可能性は38%くらいか。まだ50%というところまではいかないものの、だんだん自信がつきつつある。単語力が徐々に付いてきているのが自分でも分かるのだ。そして単語力さえつければ、2級合格も射程圏に入ると信じている。

 単語力というのは、一時期、ガムシャラにでもつけたほうがいい。私の場合は、今、1日平均50個の単語を覚えている。覚えては忘れ、覚えては忘れ、覚えては忘れ…を毎日繰り返しているが、これをずっと繰り返しやっているため、かなり自信がついてきた。

 なぜ、1日50個平均で覚えられるのか。1日だけならともかく、それをなぜ毎日続けられるのか。20日、30日と本当にそれが続けられるのか。

 私の秘策(といっても、やっている人は多いと思うが)は、単語カードと耳を使った暗記である。

 単語カードは、単語集やドイツ語の記事から引っこ抜いて、あらかじめ大量に作っておく。これを朝起きたときに覚え、食事の前に覚え、食事の後に覚え、風呂に入る前に覚え、寝る前に覚える。これを繰り返す。繰り返しが基本だ。

 一方、耳を使った暗記というのは、CD付きの単語集をCDをかけながら覚えていくのである。私の場合、3級レベルの単語も忘れていたものが多かったので、復習もかねて『独検3級突破単語集 』を使っているが、これは3級を受ける人はもちろんのこと、2級を初受験する人であっても、復習として使ってもいいのではないか。

 あと4週間で、新しい単語を1000個覚えるつもりである。私なら、できると信じている。あと1000語覚えれば、2級の読解問題はなんとかなるはずだ。しかも、CDも使って覚えているのもあるわけだから、リスニングもかなり高得点が取れるはずだ。

 私は大学院受験のためにドイツ語を勉強しているのだが、2級を一発合格し、大学院受験のころは準1級以上の実力は身につけたいと思っている。かなりのプレッシャーを自分にかけていることになるが、私なら2級一発合格も可能だと思っているからこそ、こうしてブログに書けるのである。 

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2008年10月27日 (月)

ファイナンシャルフリーになれば何もかもが変わる

 私は、32才で留学から帰ってから、しばらくの間、お金に困っていた。

 一時は借金が40万円を超えていたので、なんとかお金を稼がなければならなかった。考えていることの10割がお金であった。お金、お金、お金…という毎日であった。

 40万といっても、月々返済できる金額がわずかしかないので、なかなか返済しきれなかった。

 留学から帰国してから一年間くらいは英会話の講師をしていたが、英会話教室も不況のあおりでコマ数が激減していた。そんな折、研修費の不払いに関して、私とある男性講師が立ち上がったところ、翌月から私もその男性講師もコマ数をゼロにされた。実質は2人ともクビになったのである。

 もともと私は英会話講師を延々と続けるつもりなどなく、月刊誌にエッセイの連載も始めていた私にとっては「文筆家になるためのいい転換期」であったが、私とともに立ち上がった男性講師にとってはクビは転落人生の始まりだったのかもしれない。その後、彼の母親から、「息子が蒸発した。行き先に心当たりはないか」という電話があった。

 文筆家に転向してからも、やはり最大の関心事はお金であった。とにかく、仕事を次々と入れない限りは食べていけないのだ。その結果、ペコペコ頭を下げてでも仕事を取りに行った。編集者は神様に見えた。

 だから、本の出版を依頼されたとき、相手のいい値で承知せざるを得なかった。

「この本(著書)はね、あなた以外にT氏にも一部書いてもらうので、共著となるから、初版は7%だ。それで書いてくれ。でも初版は2万部刷るから、かなりいいお金になるよ」

 もちろん、覚え書きなど要求できなかった。要求などしたら、仕事を干されると思ったのだ。だまって仕事をしていたほうがいい、そう思ったのだ。

 しかし、執筆が終わった後になって、7%といっていた印税は4%になり、初版部数も20000部のはずが8000部になった。泣き寝入りする以外になかった。

 そういうことは何度かあった。6%だと言っていた訳者印税が出版の直前になって4%になったり、7%が5%になったり…。

 なぜそんなことが起きるのか。なぜ泣き寝入りしなければならなかったのか。

 それは「覚え書き」を出してもらってなかったからだ。「覚え書き」さえ出してもらっていたら、裁判所で戦っても勝てる。しかし、出して貰っていない以上、泣き寝入りするしかない。

 ファイナンシャルフリーになってからの私は、覚え書きを出して貰うか、あるいは、メールなどで「証拠」を残してから仕事に取りかかるようにしている。また、印税率を訊いても、あいまいな返事しかしない場合は最初から引き受けない。

 なぜか。それはお金に困っていないからなのだ。仕事に飢えていなからなのだ。つまり、ファイナンシャルフリーになれば、悔し涙を流す可能性がグンと低くなるのだ。

 お金に困っている人、あるいは、仕事に飢えている人であれば、印税率があいまいであっても、「まあ、多少削られても、まったくゼロってことにはならないだろうな」とか、「まあ、お金よりも、自分の本が出るってことのほうが大事だ」と変に自分をごまかして仕事を引き受けるのだ。しかし、その結果はどうか。

 ファイナンシャルフリーになれば、自由度がグンと変わるのである。条件が気に入らなければ仕事を断れるだけでなく、条件があいまいな仕事すら断ることができるのだ。その結果、悲惨な目にあう事態を自ら事前にふせげるのである。

 では、どうやったらファイナンシャルフリーになれるのか。それは、おいおい、書いていくことにしよう。

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2008年10月26日 (日)

チャレンジすることで人生は刺激的になる

 チャレンジすることは簡単ではない。努力を要する。だから、平たくいえば、しんどい。

 人間、しんどいことはしたくないものだ。だれだって、ずっと楽ができるなら楽をしたいだろう?

 だが、しんどいことをしなければ、人間、成長はしないのだ。

 例えば、チャレンジすることを止め、必要最低限のことだけしかやらない人間にあなたは魅力を感じるであろうか。やるといえば、直接お金儲けにつながること、直接快楽につながること、そういった見返りを求めてすることばかりである人間に魅力を感じるであろうか。

 私は、人生の究極の目標は、善い人間になることだと思っている。

 だが、善い人間になろうと思えば、生半可な気持ちでは無理だと思う。ダラダラとテレビを見て、何の努力も払わない人間が、単に「性格が良い」というだけで善い人間になれるかといえば、そんことなどけっしてないのだ。

 善い人間になりたければ、なし得る最大限のことに常にチャレンジする気持ちがなければならない。

 私は、今後もいろいろなことにチャレンジしてみようと思う。それはお金儲けのためでも、快楽を求めるためでもない。ただ単に善い人間になるためだ。

 善い人間になるための一つに、分別のある人間になるというのがある。

 その一環として、私は資格試験に挑戦している。

 今後受けてみようと思うのは、「WEB検定(WEBデザイン)」「ビジネス数学検定」「CASEC」「ドイツ語検定2級」などである。

 「ビジネス数学検定」というのは、自宅でもインターネットで受験できる。次回は12月からなので、早速リベンジをしたい。(前回は初回だったため、慣れずに不本意な点数で終わったためである。少なくとも「A」の評価に相当する点数を出したい)。

 この検定試験は、ビジネスマンにはお勧めの試験だ。テキストとしては『ビジネス数学検定―新しいビジネスのかたち 』『ビジネス数学検定―カナりマナべる 公式テキスト 』の2冊が出ているので、早速買ってどんな試験が見てみるといいだろう。面白いし、数学的センスを試すいい機会だと思う。

 

 

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2008年10月25日 (土)

ドイツ語検定2級まで後1ヶ月

 「ドイツ語検定2級」まで、あと1ヶ月を残すのみとなった。

 私は、基本的に文法は勉強していない。勉強しているのは、読解と単語とリスニングだけである。

 なぜかといえば、文法は勉強が退屈だからだ。だから、すぐに勉強がイヤになるので、あえて放置している。

  ただ、読解はレベル的にはドイツ語検定準1級レベルの高度なドイツ語に挑戦している。

 なんでも言えることだが、好きこそものの上手なれ、だと思う。

 点数を確実に取るには文法書をきっちりと勉強しておいたほうがいいかもしれないが、そんなガムシャラに点数を取るためだけのための勉強よりも、私は楽しく勉強したいため、あえて文法は無視の姿勢を貫いている。そして、ドイツ語で哲学者の紹介の記事を読んだり、単語を覚えたりしているのだ。

 これは、何もドイツ語検定だけではなく、ほかの検定試験についても言えることだと思う。とにかく点数を上げるためだけに問題集ばかりやっていても、退屈ではないか? そんなことよりも、「この分野の知識を高めればいい」と割り切って、その分野の参考書を線を引き引き読んでいたほうがまだ勉強しやすくないか?

 とにかく、どういう結果になるかは、このブログで発表しようと思う。不合格でも発表するつもりだ。楽しみにしておいてほしい。そういう私自身が一番楽しみにしているのだが…。

 

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2008年10月24日 (金)

投資信託の勧め

 私は、今までにも、「お金を稼ぐことが人生で一番大切なことではない」ということを繰り返し述べてきた。

 しかし、これは、お金に余裕があるからこそ言えることでもある。

 実際のところ、お金に困っている人は、とにもかくにもお金がほしいであろう。お金のことに悩まなくてすむような人生を歩みたくなるだろう。だからこそ、お金、お金、お金…とお金ばかりを求める生活を送るようになるのだ。

 「お金を稼ぐことが人生で一番大切なことではない」のは確かだが、「お金がないことは人生で一番辛いこと」といっても過言ではないだろう。

 では、素人でも簡単にできるマネーツリーの作り方を伝授しよう。

 それは、投資信託にかけることである。

 もちろん、リスクはある。短期で儲けようと思うのであれば、やるべきではない。しかし、本当に超長期的な視野でマネーツリーを作ろうと思うのなら、投資信託がお勧めだ。

 今は、アメリカを中心に景気が悪化しており、投資信託の基準価格も軒並み下落している。私のかけている投資信託も全滅である。100万円投資しているものが80万円の価値しかなくなっていたり、70万円の価値しかなくなっていたりする。

 しかし、私のかけているもののほぼすべては「毎月分配型」というものであり、すでに投資した額の2割程度は日本円で受け取っているため、全然心配などしていない。これからもずっと寝かせておけば、毎月毎月分配金を受け取ることができるし、何年かすれば基準価格も元に戻るであろう。

 基準価格が下落している今は、解約するのではなく、むしろ、どんどん投資すべき時期なのだ。

 「リスクを負うのはイヤだ」という人なら日本円でずっと寝かせておくとよい。しかし、それでは一生かかってもほとんど増えはしない。さまざまな経済学者も予測しているが、今後、日本で定期預金の利率が1%を超えることはないと言われている。一方、リスクはあるものの、投資信託にかけておけば、年率8~9%の利回りも可能なのだ。

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2008年10月23日 (木)

真の目標は何なのか

 私の友人に社会保険労務士という難関資格を目指している人間がいる。合格率は例年1ケタ台だという。そんな彼は、結果待ちの今、合格しているかどうかが非常に気になっているようだ。最近では、ほぼ毎日のようにブログで、合格基準点について予想を立てたり、専門学校の予想を収集したりしている。

 気になるのは当然だろう。しかし、彼の場合は、それに、あたかも人生のすべてを賭けているかのような印象すら受ける。まるで「合格することがすべてだ」という勉強のしかたをしてきたのではないか。

 かくいう私であるが、本日、大学院の願書を提出した。思えば、この1年間、ひたむきに勉強に励んできたのも、大学院進学という夢を果たすためであったともいえる。だから、当然、一発合格といきたいところではあるのだ。

