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2009年2月

2009年2月28日 (土)

あなたの人生の目標は何か?(6)

 ほとんどの人は真面目に働いている。それは確かである。そこに差はない、というかもしれない。しかし、実際は差はあるのだ。

 ある人は、「自己中心性を捨て、世のため人のためになることをしよう」という意識を持って仕事をしている。またある人は、そんな意識などみじんもない。

 双方とも、一生懸命、真面目に働いている。やっていることは同じだ。外から見れば、同じ仕事を同じようにこなして、同じように給料をもらっているのだ。

 私は、彼にこう説明した。

「君は昔、東京ディズニーランドはいつ行っても感心すると言っていたよね。サービスが行き届いていて、つねに顧客の立場にたったおもてなしをしてくれるって。見習わなければならない点が多くあるって」

 私は説明を続けようとしたが、彼は遮ってこういった。

「なんとなく分かったような気がするよ」

 どうやら私の言いたいことを理解してくれたようだった。

 隣人愛を実践するといっても、何も大げさなことをする必要はない。別にボランティア活動をしなければならないという法律などないのだ。自分の仕事を通して隣人愛を実践してもいいのだ。それは意識を変えれば十分できることなのだ。

 ほとんどの人は、給料を稼ぐために働いている。それは否定できない。しかし、たとえ給料をもらっていても、その仕事によって、「少しでも世のため人のためになろう」と意識してやっているか、それとも「給料さえもらえれば他人なんかどうでもいい、給料分しか働かないぞ」という自己中心的な意識で仕事をしているか。

 やっている仕事は同じように見えても、そこには大きな違いがあるのだ。

 今、私が自分の「仕事」として関心があるのは、著書や翻訳書の出版のほかに、サイトの運営、投資、不動産経営などである。その中でも最近はサイトを充実させたいと思うようになった。

 サイトの運営一つとっても、「有益な情報を提供することで少しでも世のため人のためになるようなサイトにしよう。訪れてくれた人に『このサイトに飛んできて良かった』と思えるようなサイトにしよう」と意識して作っていくのと、「人のことなんかどうでもいい。自分さえ良ければいいんだ」という自己中心的な意識で作っていくのとでは自ずから差が出てくるだろう? そういう意味でも、私は少しでも良いサイト作りを心がけて行きたいと思っているのである。そしてそれは私の人生の一つの目標でもあるのだ。(完)

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あなたの人生の目標は何か?(5)

 私たち人間は、言葉遣いによって大いに励まされたり、立腹したりする。

 よく考えてみれば、人と人が愛し合うようになるのも、憎しみ合うようになるのも、その原因のほとんどは、相手に対して、どういう言葉遣いをしたかであろう。

 だからこそ、隣人愛の第一歩は「倫理的な言葉遣いをする」ことなのだ。

 落ち込んでいる人がいれば、やさしい言葉をかけて励ましてあげよう。

 悩んでいる人がいれば、一緒になって悩みを解決してあげよう。

 夢をかなえた人がいれば、大いに褒めてあげよう。

 親切にしてもらったら、「ありがとう」と感謝しよう。

 たった一言、そう、たった一言が、相手を元気にさせたり、激怒させたりするのだ。だからこそ、倫理的な言葉遣いをするよう、日々心がけるべきなのだ。そしてそれこそが隣人愛の第一歩なのだ。

 彼は引き続き、こう訊いてきた。

「たったそれだけでいいの? それが君がいう隣人愛なの? さっき言っていた本を出すとか、ホームページを充実させるとかは?」

「倫理的な言葉遣いをするというのは隣人愛の第一歩だ。そのだけでは尊敬に値するとまではいかない。やはり隣人愛を実践すべきだ」

「じゃあ、具体的に何をやれというの? ボランティア活動か? でも、ボランティア活動でも、相手に『ありがた迷惑だ』と言われることだってあるんだよ」

「ボランティア活動は、たしかに隣人愛の究極の形である場合が多いと思う。しかし、報酬をもらうかもらわないかが大切ではないんだ。無報酬だから尊いとばかり言えないケースもあるからね。報酬をもらう・もらわないに関わらず、世のため人のためになるようなことをすることが大切なんだ」

「例えば?」

「それは自分がやりたいことをやればいいんだ。何でもいい。世のため人のためになるようなことなら。例えば歌がうまい人なら、歌の才能を磨いて歌手になって、自分の歌声で聴く人々を励ますというのも立派な行為と言えるだろう」

「な~んだ、たったそれだけのことか。そんなんならみんなやってんじゃん! 会社員だって、作家だって、歌手だって、みんな世のため人のためになることをやってるじゃん。みんな隣人愛をやってるじゃん。いったい何がどう違うっていうんだい」

 同じ会社で、同じように働き、同じように報酬を受け取った場合でも、隣人愛に生きている人と自己愛に生きている人とでは大きな差がある。私はそのことを説明しようとした。

「例えば、自己愛が強い場合は、よくニュースでやっているように、賞味期限の偽装とか、産地の偽装とかやってしまうわけだな。消費者のことはどうでもいい。自分たちだけ儲かればいいってね。他人よりも自分を優先してしまうんだな」

「そんな人、ごくわずかしかいないよ。ほとんどの人は真面目に働いているよ。ほとんどの人は隣人愛を実践しているじゃん」

 たしかに、隣人愛に生きる人も、自己愛に生きる人も、一見、ほとんど同じに見えることがある。しかし内面は大きな差があるのだ。私はなんとかしてその差を説明しようとしたが、なかなかうまい説明ができない。そこで私はある例を出して説明することにした。(続く)

 

 

 

 

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2009年2月27日 (金)

あなたの人生の目標は何か?(4)

 「倫理的な言葉遣い」とは何か、私は具体例を挙げて説明することにした。

 マルチン・ブーバーは、人と人とか会話をするとき、2種類の会話があることを指摘した。1つは「我と汝」(Ich und Du)の会話であり、もう1つは「我と物」(Ich und Es)の会話である。

 「我と汝」の会話とは、自分も相手も同じ一つの人格をもった人間として同格扱いである。だから同じレベルである。たとえ先輩後輩、先生生徒、上司部下といった役割としての上下関係があっても、人間としては同じレベルで会話をすることだ。

