« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

2009年1月31日 (土)

ビジネス数学検定再受験

 「ビジネス数学検定」を再受験した。

 大学の卒業試験や大学院の二次試験を控えているのだが、ちょっと気分転換に数学の勉強をし、さきほど自宅で「ビジネス数学検定」を再受験してみたのだ。

 自宅でインターネット上で受けるため、試験結果は、試験直後に判明する。

 前回は、腕試しに受けてみたところ、1000点満点で570点しか取れず、非常に悔しい思いをした。特に時間配分に大きな問題があった。最初のころ、のんびりやりすぎたため、時間が足りなかったのだ。

 今回は、最初から飛ばしてやった。しかし、中盤から段々と難易度が高くなり、時間が足りなくなった。結局、640点しか取れなかった。しかし、一応、前回を上回ったことになるわけだから、気分は良かった。

 640点といえば、点数自体は低いように思われるかもしれないが、数学の教師とか、日頃から数学を使っている人でないかぎり、800点以上はかなり難しいと思う。何がそんなに難しいかといえば、時間が足りないのだ。

 私の点数でも、総合評価として次のように書かれてあった。

ビジネス数学を活用して、上級マネジメントで想定される多くの場面で、最適な対応策を練ることが期待できます

 けっこういいことが書かれてあるではないか。

 そうなのだ。640点といえ、こういう評価が得られるわけであり、だから、いかに高得点をたたき出すのが難しいかが分かるだろう。

 次回は、是が非でも700点を狙いたい。700点以上でAランクとなるわけだから、最終的には是非ともAランクまでまで登り詰めたい。

 あなたも、ぜひ、「ビジネス数学検定」を受けてみないか?

 興味がある人は、とりあえず、参考書を見てみることをお勧めしたい。『ビジネス数学検定―新しいビジネスのかたち 』『カナりマナべるビジネス数学検定―公式テキスト 』である。また、少し高度になるが、高得点を目指す人などは『ビジネスで使いこなす 入門 定量分析 意思決定力を高めるスキル 』もお勧めである。

 

| | トラックバック (0)

2009年1月30日 (金)

大学院一次試験を終えた今

 大学院入試を終えた今、当然、合否が気になり始めている。

 合格しているのか、不合格なのか。

 検定試験と違って、入試の場合は、合格しているか不合格になっているかで4月からの生活が全然違ってくる。だから気にならないわけはない。

 私は、常々、「この世の目標」は掲げるべきだが、けっして拘ってはならないと説いてきた。

 私たちにとって究極的に重要なことは、善い人間になることであって、それから比べれば、「この世の目標」はちっぽけなちっぽけな目標に過ぎない。いわば「仮象の目標」だ。そんな「仮象の目標」なんかに拘っていてはならないのだ。もっともっと大切な目標に目を向けるべきなのだ。

 ただ、そうは言っても、私自身、かなり頑張って来たので、不合格となるとさすがに落胆するかもしれない。しばらくは呆然となって、何もする気がしたくなるかもしれない。どれほど落胆するか、あるいは、平然としていられるかはそのときになってみなければ私自身わからないのだ。

 しかし、結果が出るまで悩んでいても、何もならないので、私は早速、次の目標へと向かうことにした。一つは大学院二次試験対策の勉強であり、二つ目は大学の卒業試験の対策の勉強であり、三つ目は前から再受験してみたいと思っていた「ビジネス数学検定」の勉強だ。

 そうなのだ。実は慶應大学の卒業試験が二月上旬にある。これに合格しないことには慶應大学卒業もないし、したがって大学院入学もないのだ。私はまたまた次なる目標へと向かって気をひきしめているところである。

| | トラックバック (0)

2009年1月29日 (木)

大学院受験記(当日その3)

 昼休憩から戻ると、会場は参考書やノートを食い入るように見ている受験生でいっぱいになっていた。

 驚いたのは、多くの受験生が、膨大な量のノートやプリント類を眺めていたことだった。ちらっと見えたところ、非常に細かい字でいろいろと書き込んでいる。その量だけを見ても、半端な勉強量ではないことが分かる。しかも、それが1人や2人ではないのだ。

(ものすごい勉強量だな。どこの大学出身なのかな。もしかして、ここの大学の出身なのかな?)

 私は恐れおののき始めたが、怖じ気づいている場合ではない。そこで自分にこう言い聞かせた。

(怖じ気づくな。私だって慶應大学で哲学や、その関連科目である倫理学や論理学でたくさんAを取ってきたじゃないか。けっして捨てたもんじゃないはずだ。自分を信じろ。とにかくベストを尽くせ)

 やがて哲学の試験が始まった。

 哲学用語は、予想通り、超がつくほど難解だった。私は哲学用語事典を買って、隅から隅まで目を通していたのだが、見たことも聞いたこともない哲学用語がいくつか出ていた。高得点はとても期待できない。しかも、覚えていたはずのものを、うっかり書き間違えてしまったものがあったことに試験直後に気づいた。

 論文試験は、自分なりの主張をこれでもか、これでもか、と書きまくった。合否は、この論文試験にかかっている。私の主張がどの程度評価されるかだ。もっと時間があれば、さらにあれも、これもと書きたかったのだが、文章を書くのは本当に時間がかかるものである。書きたいことの全部を書ききることはできなかった。

 こうして2時間30分の試験時間が「あっ」という間に過ぎた。

 試験を終えると、私は実に清々しい気持ちで試験場を後にした。

 澄み渡った青空が目に入ってくると、私は大きく深呼吸をしながら、こう自分に言い聞かせた。

私は、自分に与えられた環境の中でベストを尽くしてきた。結果がどうなるかは二の次だ。もちろん是が非でも合格したいとは思っている。だが、そんなことよりも、自分で自分に課題を設定し、それに向かって全力で取り組んできたこと自体が私にとっては「宝」なのだ。思い起こせば、慶應大学に入学して以来、1日も休まずに勉学に励んできた。よくやった。本当によくやった。ここまで本当によく頑張ってきた

 私は、そう自分に言い聞かせながら、ネコカフェへと向かった。

 今まで頑張ってきた自分への褒美としてネコを撫でるくらいのことをしても、きっと神様は許してくれるに違いないと思ったのだ。

| | トラックバック (0)

2009年1月28日 (水)

大学院受験記(当日その2)

 私は、外国語の試験開始の合図があった直後に、真っ先にドイツ語の問題を確認した。哲学の試験が極めて難解であるから、まさか外国語で点数を落とすわけにいかないのだ。ドイツ語だといえ、できれば7~8割は取りたいのだ。4~5割だと言っていてはならないのだ。

 1行目、意味が分かる。

 2行目、これも意味が分かる。

 3行目、これもなんとなく意味が分かる。

 だんだん安心感が漂ってくる。

(だけど、そろそろ意味が分からない文が出てくるのだろうな…。なにしろ、過去問を見ても、分からない単語が次々と出ていたものな)

 そう思いながらも、恐る恐る、続きに目を通す。

 4行目、意味が分かる。

 5行目、これも意味が分かる。

 こうして最後まで読み続けていくと、驚くことに、だいたい意味が分かったのである。

 過去問を見た限りでは、「どこをどう読んでもまったく意味が分からない」という文がいくつかあったので意外だった。これはつまり、短期間の間にそれだけ私の実力があがっていたということであり、最後の追い込みに成功したということである。もちろん、満点からはほど遠いが、7割程度の点数が残せたのではないかと思うのだ。「4割ていどしか取れないのではないか」と恐れていたドイツ語で7割程度の点数が残せたのだ。