 もちろん、私も、受験後、結果が出るまでは落ち着かないだろう。始終、結果が気になるだろう。しかし、私の場合は、合否が人生のすべてではないと割り切っている。

 彼の場合、合格しようがしまいが、今の仕事を続けるか辞めるかという変化はないはずだ。しかも、それがすぐに何かの変化をもたらすというものでもないはずだ。なのに、あたかも人生のすべてのような意気込みだ。

 一方、私の場合は、合格すれば、来春からその大学院に行くことになるわけであるから、生活は一変する。まさにガラリと変わる。なのに、私は、合否がすべてだとは思っていないのだ。

 何度もいうようだが、人間、しょせんは死ぬ身だ。この世で今起こっていることは、正しいこともあれば、間違っていることもある。そんなものに右往左往するのは止めて、自分の信じる道を行こうではないか。

 人間にとって一番大切なのは、善い人間になるということにつきる。それ以上に大切な目標などないし、あってはならない。善い人間になるということを究極の目標として常に意識し、「仮象の目標」として「大学院合格」とか「難関試験合格」とか「家庭サービス」とか「営業成績1位」とか、そういう目標を持てばいいのだ。

 でも「仮象の目標」には拘ることなどない。そんなものは、達成できれば素直に喜べばいいが、達成できなくても、自分なりにベストを尽くしていればそれだけで満点なのだ。

 私は、別に大学院に落ちても、そんなに落ち込まないではないかと思っている。「あ、落ちたか」程度だろう。誤解してほしくないのだが、私は投げやりになっているのでもなければ、勉強せずに受験しようと思っているわけでもない。自分なりにベストを尽くすが、ベストを尽くしても、問題との相性が合わなければ落ちることもあるわけだから、そんなものにいちいち振り回されないぞ、ということである。

 最後にもう一度いう。「仮象の目標」には拘るな。人間は魂を磨くためにこの世にやってきているのだ。魂を磨いていれば、それで満点なのだ。「仮象の目標」を達成するためにベストを尽くすのはいいが、「真の目標」(善い人間になる)が究極の目標であることを忘れるな。

 

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2008年10月22日 (水)

学問の職分

 私の友人に、こんなことを言う人がいる。

「俺は大学を出たけど、大学で学んだことは、仕事の上ではまったく役に立たなかった。お金儲けにもつながらなかった。大学生なんて馬鹿だらけだ」

 大学を中退していく人間は、たいがい、こんなことを言って止めていく。

「こんなこと勉強して一体何になるの? 何かの役に立つの? 努力するだけ馬鹿らしい」

 しかし、「学問など何の役にも立たない」と本気で思っているのであれば、なぜ企業は、採用にあたって学歴を気にするのか? 専門学校生ばかり集めたほうが、いいのではないか? 大学教育が意味がないと思っているのなら、なぜ大卒を採る? なぜ自分の子供を大学に行かせたがる?   

 いったい、学問の職分とは何か。   

 難しい理論は別にしても、学問は人間としての幅を広げるという点では大いに役立っていると思う。

 ある大学教員は、「大学をともかく出た子」と「優秀だが大学に行かなかった子」をたくさん見て比較してみたところ、たとえ大学でほとんど勉強しなかった子でさえ、スタンスの取り方や考え方が明らかに違うと著書の中で述べている。もちろん、大卒のほうが人間的に幅が広いというのである。

 実際、大学教育では、仕事に直結することよりも、仕事には直接関係ないことばかり教えている。

 私も、慶應大学文学部では仕事に直結しないことを多く学んだ。『ドラキュラ』の小説を読んで登場人物の人間関係を探ったり、『徒然草』を読んで人生のはかなさを知ったり、英語の授業では、毎回のように、日本人の偉人(福沢諭吉、王貞治、豊臣秀吉、本田宗一郎、森田昭夫、田中角栄、三島由紀夫、夏目漱石など)を紹介するエッセイを英語で書いた。英文学では『チャタレイ夫人の恋人』という過激な作品にもチャレンジした。論理学では、虫ずが走るような難しい論理記号を学んだ。その他、あれこれ学んだが、仕事に直結するものはほとんどといってない。

「『ドラキュラ』の小説を読んだからといって、それが何になるの? そんなの仕事に何の役にも立たないじゃない。ばかばかしい。そんな無駄な勉強するくらいなら、簿記の勉強したり、ITの勉強したりしたほうがよほど仕事に役立つわ」

 そう思うのなら、そう思えばいい。そして、お金儲けに直接つながることだけをやればいい。でも、こうした「無用の長物」こそが人間の幅を広げてくれるのである。そしてそれこそが学問の職分なのだ。

 学問の価値を否定したがる人間に言っておくが、学問をやっていれば、意外なところで、意外な形で役立つことがあるのだ。「やっているときは、何の役にも立たないと思っていたけど、気が付いてみたら、あそこであれを勉強していたからこそ、今の自分があるんだ」ということがよくあるのだ。しかし、それはずっと学問を続けた人だけが味わえることであって、早々に学問を止めてしまった人にはそういう「いいこと」など起こるわけがないのだ。

 

 

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2008年10月21日 (火)

どんな資格を受けるべきか

 自分を高めるために次々と試験にチャレンジしようと思うとき、どんな資格を受けるべきか。

 私の答えは、「自分にぴったり合った資格を受けるべきだ」である。

 「ぴったり合った」というのは、内容はもちろんのことだが、難易度についても言えることだ

 すぐに挫折してしまう人は、自分に合っていない試験ばかりを受ける。見栄を張って難関大学を受けたり、難関試験を目指したりする。しかし、自分の能力とはかけ離れた目標であるため、なかなか合格できず、「いくら頑張っても僕には無理なんだ」と結論づけ、悪循環に陥る。それでイヤになっている。

 一方、成功する人というのは、ベストを尽くせば合格する可能性が50%程度になる難易度の資格を受けている。だから、ベストを尽くして合格すれば達成感が得られるし、落ちたとしても、次回、あるいは、次々回に合格するべく、さらに努力しようと思えるのだ。実際に合格するのが7度目、8度目になってしまうこともあるが、最後まで諦めることはない。というのも、彼らには自分の能力に対する十分な自信があるからだ。

 自分の能力から極端にはずれた試験を目指そうとするのではなく、ベストを尽くせば合格する可能性が50%程度になる資格を目指すべきである。そういう試験がもっとも挑戦のしがいを感じることができる。合格率90%の資格なら、通って当たり前だから通ってもそれほど嬉しくないだろうし、合格率10%の資格なら、頑張ってもなかなか通りはしない。そういう資格は目指さないほうがいいのだ。

 かくいう私は、この後、どんな資格を目指すのか。そしてその合格可能性を自分ではどれくらいだと思っているのか。

 「WEB検定(Webデザイナー)」 合格率35%

 「CASEC」 スコアが出るだけなので、合格不合格はない。

 「ドイツ語検定2級」 合格率35%

 しかし、試験直前までベストを尽くせば、合格率は50%程度になる見込みなのである。まさに「私にぴったりの難易度の試験」なのだ。

 

 

   

 

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2008年10月20日 (月)

ベストを尽くしさえすれば満点

 私は、この後もたくさんの資格に挑戦するだろうし、いくつかの大学にも入学するだろう。それだけではなく、人生のありとあらゆる面で、なしうる最大の努力を払おうと思っている。それこそがアリストレスのいう「エウダイモニア(幸せ)」だと思っている。

 そんな私を見て、ある人はこう不思議がるかもしれない。「この人って、落ち込むことって無いのだろうか? 例えば、試験を受けて、試験問題と相性が悪くて腹が立ったり、できたと思っていたところ不合格になったりしても、落ち込むことってないのだろうか? 私なら、そんなことがあったら、すぐにイヤになって落ち込むけどなぁ」

 私は、正直いって、試験に合格しようがすまいが(あるいは、目標としていることが達成できようができまいが)落ち込まない。というより、より正確に言えば、落ち込まないようにしている。

 私にとっての基準は、すべて私の内部にある。つまり、目標に向かってベストを尽くしたら、結果はどうであれ、私としては満点なのだ。逆に、ベストを尽くさなければ、私としては不合格だ。外部の基準ではなく、自分自身の基準で自分に合格・不合格を与えている。だから、正直、ここ何年もの間、私はずっと満点だらけだ。自分なりにベストを尽くしてきたと自信を持って言えるからだ。

「そんなの独りよがりではないの? だって客観的に見れば、不合格は不合格でしょう?」

 そう反論する人もいるだろう。それは私も理解している。不合格になればそれは客観的に不合格だ。それは認める。しかし、人間、「ベスト以上」のことはできないのだから、「ベストを尽くしたら、それで満点」としないで生きていると、人生、やってられないと思うのだ。

 例えば、野球の選手が練習に練習を重ね、ホームランを打つ実力をつけたとしよう。実際、ホームランを打った。と思ったら、信じられないような強風が吹いて、ギリギリのところでファールになったとしよう。実力としては「ホームラン」だが、結果としては「ファール」だろう? そのとき、「結果」だけで判断する人間なら落ち込まなければならないだろう。もちろん、だからといって「今のはホームランにしてくれ」とは言えないが。

 あるいは、難関試験でもいい。勉強に勉強を重ね、合格するだけの実力をつけたとしよう。しかし、なぜか今年は悪問ばかりが出題されている。従来どおりの問題なら、間違いなく合格なのに、こんな変な問題が出たが為に、1点足りずに不合格となった。実力としては「合格」だが、結果としては「不合格」だろう? そのとき、「結果」だけで判断する人間ならば一気にやる気をなくしてしまうだろう。

 言っている意味が分かるだろうか?

 この世のありとあらゆる「結果」というのは、「実力」を正しく反映することもあれば、間違って反映されることもあるということだ。本当は「実力」がない人間でも「間違って」合格することもあれば、本当は「実力」がある人間でも「間違って」不合格になることもあるのだ。そんな「結果」に拘ってばかりいて、どうする? そんなもので自分を判断して右往左往するのではなく、自分で自分を判断できるようになったらどうだろうか。自分のことは自分が一番分かるのではないか。

 私は、試験に合格しようがしまいが、自分さえベストを尽くしていれば、それで満点だと思っているので(というより、そう思おうと努力しているので)、試験の結果にそれほど右往左往されない。もちろん、合格なら嬉しいことは嬉しいが、不合格になっても、別にどうってことはない。

「なんだかんだいっても、不合格になったらダメだ」みたいに思っている人、考え方を変えてみたらどうだろうか。そんな外部基準で自分を判断するのではなく、自分がベストを尽くしたか・尽くしていなかったかという内部基準で自分を判断するようにしたらどうだろうか? 