 一方、「我と物」の会話とは、自分は人格をもった人間のままでありながら、相手の人格を認めていない会話である。つまり、自分のほうが上であり、相手は下なのだ。自分には相手を裁く権利があり、相手はただ裁かれるばかりである。相手には相手の感情もあれば、願望もあり、希望もある。しかし、「我と物」の会話をする人は、そういった相手の気持ちをおもんぱかることはない。

 私は今では60冊近くの著訳書を出しているが、14年前までは本など一冊も出したことがなかった。エッセイの連載をぼつぼつやり始めていたが、本など出せるような状況でもなかったし、ましてや印税で生活するなんてのは夢の夢だった。

 そんなある日、私はある友人と食事に行ったことがあった。食事をしながら、私は友人と将来の夢を語り合うことにした。友人が私の夢を訊いてきたので、こう答えた。

「将来は文筆家になりたいんだ。いろんな本を書いてみたいんだ」

 すると友人は、けなすようにこう言い返した。

「それ冗談で言っているんでしょ? あなたには無理。ダメダメ。あなたにできるわけがないよ。もういい年なんだから、そんな幻のようなこと言うの止めなきゃ」

 つまり、友人は一段上に立ったところから私を一方的に裁いたのだ。メタレベルから私と接してきたのだ。

 「そんな幻のようなこと言うの止めなきゃ」と言われた私は、その後、言葉が出なくなった。そう、もう私はその友人の前で自分の夢を語ることなどできなくなったのだ。なにしろ、私と友人は同じレベルに立っていない。友人のほうが一段上に立っているのだ。

 私がこの例を出すと、彼もなんとなく「倫理的な言葉遣い」と「倫理的でない言葉遣い」の違いを理解してくれたようだった。 

 そう、「倫理的な言葉遣い」とは、自分も相手も同じ一個の人格をもった人間として同レベルで相手に話しかけることである。そして、これこそが隣人愛の第一歩なのだ。(続く)  

 

 

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2009年2月26日 (木)

あなたの人生の目標は何か?(3)

 私は、隣人愛について持論を展開し始めた。

「私たちは、いずれこの世を去る。この世にいるときに、一つでも多く、隣人愛を実践していくことだ。それがあの世にいったときの宝物になるのだ」

 すると彼はこう返してきた。

「具体的には何をすればいいの?」

「いきなり大きなことをする必要はない。自分にできることから一つひとつやっていけばいいんだ。一番簡単なのは、倫理的に生きるよう心がけることだ」

「え? 倫理的に生きること?」

「そう。まずは倫理的に生きることだ。倫理的に生きる出発点が、倫理的な言葉遣いをすることだ」

「倫理的な言葉遣いをすること? 分からないなぁ。それがなんで隣人愛なの? たいしたことじゃないじゃん」

 哲学や倫理学を専攻したことがない人に向かって、「倫理的に生きることが隣人愛を実践する出発点だ」と言っても分かりにくいことかもしれない。というのも、「倫理的」とはどういうことかがほとんどの人にとって不明瞭ではなかろうか。

 倫理の「倫」は「人間関係」という意味である。つまり、「倫理的に生きる」とは「人間関係を大切に生きる」ということである。さらに言い換えれば、それは「自己中心性を捨て、相手の気持ちをおもんぱかった生き方をする」ということだ。そう、それが「隣人愛」の出発点なのだ。

 彼は引き続いて訊いてきた。

「ところでさぁ、倫理的な言葉遣いって何よ?」

 私は、具体例をあげながら説明することにした。(続く)

 

 

 

 

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2009年2月25日 (水)

あなたの人生の目標は何か?(2)

 彼はそんな答えではまったく納得しなかった。

「なんだなんだなんだなんだ、たったそれだけのことか? そんなの、君だったら簡単にでてきてしまうことだろ? それが君の人生の目標なの?」

 そこで私は、これらの目標の奥に隠されている究極の目標を説明し始めたのだった。

「所詮、人間は、死んでいく存在だ。僕らも、せいぜいあと20年なり30年でこの世を去るのだ。そんな人生、あっという間だとは思わないかい?」

「それは僕も思うよ。人間は死んでもそれで終わりではないとね」

「ならば、この世で生きている本当の意味を考えて生きていくべきだろう。人間はいったい何のためにこの世に生まれてきたと思う? それは魂を磨くために生きてきたのであって、お金をたくさん貯めることとか、名誉を得るとか、そんなことのためじゃないんだ。そんなものはあの世には持っていくとなんてできやしない」

「じゃあ、魂を磨くためには、具体的には何をすればいいの?」

「魂を磨くには大きくわけて3つ方法がある。1つ目は、学問によって理性を磨くことだ。2つ目は、良い習慣を身に付けて欲望に負けない人間になることだ。しかし、それだけやっていればいいというのではない。それだけでは単なる善人だ。尊敬に値する人間になるには隣人愛を実践していくことだ。自己中心性を捨て、隣人を一人でも愛していくことだ」

「じゃあ、隣人愛を実践するには、具体的に何をすればいいの? ボランティア活動でもやれって言うの?」

 もしあなたがこう訊かれたとしたら、どう答えるだろうか。

 隣人愛を実践するのは大切だ。それは万人が認めることだろう。しかし、そのために具体的に何ができるのか。無償でボランティア活動をしなければ隣人愛を実践したことにならないのか? 

 私は、待ってましたとばかり、持論を展開しはじめたのだった。(続く)

 

 

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2009年2月24日 (火)

あなたの人生の目標は何か?

 あなたの人生の目標は何か? 

 私は、あなたに聞いているのだ。そう、このブログを見ているあなたにだ。

 多くの人は、「もっとお金がほしい」、「早く昇進したい」、「いい人を見つけて結婚したい」、「名誉を手にしたい」、「一流大学に入りたい」…と「この世だけでしか価値のないもの」を挙げるのではないだろうか?

 実は、先日、友人に同じ質問をぶつけてみたのだ。

 すると、「一生遊んで食べていける不労所得がほしい」という答えが返ってきた。

 しかし、果たしてそれが本当に人生の目標なのだろうか。仮にそんな大金を手にしたとして、それで満足だろうか? 