 そういうわけで外国語の試験を終えたとき、こう思った。

「これで、あとは哲学で、ある程度の点数が残せれば、合格も夢ではなくなるのではないか。以前は『手が届くはずがない』と思っていた夢がまさに現実のものとなるのではいか

 過去問を見た限りにおいては、哲学は本当に難しい。2年や3年専門教育を受けたところで、まったく手が出ないような哲学用語がたくさん出ているのだ。なにしろ、ギリシャ語にラテン語にフランス語にドイツ語に英語なのだ。だから、安心するわけにはいかなかったのである。

 私は複雑な心境で試験会場を後にし、街に繰り出した。

 昼休憩は2時間もあるので、喫茶店で時間を潰すには時間が長すぎる。そこで私は、下見をしたときに、あらかじめ見つけていたインターネットカフェに行き、ベッドタイプの部屋を選び、小一時間仮眠を取ることにした。なにしろ、哲学は2時間半の試験である。少し頭を休ませたほうが賢明だ。

 ただ、仮眠をしようと思って横になっても、興奮していたせいか、けっきょく仮眠はできず、30分でインターネットカフェを出て、試験場に戻った。

 試験場に戻ると、驚く光景が目に入ってきた。

 まさに驚愕の光景であった。(つづく)

 

| | トラックバック (0)

2009年1月27日 (火)

大学院受験記(当日その1)

 1月25日は、大学院入試当日である。

 慶應大学での定期試験のとき、深夜遅くまでコーヒーを飲みながらガムシャラに勉強をしたために興奮して寝られなくなって、朝方5時頃まで眠りにつけず、結局1時間か2時間くらいしか寝ないまま受験したということが2度や3度はあった。

 こういう受験はとても疲れる。疲れるだけでなく、精神的にも参る。早く眠ろうと焦れば焦るほど、眠れなくなるからだ。朝方5時頃まで眠れず、「この調子だと一睡もできないまま受験することになるかもしれないな」と焦るときほど、精神的に参るものはないのだ。

 そこで、大学院入試の前日は夜9時に就寝していたのだった。結局、眠りについたのは12時頃だったが、朝7時には目が覚めたし、眠気も残っていなかったので、少なくとも寝不足のままの受験からは逃れることができた。

 私は少し早めに家を出て、受験会場に向かった。自転車でも行ける範囲であるが、風が冷たかったので電車で行った。電車でも1本で、しかも18分の距離なのだ。

 朝9時集合のところ、朝8時40分には受験会場に着いた。

 会場には多くの受験生が座っていた。50代とも思えるおじさんやおばさんもちらほらいた。もっとも、私も「おじさん」と呼ばれる年代といえば言えるのではあるが…。

 しかし、意外に女性が多いのに驚いた。おそらく男性がほとんどだろうと思っていたのだが、意外や意外、20代とおぼしき女性が多かったのだ。

 試験は9時30分から11時30分が外国語、昼休憩を挟んで13時30分から16時が専門科目である。

 外国語の試験では英語と第二外国語を受けることになる。私は第二外国語としてドイツ語を選択した。

 英語はそれほど恐れていなかったが、恐怖はドイツ語である。なにしろ、私のドイツ語といえば、とにかくガムシャラにつけた実力であるから、どこまで点数が取れるかわからないのだ。昨年11月にドイツ語検定2級には合格したものの、大学院入試のレベルは高いので、問題によっては4割くらいしか取れないかもしれない。哲学の問題が極めて難しいのだから、せめて外国語くらいは高得点を取らなければならないわけだが、その外国語の一つであるドイツ語が4割だの5割だのと言っていられないのだ。最低でも6割、できれば7~8割を目指したいのだ

 試験開始の合図の後、私はすぐさま、ドイツ語の問題に目を通した。

 すると、なななんと、なんと。(次回に続く)

 

| | トラックバック (0)

2009年1月26日 (月)

大学院入試受験記(前日)

 1月24日は、大学院入試の前日である。

 最終日は図書館で最後の総復習でもしようかと思っていたのだが、やたらと寒い。こんな寒い中を自転車を走らせて図書館まで行くと身体が芯まで冷えそうだ。今、無理をして風邪でも引いたら、まったく馬鹿らしいことになる。

 そう思った私は、自宅にこもって、ドイツ語単語の復習をしたり、哲学書を読んだりすることにした。自宅だとどうしてもだらけがちになってしまうのだが、まあ、前日であるから、体調を崩さないようにしておくことのほうが重要だ。

 もう、ここまで来たら、あとはすべてを神様に任せるしかない

 私は、やるべきことはやったと思っている。ドイツ語検定2級も合格したし、それなりに頑張ったと思っている。だから、あとは運を天に任せるのみである。

 私の友人に某難関試験を狙っている人がいる。彼は何度も「落ちたら何の意味もない。合格することがすべてだ」みたいなことを言っている。しかし、私にとっては、自分なりにベストを尽くしたか否かのほうが重要だし、合格することがすべてだとは思っていない。(もちろん、合格したいことには変わりはないのだが)。

 そういう意味でも、明日は、自分なりにベストを出し切ることに専念しようと思う。そのあとは、ネコカフェにでも行ってネコを撫でるしかない。

| | トラックバック (0)

2009年1月25日 (日)

ビジネス数学検定の再受験を決意

 近々、「ビジネス数学検定」を再受験してみたい。

 前回は、初回ということもあり、できが悪かったので、今回は最低でも700点を目指したい。

 この試験、800点以上取ると、名前を公表してもらえるらしいのだが、私が受けた感じからいえば、800点というのは相当なものである。最終的には狙いたいが、相当慣れが必要な気がしている。

 この試験は、動作環境さえ合えば、自宅にいながらにしてインターネットで受験できる。だから、あなたも受けてみないか?

 参考書としては、『ビジネス数学検定―新しいビジネスのかたち 』『カナりマナべるビジネス数学検定―公式テキスト 』をやっておくことが望ましい。時間のない人でも、ざっと目を通しておくとよいだろう。

 私は、哲学の勉強をしているのだが、面白いもので、哲学者の多くは、数学が得意であった。プラトンしかり、パスカルしかり、ラッセルしかり。その他、数学ができた哲学者は枚挙にいとまがないほどだ。

 社会人のあなたなら、ぜひ、「ビジネス数学検定」を受けてみることをお勧めする。

| | トラックバック (0)

2009年1月24日 (土)

ドイツ語が楽しくなったぞ!