 

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2008年10月19日 (日)

主体的に生きる

 世のほとんどの人は、金、地位、名誉、権力、試験の合格、異性といった「外的なもの」を手にしたら幸せになれると思いこんでおり、そういった「モノ」が手に入ることだけをやっている。というより、そういうことしかやっていない。

 しかし、それでは主体的な生き方とは言えない。自分の欲望に反応して生きているだけだ。カントの言葉でいえば、「傾向」にしたがって生きているだけである。

 よくよく考えてもらいたいのだが、ネコでも自分の欲望に従って生きているのだ。求めているものは違うが、「傾向」に従っているという点はネコと同じなのだ。

 一方、主体的な生き方は人間しかできないものである。これは、欲望に反応したからでもなく、また、必要に迫られているからでもなく、ただ単に自分が本当にやりたいことを自らの意志で主体的に行う生き方である。

 では、主体的な生き方と反応的な生き方の違いは何か。具体例で考えてみよう。

 私は4つの大学を経験したので、よく知っているのだが、「単位さえ取れればいい」と考えている学生は、夏休みも冬休みも春休みも自発的に勉強などすることはなく、レポートとか試験とかがないかぎり勉強をしない。それはそうだろう。なんといっても、彼らが勉強するのは「単位を取るため」だからだ。もしも、例えば経営学部の学生から、「僕は夏休みの間、ずっと経営学の専門書を20冊も30冊も読んでいた」なんて聞かされたら、主体的な勉強をしているなと感心してしまうだろう。いや、畏怖の念さえ覚えてしまうだろう。しかし、「公認会計士試験のための勉強に明け暮れていた」と聞かされたら、努力は素直に認めるが、畏敬の念までは覚えないだろう。

 しかし、私の見る限りり、主体的な勉強をしている人はそれほど多くはなさそうだ。多くの学生は反応的な勉強しかしていない。そんな彼らが長期休暇中にやることといえば、やはり「外的なもの」が得られることである。最も多いのがアルバイトをすれば金が手に入るという理由でアルバイトに精を出す。なぜなら、彼らにとって「外的な報酬」が得られないことは、やる意味がないことだからだ。だから、「金」という別の「外的な報酬」を求めるのだ。

 私は、青山学院大学時代も、シェフィールド大学大学院時代も、夏休みなどの長期休暇中は、まわりの友人らがアルバイトに精を出しているのに気を止めず、ずっと図書館にこもって本を読んでいた。感銘を受けたところには線を引き、大学ノートに書き留めたり、その下に自分の感想を書き込んだりしていた。それは試験のためではなく、自分自身のためだ。自分が勉強したいから勉強するという、ただそれだけのための「主体的な勉強」だった

 そんな私を見て、青学時代の友人も、シェフィールド大学大学院時代の友人も、「試験もないのに、いったい何でそんな勉強しているの? なんでアルバイトやらないの?」と不思議がっていた。それはそうだろう。彼らにとって、勉強とは、「試験のために」あるいは「単位取得のために」するものであって、自ら主体的にするものではないからだ。だから「お金にもならないのに何でそんな勉強しているだろう?」と不思議がっていたのだ。

 でも、彼らのように「外的な報酬」ばかりを求める生き方が果たして主体的な生き方をしていると言えるのか。答は、当然、ノーである。というのも、彼らは、勉強したいからという理由で自発的に勉強しているのではなく、単位が取れるからという「外的な目標」のためにやっているにすぎないからだ。

 しかし、そのように「外的な目標」ばかり求めて勉強したとしても、小粒な人間になるのが関の山ではなかろうか。というのも、彼らは一つ「外的な目標」を得たとしたら、それはそっちのけで、別の「外的な目標」を求めるからだ。そんな浅はかな勉強しかしなければたいした実力はつなかい。

 例えば、英語の勉強にしても、「大学入試があるから」「単位を取らなければならないから」「就職試験があるから」というような「外的な目標」をクリアするだけのために勉強している人は、その目標をクリアしたらもう勉強しなくなるだろう? そんなのでホンモノの英語の実力がつくわけがない。その証拠に、そこそこの大学を出てても、ロクに英語の本が読めやしない人が多いだろう。

 「外的な目標」でも、まだあるうちは、いいかもしれない。だが、反応的な生き方をしている人は、「外的な目標」もなくなったら、暇で暇でしかたがなくなるはずだ。というのも、彼らは、自発的に、伝記を読んだり、外国語を学んだり、書道をやったり…といった「外的な報酬」が得られないようなことは、やっても意味がないと思っているからだ。

 一方、主体的な生き方をしている人であれば、「外的な報酬」が手に入ろうが入るまいが、次々と自分を高めていく。試験がなくても、伝記を読んだり、勉強したり、外国語を学んだりと、次々と勉強していくだろう。だからこそホンモノの実力がつくのだ。

 何度でも言う。ホンモノの実力をつけたいのなら、ただ単に「これがしたいからやる」ということを自ら率先して行うことである。「外的な報酬」を求めてはいけないというつもりはないが、それが第一の目標になっているとすれば、主体的な勉強とはかけ離れてしまう。

 なお、主体的な生き方について詳しく知りたい人は『7つの習慣―成功には原則があった! 』や『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則 』を読まれることをお勧めしたい。  

 

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2008年10月18日 (土)

出版不況と印税の関係、および、IT社会の到来

 書籍や雑誌の総売上がここ10年間の間に20%も減ったという記事を読んだ。

 自分自身、10年前と今では、書籍や雑誌を買うことが少なくなった。特に雑誌に関しては、インターネットをやり始めてからはほとんど買うこともなくなった。

 10年で20%も収入減になっていては、出版業界も大変であろう。

 しかし、もっと大変なのは、文筆家である。

 なぜなら、一番削られるのは文筆家の印税だからだ(あくまで私の見る限りにおいてだが)。

  出版社も大変かも知れないが、編集者の給料が年々下がる一方だということはないのではないか。だが、翻訳家の「給料」ともいえる印税はどんどん削られているのである。

 実際、私が翻訳家デビューしたころというのは、訳者の印税は8%のところが多かった。

 初版も重版も8%。しかも、刷り部数で計算してくれた。つまり、8000部刷ったら、8000部×定価×8%だったのである。

 それだけではない。一冊の仕事を終えたら、料亭に連れて行って貰ったり、昼食に5000円はするだろうと思われる食事に誘って貰ったり…。そういうことが、たまにではあれ、あったのだ。まだ出版社も余裕があったのである。

 しかし、数年前から、印税が軒並み削られるようになった。

 8%だった出版社も7%になり、やがて6%になった。ときたま、5%でやってくれないかという相談も受けることがある。ひどい場合は、2%でお願いできないかといわれたことすらある。もちろん、その場で断ったが。

 今では、翻訳者の印税は6%がスタンダードではないだろうか。しかも、重版からは刷り部数での計算ではなく、実売部数での計算。つまり、売れた分だけ払ってあげますよ、ということだ。初版も重版も刷り部数で8%だった一昔前と比べると大違いだ。

 翻訳者の立場を尊重して8%を守り続けている出版社もあるかもしれないが、私の見る限り、できるだけ訳者印税を低くしようというスタンスの出版社のほうが多い。つまり、出版不況のあおりを一番もろに受けているのは文筆家・翻訳家だったりするのだ。

 実は、こうなることはすでに何年も前から見抜いていた。インターネットが普及するのは目に見えているのだから、出版業界が徐々に衰退していくことは明らかである。だから、私はITを学ぼうと思って工業大学に入学したわけである。

 ここで私が言いたいことは、出版業界に携わる人(出版社であれ、文筆家であれ)は、ITの威力を甘く見てはならないということである。いや、これは出版業界だけではない。あらゆる業界の人でも、ITの影響を考えておくべきだろう。

  今後はますます、社会の中にインターネットが浸透していく。その流れに乗り遅れてはならない。社会の大きな流れは、個人の力で食い止めることは不可能である。だから、社会の大きな流れの中で、自分を一番発揮できる道を探していかなければならないのである

 私は、友人にも、「ITの実力を磨いておけ」と口をすっぱくして言っているのだが、「そんなこと勉強して何になるの?」と言うだけである。何度でもいうが、後で「勉強しておけば良かった」と後悔しても、もう遅すぎるのだ。これから先、一生涯、ITとは縁を切れないことは容易に想像できることなのだから、本腰を入れて勉強すべきなのだ。

 もう一度言う。世の中は激変しているのだ。そして、それについて行くには少なくともある程度のITの力はいるのだ。だから、例えば『ドットコムマスター★』、『P検準2級』、『WEB検定リテラシー』、『CIWファンデーション』などの資格を自ら受験するくらいでなければならない。「そんなことしてお金儲けに直結するの?」などと眠たいことを言っていては、置いてけぼりになるのだ。

  私自身は、近いうちに『WEB検定Webデザイナー』に挑戦しようと思っている。どんな結果がでようが、このブログで公表しようと思っている。

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2008年10月17日 (金)

心が洗われる体験

 私は、今、4つ目の大学に在籍しているが、卒論以外の単位はすべて取得したし、卒論も完成に近づいた。したがって、無事にいけば、来年3月には「4つの大学を卒業した」ということになるだろう。

 「4つの大学を出る」ということは、ほかの人から見れば、少しおかしなことかもしれない。きっと、「なんでそんなにたくさんの大学を出るの? 何がそんなに楽しいの? 何を求めているの? お金儲けにつながるの? いったい何がしたいの? 最終的に求めているものはいったい何なの?」と訊きたくなるだろう。

 金銭とか、昇進とか、試験合格とか、異性とか、名誉とか、そういった「外的なモノ」ばかりを求めている人から見れば、不思議で不思議でしかたがないだろう。あるいは、馬鹿らしいと思う人すらいるだろう。

 しかし、正直に言うが、私は心の底から学問を続けて良かったと思うし、学問は今後も一生続けたいとも思っている。もちろん、大学に在籍しなくても、一人だけで学問を続けることも不可能ではないが、やはり、独りよがりにならないためにも、大学に在籍したほうがいいと思っている。

 では、学問の何がそんなにいいのか?

 「外的なモノ」を求めてアクセクしているだけでは、けっして味わえないような清々しさが味わえるとでも言おうか。これは実際に味わった人にしか分からない心情だと思うので、どう表現しようが分かってもらえない人には分かってもらえないと思うが、それでもあえていえば、新しい概念を理解できたとき、心が洗われるような感じがするのだ。清々しくなるのだ。

 実際、昨日もカントの著作を読んでいて、今までの40年以上の人生で知らなかった概念がスーと心の中に入ってきて驚嘆した。「そうか、そうか、そういうことだったのか! 分かったぞ! こんな大切なこと、今までよく知らずに生きてきたな。いや~、これを知ることができて本当に良かった」と実に清々しい気持ちを味わったのだった。と同時に「世の中のほとんどの人は、こういう大切なことをまったく知らずに生きているんだよなぁ」とも思った(余計なお世話かもしれないが)。

 私は4つ目の大学である今の大学に入学して初めて、プラトン、プロティノス、アリストテレス、カントを始め、さまざまな哲学者の著書を読んだ。難解な文章は、なかなかすんなりとは読めないこともあるが、ときに、読んでいて、とても清らかな感じになることがある。

 登山にたとえて説明しよう。

 登山は、最初のうちは、ただ上り坂を登るだけである。辛いことばかりである。何の楽しみもない。「こんな辛いことなら、何か報酬がなければやってられないな」と思う。だからからか、ほとんどの人は途中で登るのを止める。しかし、7合目、8合目…と登り続けていくと、急に視界が開けてくることがある。ふと後ろを振り向いたら、下界が遠いところで開けてくる。実に清々しい景色だ。今まで登山なんかしても意味はないと思っていたが、こんなに素晴らしい景色が見ることができるとは。いや~、ここまで辛抱して登ってきて良かった。よし、これなら頂上まで登ってみよう。きっと、さらに素晴らしい光景が目に入ってくるはずだ。

 学問には、登山と似ていて、こうした楽しみがあるのだ。

 もちろん、学位取得となると、こういった楽しみばかりではない。辛いことも多い。とにかく単位を取得するには、レポート、レポート、レポート、暗記、暗記、暗記の毎日である。正直言って、いくら学問が好きな人だといえ、こうした作業のすべてが好きかと言えば、そうではないはずだ。しかし、こうした作業を乗り越えてこそ学問の醍醐味が味わえるのである。