 私は、常にそういう思いを抱いているので、彼にもこう訊いてみた。

「それが君の人生の目標なの? だけど、仮にそんな大金を手にすることができたとして、それで満足なの? それから先、何を目標として生きるの?」

 すると、逆に彼のほうから私に質問をしてきたのだった。

「じゃあ、そういう自分はどうなんだ。人の目標ばかり訊いて、自分の目標はどうなんだよ」

 私は、私なりに自分の目標を答えた。すなわち、著書や翻訳書を出版していくこと、ホームページを充実させること、将来的には英語でホームページを立ち上げること、学問を一生続けること、資格に挑戦しつづけること…。

 しかし、彼はそんな答えではまったく納得しなかった。

「なんだなんだなんだなんだ、たったそれだけのことか? そんなの、君だったら簡単にでてきてしまうことだろ? それが君の人生の目標なの?」

 そこで私は、これらの目標の奥に隠されている究極の目標を説明し始めたのだった。(続く)

  

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2009年2月23日 (月)

コツコツとWEBリテラシーを磨こう

 先日、友人に、「知り合いでホームページを作っている人、どれくらいいる?」と尋ねてみた。すると、「いないなぁ~。1人くらいかな」という答えが返ってきた。

  意外であった。

 ブログは素人でも簡単に作れるので、今や10人に1人くらいは作っているだろう。やがて5人に1人、3人に1人という時代が来るだろう。

 しかし、ことホームページに関しては、作れそうでいて、けっこう敷居が高い。そのため、作成している人が実に少ない。

 事実、私は某工業大学大学院に通っていたことがあったのだが、同級生でもホームページを作っている人はせいぜい3分の1くらいだったように思う。ホームページを作成する能力があっても、きっかけがないので、わざわざ自分のホームページを作成しようと思わないのだろう。

 たしかに15年くらい前までは、ホームページ作成は極めて難しかった。なにしろ、どんな簡単なページを作るにもHTMLのルールを覚えなければならなかったし、しかもたった1カ所エラーがあってもページが表示できなかったからだ。

 しかし、「IBM ホームページ・ビルダー13 通常版 バリューパック 」などのオーサリングツールが出来て以来、こと「静的ページ」に関していえば、素人でも簡単に作れるようになった。慣れてしまえば、簡単な「静的ページ」なら、本当にワープロ感覚で作れてしまう。(ただし、「動的ページ」はかなり勉強しなければ作れない)。

 別にホームページ作成に関心がなければホームページを作る必要はない。

 しかし、WEBリテラシーだけはコツコツとつけておいたほうがいいだろう。なぜなら、これからの社会ではWEBリテラシーの高低によってそれだけ大きな差が出るようになると思うからである。

 特にSOHOで仕事をしている人やインターネットを活用する会社員はそれが言える。そしてそのためには『.com Master 公式テキスト (2008 ★) 』などで、自ら率先して勉強していくといいのではないか。

 これからの社会はIT化の傾向がますます高まる。成功するか否かは、自らの努力にかかっているのだ。

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2009年2月22日 (日)

WEB検定について

 新しいIT資格として「WEB検定」というのがある。

 ホームページやブログを運営している人にはお勧めの資格である。ましてやSOHOで仕事をしている人は、ぜひお勧めである。

 この検定試験は、中核として「WEB検定(リテラシー)」がある。

 その上位資格として「WEB検定(デザイン)」「WEB検定(ディレクション)」「WEB検定(プロデュース)」「WEB検定(プログラミング)」と4種類の資格がある。

 私は昨年「WEB検定(リテラシー)」に初挑戦で合格した。80点以上合格のところ、82点であったから、ギリギリであった。

 今年は「WEB検定(デザイン)」や「WEB検定(ディレクション)」を狙いたいと思っている。

 実際、3月上旬には「WEB検定(デザイン)」を受ける予定である。

 簡単には合格できないと思うが、地道に努力していかない限り、実力はつかないので、がんばって受けていきたい。

 受験結果は、このブログでも発表する予定である。参考にしていただけると幸いである。

 

 

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2009年2月21日 (土)

3月に受験を考えている試験

 今までずっと忙しくてなかなかITの勉強ができなかったが、3月には気を引き締めて、いくつかIT関連資格を受けようと思う。

 合格する自信はあまりなのだが、合格目指して努力しないことには、実力もつかないので、受けるだけ受けてみようと思う。

 1つは、「WEB検定(WEBデザイン)」である。こちらのほうはすでに申込みをすませた。

 もう1つは、「ドットコムマスター★★」である。まったく自信はないのだが、前回よりどれくらい伸びたかだけでもチェックしたい。(もしかすると伸びていないかもしれないが)

 これからもコツコツとITの勉強はやっていきたい。こういうのは一気呵成にできるようになるのではなく、長い年月がかかると思うので。

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2009年2月20日 (金)

自由の刑

 私は、自分自身の努力と幸運が重なり、数年前にファイナンシャルインデペンダンスを達成することができた。言い換えれば、「贅沢をしなければ、一生涯、お金のために働かなくても食べていける」という状態になったわけである。

 正確な数字までは分からないが、おそらく世の中の95%以上の人は「働いてお金を稼がなければ生きていけない状態」ではないだろうか。

 私の友人にも、私のようにいち早くファイナンシャルインデペンダンスを達成したいという人がいる。たしかに、ファイナンシャルインデペンダンスを達成してしまうと、何もかもが自由である。だからお金に関する苦労がまったくといっていいほどなくなるのだ。しかも、だれかにお金を貰う必要性がまったくないわけであるから、朝から晩まで好きなことだけをして生きていける。それでいて、だれからも何も叱られることなどないのだ。

 お金のために働いている人から見れば、私の今の状況は羨ましいかぎりかもしれない。そうして、自分もいち早くファイナンシャルインデペンダンスを達成したいと思うかもしれない。

 しかし、自由であるということは、逆に言えば、「一日一日をどう過ごすかを全部自分で決めなければならない」ということである。これは、自分で率先して目標が見つけられない人にとってはけっこうきついと思う。かえって毎日が苦痛でしかたがないということになりかねない。

 「あれもしたい、これもしたい、今度はこれをしよう、あれをしよう…」と次々と自分で目標を見つけられる人にとってはファイナンシャルインデペンダンスほどありがたいものはないだろう。なにしろ、そのすべてが自由にできるのだ。

 しかし、「朝から晩まで何もしなくてもいいとなったら、何をしていいのか分からない。自分で目標を見つけろと言われても、何を目標にしたらいいのか分からない」という人にとっては苦痛以外の何ものでもないだろう。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を残したが、まさに毎日毎日、「自由の刑」に処せられることになるのだ。