 私がドイツ語の勉強を再開したのは、それが大学院入試の科目にあるからなのだが、今ではドイツ語の勉強自体が楽しくなって来た。

 今でも辞書がなければ読めないのだが、逆に言えば、辞書さえあれば、なんとか読めるようになったともいえるわけである。そういうわけだから、大学院に合格しようが合格しまいが、ドイツ語の勉強は続けて行くと思う。

 今年はドイツ語検定準1級を受ける予定である。今から受験が楽しみである。

 しかし、今までのドイツ語学習歴を振り返っても、ここまで来るのに、意外に早かったな、という印象である。

 辛いのは、軌道に乗るまでだ。

 というのも、軌道にさえ乗れば、あとはコツコツやっていけるからだ。

 私は以下のリンク先の参考書で軌道に乗せた。参考にしてもらえば幸いである。

 http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/gogaku.htm

| | トラックバック (0)

2009年1月23日 (金)

大学院入試前の緊張

 大学院入試直前である。

 緊張していない、といえばウソになる。やはり、せっかくここまで頑張ってきたわけであるから、合格したい。そういう思いがあるから、当然、緊張はする。

 思えば、私はすでに2つの大学院を出ているのだが、ここまで緊張したことはない。

  1つめのシェフィールド大学大学院のときは、英語のテストは事前に受けてスコアを出していたし、残りは書類選考だけなので、緊張というものはまったくなかった。合否通知は郵送で送られてくるわけだから、ただそれを首を長くして待っていただけだったのだ。

 2つめの金沢工業大学大学院のときは、筆記試験と面接があった。筆記試験というのは1時間の試験だったが、IT関連の試験だし、試験勉強として何をどう勉強すべきか分からなかったので、特に試験勉強はしなかった。そういうわけで筆記試験前に緊張というものがなかった。

 さて、今回は、筆記試験は3科目ある。

 1つは英語、1つはドイツ語、1つは哲学だ。しかも、どれも非常に難易度が高い。哲学の問題には、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、英語の哲学の専門用語が出ているのだ。ドイツ語も、おそらくドイツ語検定準1級~1級ていどの問題だろう。ちょっとやそっとの勉強では点数が取れそうにないのだ。

 さあ、泣いても笑っても、あとわずかで大学院入試だ。

  入試が終わったら、ネコカフェにでも行って楽しむ以外に方法はなさそうだ。

| | トラックバック (0)

2009年1月22日 (木)

今年はドイツ語検定準1級を受けるぞ

 今の私のドイツ語の実力は、ドイツ語検定2級と準1級の中間くらいではないかと思っている。

 ドイツ語検定の準1級と1級は、1年に1度しか受験機会がない。だから、今年受けるとすれば、秋に1度だけチャンスがあることになる。

 「こんなことなら、昨年の秋に不合格覚悟で準1級も受けてみれば良かった」とも思わないでもないが、まあ、ダブル受験をすると、かなり疲れるので、2級だけに絞って正解だったかもしれない。

 いずれにせよ、今年の秋には準1級に挑戦したい

 準1級からは2次試験(面接)があるので、そっちの勉強も必要となってくるが、がんばりたい。

 私は、今、ドイツ語を勉強していて思うのだが、やはり外国語は語彙力だ。語彙力さえあれば、なんとかなる。そういう思いがますます強くなっている。

 大学院入試までもうすぐだ。

 後悔のないよう頑張りたい。

| | トラックバック (0)

2009年1月21日 (水)

私のドイツ語の実力

 私は青山学院時代、第二外国語でドイツ語を学んだのだが、卒業後は一切勉強せずじまいだった。当時はドイツ語検定などなかったので受けたことはなかったが、卒業後、数年してからドイツ語検定ができた。

 ドイツ語検定ができた年に、腕試しに4級を受けてみたらギリギリ合格した。

 3級も一度受けてみたが、まったく歯が立たなかった。当時の私にとって3級は「絶対受かるわけのないレベル」に思えた。その後、仕事が猛烈に忙しくなったのでドイツ語どころではなくなっていた。

 その後、かれこれ10年以上も放置したままのドイツ語だったが、一昨年の10月に3級受験を思い立ち、約2ヶ月猛勉強して3級を受けたら、余裕の合格。

 そして昨年秋には2級に初挑戦した。2級だから、相当気合いを入れて勉強した。まさに猛勉強だった。そのおかげで、なんと一発合格したのだった。

 2級合格後も、大学院入試があるため、さらに気合いを入れて勉強している。今の私のドイツ語の実力は2級と準1級の中間程度ではないかと思っている。いや、もしかしたら、準1級合格にかなり近いレベルかもしれない。少なくとも読解とリスニングは準1級合格レベルに達していると自負している。

 ただ、そんな私でも、大学院入試の過去問を見る限り、せいぜい4~5割くらいしか得点できそうにないような感じがする。というのも、知らない単語がやたらと出てきているのだ。

 もう、こうなったら、とにかく、最後の1秒までガムシャラにドイツ語単語を増強するしかない。ドイツ語検定2級受験後、新たにドイツ語単語を5000語増強した(500語ではない。5000語である)のだから、相当頑張ったと自負しているのだが、悲しいかな、大半は忘れかけてしまっている。残りの日数は、すべてその「忘れかけた単語」を再度記憶するつもりだ。

 

| | トラックバック (0)

2009年1月20日 (火)

投資判断は慎重に

 投資の神様と言われている某氏は「投資で失敗する最大の理由は、投資先をあれこれ変えてしまうことだ」と言っていた。変えるたびに手数料だの何だのとお金がかかるのだが、それでも「儲けてやろう」という欲望に負けて投資先を変えてしまうわけだ。

 たとえば、ある人からが儲かると聞いて、株を始めたとしよう。しかし、思ったようにはあがらない。それで株なんかやってもダメだと思い込む。

 そんなある日、また別の人から投資信託だと毎月分配金が入るし、放っておきさえすれば基準価格も上がる傾向が強いと聞く。それで株よりはいいだろうと判断して、株を現金に変え、それを投資信託に入れる。

 その投資信託も、不況のあおりで基準価格がガクンと下がって回収に時間がかかることが判明した。そんな折に、アパート経営で儲けている人の本を読み、アパートなら間違いないだろうと踏む。

 しかし、アパート経営を始めたら始めたで、意外に儲からなかったことに気づく、ということにならないだろうか?  そのリスクは十分考えているだろうか。しかも空室リスクだけでなく、トラブルに巻き込まれるリスクだってある。

 投資先を変えたらいけない、というつもりはない。

 しかし、「儲けよう、儲けよう」と焦らずに、投資はとにかく長期的な視野で考えたほうがいいのではないか。「儲けよう」という欲望が強ければ強いほど、他人の意見が耳に入らなくなる。それで簡単に「損切り」をして、投資先を変えてしまうわけだが、私は「損切り」ほどもったいないものはないと思っているのだ。

 たとえば、投資信託などは、100年に1度の不況と言われている中にあっても、毎月分配金が出ているものが多い。ということは、つまり、分配金をもらい続けていれば、いずれは得をするわけだし、数年後には基準価格もグーンと伸びるかもしれないのだ。

  私の持っている投資信託はすべてが購入時よりも基準価格は下がっている。しかし、私は長年寝かし続けているので、分配金をたくさんもらっているので、それほど損はしたことにはなっていない。まさに長期間保有する強みなのである。

| | トラックバック (0)

2009年1月19日 (月)

哲学やって何になるの?

 私が哲学をしているというと、「そんなこと勉強して何になるの? あなたの究極の目標は何なの?」と批判めいたことをいう人がいる。

 だが、私から言わせれば、「哲学の勉強をせずに、あなたが求めているお金、権力、地位、快楽などを求めてそれが一体何になるの?」ということになる。哲学をやり始めると、本当に人生観がガラリと変わるのだ。

 なぜそう思うのか、一例をあげて説明しよう。

 ドイツにショーペンハウアーというペシミズムを標榜した哲学者がいた。彼によれば、私たちが住んでいるこの世以外にも、「物自体の世界」がある。

 この世では、私とあなたは区別される。同様に、山と川は区別されるし、鳥と猫は区別される。さまざまなものが別々に独立して存在しているのだ。

 しかし、「物自体の世界」には時間も空間も存在していないが故に、区別というもの自体が存在しない。つまり、私とあなたはこの世では別々であるが、「物自体の世界」ではつながっているのである。私はあなたで、あなたは私なのだ。

 こういう哲学的洞察が得られたら、「私があなたを傷つければ、究極的には私自身をも傷つけることになる」ということが明確に理解できるのだ。言っている意味がおわかりであろうか。

 哲学を勉強し、こうした洞察が得られると、人生観がガラリと変わる。「相手を傷つければ、自分自身を傷つけることになる」ということが理解できれば、相手を傷つけることはできなくなるし、相手をまるで自分自身に対するように接することができるようになる。こういう生き方は自分の人格の向上につながり、ひいてはこの世における成功にもつながるとは思わないか? ただ単に自分さえ良ければいいと思いこんで、他人を押しのけて、金銭、昇進、名誉、権力などを求めることがいかに浅はかなことかが分かるとは思わないか?