 ところで、いつ入学するかは未定であるが、私はロンドン大学の通信教育課程を考えている。通信課程の場合は、年間の授業料もディプロマコースだと、たしか(曖昧な記憶によれば)20万円程度だったと思うし、ディプロマだと最短で1年で取ることができるコースがあるのだ。しかも、イギリスに行くことなく日本のブリティッシュカウンシルで試験が受けられるらしい。もっとも、通学課程との差は一切ないらしく、通信課程を独学で卒業するのは極めて困難なようだが。でも、いずれ挑戦してみたいと思っている。

 ちなみに、私に「もう留学する気はないのか?」と尋ねる人がいるが、これから先、留学しようとは思っていない。留学するとなると、滞在費を含め、年間で最低でも200万とか300万もかかる。いや、渡航費や保険、その他諸々の経費を入れると、もっとかかるかもしれない。しかも、学位が取れる保証など何もないのだ。その点、通信課程であれば、たしかに孤独との戦いというハンデはあるものの、学費が安く押さえられる点と、なにしろ、日本にいながらにして勉強ができるというメリットがある。通学課程も通信課程も、j授与されるのはまったく同じ学位であり、優劣は一切ない。学費のことを考えれば、当然、通信課程という結論になる。 

 

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2008年10月16日 (木)

外的な報酬ばかりを求める人が隣人愛を実践できるか

 今まで、善い人間になるには学問は必要だということを繰り返し述べてきた。

 しかし、当然ながら、学問だけできても、本当の意味で幸せはつかめない。なぜなら、アリストテレスがいうように、人間は本性として社会的な動物だからである。一流大学を出ても、自分のことばかりしか考えない人間は社会から爪弾きにされるのがオチである。

 では、社会の中でうまくやっていく秘訣は何か?

 最も重要なことは、自己中心性を捨てるということだ。

 それが隣人愛を実践するときの基礎となる。

 ところが残念なことに、この世のほとんどの人は、この世の「モノ」が手に入れることが、すなわち幸せへの道だと思いこんでおり、毎日毎日、アクセクアクセクと「モノ」を求めて頑張っている。

 金銭、名誉、試験の合格、異性、昇進、権力…。

 彼らはこうした「外的な報酬」こそが自分を幸せにしてくれると思いこみ、これでもか、これでもかとこうした「モノ」を追い求めるのである。けっして「善い人間になろう」という「内的な報酬」を求めて頑張っているのではない。

 「女、女、女…。女さえできれば幸せになれる」。学生時代そう思っていた人間が、いったん結婚すると、今後は「昇進」を目標とする。「昇進すれば幸せになれる」と考えるからだ。そこで「昇進」の可能性が高まることなら何でもやる。仕事に関連する試験に挑戦し、ゴルフにつきあう。もはや考えていることのほとんどが「昇進」である。しかし、そんなある日、ふと思う。本当に幸せになるには、一生涯困らないお金を手にすることではないか。そこで「金が入れば幸せになれる」と考え、財テクに走る。

 しかし、「女」→「昇進」→「お金」と求める対象が変わっただけで、やはり自分の外側に幸せの源泉を求めていることに変わりはない。「善い人間になることで、他人に喜んでもらえるようになろう」という「内的な報酬」に幸せの源泉を求めることはない。

 「外的な報酬」を求めてはいけないと言うつもりはない。しかし、そこに隣人愛の方向性がなければ、幸せどころか、不幸に突進しかねないのだ。

 なぜか。なぜならば、「外的な報酬」ばかりを求めている人は、どうしても自己中心的になりやすいからだ。「モノ」が自分を幸せにしてくれると思っている以上、どうしても「モノ」を手に入れたくなる。目に映っている夢は、その「モノ」を手にした自分しかないのだ。そこに自己中心性を増殖させる罠が潜んでいるのだ。

 

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2008年10月15日 (水)

ドイツ語単語の効果的な覚え方

 外国語は単語力で決まるというが私の信念である。そこで、私は、今、必死になってドイツ語単語を覚えている。1日平均50個覚えている。これは結構たいへんな数字である。10日で500個、1ヶ月続ければ1500個、2ヶ月で3000個も覚えるわけであるから、もし本当に続ければ、相当な力が付く。

 私がドイツ語の勉強をしているのは、来年1月に大学院受験があるからなのだが、その前に11月に腕試しにドイツ語検定2級に挑戦する。私としては、2級くらい一発で合格と行きたいところである。

 が、そのためには単語力を一気に増強させる必要がある。

 なんといっても、今のままでは、単語が分からずじまいで何を読んでも、チンプンカンプンだからだ。これでは大学院入試どころでなく、ドイツ語検定2級も危うい。

 そこで、とにもかくも、単語、単語、単語の毎日なのだ。 

 単語集はいろいろある。あるいは、単語集ではなく、文章を読みながら、知らない単語を電子辞書でひきひき単語カードに記入していき、その単語を覚えるという手もある。ちなみに私が使っているのは『SEIKO IC DICTIONARY 電子辞書 SR-V5010 英語/ドイツ語モデル 音声対応』であるが、私の場合、大いに活躍してくれている。ドイツ語学習者はぜひ買うべきものの一つだと思う。

 単語力の増強のしかたはいろいろあるが、ここでドイツ語検定2級合格を目指している人に、面白い単語集をお教えしよう。単語集というより、実際はドイツ語学習書だが、単語力増強にはもってこいだ。

 それは『今すぐ覚える音読ドイツ語 (東進ブックス)』である。

 この本のいいところは、複雑な単語の場合、どんな言葉とどんな言葉が合わさって成り立っているかまで説明してあることだ。

 例えば、Niederlage(敗北)という単語は、nieder(低い)+Lage(位置)の2つの成り立っている。あるいは、Lebensmittel(食料品)という単語は、leben(生きる)+Mittel(手段)の2つで成り立っている。

 こういう説明があると、すんなりと頭に入ってくるのだ。この本は直接ドイツ語検定2級用の単語ばかりが収録されているわけではないが、実力をつけるにはもってこいだと思うし、2級を狙うのであれば、これくらいは覚えておいて損はないと思う。

 私としては、この本で単語力を増強させて、一気にドイツ語検定2級を一発合格といきたいところである。ずいぶんと先の話になるが、結果は、このブログで報告するつもりである。

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2008年10月14日 (火)

学問と同様に大切なこと

 私は、今までに何度も、善い人間になるには学問が必要だと説いてきた。

 しかし、学問だけやっていれば善い人間になれるかというと、けっしてそんなことはない。よくいう「論語読みの論語知らず」という人間はごまんといるし、だからこそ、学問の嫌いな人は、「学があっても悪い人間もいっぱいいるよ」と反論するのだ。

 では、学問以外には何が必要なのか。

 その一つは、良い習慣を身につけることだ。カントの言葉で言えば、訓練である。我々人間はだれしも動物的な欲望をもって生まれてくるのであり、それを恥じる必要はない。しかし、欲望の赴くまま悪いことをする人間になってはならないし、もし自分にそういうところがあるのなら訓練によって改善する必要がある。カントに言わせれば、改善こそが人間に課せられた義務なのである。

 例えば、やらなければならないことがあっても、なんだかんだと言い訳をして、なかなかできないという人がいる。手紙の返事を早く書くといっておきながら、なんだかんだでいつも遅くなる人間は格好の例だろう。

 あるいは、やってはならないことでも、ついついやってしまう人がいる。ダイエットのために夜食や間食は控えなければならないことが分かっていても、ついついカロリーの高い食べ物に手が出てしまう人がその例である。

 では、良い習慣とはどんな習慣か。どんな習慣を身につければ、いいのか。

 その答えを知るには、『7つの習慣―成功には原則があった!』が大いに参考になると思う。私はこの原書である『7 Habits of Highly Effective People』を留学中に読み、感激に酔いしれたことがある。古典としてはアリストテレスの『ニコマコス倫理学〈上〉』『ニコマコス倫理学 下』 がお勧めである。

 7つの習慣のうち、最も重要な習慣が時間の使い方に関する習慣である。

 では、どんな時間の使い方をすればいいのか。その回答は『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則』に詳細に書かれてある。英語ができる人、あるいは、英語も学んでみたいという人であれば、その原典『First Things First』と併読すると良いだろう。

 では、同書には、どんな時間の使い方をすればいいと書いてあるのか。一言でいえば、重要なこと(自分を成長させること)に割く時間を増やし、重要でないことに割く時間を減らしなさい、そしてそのためには、重要なことから先にやるようにしなさい、ということである。

 平凡な人の多くは、そもそも重要なこと(自分を成長させること)が何なのかが分かっていないし、自分を成長させることの重要性にも気づいていない。だから、テレビをダラダラと何時間も見たり、旅行だの外食だのと快楽を追求したり、お金・権力・名誉などといった本当は重要でないものを追い求めることにばかり時間を費やすのである。というか、そういうことしかやっていない。というのも、彼らは、外的な報酬ばかりに目が向いているので、本当に自分を成長させることには関心が向いていないのだ。

 逆に、時間の使い方のうまい人は、重要でないものを追い求めるという愚かなことはしない。また、自分を成長させる重要性を知っているからこそ、常に自分を成長させる時間を作る。例えば、読書をしたり、勉強したり、ITのスキルを高めたり、運動をして健康管理に努めたり…。彼らは、だれからも指示されなくても、自分を高めることを次々と自ら見つけて行っているのだ。だからこそ、常に成長するし、難易度の高い仕事もできるようになるのだ。当然、お金持ちにもなり、ますます自分を成長させる機会が増えるのである。すべてが好循環なのだ。

 あなたは、自分の時間の使い方を見直してみたくないだろうか。しっかりと見直してみたいというあなたなら『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則』がお勧めである。私が太鼓判をおしてお勧めする本である。

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2008年10月13日 (月)

あなたは「善そのもの」のために努力しているか?

 人間の究極の目標は、善い人間になるということであって、それ以外のことにアクセクと一生懸命になって生きても、死んでいくときに、「ああ、なんで、こんなつまらないことをアクセクと求めていたんだろう?」と後悔するのがオチである。

 だいたい、お金にしても、名誉にしても、権力にしても、あの世に持っていけないだろう? なぜ、そんなものをアクセク・アクセクと求めようとしているのか?

