学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、その価値を過小評価したがる。
彼らは、口を揃えてこんなことを言う。
「大学なんて行くだけ馬鹿らしいよ。大学生なんて馬鹿ばっかりじゃん。遊んでばかりいて。そんなんだったら、専門学校でしっかり技能を身につけて就職したほうが何倍もいいよ」
「俺は大学を出たけど、大学で勉強したことは社会に出てからは何も役に立たなかった」
「資格試験なんて、いくら努力して取っても意味がないと感じた。だってお金儲けにつながらないもん。俺の人生には何も関係がないと感じた。馬鹿らしいのでもう挑戦しない」
皆、口を揃えて、これでもか、これでもか、と学問も勉強も下らないと言うのだ。
しかし、果たして学問や勉強は本当にお金儲けにつながっていないのだろうか。将来的にも、一生涯、何の役にも立たないのだろうか。やるだけ馬鹿らしいのか。そんなに下らないことばかりなのか。
逆に言えば、直接お金儲けにつながることだけやっていれば、効率よくお金儲けができるようになるのだろうか?
私ははなはだ疑わしく思うのである。
私の経験をお話ししよう。私は自分を磨くために様々な資格にチャレンジしてきた。他人から見れば、なんでそんな資格を取るの? と不思議がられるような資格にもチャレンジした。例えば、「アロマテラピー検定」とか「タイピングエキスパート」とか「数学検定」とか「フランス語検定」とか「ドイツ語検定」とか。こういう資格が仕事で役だったと思うことは一度としてない。いや、むしろ、直接お金儲けにはつながったと実感する資格などほとんどといってないのだ。
しかし、これらの資格に挑戦しつづけたおかげで、私には克己心、忍耐力、IT力、集中力、自負心、文章力、読解力など様々な実力がついたと思っている。もちろん、それぞれの資格で要求される知識も身に付いた。
勉強が嫌いな人から見れば、「けっ、馬鹿らしい。そんなもの、別に身に付こうが付くまいが関係ないじゃん。お金儲けにつながらかったら、何の意味もないじゃん。『アロマテラピー検定』なんて、なんで受けるの? 馬鹿じゃないの?」と思うかもしれない。
しかし、私はこうして沢山の資格を取得した副産物として、資格取得に関する本や勉強法に関する本の執筆依頼が来たし、雑誌のインタビューも受けた。それ以外にも実行力のつけかたや、自分を磨く方法に関する本の執筆依頼も来た。印税にすれば数百万円は稼がせて貰ったわけである。
もう一度いう。少なくとも数百万円は、資格に沢山チャレンジしてきた副産物として入ってきたのだ。一見、お金儲けにつながっていないと思われる資格取得も、私の場合は、大いにお金儲けにつながったのだ。
学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、すぐに見返りを求めてしまうようだ。そして、すぐに見返りがなければ、「やっても無駄だった、何の意味もなかった」と決めつけて、学問や勉強を放棄して、すぐにお金儲けにつながるものや、すぐに快楽が得られるものばかりを求めるのだ。
しかし、そのように、すぐにお金儲けにつながるもの、すぐに快楽が得られるものばかりを求めて行動していても、人間として大きく成長はしないのではないだろうか。
例えば、お金儲けに奔走して、お金儲けのテクニックが書かれた本を50冊も100冊も読み、株だ、投資信託だ、アパート経営だ、節約だ、アフィリエイトだ、副業だ、ローンの繰り上げ返済だ、節税だ…と金儲けに奔走した人生を送ったところで、何が得られるかといえば、せいぜい金だろう?
その金で何をする? だって学問やったり勉強やったりするのが馬鹿らしいと思っているのなら、金が儲かっても、せいぜい旅行したり、温泉に行ったりするくらいのものだろう? それともさらに金を求めるのか?
しかし、学問や勉強をしっかりやっておけば、それは意外なところで意外な道が開ける可能性が出てくるのだ。
例えば、デール・カーネギーの『道は開ける』という本が好きな人がいるとしよう。直接金儲けにならないが、自分を高めるというただそれだけの為に原書でそれを読むという努力をしてみたとする。英和辞典を引き引き、すべてを読破する。こんな努力をしても、すぐにはお金儲けにつながることはないので、勉強が嫌いな人から見れば、「なんでそんなこと勉強しているの? だって英語なんて勉強しても仕事で使わないんだったら、勉強しても意味ないじゃん」と批判するだろう。
しかし、そうやって『道は開ける』の原書をすべて暗記するくらいまで読み込んでいれば、その英語の知識が将来、意外な形で役に立つかもしれないだろう? 例えば、デール・カーネギーの著作権はたしか2015年頃に切れる。つまり、著作権が切れさえすれば、自由に使っていいわけだから、デール・カーネギーの本を元に自分で英語のテキストを作って、英語学習塾を開いてもいいわけだ。もしそうなれば、一風変わった英語教室ができて評判になる。英語力だけでなく、人間力のつく英語教室だと評判になる。
あるいは、英語の学習参考書をデール・カーネギーの言葉を元にして作ってもいいわけだ。いや、さらに一歩進んで、デール・カーネギーの新訳をさせてもらえないかと出版社に売り込んでもいいのだ。
これはあくまで一例に過ぎないし、必ずしもそのとおりになると言うわけではない。ただ、私が言いたかったのは、このように勉強をしっかりしておけば、いつ、どこで、どういう形かは分からないが、道が開けることがあるということだ。
なのに、学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、そういう、地道な勉強を嫌って、すぐに見返りの得られるものばかりを求めるのである。
何度でも言う。
学問や勉強は、しっかり打ち込んでいれば、いつ、どこで、どのような形かは分からなくても、いずれ道が開ける可能性が高まるのだ。しかし、すぐに見返りが得られるようなことしか関心を示さず、学問や勉強を小馬鹿にしてやって来なかった人は、基礎ができないので、道が開ける可能性も低いままなのだ。後になってから「ああ、俺ももっと勉強しておけば良かったなぁ」と後悔しても遅いのだ。