 しかし残念なことに、この世には、他人を押しのけてまで、自分の都合のいいように物事を進める人、平気で他人を傷つける人は少なくない。彼らも、幸せになりたいと思っているのである。金、名誉、権力…こうしたものが手に入れば幸せになれると思っている。しかし、それがとんでもない錯覚であるかが分かるだろう? 

 最たる例は「振り込め詐欺」の犯人だ。彼らは詐欺を働いてお金をだまし取り、他人を不幸のどん底に陥れているが、そんなのは幸福でもなんでもなく、自分で自分を傷つけているだけなのだ

 何度でも言うが、私たちは多くの錯覚の中で生きている。その錯覚から目覚めるにはどうしても学問が必要なのだ。あなたも哲学をやってみないか? それとも、これから先もずっと錯覚の中で生き続けたいのか?

| | トラックバック (0)

2009年1月18日 (日)

不況時代の投資信託

 100年に1度の不況だと言われている。

 不況のあおりで、制作費を切りつめなければならなくなった某テレビ局は、長年の人気番組「鳥人間コンテスト」を一時休止するらしい。不況の波はそれほどまで影響を及ぼしているわけである。

 こんな時代に投資は大丈夫なのか?

 私は、こんな時代だからこそ、投資は超長期で考えるべきだと思うのだ。

 先日、私のグローバルソブリンの投資成績について書いたが、もう一度おさらいしてみよう。私は410万円投資した。それが現在、時価が325万円である。一見、大損をしたかのように見えるかもしれないが、私は5年間の間に100万円以上の分配金を受け取っている。つまり、325万+100万円=435万円であるから、410万円を5年間で435万円にしたわけであり、25万円も得をしたことになる。これは5年間寝かしておいた効用である。

 もう一つ例を見てみよう。PCA米国高利回り社債である。私はこのファンドに102万円投資した。だが、不況のあおりで現在、時価は51万円になっている。ちょうど半額になっているのだ。ただし、今まで受け取った分配金の総額が16万円なので、51万+16万=77万円である。102万円のものが77万円になっているのだから、35万円を損したことになる。しかし私は何も心配していないのである。グローバルソブリン同様、これも寝かし続ければ、いずれは時価と受け取った分配金の総額が投資額を上回るはずだからである。

 ポイントは、いかに長く寝かせるかだ

 基準価格が下がっているからといって、あわてて解約したりしたら、損をするだけである。私のグローバルソブリンのように延々と分配金を貰いつづければ、いずれは得をすることになるのである

 長く寝かすことができないのであれば、投資など最初からしないほうがいい。そもそも、投資とは自分だけが儲かろうと思っている人はやるべきではない。自分が投資することで経済全体を潤し、その見返りとして自分も潤おうと思っている人がやるべきなのである。 

| | トラックバック (0)

2009年1月17日 (土)

今春受けてみたい資格

 私の友人に某難関資格に挑戦しつづけている人がいる。

 一方、私は、難易度はともかく、好きな試験に挑戦し続けている。

 今年の春に挑戦したいのは、以下の資格である。

 1,ビジネス数学検定。これは合否はなく、取得した点数によって等級が決まる。前回、予想を遙かに下回った点数であったので、リベンジしたい。最低でもAクラスには入りたい。

 2,WEB検定(デザイン)。昨年WEB検定(リテラシー)に合格したので、その上級編でもあるデザインに挑戦してみたい。リテラシーは合格基準点すれすれの点数だったので、おそらく苦戦するだろうが、がんばりたい。

 3,ドットコムマスター★★。これは苦戦するのは目に見えている。しかし、★のときも、チンプンカンプンの状態だったのに頑張って合格までこぎ着けたので、頑張りたい。

 まだ受けてみたい資格はたくさんあるのだが、費用もかかるので、とりあえず今春はこの3つくらいだろうか。あと1つか2つ、追加で受験できるかもしれないが…。

 6月になれば、フランス語検定4級にも挑戦するかもしれない。(ちなみにフランス語検定5級は持っている)。

 私は、一生、学問や勉強にはチャレンジしていきたいと思っている。

 人生、どんな生き方をしようが、本人の自由だ。

 怠け放題怠けて生きるのも人生、努力の限りを尽くして生きるのも人生。

 あなたはどっちの人生を生きたいのか? 

 私は生きている限り、努力の限りを尽くすつもりだ。

 今年末には資格取得数も100種類を突破する見込みである。達成したら、自分への褒美としてネコカフェにでも行こうと思っているくらいだ。

| | トラックバック (0)

2009年1月16日 (金)

苦しい勉強、楽しい勉強

大学院入試がまさに直前である。

慶応大学での定期試験は、正直、毎回きつい思いをした。私は毎回、多くの科目を同時受験していたのだが、テキストは難解なものが多く、覚えることも多く、試験の前日までいつもピリピリムードだった。特に、あまり興味がない科目などは苦しかった。だから、試験日が近づくたびに、こう思っていた。

「ああ、早く終わってくれないかなぁ。合格でも不合格でもいいから、とにかく、早く解放されたい」

しかし、大学院入試に関しては苦しさはない。なぜなら、決められたテキストもないので、自分の好きな勉強に取り組んでいるだけだからだ。ドイツ語に関しては、グリム童話などを楽しみながら読み続けているし、哲学は自分で買った哲学史の本を読んでいる。つまり、すべては自分がしたい勉強をしているだけなのだ。だから、受験勉強といっても、実は、楽しみながら勉強しているわけである。

合否が気にならないといったらウソになるが、それほど悲壮感もない。本当に自然体で勉強している。きっと自分の好きな勉強をしているだけだからであろう。

思うに、各種検定試験においても、このように自発的に勉強すれば、楽しくできるのではないか? 「ああ、この問題集やっておかなければならない」というふうに、受動的な勉強だと苦しいだけではないか?

苦しい勉強は最小限にしておいて、楽しめる勉強をしてみないか? 

| | トラックバック (1)

2009年1月15日 (木)

学問の効用

 私が学問を続けると言うと、多くの人は、「そんなに学問ばかりやって何になるの? お金が儲かるようになるの? あなたの究極の夢は何なの?」と批判めいたことを言う。

 まるで学問なんかやっても何の役にも立たないと言わんばかりなのだ。

 では、いったい学問の効用とは何なのか?