 では、善い人間になるにはどうすればいいのか。

  再度、カントの言葉を借りよう。

「自分自身を改善すること、自己自身を教化すること、そして自ら(道徳的に)悪である場合には自己自身で道徳性を身につけようとすること」(『カント全集17』)

 では、あなたは、そのためにどんな努力をしているだろうか。

 お金が稼げる人間になるための努力、昇進するための努力、家族を喜ばせるための努力、試験に合格するための努力、恋人に好かれるための努力…こういった努力は、カントに言わせれば「傾向」にしたがってアクセクしただけの努力にすぎず、善い人間になるための努力とは異質である。

 こんなことを言えば、私は逆にあなたから「じゃあ、そういうあなたは、善い人間になるためにいったいどんな努力をしているの?」と訊かれるかもしれない。

 その質問にお答えしよう。

 私は、善い人間になるために、例えば、伝記を読んでいる。慶應大学に入学して以来、沢山の伝記を読んできた。マーク・トゥエイン、マゼラン、ダーウィン、モーツアルト、ビートルズ、ダ・ヴィンチ、ヘレン・ケラー、アインシュタイン、ベンジャミン・フランクリン、スカガウィア、ジョニー・アップルシード、ハリー・ホウディニ、ロナルド・レーガン、エレノア・ルーズベルト、ルイス・アームストロング、マリア・タルチーフ、アニー・オークリー、トーマス・エジソン、アメリア・アーンハートなどの伝記をすべて英語で読んだ。こうした伝記を読むのは、単位を取るためでもなく、英語の試験を受けるためでもなく、昇進を目的としているためでもなく、ただ単に「善い人間になろう」としてのことだ。「善い人間になる」という以外には一切何の報酬も求めず、ただひたすら読んだ。

 外的な報酬ばかりを求めてアクセクしている人から見れば、おかしなことをしていると思うだろう。「なぜ、そんな本、一生懸命になって読んでいるの? そんな本を読んで、何の役にたつの? お金が儲かるようになるの?」といって不思議がるだろう。というのも、彼らは、「外的な報酬が得られないのなら努力するだけ馬鹿らしい」という信念体系を持っているからだ。

 あるいは、私は自分の仕事とは直接関係ないのに、ビジネスコンプライアンス検定、知的財産検定などの資格試験に挑戦し、合格した。もっともこちらのほうは、人によっては「試験合格という外的な報酬のために頑張ったのであって、善い人間になるための努力ではないだろう?」と批判するかもしれない。ただ、そういう人は、よく考えてもらいたいのだが、これらの試験は知名度も低く、通ったところでそれが直接お金や昇進や名誉に結びつくとは言えない。それなのに私がわざわざ受けたのは、「少しでも社会の仕組みを知って、より善い人間になろう」としてのことだ。外的な報酬を第一に考えて勉強していたわけではないのだ。

 あなたは、お金とか、昇進とか、家族の笑顔とか、恋人の笑顔とか、そういった外的な報酬を求めるのではなく、ただ「善い人間になる」という内的な報酬だけを求めるための努力を何かしているだろうか? 

 実は、そういう努力こそが、本当に本人を成長させるのである。節制・正義・勇気・自由・真理などのソクラテスのいう「魂自身の飾り」となるのだ。

 最後にもう一度いう。お金とか、権力とか、昇進とか、そういった「外的な報酬」ばかり求めてアクセクするな。そういうモノを求めるなとは言わない。だが、そういうモノは第二、第三の目標にとどめておいて、やはり第一の目標としては、善い人間になるという目標を持とうではないか。カントも言うとおり、それが理性をもって生まれた人間の義務なのだ。ただ単に「モノ」を求めてアクセクするのなら、動物でもできるのだ。

 

 

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2008年10月12日 (日)

不合格になってすぐに止める人、続けられれる人の差

 私は88種類の資格を保持している。同じ種類の異なる等級は一つの種としてカウントしているので、例えば、ドイツ語検定4級と3級をもっていても一種類としてカウントしている。それでも88種類になっている。

 私は、まだまだ色々な資格にチャレンジしていきたいし、200種類、300種類となっても、止めるつもりはない。

 なぜ、そこまでがんばれるのか。

 ある人は、せっかく検定試験に挑んでも、たった2度か3度、不合格になったら、それで「自分には合わない」といって挑戦を止める。私からすれば実にもったいない話である。しかし、そんな人たちは、私にこう尋ねるだろう。

「だって、もうイヤになっちゃったんだもん。どうしてあなたはそんなに何度落ちてもへこたれることなく挑戦できるの?」

 心理学の用語に「原因帰属」という言葉がある。これは成功したり、失敗したりしたとき、その原因をどこに帰属させるかという意味である。

 たった2度か3度の失敗しただけで、すぐイヤになって目標を放棄する人というのは、失敗の原因を自分の能力に帰属させているのである。言い換えれば、「自分には目標を達成するだけの能力がないんだ」と勝手に思いこんでしまうのだ。だからやっても成功するはずがないと思ってしまい、やる気がなくなってしまうのだ。

 一方、7度も8度も失敗しても、へこたれることなく、何度でも挑戦できる人というのは、失敗の原因を自分の努力不足に帰属させているのである。「自分には目標を達成する潜在能力はある。今回、目標達成に至らなかったのは、ただそこまで準備が不十分だったからだ。十分な準備をして臨めば、きっと私にもできるはずだ」と解釈しているのだ。だから、もう一度、十分な準備をしてから挑戦しようと思うのだ。

 もちろん、本人がいくら努力したところで、能力的に達成不可能な目標というものも存在するだろう。歌手になるとか、プロ野球の選手になるとか、漫才師になるとか、そういう目標には「生まれつきの才能」が必要なのかもしれない。わかりやすい例でいれば、パイロットになろうと思えば、視力が良くなければ本人がいくら努力したところでなれはしない。これは「準備不足だからなれない」のではなく、「合わないからなれない」のである。

 だが、私が見る限り、日本に存在する資格試験の95%以上は、本人がそれなりの努力をすれば誰もが通るような資格ではないかと思っている。つまり、合格するか・しないかは、合う・合わないの問題ではなく、努力したか・しなかったかだけの話にすぎないのだ。それなりの努力さえすれば、合おうが合うまいが、合格できる資格が圧倒的大多数を占めているのだ。

 なのに、多くの人は、たった数回失敗しただけで、「この試験は私には合わない。私なんかが頑張っても合格できない」などと勝手に結論づけて諦めるのだ。しかし、ハッキリ言っておくが、このような「原因帰属」のしかたをしていると、人生、何もかもが悪循環に陥りやすい。

 例えば、スキーをやったとしよう。うまく滑ることができなかった。2度も3度も挑戦したがうまくいかなかった。そのようなとき、本当は単に練習が不足しているからうまく滑られないのかもしれないのに、彼らは「私にはスキーは合わない。私にはスキーの才能がない」と結論づけてしまうのだ。

 あるいは、本を書こうと思ったとしよう。ところが2社も3社売り込んでも相手にされなかった。そのようなとき、本当は、単に書く練習が不足していただけなのかもしれないのに、彼らは「私には文才がない、書くだけ時間の無駄だ」と決めつけてしまい、書くのを止める。

 このように間違った「原因帰属」をしていると、なんでもかんでも2、3度挑戦しただけで、すぐに諦めてしまう忍耐力のない人間になってしまうのだ。いや、それだけでない。忍耐力のない人間になれば、自分の周りに、何度失敗しても挫けずに夢に挑戦しつづけている人がいても、「無理無理、お前がいくら頑張ったところで成功しやしないよ」みたいなネガティブなことを言うようになるのだ。なぜなら、彼ら自身が「2,3度挑戦してダメなら才能がないということだ」という信念体系を持っており、その信念体系をすべての人に適用しようとするからだ。当然、自分の夢を否定された人は、彼らから自然と離れていくようになる。気が付いてみたら、彼らの周りには、「2、3度挑戦してダメなら才能がないということだ」という信念体系をもった忍耐力のない人ばかりが集まるようになる。

 これこそが間違った信念体系を獲得した人が陥る悪循環なのである。 

 ちょっとした失敗ですぐにイヤになって目標を放棄する人は、今一度、どのような「原因帰属」のしかたをしているのか、よく考えてみたらどうだろうか。本当は「努力したか・しなかったか」の話にすぎないのに、「(自分に)合うか・合わないか」という話にすり替えて間違った信念体系を形成し、本当は頑張りさえすれば「できること」を勝手に「私にはできない」と思いこんで放棄するほどもったいないものはないからだ。  

 

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2008年10月11日 (土)

学のある人と学のない人の差

  学問を続けていて、よく思うことは、学のある人と学のない人の決定的な差というのは、学のある人であればあるほど推論の仕方が優れていて、学のない人であればあるほど推論の仕方が稚拙であるということだ。もちろん個人差はあるだろうが、これはある程度一般的な傾向として言えるのではないかという印象を持っている。

 推論には、演繹的推論、帰納的推論、アブダクションと3つの種類の推論のしかたがある。それらがどんな推論なのかという説明はここでは省くが、学のない人であればあるほど、これらの推論の仕方が実におそまつであり、稚拙なのだ。

 簡単に言えば、学のない人であればあるほど、因果関係のない複数の出来事の間に、勝手に因果関係を見出して、それを十分に吟味することなく、正しいと思い込んでしまうのだ。あるいは、ほんのわずかな例を観察しただけで、本当はそうでない可能性もあるのに、それを十分に吟味しないうちに、正しいと思い込んでしまうのだ。

 もちろん、学のある人も推論はする。その推論が正しいか正しくないかに関しては、学のない人とは大差ない。しかし、学のある人であればあるほど、自分の推論が正しいか正しくないかを十分に吟味しようとするのだ。

 前にも言ったが、もう一度「学のある人」というのはどういう人かを思い出してほしい。それは、一流大学を出たとか、難関資格を取ったという人ではなかったはずだ。繰り返していうが、「学のある人」とは、「自分が無知であることを自覚しており、常に真理を追究する態度を持った人」のことであり、「知を愛する人」のことなのだ。

 だからこそ、学のある人であればあるほど謙虚な態度で、自分が知っていると思っていることが間違っている可能性があることを素直に認めるのだ。逆に、学のない人であればあるほど、間違った推論から、いろいろと間違った結論を導き出しており、偏見にみちているのだ。

 学がない人であればあるほど、信念体系が間違いだらけで成り立っている。それだけならまだしも、その信念体系を吟味しようとすらしない。だからいつまで経っても間違った信念体系が修正できないままなのだ。そこに大きな不幸の原因が潜んでいるのだ。

 一方、学のある人は、さまざまな信念を抱いているが、同時に自分が無知であることを自覚しているため、仮に自分の信念が誤りだと分かったら、すぐにでも修正するだけの心の広さがあるのだ。だから、一年一年、大きく成長するし、成長すればするほどますます謙虚にもなり、ますます知を愛するようになるのだ。

 不思議なもので、私はもうすぐ4つ目の大学を卒業しようとしているのに、自分が無知であるという自覚は4つ目の大学を卒業しようとしている今が一番強い。そしてだからこそ、ますます学問をやり、真理を知りたいと思っているのである。

 逆に、学のない人であればあるほど、「なんで学問なんてやる必要があるの? そんなことやっても何の役にも立たないでしょう。私は、世の中のことなんてたいていことは知っているよ。学問なんて、やるだけ無駄だよ」みたいなことを言うのである。こういう態度で生きているわけであるから、彼らの信念体系が修正される見込みは実に低いのである。

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2008年10月10日 (金)

一生遊んで食べていける不労所得を得るには

 私には、正直にいって、一生遊んで食べていける不労所得がある。だから、もはや、お金を稼ぐために働く必要がまったくない。これからは、自分の好きな研究や学問に打ち込み、それを生かせる道で社会に貢献できることをしていきたい。

 そんな私に、ある人はこう尋ねるだろう。

「どうやったら、そんな不労所得が手に入るのですか?」

 不労所得の手の入れ方は様々ある。例えば、本を書いて印税を得る、特許出願して特許料を得る、アパート経営で家賃を得る、株でキャピタルゲインを得る、投資信託で分配金を得る、アフィリエイト収入を得る…。

 もちろん、こうしたお金を稼ぐテクニックも必要だ。しっかり勉強するとよい。

 しかし、お金、お金、お金…とお金儲けのことばかりに走るのではなく、それ以上に大切なことを忘れてないでほしいのだ。

 それは、より善い人間になる、ということだ。

 お金に関連していえば、勤勉な人間になる、虚栄心を捨てる、お金を賢明に使える人間になる、の3つが重要だ。というのも、せっかくお金を稼ぐシステムを作っても、そのお金を垂れ流していては、一生遊んで食べていける不労所得などできはしないからだ。