 今、ファイナンシャルインデペンダンスを達成したいと思ってガムシャラに頑張っている人、自由が手に入ったとき、自分は何を目標にして生きていくかを考えておくべきだろう。

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2009年2月19日 (木)

勉強を侮るな

 私は、勉強こそが自分を高める最も有効な手段だと考えている。勉強していれば、それが、いつ、どこで、どのような形で、自分の夢を広げてくれるか分からないのだ

 なのに、勉強が嫌いな人に限って、「そんなこと勉強しても役に立たないんじゃないの? なんでそんなこと勉強しているの?」と批判めいたことを言うのである。

 私が昔、アルバイト先で知り合った高卒の男性は、ことあるごとに勉強のばからしさを説いていた。例えば、よくこんなことを言っていた。

「宮崎さん、なんでわざわざITスクールに通ってエクセルなんか習ってるの? だって宮崎さん翻訳家でしょ? なんで翻訳家がエクセル習う必要があるの? 宮崎さんがエクセル使えるようになって何の役に立つの? せいぜい家計簿つけるくらいでしょ? そんなの学校に払うお金がもったいないだけじゃん」

 その他、私がHPを作ろうとしていたときも、パワーポイントを習いに行っているときも、ドットコムマスターの試験を受けるときも、必ず同じようなことを言っていた。彼の口癖はこんな感じである。

「だって、宮崎さん、翻訳家でしょ? そんなのできるようになって何になるの?」

 しかし、翻訳家だからといって、翻訳家に要求される最低限のことだけしかやらなければ、それは翻訳しかできない人間どまりではないか。それ以外のことが一切できない人間で一生終わりではないか。

 その後、私はITの実力を磨き続け、工業大学に入学、その後学問の重要性に気づき、慶応大学に入学した。慶應大学では卒論はもちろん、レポートやプレゼンのときに、エクセルやパワーポイントを使った。エクセルやパワーポイントを使う機会はふんだんにあったのである。

 もう一度言う。

 もしかするとあなたも「こんなこと勉強して、それが一体何になるの?」と思うこともあろうかと思う。しかし、勉強していれば、それが将来、いつ、どこで、どんな形で役に立つか分からない。もちろん、興味のないことは勉強する必要はない。

  しかし、どうしても嫌だという勉強でなければ、勉強しておいたほうが何かしら役に立つのだ。

 

 

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2009年2月18日 (水)

WEB検定(WEBデザイン)受験申込み

 ITの実力をつけようと思えば、コツコツと勉強していくしかない。

 しかし、本当にITが好きだという人以外は、やろうやろうと思っていても、日が経つだけで、なかなかやらないものだ。

 私もその一人で、やろうやろうと思うのだが、なんだかんだで何もせずにずるずると日が経っていることが多い。

 でも、それではIT力は高まらない。

 そこで私は3月上旬に『WEB検定(WEBデザイン)』の受験申込みをした。申込みをしさえすれば、少なくとも受験日までは一生懸命勉強するからだ。

 受験料は16,800円である。

 IT関連資格は高いものが多いが、この資格もけっこう高い。

 この資格は『WEB検定(リテラシー)』の上位資格なので一発では合格しないかもしれないが、私にとっては試験に向けて努力することそのものが大切だ。だから合否は気にせずに受けてみたいと思っているのだ。

 結果は、またこのブログで公表しようと思う。 

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2009年2月17日 (火)

自由業の大変さ

 自由業といえば、気楽でいいと思う人もいるだろう。

 しかし、実際、相当自分に厳しくなれる人でなければ、破滅の道に入る

 というのも、自由業であるから、のんべんだらりとしようと思えば、いくらでもできるからだ。だから、自ら率先して物事を次々とやれる人以外は会社員のほうがよっぽど楽だろう。

 というのも会社員であれば、いやだろうが何だろうが、毎日会社に行かざるをえないからだ。

 しかし、自由業の人は、のんべんだらりと生きていても、だれも叱ってくれないのである。だからこそ、自ら率先して仕事を見つけ、仕事をこなしていかなければならないのだ。たとえ仕事がない日でも、のんべんだらりと暮らすのではなく、常に自分のスキルを高めなければならない。

 さて、かくいう私であるが、先日、確定申告をしたところ、8万円が還付されることになった。この8万円を私は検定試験代として使うつもりである。具体的には『WEB検定(WEBデザイン)』、『ドットコムマスター★★』などを受けようと思う。今はそのための勉強中である。

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2009年2月16日 (月)

WEB検定(WEBデザイン)受験決意

 たいていの人間はものぐさなもので、必要に迫られない限り、努力を怠りやすい。

 たとえばITリテラシーを高めようと思っていても、必要に迫られない限り、ついつい何もせずに日々が過ぎ去ってしまうのだ。

 しかし、そういうふうにして日々何もしないままだと、いつまで経ってもITリテラシーは高まらない。

 なら、いい方法はあるのか?

 私は、ITリテラシーを高める一つの方法として、IT関連資格の受験をお勧めしたいのだ。

 というのも、どんなにものぐさな人であっても、試験を受けるとなると、一応は合格を目指して頑張るわけであり、その頑張りが自分を高めてくれることになるからだ。

 意外や意外、その頑張りが自分の可能性を高めてくれるのだ。

 そこで私は、前々から受験してみたいと思っていた『WEB検定(WEBデザイン)』を受験しようと思う。この検定試験は『WEB検定(リテラシー)』の上位資格であるので、難易度も高いだろう。一発で合格は難しいかもしれないが、どの程度得点できるか試しに受けてみようと思う。

 今、私は『ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック2 Webデザイン 』で勉強をしている。やはり受験を意識して勉強すると、それなりに知識が身に付くし、いいと思う。こうでもしないかぎり、なかなか勉強できるものではないからだ。

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2009年2月15日 (日)

IT音痴を克服せよ

 今やIT抜きの人生など考えられなくなった。

 何度も何度も繰り返して言うが、ITが苦手な人は、少しずつでもいいので、ITリテラシーを身につけることである。

 ほんのちょっとしたことであっても、ITリテラシーの高い人と低い人とでは大きな差が出る。

 例えば、確定申告。

 自由業にいる人は、毎年毎年、確定申告ほど悩まされるものはない。計算が面倒だし、なにかとややこしい。

 私も毎年悩まされている一人であるが、近年では、eTaxという便利なものができた。

 私は今年、これに初挑戦したのであるが、実に簡単に確定申告書類が作成できる。しかも、面倒な計算もすべて自動なのだ。もちろん、ソフトに慣れるまでは面倒だが、慣れてしまえば、これほどありがたいものはないのだ。これで来年からは、実に簡単に確定申告ができそうである。

 何度も言うが、IT音痴の人は、一刻も早くITリテラシーを身につけることである。笑ってすませていてはならない。

 あなたは成功者になりたくはないのか? より善い人生を歩みたくはないのか?