 ショーペンハウアーはトルストイ、モーパッサン、ゾラ、トーマス・マンなどに多大な影響を及ぼした哲学者であるが、こんな言葉を残していたそうだ。

「カントの言葉は心に直接訴えかけてくるので、その効果は、まるで目が見えない人に白内障の手術を施したかのようである」(『知の歴史―ビジュアル版哲学入門 』p139)

  これこそが、学問の効用を言い当てた表現だと言えよう。

 私たちは、多くの独断と錯覚の中で生きている。「当たり前だ」と思っていたことが実は錯覚であることもあるのだ。その錯覚から目を覚まさせてくれるのが学問だ。まさに「まるで目が見えない人に白内障の手術を施す」ようなもので、ある事実を知った前と後とでは、ものごとに対する考え方がガラリと変わるのだ。

「なんでもっと早くから、これに気がつかなかったのか! ああ、もっと早くから知っていれば…」

 そういう気持ちになり、ますます学問がしたくなるのだ。

 さあ、あなたも学問をやってみないか。

 私もあなたも、いや、この地上にいる人間のすべては、何らかの錯覚を抱いている。その錯覚から目を覚まさせてくれるのが学問なのだ。そんな素晴らしい学問をやらないで、お金とか権力とか、あの世に行ったら何の意味もないものを求めて続けて生き続けるつもりか? 

 さあ、思い立ったが吉日だ。今日から学問を始めよう。お金とか権力より、何百倍、何億倍も大切なものを見つけよう!

 

| | トラックバック (0)

2009年1月14日 (水)

大学院入試直前

 大学院入試直前である。

 12月末まではガムシャラに頑張っていたのだが、1月からは、あまり無理をしないようにし、体調を崩さないように気をつけている。というのも、風邪でも引いて受験できなくなったら馬鹿らしいからだ。

 まあ、ベストを尽くせば、後はどうなろうが、運を天に任せるしかない

 思うのだが、検定試験はほとんどのものが、ある一定の点数を取れば合格になる。そういう意味では、合否はある程度予測できる。予想問題集などをやれば、合格するかどうかはだいたい分かるだろう。

 しかし、大学や大学院の入試は、一定の点数を取れば合格というのではなく、募集人数が決められているので、その中に入り込まない限り、いくら高得点を取っていても合格しない。特に大学院の場合は、合格最低点も公表していないし、採点基準もまったく分からない。だから、合格するか否かは、まったく予想できないのである。

 だから、合格するかどうかは一切気にしないことにしている

 そもそも私が本当にやりたいのは学問であるので、学問を続けていくこと自体が遙かに重要なのだ。(そのためには大学院に入るのがベストだと思っているのではあるが)。

 大学院入試一次試験が終わったら、息抜きに、ネコカフェにでも行ってみようかと思いながら勉強している今日このごろである。

 

| | トラックバック (0)

2009年1月13日 (火)

あなたの夢は、夢か単なる欲望か

 サルトルは、「人間は自由という刑に処せられている」と言った。人間には一定限度で自由が与えられているが、それをどう活かすかは本人に責任があるということである。

 あなたは、いったいどんな夢を叶えたいと思っているのか?

 いろいろな人に夢を聞いても、それが明確に答えられる人は少ない。例えば、こんなことを言う人がいる。

「お金持ちになりたい。一生困らないだけのお金がほしい」

「世界旅行をしてみたい」

「定年退職になったら、田舎に移り住みたい」

 しかし、それは夢か? 

 それは単なる欲望ではないのか?

 ここで欲望の違いを考えてみよう。

 欲望はだれにでもある。欲望を持つこと自体は悪いことではない。しかし、それを満たしても、それだけのことである。例えば、「お金持ちになる」という目標を達成しても、それで世の中がどうにかなるわけではない。その人がお金持ちになっただけの話である。

 一方、夢というのは、世のため人のためになることである。例えば、「自分の学校を設立し、多くの生徒を啓蒙していこう」というのなら、世のため人のためになることをやっていることになる。それは、あなたがこの世に生きた証となるものだ。

 あなたの夢は、何だ?

 それは最終的には世のため人のためになることか? それとも単に自分さえ良ければいいというだけにすぎないのか? もしそうなら、それは夢ではなく、単なる欲望ではないのか。

 「お金持ちになりたい」という欲望をもったらいけないというつもりはない。だが、覚えておいてほしい。それは夢ではなく、欲望だ。そして欲望を満たしただけでは、だれからも尊敬はされまい。なぜなら「欲望を満たしただけの人」にすぎないからだ。

 

| | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

投資信託は心配せず長く寝かせよう

 世界的に大不況である。「100年に1度の大不況」という言葉も頻繁に聞かれる。

 そんな中、株で損をしただの、投資信託で損をしただのと、落胆している人も多いのではないだろうか。

 かくいう私も、投資信託を多数所有しており、そのすべてが購入した当時の基準価格を大幅に下回っている。ひどいものになると半分以下になっているものもあるのだ。

 しかし、明言しておくが、私は何一つ心配していないし、後悔などまったくしていない。これからも、投資信託は続けるつもりである。むしろ、「100年に1度といわれるほどの大不況だというのに、相変わらず、毎月毎月分配金を出してくれてありがたい」と感謝しているくらいである。

 考え方を変えれば、これほど安定しているものも少ないだろう。というのも、「100年に1度の大不況」でさえ、安定して分配金が出るということは、今後、景気が上向けば、安心度はさらに高まるということだからだ。

 なぜ私がこうして落ち着いていられるのか。

 それは、私は投資信託を「一生もののマネーツリー」として考えているからである。1年や2年ていどで儲けてやろうという短期的な視野で投資しているのではなく、それこそ一生かけるつもりでかけているのだ。

 例えば、私はグローバルソブリンに410万円投資した。(数回に分けて投資したのだが、その合計金額が410万円である)。だが、今は「100年に1度の大不況」のせいで、時価評価額は320万円である。つまり、90万円も損をしているという見方もできる。

 しかし、最初に投資したときから5年弱経つのだが、その間に受け取った分配金は、すでに100万円を少し超しているのである。

 したがって、受け取った100万円と時価評価額320万円を足せば、420万円になるわけであるから、10万円は儲かったと見ることもできるのである。

 何度でもいうが、投資信託は長く寝かせれば寝かすほどいいのだ。「100年に1度の大不況」である今でさえ、私のグローバスソブリンが「得」をしているのは、私が5年弱ほど寝かし続けたからである。

 ワールドリートなど基準価格が極端に下がっているものもある。ただ、私はそれらも心配していない。なぜなら、グローバルソブリンと同様、毎月、ほぼ安定して分配金が出ているわけであり、受け取り続けてさえいれば、いずれは「得」をすることになるからだ。

 私の投資方法が理解いただけたであろうか。2年や3年で「得」をしようなどと性急に投資を考えるのではなく、20年なり30年という超長期で捉えれば、基準価格が急落しようがそれほど心配にはならないのである。むしろ、今は基準価格が驚くほど下がっているのだから、投資のしどきだとも言えるのだ。

 

 

 

 

| | トラックバック (0)

2009年1月11日 (日)

年賀状相対価値論

 年賀状に関しては、不要論もあれば、必要論もあろう。

 私は、不要か、必要か、というふうに単純に二元論的な論じ方はしていない。言い換えれば、不要だとも、必要だとも言っていない。私の論は、あくまで年賀状相対価値論であり、年賀状不要論ではないのだ。

 どういうことか説明しよう。

 我々は有限な世界に住んでいる。その有限な世界で本当に実現したい夢があるとき、その実現のために「何かを選択する」ということは、「何かを捨てる」ということに他ならない。つまり、「年賀状を書くことを選択する」ということは、書いている時間は「それ以外のことは捨てる」ということだ。