 ベンジャミン・フランクリンの言葉を捧げよう。

「今日わたしたちは、たいへんな重税を課せられております。しかし、それにしても、わたしたちが収めなければならない税金が、ただ政府が課しているものだけというのでしたら、比較的容易に支払うことができもしましょう。ところが、わたしたちは、ほかにもいろいろな税金を収めなければならず、また、人によっては、政府が課した税金とは比べものにならぬほど重い税金を背負っておるのです。つまり、怠惰であるがために二倍もの、虚栄心を持つために三倍もの、愚かであるために四倍もの税金を背負っているのです」(『フランクリン自伝』)

 どうやったらお金が稼げるという点に関しては、個々のケースによるので、私はどれが一番いいかなどと言うつもりはない。文章を書くのがおっくうな人間に、「売れる本を書けば印税がどんどん入ってくるよ」というつもりはないし、当分寝かしておく余裕資金のない人間に「投資信託は毎月分配金を生み出してくれるよ」ともいわない。それは自分にはどれが一番合っているかを自分で探してみるべきだ。

 だが、すべての人に共通して言えることは、お金持ちになりたければ、勤勉な人間になる、虚栄心を捨てる、お金を賢明に使える人間になる、という普遍の原理を身につけることのほうがもっと重要だということである。お金を儲けるテクニックだけを学んで、例えば、株で大もうけしたところで、その儲けたお金を賢明に使えない人間なら、お金持ちにはなれはしないのだ。 

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2008年10月 9日 (木)

学問をしないで善い人になれるのか

  私は「善い人間になるには学問は必要だ」と言った。しかし、私がこう言えば、次のように言って反論する人がいるのだ。

「そうかなぁ。そんなことはないと思うけどなぁ。世の中には、学はなくても‘いい人’はいっぱいいるよ。それに、一流大学を出てもおかしい人だって沢山いる。‘いい人’になるには学問はほとんど役に立たないよ」

 誤解のないように断っておくが、私が「善い人間になるには学問が必要だ」というところの「学問」は、学歴とは直接関係はない。したがって、論理的には、一流大学を出ても学のない人もいれば、中卒でも学のある人もいることになる。

  私がいうところの「学問」とは、「自分が無知であることを自覚し、真理を見極めようと自ら努力すること」であり、言い換えれば「知を愛する」ということだ。そして、それは、金が儲かりそうだとか、試験で高得点が取れそうだという、すぐに見返りがあるからという理由でする努力とは全く異質のものだ。

 私は、「学はなくても‘いい人’はいっぱいいるよ」と主張する人に聞いてみたいのだが、‘いい人’とはどんな人のことなのだろうか。おそらく、「性格がいい」という意味で‘いい人’といっているのだと思うが、「性格がいい」というのは、何を根拠に、何を基準としていっているのだろうか。

 たとえば、ある人は無遅刻無欠席で勤勉に働いている。その姿と見ていると、勤勉で‘いい人’に見えるかもしれない。また、ある人は毎週子供たちを公園につれていき、キャッチボールをしている。その姿を見ていると、やさしく愛情深い ‘いいお父さん’に見えるかもしれない。また、ある人は、恋人の誕生日には毎年必ずプレゼントをする。その姿を見ていると、いかに恋人のことを深く愛している‘いい人’に見えるかもしれない。

 ほかにもいろいろ‘いい人’だと思ったという根拠はあるだろう。しかし、それだけのことで本当に‘いい人’だといっていいのだろうか。

  私が、こういう疑問を投げかけるのも、「‘いい人’だと思っていたのに、よくつきあってみると‘とんでもない人’だった」という人が後を絶えないからである。

  私の結論を言おう。善い人になるには、学問は絶対に必要である。(ただし、学問だけやればいいというのではなく、学問以外にも必要なものもある)。

  勤勉だとか、子供の面倒見がいいとか、毎年誕生日にプレゼントを欠かさないとか、そんなのは性格が‘いい’といううちには入らない。カントの言葉を借りれば、それらはすべて「傾向」にしたがって行動したのみに過ぎず、道徳的価値内容はゼロに等しいのだ。そんな人間を‘いい人’だと思っていても、あなたと利害関係が衝突したとたん、‘ひどい人’に豹変してしまいかねないのだ。

 では、どんなことをすれば道徳的価値内容があることになるのか。

 カントは次のように述べている。

「自分自身を改善すること、自己自身を教化すること、そして自ら(道徳的に)悪である場合には自己自身で道徳性を身に付けようとすること」(『カント全集17』)

 そしてそのためには学問がどうしても必要なのだ。

 性格が‘いい’といっても、すぐに見返りのあるようなことばかりに奔走している人は道徳的価値内容のあることを為しているとは言えず、「善い人」たりえないのだ。「善い人」になるには、道徳的価値内容のあることをしなければならないわけだが、そのためには学問がどうしても必要なのだ。

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2008年10月 8日 (水)

ロンドン大学入学資格

 私は、来春、某大学院を受験するのであるが、一発で合格するかどうか分からないため、滑り止めとしてロンドン大学(通信課程)を考えているのである。

 そうすれば、大学院入試に不合格になったとしても、ロンドン大学で哲学の勉強をしながら「浪人」というチャレンジングな生活ができるようになる。

 しかし、ロンドン大学に入学するには、iBT版TOEFL(あるいは認定されたその他の英語試験)を受けなければならない。私は、英語の資格なら沢山持っているのだが、すべては大昔に受けたものであり、今はすべて失効しているのだ。「シェフィールド大学大学院を出た」という学歴では通用しないのだ。(そういえば、先日、全世界の大学ランキング・ベスト100というのを見たが、私の母校の一つであるシェフィールド大学は全世界70位で入っていた)。

 正直、私の英語の実力(特にTOEICとかTOEFLといった、反射神経の早さを求められるような試験に対する実力)はそうとうさび付いているのではないかと思う。しかも、iBT版TOEFLはスピーキングまであるというではないか。留学から帰国して以来、ほとんど英語を話す機会がなかったわけであるから、スピーキング力など、どれほど落ちているか不安でもある。

 翻訳とか読解だけであれば、それほど苦労はしないだろうが、今から、iBT版TOEFLで何点取れるかはまったく自信がないのである。私も英語を長年勉強してきたという自負があるから、そうそう悪い点を取りたくない。別に悪い点を取ったからといって、誰から非難されるということもないのだが、やはり自分自身、悪い点数は見たくはないという「恐れ」もあるというのが正直なところだ。

 しかし、では、受けないかといえば、受けざるを得ないのである。ロンドン大学に入学したいのなら、避けては通れない道なのだ。

 そこで、私はまずCASECから受けてみようと思う。以前、3度受けてみたところ最高871点という点数が出た。これはTOEICに換算すれば940点という点数になるらしいが、CASECの最高のランクは880点以上であるから、まだ挑戦する価値はある。まずはこれで腕ならしをしてから、iBT版TOEFLを狙おうと思う。

 ちなみに、CASECというのは自宅でインターネット接続で受けられる試験であり、TOEICでは何点に相当するという相関関係まで分かるようになっている。受験料がたしか3500円程度なので、気に入らない点数が出たら、何度も受け直せるのだ。これで850~880点くらいが出れば、それほど英語の反射神経が落ちていないことが分かるというものだ。

 近いうちにCASECを受けてみたいと思う。

 

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2008年10月 7日 (火)

学問は本当にお金儲けにつながらないのか?

 学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、その価値を過小評価したがる。

 彼らは、口を揃えてこんなことを言う。

「大学なんて行くだけ馬鹿らしいよ。大学生なんて馬鹿ばっかりじゃん。遊んでばかりいて。そんなんだったら、専門学校でしっかり技能を身につけて就職したほうが何倍もいいよ」

「俺は大学を出たけど、大学で勉強したことは社会に出てからは何も役に立たなかった」

「資格試験なんて、いくら努力して取っても意味がないと感じた。だってお金儲けにつながらないもん。俺の人生には何も関係がないと感じた。馬鹿らしいのでもう挑戦しない」

 皆、口を揃えて、これでもか、これでもか、と学問も勉強も下らないと言うのだ。

 しかし、果たして学問や勉強は本当にお金儲けにつながっていないのだろうか。将来的にも、一生涯、何の役にも立たないのだろうか。やるだけ馬鹿らしいのか。そんなに下らないことばかりなのか。

 逆に言えば、直接お金儲けにつながることだけやっていれば、効率よくお金儲けができるようになるのだろうか?

 私ははなはだ疑わしく思うのである。

 私の経験をお話ししよう。私は自分を磨くために様々な資格にチャレンジしてきた。他人から見れば、なんでそんな資格を取るの? と不思議がられるような資格にもチャレンジした。例えば、「アロマテラピー検定」とか「タイピングエキスパート」とか「数学検定」とか「フランス語検定」とか「ドイツ語検定」とか。こういう資格が仕事で役だったと思うことは一度としてない。いや、むしろ、直接お金儲けにはつながったと実感する資格などほとんどといってないのだ。

 しかし、これらの資格に挑戦しつづけたおかげで、私には克己心、忍耐力、IT力、集中力、自負心、文章力、読解力など様々な実力がついたと思っている。もちろん、それぞれの資格で要求される知識も身に付いた。

 勉強が嫌いな人から見れば、「けっ、馬鹿らしい。そんなもの、別に身に付こうが付くまいが関係ないじゃん。お金儲けにつながらかったら、何の意味もないじゃん。『アロマテラピー検定』なんて、なんで受けるの? 馬鹿じゃないの?」と思うかもしれない。

 しかし、私はこうして沢山の資格を取得した副産物として、資格取得に関する本や勉強法に関する本の執筆依頼が来たし、雑誌のインタビューも受けた。それ以外にも実行力のつけかたや、自分を磨く方法に関する本の執筆依頼も来た。印税にすれば数百万円は稼がせて貰ったわけである。

 もう一度いう。少なくとも数百万円は、資格に沢山チャレンジしてきた副産物として入ってきたのだ。一見、お金儲けにつながっていないと思われる資格取得も、私の場合は、大いにお金儲けにつながったのだ。

 学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、すぐに見返りを求めてしまうようだ。そして、すぐに見返りがなければ、「やっても無駄だった、何の意味もなかった」と決めつけて、学問や勉強を放棄して、すぐにお金儲けにつながるものや、すぐに快楽が得られるものばかりを求めるのだ。

 しかし、そのように、すぐにお金儲けにつながるもの、すぐに快楽が得られるものばかりを求めて行動していても、人間として大きく成長はしないのではないだろうか。

 例えば、お金儲けに奔走して、お金儲けのテクニックが書かれた本を50冊も100冊も読み、株だ、投資信託だ、アパート経営だ、節約だ、アフィリエイトだ、副業だ、ローンの繰り上げ返済だ、節税だ…と金儲けに奔走した人生を送ったところで、何が得られるかといえば、せいぜい金だろう? 

 その金で何をする? だって学問やったり勉強やったりするのが馬鹿らしいと思っているのなら、金が儲かっても、せいぜい旅行したり、温泉に行ったりするくらいのものだろう? それともさらに金を求めるのか?