 成功者になりたければ、最低限、ITリテラシーを身につけるべきである。それはこれからの社会では「当たり前」の能力なのだ。

 

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2009年2月14日 (土)

人生、日々、挑戦なり

 幸せとは何か。

 古代から、哲学者は、人間にとって幸せとは何かを思索してきた。

 快楽主義者には快楽主義者の考える幸せがあった。禁欲主義者には禁欲主義者の考える幸せがあった。その他、キリスト教徒にはキリスト教徒の考える幸せがあり、仏教徒には仏教徒の考える幸せがあった。

 現代においても、何が幸せかに関しては、人それぞれで考え方が違う。

 ある人は、結婚することこそが人間にとっての幸せだと考え、独身者をつかまえては、「お前も早く結婚しろ」と一段上に立ったところから、見下すように説教をする。

 また、ある人は、お金をたくさん稼ぐことが人間にとっての幸せだと考え、貧乏人をつかまえては、自慢話をする。

 しかし、実際のところ、どの幸せが一番優れているといえるのか?

 私は、アリストテレスの考えた幸せ(エウダイモニア)だと思うのだ。

 エウダイモニアとは「人間がもっているすべての特性と価値ある活動がその真価を十分に発揮する人生」だといえる。

 わかりやすく言えば、歌手の才能がある人は、歌の才能を開花させ、他人に歌を聴かせてあげて、皆を感動させることがエウダイモニアなのだ。だから、そういう人に「もっと金になることをやれ、金こそが幸せの源泉だ」と言っても意味のないことなのだ。

 さて、では私は何を目指すのか。

 夢はたくさんあるが、私は一生涯、チャレンジしつづける。学問に、資格取得に、心身を鍛えることに…。言い換えれば、チャレンジそのものが私にとっての幸せ(エウダイモニア)なのである。私にとって、旅行だの、不労所得だの、快楽だの…というのはエウダイモニアではないのだ。

 

 

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2009年2月13日 (金)

自由業のよさ(2)

 自由業といっても、何から何までいいということはない。

 実際、私も32才くらいからフリーの文筆家となったわけだが、その後10年間は、超特急の仕事ばかり引き受けていたので、休みは一切なかった。

 まさに、毎日毎日働きづくめであり、どんな仕事が来ても、基本的には断りはしなかった。

 そういう意味では、自由なのか自由でないのかが分からなかった。なにしろ、自由時間などほとんどなかったのだ。

 しかし、今は違う。

 ファイナンシャルインデペンダンスを達成した後は、基本的には「お金のためだけに働く」必要がなくなった。だから、自分には合わない仕事は断ることができるようになったのである。

 つまり、本当に自分がしたい仕事だけをする、ということが実現したのだ。言い換えれば、今私がやっている仕事は、自分がしたいことである。しかも、超特急の仕事は控えているので、時間にしばられることもない。

 まさに自由なのだ。

 

  

 

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2009年2月12日 (木)

自由業のよさ

 今日は、広島の実家にお墓参りに戻った。

 自由業、とくに私のように文筆業がいいのは、時間が自由になるというだけでなく、パソコンさえあれば、どこでも仕事ができることである。

 実際、翻訳書を数ページほどコピーし、新幹線の中でパソコンを使って翻訳ができたのである。

 これも、旅先で書いている。

 まさに自由業さまさまである。

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2009年2月11日 (水)

新しい翻訳書に着手

 私は慶應大学には3年間お世話になったわけであるが、その3年間に、結局、2冊しか本を出さなかった。

 3年間で2冊である。

 よくそんなので生計が立てられるなと思う人もいるかもしれないが、昔出した本が増刷になったり、投資信託の分配金をもらったり、家賃収入が入ったりしているので、生活がなりたっているわけである。

 3年間の間に、その2冊以外にも、何冊かはオファーがあったのであるが、自分にぴったり合った本ではなさそうだったのでお断りしていた。

 しかし、先日、昔から是非とも訳してみたいと思う著者の翻訳の依頼が来たので、喜んで引き受けることにした。

 ひさびさの仕事である。

 予定としては今年11月ごろに出版されるらしい。

 また、何かこの本についてニュースがあれば、このブログで報告するつもりである。 

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2009年2月10日 (火)

大学院一次試験の合格発表日(5)

 私の友人に某難関試験を目指している人がいる。彼は、ことあるごとに、「試験は合格しなければ意味がない」と言う。つまり、彼にとって「合格=善」であり、「不合格=悪」なのであり、それ以外の解釈はないわけである。

 ただ思うのだが、そのような二元論的思考で生きた場合、人生そのものが苦しくはならないだろうか。というのも、「不合格だったら、努力しても無駄だ」というのなら、不合格になった時点で努力してきた自分を否定しなければならなくなるからである。

 しかし、努力すること自体に価値を見いだすことができれば、合格そのものではなく、自分なりにベストを尽くすこと自体に価値があるわけであるから、人生そのものが楽しくなると思うのだ。

 「人間万事塞翁が馬」という諺があるが、私は何に挑戦するにせよ、この諺どおりに受け止めるべきだと考えているのだ。試験の合否も例外ではない。

 どういうことか簡単に説明しよう。

 一見、「合格すれば良い」と思える。しかし、長い目で見れば、合格したことがかえってその人を不幸にしてしまうことだってあるわけだ。例えば、超一流大学に合格したり、超難関試験に合格することは、一見、良いことに思える。しかし、もしも簡単に合格してしまって、傲慢な人間になってしまえば、それによって友人を失うかもしれない。長い目で見れば、それは良くないことだったということにもなりうる。

 逆に、一度や二度失敗しても、それによって謙虚な人間になれば、長い目で見れば、友人が多くできるかもしれない。ましてや「負け組」と言われている人たちの気持ちを深く理解できる人間になれるかもしれないのだ。

 つまり、この諺は、なんでも物事を短期的に「良い」「悪い」で判断しないほうがいいということを説いているのである。私の大学院入試に照らして合わせていえば、合格していても、それで浮かれてはならないし、ましてや傲慢な人間になったりしてはならないということである。逆に、不合格になっていても、それで「自分は努力してもダメな人間だ」と落ち込んだり、卑屈になってはならないということである。そもそも、私たち人間の究極の目標は「より善い人間になる」ということであって、名誉・地位・権力・金銭などといった外的な善さを手に入れることではないのだ。

 私は私であり、たかが入試の合否などによって左右されるようであってはならないのだ。合格であっても傲慢にならず、不合格になって卑屈にならず、日々精進するしかないのだ。私は、たとえどんな結果になっても、それを淡々と受け入れる心の準備をしていた。少なくとも意識の上では…。

 そうして私は、意を決して掲示板を眺めた。

 15分後、私は新しい春の予感を感じながら、駅に向かって歩き始めていたのだった。

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2009年2月 9日 (月)

大学院一次試験の合格発表日(4)

 驚くことに、私の番号だと思えていたものは、5桁のうち4桁は私の番号と一致しているが、1桁だけ違うことが判明したのだ。

(なんだなんだ、私の番号ではないのか! なんてことだ!)

 私は、受け入れられない現実を目の当たりにして、しばし呆然となった。

 しかし、呆然となりながらも、私はまだ諦めきれなかった。正直、信じられなかったのだ。

(いや、待てよ。これは何かの間違いだ。違うところに私の番号があるはずだ。英語だってドイツ語だってそこそこできていたはずだ。ドイツ語だって、あれだけ頑張ったのだ。ドイツ語検定でいえば準1級レベルには達しているはずだ。入試でも7割近くは取ったはずだ。哲学はたしかに難しかったが、あれで高得点が取れる人など、そう沢山はいまい。お願いだ。あってくれ、どこかに私の番号があってくれ)

 私は、必死になって別の箇所を探し始めた。

 たしかに私は先ほど「哲学」と書かれてある場所の番号を見た。そしてその中には私の番号はなかった。だが、これは何かの間違いだ。そうに違いない。

 私は、わらにもすがるような思いで、掲示板の他の場所に目をやった。

 ふと気づくと、不思議なことに、事務員は、いまだに掲示をはりつづけている。

(あれ? なんでそんなに沢山はり続けているのだろう? そんなに沢山の専門課程があったっけ?) 

 事務員があらたにはり出した掲示に目をやると、そこにも「哲学」という文字が見えた。

(あれ? なんでまた哲学なの? まったく同じ掲示を2つ貼るのかな? そんなわけないよな。だって、こんなに近いところに同じ掲示を2つ貼る必要なんてないものな)

 掲示の最上段に目をやると、「博士」「博士・再入学」「修士」「修士・再入学」などと色々と区分別になっていることが分かった。

(そうか、分かったぞ。同じ「哲学」といっても、修士とか博士とか新規入学とか再入学とか色々と区分けされているのだ。まてよ。ということは、さっき私が見たのはどっちのほうなんだ? お願いだ。さっき見たのは間違いであってくれ。私の番号はあるべきなのだ。きっとどこかにあるべきなのだ。お願いだから、どこでもいい、どこかに私の番号があってくれ)

 私は、そう祈るようにして、あらたに貼られた掲示の「哲学」と書かれた場所の番号に目をやった。(続く)

 

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2009年2月 8日 (日)

大学院一次試験の合格発表日(3)

  私は人をかきわけ、祈るようにして、掲示板に近づいて行った。

 私の視力は悪い。メガネをかけていても、0.6ていどしか見えないのだ。掲示板の文字はそんなに大きいものではない。近づかなければハッキリは見えない。

 私の番号は、もう何度も繰り返して覚えている。しかし、間違ってはいけないと思い、最後にもう一度、受験票を取り出して確認した。

 掲示板を見た。

 掲示板に「哲学」という文字が目に入った。

(よし、ここだな、ここに私の番号が書かれてあったら合格ということだな)

 私は無意識のうちに、掲示板にさらに近寄って、目をこらしてみた。

すると、その瞬間、私の番号が目に入ってきたように思えた。

 (やった、やっぱりあった! 合格だ!)

 そうなのである。私は、なんだかんだと言いながら、自分は合格するはずだと思いこんでいたのだ。だからこそ、自分の番号らしきものが見えた瞬間、「やっぱりあった」と思ったのだ。

  だが、ぼんやりと自分の番号と思えるものを見たにすぎない。本当に間違いなく、私の番号なのだろうか?

 私は、確認するために、さらに一歩前に進み出た。

 すると、驚いたことが起きた。(続く)

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2009年2月 7日 (土)

大学院一次試験の合格発表日(2)

 午前10時に合格者の番号が掲示板に張り出される。

 私は、大学の最寄り駅に午前9時30分頃着いた。

 最寄り駅から大学まで歩いて10分ていどである。私はこの間、ゆっくりとしたペースで、こう自分に言い聞かせながら歩いた。

(落ちていても挫けるな。受かっていても浮かれるな。落ちていても挫けるな。受かっていても浮かれるな。落ちていても挫けるな。受かっていても浮かれるな…)

 それだけを呪文のように何度も唱えた。

 やがて大学の建物が目に入ってきた。その瞬間、急に胸の鼓動が激しくなった。まさかこんなに緊張するとは…。

(しかし、どうしてこんなに緊張するのだろう? そうだ、私は、この大学院を受けることを数人とは言え、話したからだ。だから緊張しているのだろう。誰にもしゃべらず受ければ良かった。なんでしゃべってしまったんだろう。合格してからしゃべれば良かったんだ。受けてもいないうちから、ぺらぺらしゃべるから、それがプレッシャーになって緊張しているんだ。なんて愚かなことをしたんだ…)

 激しい後悔をしながらも、歩いてゆくと、ついに大学の掲示板近くまで来た。

 時計を見ると9時50分である。

 (もう掲示ははりだされているのだろうか?)

 掲示板近くには、すでに30~40人の受験生らしき人たちが見に来ていた。だが、どうやらまだはり出されていないようだ。皆、しずかに掲示がはり出されるのを待っている。

 10時ちょうどに、事務員が掲示板にはり紙を貼り始めた。それに印字された番号が掲載されている。

 さあ、ついに来た。合否の瞬間だ。

 私は人をかきわけ、祈るようにして、掲示板に近づいて行った。(続く)

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2009年2月 6日 (金)

大学院一次試験の合格発表日

 2月5日は、大学院の一次試験の合格発表日である。

 ドイツ語や哲学の試験勉強は十分とは言えなかったが、限られた時間の中で自分なりにベストは尽くしてきたつもりである。しかし、なにしろ、入学定員というものが限られているわけであるから、その中に入らないことには合格しないのだ。

  特に私の志望専攻分野は競争率がやけに高い。約5人に1人しか通らないのだ。一流大学出身者だらけの中でこの競争に勝てるのか? というより、学者然とした初老の男性や女性も受けていた。高校の倫理社会の元先生っといった風情だ。そんな人たちに混じって5人に1人の中に入れるのか?

 本当に久々の緊張である。

 私は今までにも本当にたくさんの試験を受けてきた。しかし、これほどまで緊張することはない。なにしろ、これで今年4月からの生活がガラリと変わるのだ。

 私は2月4日は午前零時くらいに眠りについたが、午前3時には目が覚めてしまった。

(まだこんなに早いのだから、今からずっと起きていてもしかたがない、もう一度眠ろう) 

 そう思ったものの、やはりそわそわそわそわしてしまい、眠ることができない。

 そこでベッドの中で、不合格だったときのメンタルリハーサルを行うことにした。

 こういうのは「合格していてほしい」とだけ思って期待はずれの結果に終わるとショックが大きすぎる。だからこそ、不合格だったとき、どう心を入れかえたらいいか、あらかじめメンタルリハーサルをしておくのだ。

(掲示板を見る。自分の番号を探す。そして自分の番号の前後の番号が見つかるが、自分の番号はない。いくら探してもない。落胆して大学を出る。しかし、「もしや見間違いではないか」ともう一度、大学に戻って再度掲示板を見る。しかし、やっぱりない。諦めて放心状態のまま駅に向かう。さっそく自宅に帰ると、すぐに気持ちを切り替えてドイツ語のご検定試験をネットで探し始める。そう、来年の受験のためだ。もう私はふっきれたのだ。今年の不合格は気にしない。来年だ。勝負は来年だ。今年もう1年、しっかりと土台を作ってからやり直そう。そのほうがいい修士論文が書けることになるかもしれない。もう過去は振り返るのはよそう。成功者とは失敗しない人のことを言うのではない。失敗しても挫けずに努力し続けることができる人のことを言うのだ。お前も、成功者になりたければ、一度の不合格くらいでクヨクヨするな。また来年受ければいいだけのことじゃないか。来年は通るよ。だって来年は英語とドイツ語でほぼ満点取れるだろ。哲学だって7割以上できるさ。がんばれ、今から1年間は長いかもしれないが、過ぎ去った後から振り返ってみれば、短かったと思えるはずだよ、さあ、今日から来年に向けてスタートだ)

 私はこういうメンタルリハーサルを何度も行った。不合格だったときに、すぐに立ち直れるようにするためだ。

 合格した場合のメンタルリハーサルはする必要はない。素直に喜んでいればいいだけだから、何らリハーサルなどしなくていいのだ。ただ、不合格だったときのことは、どういう受け止め方をするか、あらかじめ心構えというものが必要なのだ。

 メンタルリハーサルをしているうちに、いつの間にか朝の6時になっていた。だが、合格発表は午前10時であるから、まだ家を出るには早すぎる。

 そんなことを思っていると、午前7時頃から眠くなり始め、うとうとしていると、どうやら1時間程度は眠ったようだ。

 さあ、合否発表を見にいこう。もう、どうにでもなれ。

 私は、ガックリ落胆しても安全に帰ってこれるように電車で見にいくことにした。自転車で行くと、不合格だった場合、落胆して自転車をこぐ力さえなくなっていると思っていたからだ。私は、午前9時に、自宅を出て駅に向かったのだった。(続く)

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2009年2月 5日 (木)

卒業面接諮問

 2月4日は、慶應大学の卒業面接諮問の日であった。

 これに欠席してしまうと、即座に卒業が半年延びることになる。だから、なんとしてでも出席しなければならない。インフルエンザや怪我などで欠席するわけにいかなかったのだ。例えば、通学途中で事故に巻き込まれたとしても、欠席してしまえばアウトだ。

 私はかなり早めに家を出て、大学図書館で待機し、面接に向かった。

 できの善し悪しというものもあろうが、なにはともあれ、出席することができ、面接を終えることができた。

 これで、あとは卒業判定を待つだけとなった。

 長いようで短かった慶應大学での日々、今日ですべてが終わりになると思うと感慨も深い。卒業通知が来さえすれば、とうとう慶應大学OBになるわけである。

 私は、自分への褒美として、ひさびさに高級喫茶に行くことにした。

 ここ数年、節約に節約を重ねているのでコーヒーを飲むのは、もっぱらファーストフード店だったが、本当に久しぶりに高級喫茶に行ったのだ。たまには、自分への褒美においしいコーヒーもいいだろう。

 慶應大学での勉学を終えたこと自体、私にとっては一つの喜びであるが、これに伴うように嬉しいニュースが2つ続いた。一つは、私の訳書『7つの習慣 最優先事項』がまたまた増刷となったこと、そしてもう一つは、新たに翻訳の仕事が入ったことである。しかも、前々から訳してみたいと思っていた著者の翻訳であるので喜びも大きい。

 今日は、これからアメリカ映画のDVDを観て、眠りにつくことにしよう。2月5日はとうとう大学院入試の一次試験の結果発表の日だ。

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2009年2月 4日 (水)

大学院入試一次試験の合否発表

 ついに、大学院入試の一次試験の合否発表である。

 合否発表は、大学の掲示板に貼られるだけであり、本人への郵送はされない。また、合格していた場合は、その場で二次試験の申込みをすることになっているので、本人が直接、大学まで足を運んで結果を見にいかなければならない。

 例えば、転職する気がない社会人が某難関試験を狙っているとしよう。そんな彼も合否は気になるだろう。しかし、合格しても同じ会社でそのまま生活するわけだし、不合格になったとしてもやはり同じ会社で同じように生活するわけだ。だから、本人は合否を気にするだろうが、赤の他人からすれば、「合否はそれほど重大事でもないのではないか? だってそれに合格したからといって生活がガラリと変わるわけじゃないんでしょ」という感じかもしれない。もっとも、そんなことを本人に言ったら立腹するだろうが。

 しかし、私の場合は、合否しだいで4月からの生活がガラリと変わってくるわけであるから、当然、気になるし、緊張もしてしまう

 合格していれば、そのままガッツポーズを決めて、どこかおいしいレストランででも昼食を取って帰ればいいだろう。あるいは、気が向いたら、気分転換にサウナでも映画でも行ってもいいかもしれない。

 問題は不合格になっていた場合である。正直、ガックリ来て、自転車で自宅に帰るのもおっくうになるのではないか。放心状態で35分も自転車をこぐのは苦痛だ。だから自転車で見にいくのは止めて、電車で行ったほうがいいだろう。電車ならば、落胆して放心状態になったとしても私の身体を運んでくれるからだ。

 私が本当にやりたいのは学問そのものであるから、合否に拘らず、学問を続けていけばいいわけだが、そんなに平然としていられるかどうか、それはそのときになってみなければ分からない。不合格になれば、やはりそれなりにショックは受けるだろう。

 合格と不合格で2つのパターンで心が揺れ続ける日々だが、あさってには合否が決まる。どういう結果になれ、受け入れる心の準備をしておかなければならないのだ。実にそわそわする毎日である。 

 

 

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2009年2月 3日 (火)

青山学院の何がいいのか

 以前、青山学院が2012年に青山回帰をするということを書いた。すると、その後、私のブログを「青山学院 青山回帰」「青学 都心回帰」などのキーフレーズで検索して見に来る人が非常に多くなった。いかに青学の青山回帰が話題になっているかが伺えよう。

 では、2012年の「青学の都心回帰」とは何のことか? 

 それは、2012年から、文系学部は4年間青山キャンパスで就学することになるということである。現状では、学年によって相模原キャンパスと青山キャンパスで分断されているが、それが2012年からは4年間青山キャンパスになる、ということだ。

 これはすごいことになる。何がすごいことになるかといえば、東京の私大の勢力図が大きく書き換えられることになるということだ。現在、「自宅から相模原キャンパスまで通学は困難」ということで立教や明治に流れていた千葉の学生が青学を併願、あるいは、単願で受験する確率が高まるということである。したがって、おそらく、2012年以降の青学は上智に匹敵するレベルの難易度になるのではないか。だから、青学に入りたければ今のうちが「お買い得」といえよう。なぜなら2012年度からは偏差値が急激にあがることが予想されるからだ。

 私の最初の出身大学が青山学院だけあって、それがよく分かるのだ。私は1、2年生のときは(今はなき)厚木キャンパスで過ごしたのだが、だからこそ、いかに青山キャンパス回帰がビッグニュースになりうるかが分かる。まったくもって、厚木キャンパスと青山キャンパスでは雲泥の差だったのだ。

 考えても見てほしい。青山キャンパスで4年である。場所は青山である。すなわち渋谷であり、表参道であり、原宿なのだ。これは他の大学ではそう簡単にマネできることではない。キャンパスが都心の一等地にあるということは、何にしても便利がいいのだ。勉学、レジャー、専門学校、ショッピングなどなど、何かと都合がいい。例えば、これからの大学生であれば、大学の勉強以外にITスクールや外国語学校にも通いたいという学生も多くなるだろう。そういうとき、都心の一等地に大学があれば、大学と専門学校の両方通えるのだ。

 もちろん、東大や早稲田・慶應に行けるのなら、迷うことはないだろう。しかし、それよりも少し下のレベルとなると、「4年間青山キャンパス」という魅力を持った青学も、十分志望するに値すると思う。青学出身の私が言うのであるから、まちがいはなかろう。

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2009年2月 2日 (月)

今週で来年度の私の人生が決まる

 さあ、2月になった。

 今週は、私にとって大きなイベントが2つある。その2つのイベントによって、私の来年度の生活がガラリと変わってしまうのだから、緊張するなといっても、緊張してしまう。

 1つは、大学の卒業面接諮問である。これは今まで勉強してきたことを発揮できるよう頑張りたい。これに合格しないことには、卒業が延期となってしまうので、がんばらなければならないのだ。

 そしてもう1つは、大学院の一次試験の合否発表である。合否通知は郵送では送られて来ない。実際に大学まで足を運んで見にいかなければならないのだ。というのも、合格していた場合は、その場で2次試験の申込みをすることになっているからだ(具体的には大学の卒業論文を3部事務局に提出しにいくのである)。

 どちらも私にとっては極めて重要なイベントである。

 どちらも今週中にある。さあ、どうなるだろうか。

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2009年2月 1日 (日)

あなたはお金に関して錯覚を抱いていないか

 ある人に、人生の究極の目標は何かと尋ねてみたところ、こういう答えが返ってきた。

「お金儲けだよ。一生、食うに困らないだけのお金を手にしたいよ」

 彼は、きっと、お金持ちになれば幸せになれると思っているのだろう。

 しかし、お金持ちになれば幸せになれるのだろうか? それは錯覚ではないだろうか? ガムシャラにお金儲けに奔走して、お金持ちになったあとで、「こんなはずではなかった」と後悔することはないだろうか?

 我々人間は、動物でもあるわけだから、霞を食べて生きるわけにはいかない。どうしても一定のお金は必要である。それは私も否定しない。アリストテレスも「幸せになるにはほどほどのお金は必要だ」と認めている。

 しかし、あくまで必要なのは「ほどほどのお金」にすぎない。それ以上のお金は、無理をしてまで稼ぐ必要はないし、無理に稼いだところで幸せになれるわけでもない。

 なのに、多くの人は、あたかもお金そのものに価値があるかのように、アクセクアクセクとお金を求めている。それではけっして幸せにはなれないのである。

 ハッキリと言っておこう。お金そのものに価値があるのではない。お金は、お金以外の価値あるものと交換してはじめて価値が生まれるのだ。そして、その交換のしかたがうまい人が幸せになれるのであって、お金をたくさん持っている人が幸せになれるのではないのだ。

 私たちは、お金に関して実に多くの錯覚を抱いているものだ。その錯覚を気づかせてくれる本が『ベンジャミン・フランクリン 富を築く100万ドルのアイデア 』である。

 お金持ちになりたければ、投資テクニックばかり学ぶよりも、まずはお金持ちになる精神を持つべきだろう。もちろん投資テクニックも重要だ。だがその前に本書でお金に関する錯覚を解きほぐそう。

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