 だからこそ私は「形だけ」の年賀状を出す時間があれば、自分の夢を実現させるために時間を割いたほうがいいのではないかと言いたいだけなのである。年賀状が不要だと言っているのではなく、形だけの年賀状を書くよりも大切なことがあるのなら、それをすべきではないかと説いているのである。(逆に言えば、形だけの年賀状を書く以上に大切なことが一切ない人なら、どんどん書けばいいのである。)

 よく誤解されるのであるが、私は自分の著書でも「中途半端に英語を勉強するくらいなら、その時間をもっと他の勉強に充てよ」ということを書いていたら、それを「英語は勉強しなくてもいい」と受け取る人がいる。

 これも同じことで、私は英語は勉強する必要がないと言っているのではない。英語は中途半端に勉強したところで利益は少ないのであるから、同じ努力をするのならもっと他の勉強をしたほうがいいと言っているだけである。英語不要論ではなく、英語相対価値論である。

 おわかりいただけたであろうか? 形だけの年賀状であっても、それに価値があると思う人は書けばいいのである。ただ、形だけの年賀状を書くよりももっと大切なものが見つかっている人は、その「大切なこと」を優先すればいいのである。単純に、不要だ、必要だと二元論で話しているわけではないのである。

| | トラックバック (0)

2009年1月10日 (土)

あなたにとって幸せとは何か

 私の友人が年賀状を書くのを止めたという。きっとそれまでは、「年賀状の枚数が多い=人脈が多い=幸せ」という図式を描いていたのであろう。

 しかし、あまりにも年賀状の枚数が多くなった今、果たして年賀状をたくさん書くことに意義があるのかと疑問視し始めたというわけである。

 昔、どこかで読んだことがあるが、たしかこんな話があった。ある大企業の社長が毎年1000枚以上もの年賀状を貰っていたのが、会社を辞めたとたんに、元社員から1枚も年賀状が来なくなってショックで鬱病になっという。つまり、彼が1000枚もの年賀状をもらっていたのは、「社長」という地位に対してであり、一人の人間として慕われていたからではなかったのである。それを知って愕然となり、鬱病になったわけだ。

 私は、何に価値を置くかは本人の自由だと思っている。だから、年賀状をたくさん貰えば貰うほど、幸せな気分になれるのなら、どんどん書けばいいのではないか。山登りが好きなら、とことん山登りをしたらいいのではないか。ドイツ語の勉強が好きなら好きでトコトンやればいいのではないか。私は、人それぞれが持っている価値観を否定しようとは思わない。(もっとも、中には下らないとしか思えない価値観を持っている人も多いのもたしかではあるが)。

 イギリスの哲学者J・S・ミルは「他人に危害を与えない限り、何をしようが本人の自由である」という危害原則を提唱した。成熟した社会に住む人々は、危害原則さえ守れば、何をしてもいいという自由を認めてもいいとは思う。

 ただ、私は一つだけ、提案したいのだ。

 今あなたが「これこそが私を幸せに導いてくれる」と思っている価値を常に反省していきたらどうだろうか。何をしてもいい。他人に危害を与えないかぎり、自分の好きなことをしてもいいのだ。しかし、好きなことをがむしゃらにやり続けるのではなく、ときたま「今私がやっていることは果たして私を幸せに導いてくれているのだろうか?」と反省しながら生きるのだ。

 先に紹介した鬱病を発症した元社長も、自分の価値観を反省して生きていれば、鬱病なんかにならなくてすんだのではないかと思う。

 

| | トラックバック (0)

2009年1月 9日 (金)

哲学する意味

 私の友人が年賀状を自分から出すのを止めたという。それは「年賀状の枚数=人脈」という錯覚から目覚めたからだという。

 年賀状の枚数を増やそうと思えば、いくらでも増やせるだろう。極端なことを言えば、知り合った人全員に出し続ければいれば、枚数は増やせる。例えば、勉強会やセミナーにやたらめったら出まくり、その後一生会わないかもしれない人にも、名刺交換した人全員に出しまくっていれば、幾何学的に枚数を増やせるだろう。

 しかし、そんなことに時間を割くだけの意義があるのか。将来、都知事選にでも出馬してやろうというもくろみがあるのなら、そういう人脈も築いていく意義もあるかもしれない。しかし、ほとんどの人にとっては、自分の「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」をかなえる上で、単なる知り合い程度の人に年賀状を書くのは時間と労力のロスではないか。

 「人間は独断と錯覚の動物である」と、ある哲学者が本に書いていた。その独断と錯覚から解放されるには、哲学をやるのが一番である。

(今まで年賀状の枚数は多ければ多いほど善いと思っていた。しかし、その根拠は何だろうか? それは、だれにでも当てはまる真理であろうか? 私はこの価値観に従って生き、この後も500枚、600枚、700枚…と年賀状の数を増やし続けるのだろうか。そうすることによって私は今よりも何倍も幸せになれるのだろうか?) 

 こうして今まで抱いていた自分の価値観を疑うのが哲学の始まりなのである。

 哲学をしないで生きる人は、独断と錯覚の中で生きるということであり、本人はそれで幸せだと思っているかもしれないが、それが後になってとんでもない錯覚だと分かる可能性だってある。そういう意味でも、常に哲学をしながら生きるほうがより幸せな人生を歩める可能性は高いといえる。

 多くの人は、「哲学なんてやって何になるの? それだけお金が儲かるの?」と批判めいたことを言う。しかし、哲学をやっている人間からすれば、「哲学することなく、独断や錯覚の中で生きて何になるの?」と言いたくなるだろう。

 あなたも哲学をやってみないか。哲学といっても何も小難しいことばかり考えなければならないというのではない。日常生活で、ふと、「これって、本当のところ、どうなんだろう?」と疑問に思うことがあるだろう。それを突き詰めて考えてみることが、すでに哲学の始まりなのだ。 

| | トラックバック (0)

2009年1月 8日 (木)

哲学する人、しない人

 プラトンは、哲学をする人こそが幸せになる資格があると考えていたようだが、逆に、哲学することなく、世の中の価値観に振り回されて暮らしている大勢の人は「羊の群れ」くらいにしか思っていなかったらしい。

 「羊の群れ」とは、ちょっと言い過ぎかもしれない。人間は、たとえどんな人間であれ、一応は人間であるわけだから、「人間」と呼んであげてもよいだろう。しかし、哲学をすることなく、ただ世の中の価値観に振り回されて生きている人は、人間としてレベルが低いのは間違いない。それは私も強く思う。

 では、「哲学する」とはどういうことか。

 「哲学する」とは、知を愛するということである。言い換えれば、真理とは何かを考えて生きることである。そしてそのためには学問をやるのが一番なのだ。

 もちろん、学問をやり続けたとしても、人間には究極の真理は知りようがない。しかし、真理を知ろうと努力し続ければ、そういう努力をせずに欲望の赴くまま生きるより、遙かに真理に近いことが分かるはずであり、何にも勝る喜びが得られるのである。そういった喜びを感じず、お金・名誉・地位・快感などを求めてさまよう人々は、プラトンの言葉でいえば「羊の群れ」にすぎない。