 しかし、学問や勉強をしっかりやっておけば、それは意外なところで意外な道が開ける可能性が出てくるのだ。 

 例えば、デール・カーネギーの『道は開ける』という本が好きな人がいるとしよう。直接金儲けにならないが、自分を高めるというただそれだけの為に原書でそれを読むという努力をしてみたとする。英和辞典を引き引き、すべてを読破する。こんな努力をしても、すぐにはお金儲けにつながることはないので、勉強が嫌いな人から見れば、「なんでそんなこと勉強しているの? だって英語なんて勉強しても仕事で使わないんだったら、勉強しても意味ないじゃん」と批判するだろう。

 しかし、そうやって『道は開ける』の原書をすべて暗記するくらいまで読み込んでいれば、その英語の知識が将来、意外な形で役に立つかもしれないだろう? 例えば、デール・カーネギーの著作権はたしか2015年頃に切れる。つまり、著作権が切れさえすれば、自由に使っていいわけだから、デール・カーネギーの本を元に自分で英語のテキストを作って、英語学習塾を開いてもいいわけだ。もしそうなれば、一風変わった英語教室ができて評判になる。英語力だけでなく、人間力のつく英語教室だと評判になる。

 あるいは、英語の学習参考書をデール・カーネギーの言葉を元にして作ってもいいわけだ。いや、さらに一歩進んで、デール・カーネギーの新訳をさせてもらえないかと出版社に売り込んでもいいのだ。

 これはあくまで一例に過ぎないし、必ずしもそのとおりになると言うわけではない。ただ、私が言いたかったのは、このように勉強をしっかりしておけば、いつ、どこで、どういう形かは分からないが、道が開けることがあるということだ。

 なのに、学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、そういう、地道な勉強を嫌って、すぐに見返りの得られるものばかりを求めるのである。

 何度でも言う。

 学問や勉強は、しっかり打ち込んでいれば、いつ、どこで、どのような形かは分からなくても、いずれ道が開ける可能性が高まるのだ。しかし、すぐに見返りが得られるようなことしか関心を示さず、学問や勉強を小馬鹿にしてやって来なかった人は、基礎ができないので、道が開ける可能性も低いままなのだ。後になってから「ああ、俺ももっと勉強しておけば良かったなぁ」と後悔しても遅いのだ。 

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2008年10月 6日 (月)

本当に尊敬できる人間とは?

 あなたはどんな人間になりたいのか?

 金持ちになりたいのか。名誉を手に入れたいのか。役員というポストがほしいのか。美女にモテモテになりたいのか。豪邸を手に入れたいのか。一生遊んで暮らせるだけのマネーツリーを作りたいのか。子供を一流大学に入学させて「偉いお父さん」だと近所の人たちから評判を得たいのか。

 でも、仮にそんなことをすべて実現したとしても、ただの「良い人」で終わりだ。それだけでは、けっして「尊敬に値する人物」とはみなされない。実際、上のような条件をすべて満たしたというだけで、偉人伝に登場した人など皆無だろう? 

 しかも、そんなことを実現したとして、たったそれだけで楽しいのか。あなたの人生、それだけのことで終わっていいのか? あなたの夢というのは、それだけのことか?

 カントは、こういう人のことを「傾向」によって生きている人であり、何ら尊敬に値しないと言ったのである。

 「傾向」によって生きているというのは、言い換えれば、ただ自分がやりたいことをやっているというだけだということだ。

 「傾向」によって生きている人の例を挙げよう。

 女がほしい。これは健全な男性なら誰もが思うことだ。そこで女を求めた。女を得た。だけど、これがどれだけ人間として立派なことか。「傾向」によって生きているだけの話ではないのか。

 お金がほしい。これは裕福ではない人なら誰もが思うことだ。裕福な人でさえも、さらにお金をほしいと思っている人がほとんどだ。そこでお金を求めた。お金が得られた。これもただ自分がしたいことをしただけであって、「尊敬」には値しない。自分がお金がほしいから、アクセクと立ち回って小金持ちになったというだけの話だろう?

 難関資格に合格して昇進したい。これは野心のある人間なら誰もが思うことだ。そこで難関資格に挑戦した。合格した。しかし、それはただ自分がやりたいと思ったことをやっただけの話であり、だれでもやろうと思えばできることだろう? そんなことをやっても「尊敬」には値しないのだ。せいぜい、「ああ、よく頑張ったね」で終わりだ。

 偉人伝に出てくるような人たちは、こういった「ただの良い人」とは、違う何かを持っていた。

 では、違う何かとは何か?

 カントは『道徳形而上学原論』の中で、尊敬に値するには道徳的価値内容をもった生き方をしなければならないと説いている。難しい言葉になるが、定言的命法を守った生き方してはじめて尊敬に値するのだ、ということである。たくさんお金が稼いだかどうかとか、結婚しているか否かとか、どんな地位にまで登り詰めたかということは、一切関係ないというのだ。

 ただ自分の好きなことをして生きるのであれば、誰でもできるのだ。ネコでも自分の好きなことをして生きている。カエルにしても自分の好きなことをして生きているだろう。言い換えれば、自分の好きなことをトコトン求めて、それを得たとしても、「傾向」によって生きているという点では、人間も動物もまったく変わりがないのだ。

 理性のある人間ならば、たんに自分の好きなことだけをして生きるというのではなく、理性のある人間として、本当は自分はしたいとは思わないことであっても、「すべき」だからするという生き方をしなければならないのだ。

 言っていることが分かるだろうか? 

 例えば、お金がほしいという欲望のまま突進した人がいるとしよう。株でもいい、アパート経営でもいい、なんでもいい。とにかくガムシャラに金儲けに奔走したのだ。そしてある程度の財産を築いたとする。しかし、だからといって、それが尊敬に値するだろうか? 

 私は、「あっ、それは良かったですね」ていどの感想しか持たないだろう。けっして尊敬というところまでは行かない。

 しかし、例えば、その人が株で儲けたお金の半分を困っている人に寄付していたと知れば、私はその部分においては尊敬する。ただし、それも匿名で寄付していたとすれば、だが。(というのも、名前を出して寄付するのなら、そんなに難しいことではないからだ。お金と引き替えに名誉が手に入るからである)。

 もう一度いう。本当に尊敬に値するような人物になりたければ、道徳的価値内容のある人生を送ることだ。

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2008年10月 5日 (日)

お金儲けを第一に考えるな

 何度もいうようだが、人間は、この世に魂を磨きに来ているのであって、より善い人間になることが人生の究極の目標なのである。それが第一の目標になるべきであって、お金儲けや、難関資格の取得、役員の地位を得ること、結婚することなどといった外的な目標が人生の第一目標になってはならないのである

 ところが、私が見る限り、100%近くの人は、より善い人間になろうと努力するのではなく、外的なものばかりを得ようとする。それは、金銭であったり、社内での地位であったり、資格取得であったり、結婚という地位であったり、性的快感であったりする。それらが自分を幸せにしてくれると思いこんでいるのだ。

 しかし、それは果たして本当なのだろうか。

 金銭にしろ、名誉にしろ、地位にせよ、資格合格にせよ、こういったこの世でしか役に立たないもののことをアリストテレスは「外的な善」と呼び、本当に大切な「善そのもの(節制・自制・勇気・正直・博愛など)」とは別物だと考えたのである。そして、アクセクアクセクと「外的な善」ばかりを追い求めている人をプラトンは「囚人」だと言ったのだ。

 「囚人」の例をあげよう。 

 ある青年は、「女ができれば幸せになれる」と思い、毎日毎日考えていることは女のことばかりである。いきおい彼の周りにも、同種の人間が集まってくる。彼らが話す内容のほとんどは「いかにすれば女ができるか」ということであり、どうすれば自分が磨かれるかということではない。彼らは、女を得ようとしてあの手この手を使うが、彼らには「外的な善」しか目に入っていないのである。

 ある既婚男性は、「社長になれば幸せになれる」と思い、社長になるためのプランを考え出す。昇進するためにゴルフ接待し、残業し、上司の引っ越しの手伝いを買って出る。なにしろ、「社長になること」が人生の第一目標なのだ。社長になれるためなら、なんでもするのだ。読書をしたり、語学の勉強をしたり、身体を鍛えたりということは「社長になるため」に何の役にも立たないからやっても意味がないと考えるが、上司の引っ越しの手伝いは昇進に結びつくから意味があるし、上司に勧められた難関資格に合格するのも昇進に役立つと考える。しかし、彼のやっていることは「社長になる」という「外的な善」のためでしかない。けっして会社をより良くしようとか、より社会に貢献できる人間になりたいという「善そのもの」のためではない。だから、彼にとっては昇進に直接結びつかないことは努力のしがいがないのだ。

 また別の既婚男性は、「お金持ちになれば幸せになれる」と思い、毎日毎日、どうやったらお金が稼げるかばかりを考えている。ある人から「株がいい」と聞いたら、株に手を出してみる。ある本に財テクが紹介されていたら、すぐに試してみる。今や彼の関心事は、「どうやったら金が儲かるか」だけである。「お金持ちになれば幸せになれる」と思っているわけだから、お金儲けに直接つながらないことはやっても馬鹿らしいと考える。つまり、彼の目からすれば、お金儲けに直接つながらない学問や資格取得は「やるだけ損」なのである。だから、彼は、ひたむきに学問に取り組んでいる人がいると不思議で不思議でしかたがない。「なんでそんな(金儲けにつながらないこと)に努力しているの? いったいなぜ?」と不思議がる。

 またある男性は、「難関資格に合格すれば幸せになれる」と思い、難関資格に挑戦する。専門学校で、どうやったら合格するかというテクニックを学び、そのテクニックを駆使して試験に臨む。しかし、彼がやっていることは、「高度な専門知識を身につけて、より分別のある人間になろう」という「善そのもの」のためではない。あくまで試験に合格することが目的であり、「分別のある人間」になろうがなるまいが関係がないのだ。「合格すれば意味があり、不合格になれば何の意味もない」と考えているのだ。

 しかし、プラトンは、こうした人々をみな「囚人」だと言ったのだ。本当に自分を幸せにしてくれるのは「善そのもの」であり、「善そのもの」のために努力してはじめて幸せが手に入るというのに、「囚人」は「善そのもの」に目を向けようとはせず、「外的な善」ばかり求めて日々アクセクアクセクしているのだ。

 あなたは「善そのもの」を求めて生きているだろうか? つまり、善い人間になろうとして努力しているだろうか。より分別のある人間になろうとしているだろうか。より思慮深い人間になろうとしているだろうか。より愛情深い人間になろうとしているだろうか。より正しい行為ができる人間になろうとしているだろうか。このような「善そのもの」のために努力しているだろうか。

 「善そのもの」を求めようとすれば、自然と知を愛するようになるし、良い習慣を身につけようとし始めるのだ。いわゆる「学がある」というのはこういう人のことを言うのであって、学歴は一切関係ない。

 誤解してもらいたくないのだが、私は「外的な善」を求めることが悪いとは一言も言っていない。アリストテレスもある程度の「外的な善」は必要だと述べている。しかし、気をつけてもらいたいのは、ある程度の「外的な善」さえあれば、もうそれ以上「外的な善」を求めることに拘泥していないで、それよりも遙かに重要な「善そのもの」に目を向けよ、ということである。言い換えれば、「外的な善」を人生の第一の目標にしてはならないということである。

 お金儲けが人生の第一の目標になっていると、お金儲けに直接つながらない努力はばからしくなる。書道してもお金儲けにつながらないから馬鹿らしい。絵を描いたところでお金儲けにつながらないから馬鹿らしい。文学作品を読んでもお金儲けにつながらないから馬鹿らしい。資格も、直接お金儲けにつながらない資格だと受けたところで馬鹿らしい。スポーツしても馬鹿らしい。芸術作品を鑑賞するのも馬鹿らしい。馬鹿らしい、馬鹿らしい、馬鹿らしい…。お金儲けに直接つながらないことに努力するなんて、ああ、馬鹿らしい。そういう人間になってしまう。

 こうやって彼らは、自分自身を磨く機会をことごとく自ら失っていくのである。 

 例えば、大学の通信教育にしても、最後までやり抜く人はせいぜい1割程度だ。残りの9割は途中で、「こんなことやっても、直接お金儲けにつながらないから馬鹿らしい」と言い訳をして止めていく。本当は努力するのが嫌になっただけなのだから、正直にそれを認めればいいのに、認めたくないからか、「こんなこといくら勉強してもお金儲けにつながらない。なんでこんなこと覚えなければならないの?」などと屁理屈をつけて辞めていくのである。しかし、そういう人たちは、中退することで、自ら自分を磨く機会を放棄しているのだ。

 一方、最後までやり抜く人は、学問のすばらしさに目覚めている人が多い。というより、学問のすばらしさに目覚めた人くらいでないと、最後までやり抜けない。こういう人たちは、異口同音にやり抜いて良かったという。では、何が良かったのか。学問をやり抜くことで、洞察力、思考力、忍耐力、文章執筆能力、語学力、計画性、実行力…などが高まったと考えるのだ。

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2008年10月 4日 (土)

インド株式投資信託

 私は「PCAインド株式オープン」という投資信託に10万円ほど投資している。

 10万円の投資に対し、年に1度分配があるのだが、1年目は8224円、2年目は11498円、そして3年目である今年は、8313円の分配金があった。

 単純に言えば、10万円を投資して、3年間で28035円の分配があったわけであるから、28%強の増加であり、年平均利回りでも10%弱ということになる。悪くはない数字である。

 私は、全世界的に見ても、今後インドが一番伸びるのではないかと思っている

 根拠はいろいろとあるのだが、一番大きいのは、インドがIT大国であることだ。インドはとにかく数学教育が優れている。しかも、公用語の一つが英語なのだが、プログラミング言語は基本的に英語なので、インド人にとっては好都合なのだ。これが例えば日本人だと、英語のできない人間がプログラミングに挑戦しようとしても、英語の段階で嫌気がさしてしまうだろう。インドだと英語が公用語なので、その障壁がないのだ。

 10年後、20年後、30年後…と将来を見据えていえば、インドはぐんぐん成長する国ではないかと見ている。

 余裕資金のある人で、かつ、10年、20年…と超長期で投資をしてみたいと思うのであれば、インドも視野に入れてみたらどうだろうか。

 インドに関する知識は、インターネットでも取得できると思うが、私は『インドを知らんで明日の日本を語ったらあかんよ』『手にとるようにわかるインド―経済・産業から社会・文化まで超大国のすべてがここに』などを買って読んで勉強した。これらの本を読めば、なぜインドがこれから成長するのかが理解できるだろう。これを読めば、きっとワクワクし始めるであろう。

 ただ、投資するときは、単に友人や知人、証券会社の担当者に勧められたから、という理由ではなく、自分なりのポリシーを持って投資するといいだろう。

「なるほど、これならば投資してもいい。基準価格が大幅に下がるリスクも承知したうえで、それでも投資してみたい。私のお金を投資することで、少しでもこの国の発展に寄与したい」

 そういうスタンスがあってこそ、はじめて投資する資格があると言えよう。

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2008年10月 3日 (金)

ブログを長続きさせるには

 私の友人にブログの開設のしかたを教えたところ、彼は、爆発的な勢いでブログを書きまくっている。

 私は1日に1回の更新を続けているが、彼は私以上に更新しているのだ。つまり、1日平均1回以上の頻度で更新している。

 私が驚いているのは、彼がもともと文章を書くこと自体あまり好きではない印象を受けていたからだ。なにしろ、彼が「本を書く」といっても、なかなかまとまった原稿を書くこともなかったし、「手紙を書く」といっても、なんだかんだ滞りがちであったからだ。

 なのに、ブログを始めたとたんに、爆発的な勢いで書いているのである。

 私が思うに、彼の書く原動力の一つは「金儲け」ではないか。

 「本の原稿を書く」といっても、すぐにはお金儲けにはつながらない。もちろん、立派な原稿を書いて出版社に売り込み、本にして出してもらえば立派にお金儲けにつながるのだが、そこまで行くのが大変だ。

 しかし、ブログであれば、書いた記事に広告を貼っておけば、それだけでアフィリエイトができる。彼が爆発的な勢いでブログを書いている原動力の一つは、これではないか?

 だが、私は、ブログを本当に長続きさせようと思ったら、ブログそのものを楽しむことを第一の目標にしたほうが長続きしやすいのではないかと思うのだ。

 なぜなら、お金儲けを第一に考えてブログを書いていると、お金にならなければ、いずれ書くのが馬鹿らしくなるからだ。

 例えば、半年、あるいは、10ヶ月でも、1年でもいい。そんなに長い間、毎日毎日書き続けたとして、お金が1円も入ってこなかったらどうなるだろうか。お金儲けを第一にブログを書いていると、「なんだ、全然、お金儲けにならないじゃないか、いったい何のために頑張っているんだ、ばからしい。やめた、やめた」というふうになりかねない。

 しかし、お金儲けは二の次にして、とにかくブログを楽しむことを第一の目的にして書いている人は、お金が儲かろうが儲かるまいが関係ないので、いつまでも続くのではないか

 私が思うに、ブログを楽しむには、適当に"息抜き"もしながら、書きたいときだけ書く、ということのほうがブログは楽しめるのではないか。結局、そのほうがブログは長続きするような気がするし、皮肉なことに、そのほうがお金も儲かるのではないか。

 私自身は、ブログを始める前に、すでに50冊以上の本を出しているし、それ以外にも自費出版でも数十冊の本を出している。それだけでなく、「日の目を見ない原稿」なら、何千本も書いているのだ。だから、文章を書くのが好きだから、書いているだけなので、お金もうけになろうがなるまいが書き続けられるのである。

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2008年10月 2日 (木)

ロンドン大学に資料を請求

 私は青山学院大学国際政治経済学部、英国国立シェフィールド大学大学院言語学研究科、金沢工業大学大学院工学研究科を経て、現在、慶應義塾大学文学部に在籍している。

 慶應義塾大学は来年の3月で卒業予定であり、来年4月からは、某大学院に進学を希望している。正直言って、まだまだ勉強したいのである。学問をやればやるほど、自分がいかに無知であるかが分かり、さらに知りたくなるのだ。

 こんなことを言えば、必ず、こう聞き返されてしまうだろう。

「学問なら大学院に行かなくても一人だってできるんじゃないか?」

 しかし、実際問題として、何の目標もないのに、ただ一人、自宅にこもって読書ばかりやっても、長続きはしないと思うのだ。人間、どうしても安き安きに流れるものだから、学位取得という目標があったほうが、キリリと気持ちも引き締まる。

 某大学院を受験する予定であるが、すんなり1回で合格できるかどうか。しかも1校しか受けないのである。

 合格するまで2回でも3回でも4回でも受け続けてもいいと思っているのだが、それまでどうやって「浪人」するか、それを考えているのである。というのも、どこかの大学に在籍せずに自宅で「浪人」していても、結局は、ダラダラやって終わり、ということになりかねないからだ。

 そこで、もしも受験に失敗したら、別の大学院の「科目等履修生」になろうと思っていたわけである。「科目等履修生」であれば、年間授業料も安いし、単位も取れる。そして、単位を積み重ねていけば、いずれ修士号も取れるのだ…と思っていたのだが、よくよく調べてみると、ごく普通の大学院では修士号は取れないらしい。防衛大学校などの特殊な大学院の場合のみ修士号に読み替えてくれるというだけの話のようだ。

 「科目等履修生」では修士号が取れないということを知り、今考え始めたのが、いっそのこと「ロンドン大学」の通信教育を始めてはどうかということだ。

 ロンドン大学の通信教育は、日本にいながらにして受講できるし、受講料も安い。ディプロマコースだと最短1年で終わるし、値段も20万程度だ。しかも、「ディプロマ」という大学の正規の学位が取れるのだ。

 私は早速、ロンドン大学に資料を請求してみた。

 まあ、私の最終目標は「より善い人間になる」ことなので、試験に合格するか否かにはそれほどこだわってはいない。最善の努力をしつづけていれば、それだけで「合格」なのだ。 

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2008年10月 1日 (水)

プラトンのいう「囚人」とは

 プラトンは、世に生きるほとんどの人は「囚人」だと言った。(『国家〈上〉 (岩波文庫)』『国家 下  岩波文庫』を参照)。

 では、「囚人」とはどのような人をいうのだろうか。私なりの解釈を述べてみたい。

 「囚人」は、何が真実かを知ろうとせず、この世の出来事がすべてだと思いこんでおり、したがって、この世だけでしか価値のない「モノ」を求めて日々アクセクしている人たちのことである。

 金銭、名誉、地位、昇進、合格、性的快楽、結婚…。

 彼らが考えていることは、こうした「モノ」を手にすることだけである。なぜなら、こうした「モノ」が自分を幸せにしてくれると勘違いしているからだ。

 なるほど、こうしたこの世の「モノ」は、この世では価値がある。しかし、逆に言えば、この世でしか価値のないものでもある。にもかかわらず、「囚人」は、こうした「モノ」がすべてだと勘違いしているため、こうした「モノ」を手にすれば幸せになれると期待し、日々こうした「モノ」の獲得にアクセクと努力するのである。

 したがって「囚人」の掲げる目標とは、「お金をたくさん稼ぐこと」「名誉を手に入れること」「世間的に認められること」「難関試験に合格すること」…といったものになるだろう。

 だから、何かを勉強するのも、「合格」するためだけに勉強するわけである。けっして「分別のある人間になろう」とか「思慮深い人になろう」といった目的で勉強するわけではない。したがって、彼らが試験を目指しても、「合格しなければ勉強したところで意味がない」としか考えられないのだ。

 一方、真実に目覚めた人は、試験合格とか、学位取得、資格手当の獲得、昇進といった「モノ」にこだわることはない。

 真実に目覚めた人は、この世の「モノ」はこの世でしか価値がないことを知っており、また、それよりも大切な、この世を超えても価値のある「本当に価値のあるモノ(善そのもの)」を知っているのだ。

 いや、それだけではない。「善そのもの」のほうが、この世の「モノ」の何倍も大切であることも知っている。したがって、彼らが努力するのは、「善そのもの」を求めてであって、この世の「モノ」を獲得するためではないのだ。

 だから、彼らが勉強するのは、分別のある人間になるため、思慮深い人間になるため、正しい知識を持った人間になるため、正しい判断ができる人間になるため…といった「善そのもの」のためであり、学位取得や単位取得、試験合格などといったことは第二義的な意味合いしかないのだ。

 難関試験を目指している人や、通信教育をしている人などは、途中で嫌になって投げ出す人が多い。しかし、それは「合格」とか「資格手当の獲得」とか、そういった「モノ」を目指して勉強しているからではないか。だから、なかなか合格しそうにないことが分かると、「こんなこと勉強して何になるんだ、実生活に何にも役に立ちはしないではないか。こんなこと勉強するくらいなら、お金儲けにつながることを勉強したいよ」といって投げ出すのである。

 しかし、「分別のある人間になろう」とか「思慮深い人間になろう」という目的のために勉強している人は、なかなか合格しそうになくても、お金儲けに直接結びつかないことが分かっても、途中で投げ出すことはないのである。なぜなら、もともと、そういう「モノ」にはそれほどこだわっていなかったからである。

 何度でもいう。金銭、名誉、資格手当、学位…。そういった「モノ」を第一の目的にはするな。そういった「モノ」を求めてアクセクして努力しても、得られるのは、そういった「モノ」だけなのだ。しかし、「善そのもの」に目を向けて努力すれば、「分別」「思慮深さ」「節制」「自制」「正義」などが身に付くのである。

  

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