 あなたは今、どんな目標を持っているだろうか。

 あなたの目標の中に学問は入っているだろうか。

 それとも、お金だの、権力だの、名声だの、世界旅行だの、快楽だのと、そういった「モノ」を求めることしかないのだろうか。

 しかし、学問をせずに、そういった「モノ」をたくさん手に入れたとしても、プラトンに言わせれば「羊」のままである。

 一方、学問の喜びを知った人間は、学問によって真理に近づけば近づくほど、心が洗われたようなさわやかな気分に浸ることができる。それはお金や地位や名誉や名声よりも数百倍も数千倍も心地よい境地である。言葉ではうまく説明できないが、それはとにかく次元の違う世界に入り込むようなスリリングな喜びであり、その喜びを知れば、この世のモノなど色あせて見える。

 あなたは、そんな魅力的な学問をやろうとは思わないのか? 一生、お金とか権力とか名声とか、そういったモノを求めつづけてさまようのか? さあ、今からでも遅くない。学問をやろう。真理を探して旅だとう。

| | トラックバック (0)

2009年1月 7日 (水)

年賀状の正しい止め方

 「年賀状を止めたい」と嘆いているサラリーマンは多いのではないだろうか。

 しかし、丁寧な手書きの年賀状を書き続けてきた人が、何の前触れもなく、いきなり年賀状を出さなくなったら、それまで貰い続けてきた人は驚いてしまうだろう。

(あれ、どうして、急に年賀状をくれなくなったんだろう? 俺、嫌われるようなことしたかな?)

 こういうふうに変な誤解を招くかもしれないのだ。そんなことで人間関係がギクシャクするようになったら、そのほうが遙かに時間のロスと言えよう。

 だからこそ、年賀状を止めるのなら止めるで、気をつけなければならない。

 例えば、会社員であれば、忘年会の席で全員に宣言してしまうのだ。

「私は今年から年賀状は一切書かないことにしました。基本的に返事も書きません。ですので、私に年賀状を書こうとしている人は、くださらなくても結構です。でもけっして誤解しないでください。私が年賀状を書かないのは、何も悪意はありません」

 あらかじめこう宣言しておけば、会社の人には年賀状を出さなくても誤解をされずにすむのではないか。しかも、相手にも年賀状を出させる手間を省かせてあげることができるだろう。肝心なのは、あらかじめ宣言しておく、ということだ。

 忘年会で宣言できなかった人は、年賀状をくれた人に、一人ひとり、事情を話して理解してもらうしかないのではないか。とにかく、変な誤解は避けるように配慮しなければならないだろう。

 私が22才で就職した年、1つ年上の職員に年賀状を出したところ、職場の不満をぶちまけたようなことが書かれた返事が返ってきた。そして、職場で顔を合わせたとき、こんな言い方をされた。

「お前ね、職場の人間に年賀状なんか書かなくていいんだよ。だって別につきあいたくてつきあってるわけじゃないんだからさ。なのに、書いてこられたら、こっちだって返事書かなきゃならなくなるじゃん。面倒だよ、そんなの。もう来年から書いてこなくていいからな」

 私はずいぶん馬鹿にされたような気になったものだ。返事が書きたくないのなら書かなければすむことじゃないかと思った。1つだけ年上というだけでずいぶん高飛車な物の言い方をする人だと思った。こういう言い方をしている人を尊敬したくなるだろうか? 少なくとも私は尊敬しない。こういう年賀状の止め方をしてはならないと思う。

 年賀状一つとはいえ、止めるときは気を遣わなければならないのである。それが倫理観のある人間というものだ。くれた人には感謝してお礼を言い、年賀状をやめた理由を理解してもらえるように話しかけるしかないのではないか。ただ、一度理解してもらえれば、あとは楽だ。翌年以降は年賀状というしがらみから解放されるのであるから…。

 

| | トラックバック (0)

2009年1月 6日 (火)

年越し派遣村

 日比谷公園に「年越し派遣村」というのが年末年始に一時的にではあるが出来た。

 私は、1月4日、日比谷図書館に行く途中、この「派遣村」を通ったのだが、たくさんのテントが張られており、合計で500名以上の人がここで寝泊まりしていると聞いた。おそらくその多くは、派遣社員だった人たちで、不況のあおりでクビになり、寝泊まりするところもなくなった人たちだろう。私も昔、本当にお金に困っていたころがあるので、骨身にしみる思いである。

 あなたは今、正社員として働いているかもしれない。しかし会社がいつ倒産するかもしれない。あなたはお金持ちかもしれない。しかし、いつ泥棒に奪われるかもしれない。私が言いたいのは、この世の中には何の保証もないのであるから、どんな人であれ、何が起きても生きていけるように、日頃から十全なリスク管理をしておくことが望ましいということである。

 かくいう私も、リスク管理という点では、十全とは言い難い。だからこそ、余裕のある今、しっかりと考えておかなければならないと思うのだ。 

| | トラックバック (0)

2009年1月 5日 (月)

会社員と年賀状

 会社員である私の友人が今年から年賀状を自分から出すのを一切やめたという。

 私は、かれこれ10年以上フリーなので、義理で年賀状を出さなければならない人が皆無に近い。しかし、かくいう私とて、会社員生活を続けていたら、やはり義理で出さざるを得ない人は多かったと思う。

 会社は、そういった、しがらみが沢山あるところなのである。たとえ悪気がなくても、誤解されてしまうと、それで人間関係がギクシャクすることもあるので、年賀状とてけっして馬鹿にできない。

 例えば、いつも年賀状を出していた上司に急に今年から年賀状を書かないことにしたとする。もちろん一切悪意はない。しかし、それを上司はどう思うだろうか?

「あの野郎、毎年年賀状を送って来ていたのに、今年はよこして来なかったな。生意気になったものだ」

「あれ? 今年あいつから年賀状が来なかったな。なんでだろう? 俺、嫌われるようなことしたかな? もしかしてあのこと怒っているのかな?」

 そういう風に誤解されかねないのである。他人が何をどう思うかはコントロールできないことだからである。そういう意味でも、会社員生活を送って行くには、いやだろうが何だろうが、少なくとも上司には出さざるを得ないのではないか。

 そういった義理とかしがらみから完全に解放されたいと思うのであれば、不労所得だけで食べていけるようになるしかないのではないか。誰かにお金を払ってもらなければ食べていけないという状況から脱すれば、義理でせざるをえないことはなくなるわけだから、好きな人とだけつきあえるし、好きなことだけやって生きていけるようになる。言い換えれば、「あ~、これもしなくちゃならない、あれもしなくちゃならない」という、しがらみがなくなり、「あれもできる、これもできる、自分の好きなことばかりできて幸せだ、こんどは何をしようか」というワクワクするような生活ができるのだ。

 私がやみくもに年賀状を全否定しているのではないことがおわかりいただけただろうか。会社員ならば、しがらみの中で生きざるを得ないし、だからこそ、できるだけ誤解を招かないように配慮もしなければならないわけである。それはしかたのないことではないか。

| | トラックバック (0)

2009年1月 4日 (日)

友人が年賀状を書くのをやめた

 私の友人が今年から年賀状を書くのを止めたという。

 これにはかなり驚いた。にわかに信じられなかった。というのも、彼は学生時代から、年賀状の数こそが人間としての価値を示すとでも思っているかのようだったからだ。つまり、彼は「多くもらう人であるほど良い人だ」と言わんばかりだったのだ。そうして、「今年は200枚書いた」「今年は300枚書いた」などとその数の多さを誇っていた。いや、それだけではない。彼は、年賀状一枚一枚にメッセージを手書きで書くとも言っていたし、暑中見舞いも書くといっていたのだ。

 そんな彼が今年から一切自分からは出さないと言う。いったい彼に何が起こったのか? 年賀状の数で人間の価値を計るのを止めた今、彼は何を基準に人間の価値をはかるというのか?

 かくいう私自身は、もうすでに10年以上も前から基本的に年賀状は廃止している。といっても完全に廃止しているのではないし、年賀状の意義を否定しているわけでもない。そこを誤解しないでほしい。「形だけの年賀状」には基本的に返事を出していないだけである。例えば、印刷しただけのもの、営業用に出しているだけのもの、決まり文句しか書いていないもの、独り言が書かれてあるもの、こうした年賀状はもらっておくだけにして、基本的に返事は書いていないだけなのだ。

 私は、人間の価値は、年賀状の枚数だの、知人の数だの、年収だの、地位だの、名声だの、学歴だの、受賞歴だの、そういった外的なものでは一切計れないと思っている。人間の価値はその人の人柄でしか計れないと思っているのだ。だからこそ、「形だけ」のものを求めないのである。

 では、「年賀状の数が多い人間」、「年収が多い人間」、「高学歴な人間」、「地位の高い人間」など外的なもので人間の価値が計れないとしたら、何で人間の価値がはかれるのか。どんな人柄だと人間として立派だと言えるのか。

 それこそ今私が研究していることなのだが、カントの言葉で言えば、どれだけ定言命法をまもって生きているかということになる。平たく言えば、どれだけ人間としての義務を自覚し、それを果たそうと努力しているかだ。私は私なりに「人間の価値」をはかる基準を持っているのである。

 さて、年賀状の数で人間の価値を計るのをやめた彼は、今、どんな基準で人間を計ろうとしているのだろうか? 年収だろうか? 地位だろうか? どんな美人の嫁さんをもらったかか? 

 あなたはどうだろうか。あなたは人間の価値は何で決まると思っているだろうか? 年賀状の枚数か?   

 

| | トラックバック (0)

2009年1月 3日 (土)

青山学院が都心回帰

 私は複数の大学を出ているが、最初の母校が青山学院である。だから、一番思い入れの強い大学であり、だからこそ母校の発展を願っている。

 その青山学院が、2012年4月から、文系は4年間、青山キャンパスで修学することになるというニュースが流れている。どうやら正式に決まったようだ。ライバル校である立教、明治などは受験生を大量に青学に奪われることになるのは必至であり、すでに戦々恐々としているという。

 私が入学した頃は、厚木キャンパスという山奥の校舎に2年間通わなければならなかったこともあり、それが原因で人気にかげりが出てき始めていた(それでもブランドだけは依然として強かったが)。それがとうとう青山回帰という秘伝の宝刀を抜くことになったようだ。(リンク先のブログ参照)。

 http://blog.goo.ne.jp/rainwalk007/e/cafe040fea7fef3142374f5072993753

 これで青山学院の人気は急上昇し、私大では早慶に次ぐNO.3の地位を上智と競う大学になるのではないか。なんといっても校舎が青山にあるというのは最大の強みである。この強みは他の大学ではマネができないのだから、これを武器にしたのは正解といえよう。(しかし、なぜもっと早くやらなかったのか? というより、なぜ厚木キャンパスなど建てたのか?)

 そういう意味でも、青学は今が「お買い得」の大学だと言えよう。あと数年もすれば、人気が急上昇するのは目に見えているからである。数年後のことも考えて決めるのであれば、青学はお勧め大学の一つといえよう。

 

 

 

| | トラックバック (0)

2009年1月 2日 (金)

今年、もう夢に向かってスタートを切っただろうか?

 あなたは、今年、もう夢に向かって、走り始めただろうか。

 何? 「まだ正月じゃないか、ゆっくりと休ませてくれ」って? 

 私に言わせれば、「もう2日」だ。私は1月1日から全力疾走である。

「いったい何のためにそんなに頑張るの? なんでそんなに正月から必死になっているの?」 

 あなたはそう聞くかもしれない。

 その答は、常に夢に向かって全力で努力することが理性をもって生まれた人間の義務だと思っているからだ。

 古代から多くの哲学者は、「人間はただ生きていればよいというのではなく、より良く生きようとしなければならない。それが人間としての義務だ」と説いてきた。私もそう思う。単に生きるだけならネコでもできるだろう?  

 言っている意味が分かるだろうか。

 人間ならば、生きている以上、夢を掲げてより良く生きようとしなければならないのだ。それが人間の義務だからだ。それを放棄している人は「人間」ではなくて「ヒト」だ。ネコと同列なのだ。

 断っておくが、私が全力で頑張っているのは、名誉がほしいからでもお金がほしいからでもない。仮象の目標としては多くの人が掲げる目標と同じ目標をもっているが、私の究極の目標は「より良く生きる」ことであり、私が全力で頑張っているのはその究極の目標のためなのだ。だから年柄年中全力疾走できるのである。

 「お金儲けのためだけにする仕事」、「単位を取るためだけにする勉強」といった必要最低限のことだけを仕方なく惰性でやって、それ以外の時間のすべてを「娯楽」、「愉しいこと」、「興味を覚えること」、「義理でやらざるえないこと」といった自分の夢の実現とは関係ないことで埋め尽くしている人は、いつまで経っても夢は実現しない。

 もう一度いう。より良く生きようと思えば、自ら率先して夢を描き、常にその夢のために全力疾走すべきなのだ。それが人間としての義務だ。やってもやらなくてもいいことではなく、やらなければならないことなのだ

 「私には、正月からそんなに必死に取り組まなければならない、やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢なんてない。どうしたら見つかるの?」と訊く人がいるかもしれない。

 そんな人にアドバイスしておこう。夢を見つけたいなら、まず自ら率先して本を読んでみることだ。どの本を読むかは自分で決めるとよい。だが、何かいい本を紹介してほしいという人には『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則』をお勧めする。まずはこれを読んでみてほしい。この本を読めば、あなたの人生が劇的に変わる。正月から全力疾走せざるを得ないような途方もない夢が見つかるのだ。さあ、テレビなんて見ていないで、何百倍も何千倍もスリリングな知的冒険の旅に出てみないか? 

 

| | トラックバック (1)

2009年1月 1日 (木)

新年あけましておめでとうございます

 読者の皆様、新年、あけましておめでとうございます。

 今年も、目標に向かってがんがん頑張っていきますので、楽しみにしていてください。

 さて、今年の私の努力目標はたくさんありますが、目に見える形での目標としては以下のものがあります。

 慶應大学卒業。これはあと卒業試験のみとなっております。卒業ができなければ大学院に合格してもパーになりますので、なにがなんでも卒業したいと思っています。

 大学院入学。合格に向け、ベストを尽くすのみです。試験の結果は、このブログで発表することになると思います。

 ブログ・HPを充実させる。昨年秋にブログを開設して以来、徐々に読者数も増えていますので、より充実したブログを目指します。大学院入試が終わったら、本格的にHPのデザインの研究に入るつもりです。

 各種資格試験に挑戦。今年は色々な資格に挑戦しようと思っています。具体的には、「ドイツ語検定準1級」「フランス語検定4級」「WEB検定(WEBデザイン)」「インターネットユーザー能力認定試験上級」「ドットコムマスター★★」「CIWサイトデザイナー」など挑戦したい資格でいっぱいです。

 あなたの今年の目標は何でしょうか?

 では、お互い目標に向かって、今日から新たなスタートを切りましょう!

| | トラックバック (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »