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2009年5月

2009年5月31日 (日)

私のこれからのチャレンジ

 人間は、ただ周りの出来事に反応して生きているだけでは、けっして人間性が磨かれることはない。何度も言うようだが、楽なことをしていて、「すごい人」などなれないのだ。困難にチャレンジしてこそ、人間が磨かれるのであり、それが個性となって輝くのである。何も挑戦せず、テレビ見たり、旅行に行ったり、おいしいものを食べたり…という、だれでもできることに喜びを見いだす人生を送っていたら、あっという間に老いぼれになってしまうのではないか?

 ところで、私のまわりにも、「教養などつけても、何のたしにもならない。なんでそんなに沢山の大学に行くの? 行って何になるの? そんなの単なる自己満足じゃん」みたいなことを言う人がいるが、教養こそが魂の栄養素なのだ。教養こそが、より善い人間になるための血となり、肉となるのだ。霊界の研究をすればすぐに分かることだが、この世で身に付けた真の教養というのは、この世でよりも、むしろあの世のほうで役に立つともいえるのだ。

 だから教養をつけることにチャレンジするのも、人間を磨く上でとても大切なことだと思っている。ただ、人間というものは、目標がなければ、どうしても怠けがちになる。というのも、何もないのに、ただ教養のために、という理由で次々と難解な書物に挑戦したり、ITの腕を磨いていくというのは、けっこう困難だからだ。

 そこで私はモチベーションを高めるために、いろいろな資格にチャレンジしていきたいと思っている。

 具体的には次の資格である。

オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」(7月に受験予定。できれば一発合格を目指している。最低でも、筆記試験だけでも「部分合格」は勝ち取りたい)。

ドイツ語検定準1級」(11月に受験予定。一回で合格する自信はないが、できるだけ合格点に近いところまで行きたいと思っている。今回どのていど点数が取れるかが分かれば、次回にどの程度頑張ればいいかが分かるというものだ)。

WEB検定(WEBデザイナー)」(8月頃受験したい。80点以上合格のところ、前回は68点であった。次回は最低でも75点以上を目指し、遅くとも今年中には合格を勝ち取りたい)。

ウェブデザイン技能検定」(いつ受験するかは決めていないが、近い将来、HTMLを復習し、ある程度の自信がついたら、受験してみたい)。

ビジネス数学検定」(1000点満点で800点以上取ると、AAAという最高の評価が貰える。ただし、制限時間が短い割に問題数が多いため、800点以上取るのは、相当な数学的センスと訓練が必要である。私は前回640点であったが、まだ伸びしろはあると思っている。ただ、今のところ、700点くらいが限界かもしれない。最終的には800点超えを目指したい)。

 また、私は将来的にはロンドン大学の通信教育課程で(学位を目指したいと思っている。いつ始めるかということに関しては未定であるが、これは是非近い将来、挑戦してみたいと思っている。

 

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2009年5月30日 (土)

好きなことをしたら、お金がどんどん入ってくる?

 あなたは次の1と2の選択肢があったら、どちらがいいのか?

 1,仕事をして、その対価としてお金を貰う

 2,好きなことをしたら、いつの間にかお金が入ってきている

 だれでも2を望むのではないだろうか。 

 好きなこと、例えば、歌うのが好きな人なら歌手、人を笑わせるのが好きな人なら漫才師、野球が好きならプロ野球選手…というふうに、好きなことをした結果、お金が入ってくる。

 これが理想ではないか? 

 実は、今の私は、2である。好きなことをして、それでお金が自動的に入って来ているのだ。今、私が取り組んでいる作品も、お金のためにやっているのではなく、好きだからやっているに過ぎないのだ。もちろん、仕事であるからタダでは引き受けられないが、基本的にお金儲けが第一の理由ではない。

 しかし、この世に住むほとんどの人は、1の理由で働いているのではないか。つまり、好きだから働いているのではなく、お金を貰うために働いているのではないか。その証拠に、もしお金が1円も貰えないとしたら、今の仕事をするか? しないのではないか?

 「好きなことをして、自然とお金が入ってくる」

 これを実現しようと思ったら、好きなことをトコトン追求しなければならない。ちょっとやそっとの困難があってすぐに投げ出すようではダメなのだ。

 例えば、私にしても、出版翻訳家になるまで、どれだけ険しい道があったと思う? 

 翻訳の通信教育を3年もやった。英語の学校も15校くらい通った。イギリス留学でも2年間で600万円くらい使った。社内翻訳スタッフ時代は、毎日のように雷を落とされた。

  本当に、思い出すだけでも、茨の道だったのだ。 

 「好きなことをやったら、自然とお金が入ってきた」という状況を作りたいのなら、まずトコトン好きなことに打ち込んでみたらどうか? ちょっとや、そっとのことで諦めていたら、いつまでたっても、お金の奴隷でいるしかない。逆に言えば、お金の奴隷で居続けるということは、「好きなこと」をトコトン追い求めなかった結果だとも言えるのではないか?

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2009年5月29日 (金)

オーストラリア政府認定ドイツ語検定問題集

 「オーストラリア政府認定ドイツ語検定」の問題集が宅配便で送られてきた。

 開いてみると、当たり前のことだが、最初から最後まですべてがドイツ語で書かれてある。

 1ページ目を開いた瞬間から、頭がパニックだ。なにしろ、書いてあることの意味がよく分からないだけでなく、知らない単語があまりにも多すぎる。

「おいおいおいおい、大丈夫かい、こんなの受けても…」

 ドイツ語検定2級には合格したが、考えてみれば、ほとんどの問題は4択問題だった。つまり、ドイツ語を書いたり、話したりしなくても、4つの中から1つ選んでおけばよかったのである。

 しかし、この検定はまるで違う。

 なにしろ、日本語がない。

 第二に、ドイツ語作文もあれば、ドイツ語での面接もあるのだ。

 このブログを見ている人は思うかもしれない。

「なんで、そんなに苦労してまでドイツ語やってるの? だって、英語の翻訳家なんでしょ? ドイツ語ができるようになって一体何だというの? お金が儲かるの? そんなに大変なら、最初からやなければいいじゃん」

 だが、私は挑戦する。それが私の義務だと思っているからだ。

 何度も言うようだが、人間というのは、ただ周りの出来事に反応して惰性だけで生きていても人間性は磨かれないのだ。言い換えれば、何かに挑戦しないかぎり、人間性は磨かれない。だが、人間は生きている以上、自分を磨く義務があるのだ。なぜなら、そのために生まれて来たからである。

 何に挑戦するかは本人しだいだ。だが、挑戦しない人生は、「ただ無為に過ごす人生」であり、その責任は自分が負わされることになるのだ。哲学者サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言ったが、自由を無為に過ごしたら、その責任はすべて自分が取らなければならないのである。

 私は、別に合格には拘っていない。挑戦すること自体に意義がある。精一杯がんばろうと思う。

 

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2009年5月28日 (木)

学問をせずして「いい人」になれるのか?

 学問をせずして「いい人」になれるのか? 

 多くの人は次のように答えるのではないか。

「私のまわりにも、学歴のない人でも『いい人』はいっぱいいるよ。学歴なんか関係ないよ。学問をやったからといって『いい人』になれるかどうかはまったく関係ないよ」

 ただ、私はそういう人に聞いてみたいのだが、彼らがいう「いい人」の基準はいったい何だ? 彼らのまわりにいる「いい人」とはいったいどんな人だと言うのだ?

 あなたの場合はどうだろうか? あなたが「いい人」だと思う基準は何だろうか。その基準に間違いはないだろうか? 

 例えば、ある人は、他人に人気があるかないか人を判断する基準である。つまり、人気があればあるほど「いい人」であり、人気がなければ「悪い人」である。

 またある女性は、年収が人を判断する基準である。つまり、年収が高い人が「いい人」であり、年収の低い人が「つまらない人」である。

 また別の人は、結婚しているか否かが人を判断するときの基準である。結婚している人が「いい人」であり、未婚者は「欠陥人間」である。

 このように人はそれぞれ他人を判断する基準を持っている。私が疑問を投げかけたいのは、その基準は本当に正しいのか? ということだ。あなたが勝手に正しいと思いこんでいるだけの話ではないのか? ということだ。

 何が人間として「善い」ことなのかという疑問は、古くソクラテスから始まった。ソクラテスは、まわりのみなが「善い人」とはどんな人かを知っていると思いこんでいるので、具体的にどんな人が善いのか一人ひとり尋ねてまわった。しかし、まともに答えられる人は一人もいなかった。

 こうして哲学が生まれたのである。

 人間にとって「善い」とは何か。人間が果たすべき義務とは何か。こういうことを突き詰めて考えていく作業が始まったのである。そしてその作業を突き詰めてやっていくと、人間はいかに何も知らないかということに行き着いたのである。

 つまり、私たちは、まだまだ知らないことだらけであり、それを少しでも明確に見極めていくには学問をするしかないのだ。言い換えれば、学問をしないで、ただ単に通俗的な価値観(「結婚していれば善い人」とか「他人に人気がある人が善い人」という基準)だけで他人を判断していれば、まちがった判断をしやすいままであり、人間として進歩など何もないのだ。

 例えば、「結婚」という基準を取り上げてみても、この世ではいかに多くの間違った結婚があることが分かる。

 『独身の価値の証明―幻想をもたない国の男女関係 』という本に「結婚に失敗する10の理由」が載せてあった。その理由とは、①理想を下げて、結婚のために結婚する。②親の束縛から逃れるために結婚する、③妊娠してしまったから結婚する、④親への反抗から結婚する、⑤金のために金持ちと結婚する、⑥外見に惹かれて結婚する、⑦身体の関係ができているから結婚する、⑧孤独に耐えかねて結婚する、⑨安心感を求めて結婚する、⑩いつまでも独身ではいられないから結婚する、である。

 アメリカでは結婚したカップルの半数は離婚すると言われており、日本でも昔よりは離婚率が高まっているだろう? こうしたことからも、「間違った結婚」も多くあり、「結婚しているから善い人」「結婚していない人は欠陥人間」という基準が正しいと主張するのがいかに無理があるかが分かるだろう。

 誤解しないで欲しいことは、私は学歴がある人が「いい人」だと言っているのではないことだ。大切なのは学歴ではなく、学問に対する姿勢だ。つまり、いつまでも真理を見極めようと努力する姿勢だ。どこの大学を出たかとか、そういうことが大切なのではない。中卒だろうが高卒だろうが、つねに真理を見極めようと努力している人は立派に「学のある人」だと言えるのだ。

 最後にもう一言いっておこう。私たちはまだまだ何も知らないのだ。知っていると思ったら大間違いだ。そもそもその「知っている」ことも、両親や周りの人たちから聞いた通俗的な価値観をそのまま取り入れただけのものにすぎないのではないか。そんなものは本当に「知っている」うちには入りやしない。だから言っているのだ。人間はつねに謙虚な態度を失わず、何が人間として善いのか問い続けていなかければならないのであり、それこそが学問なのだ。

 

 

 

 

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2009年5月27日 (水)

平均打率を高めよ

 私たちがこの世に暮らしているのは、死後、できるだけ良い場所に行くためである。それが人生の最大の目的であり、お金を稼ぐとか、地位を得るとかといったことは、ちっぽけな目標に過ぎないのだ。

 死後できるだけ良い場所に行くには、少しでも善い人間になることが必要なのだが、あまり深刻になって考えるのもよくない。

「私は、今までの人生で、自分のことばかり考えてきた。自分、自分、自分…だった。とても天界など入れるわけはない。なんて愚かな人生を歩んで来たんだろう」

 そう思って、クヨクヨ過ごしていてもしかたないではないか。変えられるのは、これからだけなのだから、クヨクヨ過ごすのはよして、これから頑張ろうではないか。

 その際、「平均打率を高めよう」と考えるのが一番よい。

「今までの俺の人生は、自分、自分、自分…で、他人に対して思いやりなど持ったことなどなかった。打率で言えば、せいぜい1割、いや、それ以下だったかもしれない。これでは地獄入り間違いなしだ」

 たとえ、そう思えても、まだ人生は残っているのだ。これからの人生で最大限がんばって、1割の打率を2割、あるいは、3割に近づける努力をしていったらいいではないか。最終的に3割に行けば御の字だろう? 

 100点満点の人生など歩んでいる人などこの世に一人としていないのだ。それは野球の選手で打率10割を打つ選手がいないのと同じだ。3打数しか立たない打者なら3本連続ホームランを打って打率10割ということもあるかもしれないが、年間400打席も立っている打者で打率10割などいない。それと同じで、人間、長く生きていれば、だれもが悪いカルマを作ってしまっているのだ。どんなに立派な人間でも、やることなすことのすべてで良いカルマばかりを作っている人などいやしないのだ。

 でも、悪いカルマを作ったことを嘆いていてもしかたない。だから今後は、極力、悪いカルマを作らないように注意すべきだが、過去のことはあまり深刻にならず、これから良いカルマを作っていき、「平均打率」を高めて行けばいいのである。というより、私たち人間にはそれしかできないのだから、少しでも良いカルマを作ることを心がけるべきであり、過去のことは悩まないことである。

 さあ、今日から新しい出発だ。過去のことは忘れ、今日から一つひとつ良いカルマを作っていこう。小さな小さな親切でいい。隣人愛を実践していくことだ。

 今1割の打率も、一日一日、頑張っていれば、1年後には1割2分になっているかもしれない。それを一生続ければ3割も夢ではないぞ。そこまで行けば、人間としてそこそこ頑張ったと言えるのではないか? 

 

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2009年5月26日 (火)

変わりつつある人事課

 私は、最初の大学(青山学院大学)を卒業してから4年近く、某大学(出身大学とは別の大学)に職員として勤務していたのだが、たまたまインターネットで検索していると、その大学の人事政策の記事を目にした。

 大学も今は少子化のせいで、生き残りをかけて必死だ。それが人事政策にも及んでいる。惰性だけで働いていては、生き残りをかけた闘いに取り残されるからだろう。

 人事政策に関して、驚いたことが2つある。

 1つは、職員数を2割近く減らす目標である。実際にすでに1割近くは減らしているようだ。考えてみれば、5人の課でも4人でなんとかしろと言われれば、できると言えばできるわけである。その実施に踏み切ったということだろう。経費削減には効果的だろう。

 しかし、もう1つの政策にはもっと驚いた。全職員が自分と関わりのある職員を評価するシステムの導入である。

 私が勤務していたころは、人事評価というのは課長が一方的につけるものであり、評価された本人にはそれが分からないシステムだった。ところが、今では、基本的に全職員が上司や同僚や部下の評価をするシステムになっており、評価された本人にも、その評価が知られることになっている。これには驚いた。 

 私の頃とずいぶん変わったものだ。しかし、こんなシステムを導入したら、つね日頃からまわりの人の目ばかりをビクビク気にするような人間になってしまわないのだろうか? 

 私は、やりたい仕事(文筆業・翻訳業)があったので職員の仕事は辞めて正解だった気がしている。というより、毎日毎日、他人の顔色をうかがって、「高い点数つけてくれないかなぁ」「こんなこと言ったら低い点数つけられるかなぁ」なんてビクビクしながら仕事をするのなんてゴメンだ。まあ、こういうシステムの善し悪しもあろうが、実施しているということは、良いと思っているからやっているのだろう。果たして効果がどれほどあるのだろうか。それは年月を経ないと簡単には判断しにくいだろう。

 そんなことを思いつつも、翻訳の仕事に精を出す毎日である。ちなみに、私が今訳している本は今年11月頃に出版が予定されている。私自身、ひさびさの本の出版なので、楽しみにしているのである。

 

 

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2009年5月25日 (月)

隣人愛とは特定のだれかを愛することではない

 私が、この世で生きる上で最も大切なのは隣人愛だと何度も述べているが、隣人愛とは「特定のだれか」に向けた愛のことではない。隣人愛とは、だれかを愛することというより、「人間性そのもの」を愛するということだ。

 言っている意味が難しいだろうか? 

 説明をわかりやすくするために、隣人愛の逆を考えてみよう。

 隣人愛の反対は自己愛である。自己愛とは、「自分さえ良ければいい、他人のことなんかどうなってもいい」ということだ。

 妻を愛している、子供を愛している…というのは、隣人愛ではなく、自己愛の延長だ。なぜなら、妻を愛するのも、子供を愛するのも、結局は、自分にとって都合がいいから愛しているにすぎないからだろう? 

 隣人愛は、そういった「自分さえ良ければいい、他人はどうなってもいい」という心を捨て、相手の立場になって考えるということだ。「相手も自分と同じように大切にする」ということだ。

 分かりやすい例をあげよう。

 例えば、ある会社員がいるとしよう。会社でしか使えないパソコンソフトがある。それを自宅で使う自分用のノートパソコンにインストールすれば、ただでそのソフトが使えると思い、隠れて自分のノートパソコンにインストールしてしまった。明らかに違法行為であるが、世の中にはこの人のように「ばれなきゃいいんだよ、こんな高いソフト、買ってられないよ」とついつい違法行為をする人もいるわけだ。そういう考え方自体が自己愛の産物だと言っているのだ。

 ソフト制作会社の社員は、まじめにソフト開発に時間と労力をかけて制作しているわけである。彼らの立場を考えれば、とても、ただでインストールなどできないだろう? こういう風にソフト制作会社の社員の立ち場になって考えるのが隣人愛の始まりだ。この例からも分かるように、「特定のだれか」ではなく、「目に見えないところにいるだれか」に対して思いやりを持つことが隣人愛の始まりだ。

 違法行為を行わないというのは、人間として最低限のことだが、それを出発点として、日々、できるかぎり「世のため人のためになること」をやろうと努力することが大切だ。

 例えば、「困っている人を助けてあげたい」と思っているのなら、具体的に何をするのがいいのか考えなければならない。ボランティア活動か、献金か、チャリティーか、それとも会社員として真面目に誠心誠意心をこめて働くことか? 方法はいくらでもある。小さな小さなことでも、やろうと思えば、いくらでもあるんだ。それを生きているうちに、一つでも多くやった人が天界に入るんだ。

 あなたは天界に入りたくないのか? 自分のため、自分のため、自分のため…と自己愛におぼれて生きていると、いくらお金を稼いでも、いくら名声を得ても、その挙げ句に地獄に落とされることになるのだ。 

 

 

 

 

 

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2009年5月24日 (日)

あなたは自分を磨くための目標をもっているのか?

 先日、韓国の前大統領が自殺しただろう? 報道によれば、巨額のワイロを受け取っていたことが発覚し、窮地に追い込まれたようだ。もし、それが本当であれば、彼はほぼ間違いなく地獄に行くことになるだろう。前大統領ほどの人が、である。

 今までも何度も言ってきたことだが、この例からも分かるとおり、どんなに巨額の金をもっても、どんなに名声を得でも、あの世に行くときには、なんにも役に立たないのだ。あの世に行ったときに、役立つものといえば、自分の魂をどれだけ磨いたかだけだ。巨額のお金を手にしても、地位や名声を手にしても、その挙げ句に地獄に行っていては何の意味もないだろう?

 今、私は霊界研究をしているのだが、実際、死んだ後に天界に入れる人もごくわずかだがいるようだ(600~700人に1人くらいの割合のようである)。しかし、天界に行けるか否かは地位や名誉や富とはまったく無関係のようだ。天界に行く人は、意外と平凡な主婦だったり、無名の会社員だったりすることもある。彼らが他の人と違うのは、自分の魂を磨いていたという点だ。魂が浄化されているから天界に入れるのである。

 では、自分の魂を磨くにはどうすればいいか? 方法はいろいろある。ただ、楽なことをやっていては磨かれることはない。日々まわりで起きている出来事に反応して生きているだけでは、魂は磨かれない。だって、そんなことならネコでもできるだろう? ネコでも、日々まわりの出来事に反応して生きているだろう? それと大差ないわけだ。そんな生き方をしていて天界など入れるわけはない。人間ならば、人間しかできないことをしなければならないのだ。

 例えば、字でもそうだろう? 字も、うまく書く練習をしなければ、ただ適当に字を書いているだけでは何年経っても決してうまく書けるようにならないだろう。字が汚かった子供がが、字を書く練習をしないまま生きて、40歳になったら驚くほど字がうまくなっているか? 50歳になったら字が綺麗になっているか? 汚いままじゃないのか? いや、むしろ変な癖がついているのがオチではないか?

 それと同じように、自分の性格も、ただ単に生きているだけでは磨かれることなどないのだ。自分の性格も、字をうまく書く練習をするように、自ら率先して、欠点を直していなかいかぎり、磨かれることはないのだ。もう一度いう。ただ周りの出来事に反応して生きているだけでは、何年経っても、性格は磨かれない。困難なことに挑戦することで初めて性格が磨かれるのだ。

 あなたは日々、自分を磨くためにどんなことをやっているだろうか。

 何? 何をやったらいいのか分からない?

 1日1時間、偉人伝を読んでみるのもいいのではないか。人生論を読むのもいいかもしれない。外国語ができる人なら、それを原書で読むのもいいだろう。あるいは、ボランティア活動に参加してもいいのではないか。時間のない人なら、公園に行って落ちているゴミを拾ってもいいのではないか。役所の福祉課に行けば、献金を受け付けてくれるはずだから、匿名で献金してもいいのではないか。世の不正を糾弾する活動に参加するのも一つの手ではないか。世の中を明るくするアイデアがあったら雑誌や新聞に投稿してもいいのではないか。あるいは、本を書いて出版社に売り込んでもいいのではないか。

 あなたは、このような「自分を磨くための目標」を持っているか? お金儲けとか、昇進とか、異性を口説くとか、そういった「自らの欲望を満たすための目標」ではなく、純粋に「自分の魂を磨く」ための目標は何だ?

 かくいう私は今日これから図書館に行き、哲学書(英語)と格闘するつもりだ。それは何かの資格取得のためでもなく、他でもない自分を磨くためだけの目標だ。

 

 

 

 

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2009年5月23日 (土)

私の趣味

 私は30代のころは、毎日毎日、仕事が多忙で趣味の時間などまったくといっていいほど取れなかった。30代のころは、1年で8冊も9冊も単行本を出していたのだ。正月もクリスマスも大晦日もずっと仕事ずくめだったのだ。

 しかし、今は、多少、趣味も愉しめるようになった。その趣味の一つがDVDで洋画を見ることである。

 ただし、私の場合は、DVD再生ソフトで英語字幕と日本語字幕の両方を同時に出して見るようにしているため、単に映画を愉しむだけでなく、翻訳の勉強も兼ねることができるのだ。

 洋画を見ながら、英語字幕と日本語字幕を比較し、

「なるほど、ここはこう訳しているのか」

「これは、ちょっと気の利いた英語表現だな」

 といった具合に、映画を見るだけで、英語や翻訳の実力がつくわけである。

 もっとも、英語の実力をつけることを第一の目的として見ているのではなく、あくまで趣味として映画を愉しむために見ているのだが、知らず知らずにうちで英語力も磨きがかかるわけである。

 私は自宅にテレビがないので、愉しみといえば、もっぱらDVDで映画を見ることである。週に2本程度は見ているが、冒険映画、アクション映画、サスペンス映画、恋愛映画など、多岐にわたって見ている。

 単なる趣味ではなく、自分の職業(翻訳業)と結びついている趣味がもてる私は、とても幸せであると感じている。

 今日もまた何かDVDを見ようと思っている。

 

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2009年5月22日 (金)

人間界レベルの目標と霊界レベルの目標

 あなたはいったい何を目標にして生きているのだ? 幸せになりたくないのか? 幸せになりたいのなら、幸せになるために努力しなさい! そのためには、まず、自分が人間界に生きると同時に霊界にも生きる存在であることを悟りなさい!

 当たり前のことだが、人間は人間界に生きている。人間界とは、人間が五感で感じる世界のことだ。ただ、人間は人間界と同時に霊界でも生きているのだ。霊界とは人間が五感では感じられない世界のことだ。言い換えれば、魂の世界のことだ。それに一日でも早く気づきなさい! なぜなら、ソクラテスも言ったように、人間は「自らの魂をすぐれたものにすること(善い人間になること)」以外の方法で幸せになれることなどないからだ。

 しかし、残念ながら、この世に住んでいるほとんどの人は、人間界がすべてだと思いこんで、「人間界での目標」しか持っていない。「自らの魂をすぐれたものにするための目標」など何も持っていないのだ。

「もっとお金持ちになりたい…」「もっと売上を上げたい」「資格に合格したい」「息子を有名校に入れさせたい」「早く昇進したい」「他人に良く思ってもらいたい」「有名になりたい」「感謝されたい」…。こういうのはすべて「人間界での目標」にすぎないんだよ。

 そんな「人間界での目標」がすべて達成されたら、幸せになれると思っているのか? あなたはどんな目標を持っているのだ? あなたの目標の中に「自らの魂をすぐれたものにするための目標」はあるのか? あるのなら、じゃあ、それは一体何だ? あなたが全身全霊を傾けて日々邁進している目標とは何だ?

 「自らの魂をすぐれたものにするための目標」は「人間界の目標」とは次元が違う。地位や名誉や金銭や名声などの報酬を求めた目標ではなく、あくまで自らの魂を磨くための目標だ。ごくわずかな例を挙げれば、次のようなものがあげられるだろう。

「約束したことはきちんと守ろう」」「法を遵守できる人間になるために法律を勉強しよう」「困っている人に献金しよう」「献血しよう」「ボランティア活動に参加してみよう」「不正を見つけたら糾弾しよう」「社会をより良くするアイデアを思いついたら新聞に投稿してみよう」「困っている人を見つけたら、出来る範囲で助けてあげよう」「社会のルールは守ろう。自分勝手な理由で破るのはけっして止めておこう」「より良い判断ができるように、論理学を学ぼう」「少しでも世のため人のために自らを役立てられる人間になるために偉人伝を読もう」「英語を学んでボランティア通訳をかって出よう」…。「自らの魂をすぐれたものにしよう」と決意したら、やるべきことは山のようにあるのだ。退屈などしていられないのだ。

 例えば、私は「ビジネスコンプライアンス検定」に挑戦したが、それは私にとっては「人間界での目標」というより「霊界での目標(魂をすぐれたものにするための目標)」であった。偉人伝もたくさん読んだが、これも「人間界での目標」ではなく、「霊界での目標」であった。そして今大学院で学問を続けているのも「人間界での目標」というより「霊界での目標」だ。自分を磨くための目標なのだ。言っている意味がお分かりであろうか? 

 「人間界での目標」を持つなとは言わない。だれでもお金が欲しいだろうし、いい家に住みたいだろう。だから、そういう目標を持ってはいけないとは言わない。

 だが、そんなちっぽけな目標だけのために生きるのはやめなさい! たとえ、それがすべて叶えられたとしても、たいして幸せにはなれやしないんだよ。そんなちっぽけな目標で終わるのではなく、「自らの魂をすぐれたものにすること」、ひいては、「自らを世のため人のために役立てること」を目標にしなさい。

  天界における喜びの定義とは「自らを世のため人のために役立てること」であり、そういう生き方をした人だけが死んだ後、天界に入るのだ。

 

 

   

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2009年5月21日 (木)

オーストリア政府公認ドイツ語検定受験申込み

 「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」の7月の受験申込みをした。

 昨年秋に「ドイツ語検定2級」に合格したので、準1級を狙いたいところなのだが、準1級と1級は年に一度、11月に実施されるだけなので、その前に腕試しに「オーストリア政府公認ドイツ語検定」を7月に受けることにしたのだ。

 この試験は5段階等級があり、下からA2、B1、B2、C1、C2の5段階であり、B2に合格すればドイツの大学で入学許可を出してくれるところもあるようだ。B1でも、芸術系の大学だと思うが、少数の大学で入学許可が出るところもあるようである。

 私の場合、「ドイツ語検定2級」に通ったといっても、実力にもの凄い偏りがある。というのも、私の読解力とリスニング力はそれなりのレベルには達しているとは思うが、逆にスピーキングやライティングなどはほとんどゼロに近いのだ。なにしろ、ドイツ語で作文などした試しがないのだ。

 今回、B2を受けるかどうしようか迷っていた。というのも、読解やリスニングは頑張ればどうにかなりそうだが、ほとんどゼロの実力であるスピーキングやライティングどが足を引っ張りそうだからだ。受験料も安くはないので、いきなり高いハードルを目指すよりも、まずはB1でどの程度の点数が残せるかを見てみるため、今回はB1を受けることにした。

 B1にも、もちろん、読解やリスニング以外に、ライティングもあれば、スピーキングもある。ただし、筆記(読解、リスニング、ライティング)が合格点に達していれば、スピーキングが不合格であっても、「部分合格証」を出してくれるらしいのだ。だから私は「部分合格」だけでもいいから狙ってみようと思い、受験を決めたのだ。もちろん、やるからにはスピーキングも合格を狙うことは狙う。

 実は、受験申込み期限が迫ってきていたのに、「今回、受けるのどうしようかな~」、「B2を受けてもたぶん落ちるよなぁ~」、「落ちてガックリくるくらいなら、11月まで待ってドイツ語検定受けたほうがいいかもな」、「何もそんなにガムシャラにドイツ語をやらなくても、気楽に勉強していけばいいよなぁ」などと、怠け心が私を誘惑し、受験申込みをためらっていた。が、ためらえば、ためらうほど、ドイツ語の勉強は一向に進まないのだ。

 「こんなことではいけない! ずるずるやっていたら実力なんか付くわけがない!」

 そう気を持ち直し、B1を受けてみることにし、19日に申込みをすませた。

 受験料も安くはないので、これで気を引き締めて勉強できそうだ。もう、受験から逃げられないのだから。まずはB1合格を目指して全力投球だ!

 結果が出れば、またこのブログで公表したいと思う。

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2009年5月20日 (水)

他人から尊敬される人になるには(終)

 私が大学1年時、40日間入院したときに100人以上の見舞客があったことをお話しした。同時に、その40日間で私と同室だった28歳の男性はせいぜい奥さんくらいしか見舞客がなかったこともお話しした。

 「他人からの評価」が「人間としての価値」を決める基準だと考える人であれば、当時の私と同室にいた28歳の男性とでは、私のほうが遙かに「人間として立派」ということになるだろう? 

 しかし、私はそんなことなどちっとも思っていない。なぜなら、私は「他人からの評価」は人間をはかる絶対的な基準にはなりえないと思っているからだ。人間として尊敬に値するか否かは、あくまでその本人が日々どのような生き方をしているかで決まるのであって、それ以外のことで決まることなどないのだ。

 事実、当時の私には「尊敬すべき点」などまるでなかったし、「人望」があったわけでもない。見舞客が多かったのは、見舞いに行く条件が整っていただけの話で、それ以外の何ものでもないのだ。

 では、「本人が日々どのような生き方をしているか」で、その人が本当に尊敬に値するか否かが決まるとしたら、具体的に何を基準にしたらいいのか?

 私は、それがカントのいう定言命法だと言っているのだ。平たく言えば、人間としての義務を日々果たして生きているかどうかだ。それを果たしながら生きている人は十分に尊敬に値するし、それを怠っている人は(たとえ見舞客が多かろうが、結婚式や葬式に来てくれる人が多かろうが、年賀状を何千枚も貰っている人であろうが)尊敬には値しないのだ。

 言っていることが少し難しいだろうか? 人間としての義務? それは何? と思うかもしれない。ただ、どうだろう。こういう例だとわかりやすいのではないか。

 もの凄く可愛い女の子がいた。可愛いだけでなく美しさも兼ね備えていた。だから周りの男性の多くは、彼女から注目を集めようとした。しかも、男性からだけでなく、女性からも人気があった。誕生パーティには大勢からプレゼントを貰っていた。友達も多く、性格も明るかったのだ。

 そんな子が、驚くことに、ある日、貸し出し禁止となっている図書館から高額な希少本を鞄に入れて出て行った。後日、その子と例の希少本について話す機会があったときにそれが判明したのだ。その本の話になったとき、その子は「私、その本持っているのよ」とうっかり口をすべらしてしまった。「なぜ、そんな高い本、持っているの? そうそう手に入る本ではないよね? 買ったの?」と尋ねると、「いや、図書館からちょっと拝借しているだけです」と答えた。「だって、あの図書館は貸し出し禁止になっているでしょう? 知らなかったの?」と聞くと、「知っているよ。でも、私、あの本、前々から手元に置いてみたかったんだもん。いいのよ、誰にも見つからなければ。いずれ返します」と悪びれるまでもなく答えた。その後、その子が本当に返したのかどうかは不明だ。

 さあて、あなたはこの子は「尊敬に値する人間」だと思うだろうか? つきあいたいと思うだろうか? 誰かも人気のある子である。男子にも女子にも人気があり、誕生パーティにいくら大勢がかけつけてくれる子だ。

 私なら、「ええ? こんなことが平気でする子だったの? 親の顔が見てみたいよ」と逃げ出したくなるだろう。仮にそんな子とつきあうなんてことになったら、つきあっていくうちにどんどん幻滅させることは分かり切ったことだろう? なぜなら、人間として「やってはならないこと」を平気でできる子だからだ。

 何度でも言う。「他人からの評価」で「人間の価値」を決めるのではなく、日々その人が行っていることで判断しなさい。それ以外のことで人間を判断するから、おかしなことになるのだ。マーフィーの法則で有名なマーフィーも、それを著書の中で何度も述べているではないか。早くそれに気づきなさい!

 では、尊敬に値するにはどうすればいいのか。人間としての義務を果たすには何をすればいいのか。それこそが隣人愛なのだ。カントに言わせれば、定言命法を守った上での隣人愛である。つまり、「自分がやりたいから隣人愛を行う」のでは、まだまだ生ぬるく、「人間の義務として隣人愛を行う」のでならなければならないのだ。

 「人間の義務として行う隣人愛」はどのようなものがあるか、それをお話しし始めたら長くなるので、今後、気が向いたときにでも不定期的にお話ししていきたいと思う。

(注、この記事の中の「もの凄く可愛い女の子」の話は例え話です)。

 

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2009年5月19日 (火)

他人から尊敬される人になるには(4)

 カントは「真に尊敬に値する人間」になるには定言命法を守ることだと言ったのである。簡単に言えば、単に世のため人のためになることをやったというだけでは足りず、それを人間の義務として行わなければならないと言っているのだ。

 「世のため人のためになることを人間の義務としてする」ということはどういうことか? 「世のため人のためになることを人間の義務としてではなく、する」ということがありうるのか? もしあるとすれば、何がどう違うのか?

 「世のため人のためになることを人間の義務としてではなく、する」ということはよくあることだ。それは「人間の義務」としてではなく、「自分がしたいからしている」ということである。単に「自分の欲望を満足させるためにする」ということだ。

 わかりやすい例を挙げよう。 

 だれでも、好きな人がいれば、その人に親切なことをしてあげたいと思うだろう? しかし、好きな人に親切にしてあげたからといっても、それはただ自分がやりたいことをやっただけにすぎないだろう? 例えば、自分の子供を愛する、自分の恋人に親切にする…。こういったことは、ただ単に自分の欲望を満足させただけに過ぎないのだろう? それだけで「真に尊敬に値する人」だと断言していいのか? 

 もちろん、好きな人親切にするのは悪いことではない。好きな人を愛することも悪いことではない。だが、それは「他人に親切にする」とは言っていても、結局は「自分がしたいことをした」に過ぎないだろう? そんなことが尊敬に値する基準になるかと言えば、もちろん、ノーだ。そんなことは誰もがやっていることだし、比較的簡単なことだ。

 だからカントは、ただ単に世のため人のためになることをしただけでは「尊敬に値するとまでは言えない」と言っているのだ。それを「人間の義務」としてやって初めて尊敬に値すると言っているわけだ。つまり、好きな人に対してだけでなく、嫌いな人に対しても、好きな人にしてあげるような親切をしてあげられるようになって「真に尊敬に値する」といえるということである。なぜなら、それは「好きだからやってあげている」のではなく、「親切にしてあげるべきだから親切にしてあげている」ということになるからだ。そうなって初めて「人間の義務」を果たしていると言えるのだ。

 お分かりであろうか?

 だから、「真に尊敬に値する人間」になろうと思えば、まずは人間としての義務を明確に把握し、その義務を遂行するために日々最大限の努力を払うことが必要なのだ。

 私は、このカントの思想を初めて知ったとき、身体中に電流が走るがごとく感動した。そして、この定言命法という考え方をもっと突き詰めて勉強してみたいと思ったのだ。これこそが人間が真に尊敬に値するか否かの基準だと思うのだ。

 しかし、私の周りには、尊敬に値するか否かという基準を、他人からどう評価されているかで決めようと思っている人があまりにも多い。例えば、結婚式(葬式)にどれだけの人数が参加したかとか、入院しているときにどれだけ多くの人が見舞いに来たかとか、年賀状をどれだけ沢山もらったかとか、どれだけ沢山の友達がいるかとか…。

 私は大学1年のときに、交通事故にあい、40日間、入院していた。その40日間で見舞いに来てくれた人は100人を超えた。ウソではない。なぜなら私は、退院後に見舞いに来てくれた人に対して礼状を書けるように、見舞いに来てくれた人を全員メモしていたからだ。寮の友人が約60人、同じクラスの友人が10数人、同じクラブの友人が10数人、中学時代の友人で東京に出てきていた友人が数名、受験のときに知り合った友人が数名、寮の職員が数名、大学の教職員が数名、それに両親だ。それで100人を超えていたのだ。

 もう一度言う。40日間で見舞いに来てくれた人は100人を超えていたのである。5回以上見舞いに来てくれた友人も3人いたし、複数回来てくれた友人も大勢いたので、延べ人数で言えば、200人も300人にもなるだろう。私と同室の28歳の既婚男性はその40日間で、奥さんくらいしか見舞いに来た人はいなかった。

 「他人からどう評価されるか」を「尊敬に値するか否か」の基準として考える人なら、その当時の私が「いかにも人望のある、尊敬に値する人物」に思えるのではないか。そして、私と同室だった28歳の男性が「軽蔑すべき人物」だと思えるのではないか。

 だが、けっしてそんなことはないのだ。私の見舞客が多かった理由は、単にその病院が当時私が住んでいた寮からほんの数分の距離であったことと、私が所属していたクラブのある先輩が、クラブのメンバーに見舞いに行くように促したからだ。私の人望が厚かったからではなく、たまたま多くの見舞い客が見舞いに行く条件がそろっていたからにすぎない。逆に、私と同室の28歳の男性は、人と接する機会の少ない仕事に就いていたのかもしれないし、なんとも言えない。

 今の私が入院したとしても、見舞いに来てくれる友人はほんの数名だろう。いや、友人たちも日々多忙であるから、私から無理を言わなければ、ほぼゼロに近いかもしれない。しかし、私は当時の私よりも「尊敬に値しなくなった」とは思わないのである。なぜなら、「他人からの評価」で自分の価値を決めないからだ。自分の価値は自分の人柄以外のもので決まることはないと思っているからだ。

 何度でも言う。他人の評価を気にするな。他人からの評価を自分の人間としての価値を決める基準にするな。ソクラテスも、最も気にしてはならないこは「他人の評価」だと言ったではないか。そんなことを目標にして生きるのではなく、「善い人間になること」を目標にしなければならないのだ。カントに言わせれば、定言命法を守ることを目標としなければならないのだ。そっちのほうが遙かに重要なことなのだ。それに気づきなさい!

 「入院したときに、一人でも多くの人に見舞いに来て貰える人になろう!」という目標を掲げる人がいたとしたら、あなたはどう思うか? そんなのは、人と接する機会の多い仕事に就いている人とか、見舞いに来やすい条件とかで決まるだけのことではないのか? 私は大学1年のときに40日間で100人以上が見舞いに来てくれたが、当時の自分をとても「人望が厚い人物」とは思っていないし、ましてや「尊敬に値する人物」だとは思っていない。たまたま見舞いに行く条件がそろっていただけに過ぎないと思っているのだ。そんなのを自分を計るモノサシにするほうがおかしくないか? 

 

  

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2009年5月18日 (月)

他人から尊敬される人になるには(3)

 人間はこの世に魂を磨くために生まれて来ているのだ。

 なぜか。なぜ人間は魂を磨かなければならないのか。なぜ、のんべんだらりと暮らしていてはならないのか。

 その理由は、魂を磨けば磨くほど、あの世で良い場所に行けるからであり、それが神の願いだからである。のんべんだらりと暮らしている人は、あの世に行ったとき、「退屈地獄」という一種の地獄で毎日毎日、何もすることがなく、ぶらぶら暮らすことになるのだ。

 あなたは、あの世に旅立ったとき、少しでも良い場所に行きたくないのか? 

 少しでも良い場所に行きたいのなら、今、この世に生きているときに、少しでも魂を磨こうとしなさい! 私たちがこうして生きていれるのは、神から与えられた「魂を磨くためのチャンス」なのだ。それに気づきなさい!

 なのに、ほとんどの人は「自らの魂をすぐれたものにすること」にはまったく無頓着で、お金や地位や名誉や快楽ばかり求めているだろう? もっとお金がほしい、早く昇進したい、家がほしい、楽して生きていけるようになりたい、女が欲しい…。彼らは、それが幸せの根源だと錯覚しているだけだ。

 ハッキリ言っておく。それは錯覚だ。一日も早く、そんな錯覚から目覚めなさい!

 つい最近も、100億円以上稼いだ某有名音楽プロデューサーが有罪判決を下されたばかりではないか。この例からも、お金が幸せの根源ではないことはすぐに分かるだろう? もちろん、幸せになるには「ある程度のお金」は必要だが、逆に言えば、お金というものは「ある程度」あれば、それでいいのだ。そんなに必死になって求めるものではないのだ。だいたい「必要以上のお金」を手に入れてどうするつもりだ? あの世に持って行くことなんかできやしないぞ。

 「自らの魂をすぐれたものにする」方法については昨日簡単にお話しした。詳しくお話しすれば、一冊の本になるので、ごく大まかにお話ししただけにすぎない。

 ただ、では「自らの魂をすぐれたものにすること」だけやっていれば、尊敬に値する人間になれるかといえば答えはノーだ。

 なぜなら、アリストテレスがいみじくも言ったように、人間は本性上、社会的な動物であるからだ。だから自らを高めるだけでは尊敬に値するとまでは言えない。世のため人のためになることをして初めて尊敬に値すると言えるのだ。

 偉人伝を読んでみたまえ。偉人たちに共通することは、世のため人のためになることを成し遂げたことである。というより、世のため人のためになることを一つもしていない人が偉人になることはないのだ。

 「尊敬に値する人間」になるには、一般的に考えれば、アリストテレスの考え方で十分であろう。つまり、「自らの魂をすぐれたものにすること」にプラスアルファーとして「自らを世のため人のために役立てること」ができれば、それで尊敬に値すると言えよう。

 しかし、カントはさらに手厳しいのだ。カントはそれだけでは「尊敬に値するとまでは言えない」と言っているのだ。

 では、カントがいう「真に尊敬に値する人物」になるには何が必要なのか。

 私はこのカントの考え方に心底惚れ込んでいる。だから、私はもっとカントの研究をしようと思って大学院進学を決めたのだ。そのカントが必要だと言っている「真に尊敬に値する人物」になるには何なのか。

 それは次回お話しすることにしよう。

 

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2009年5月17日 (日)

他人から尊敬される人になるには(2)

 あなたは一体、何のために生きているのか?

 何度でも言うが、私たちは、いずれあの世に旅立つ。だから、この世で地位だの名誉だのお金だのを求めて、自分のため、自分のため、自分のため…とアクセクがんばることなんて、実に愚かなことなのだ。なぜなら、お金も地位も名誉もあの世にはもっていけないからだ。

 ソクラテスも言ったように、私たちは、この世に「自らの魂をすぐれたものにする(善い人間になる)」ために生まれて来ている。お金を稼ぐためでもなく、地位や名誉を得るためでもなく、他人からの評判を良くするために生まれてきたのでもない。

 では、「自らの魂をすぐれたものにする」にはどうすればいいか。

 そもそも魂とは何か?

 これは哲学者によっていろいろ解釈があるが、共通しているのは、魂には理性の部分と欲望の部分があるということだ。(プラトンなどは、これ以外にも気概の部分があるというが、話が複雑になるので、ここでは一応、魂には2つの部分があるということで話を進めていこう)。

 つまり、「自らの魂をすぐれたものにする」というのは、理性の部分を開発し、欲望部分をうまくコントロールできるようになることに他ならないのだ

 理性の部分を開発するには、学問が一番だ。人間は、ただ単に自分の身の回りで起きている出来事に反応して生きているだけでは理性は開発されない。そんなことはネコだってできるだろう? ネコでも身の回りに起きる出来事に反応しながら生きているだろう? 人間ならば、何が真実かを常に問うていく姿勢が必要なのだ。

 欲望の部分をうまくコントロールできるようになるには、良い習慣を身に付けることである。犯罪を犯す人の多くは、「やってはいけないと分かっていながら、ついついやってしまう」人たちだが、それは欲望の部分をコントロールできなかったのが原因だ。だから、欲望の部分をうまくコントロールできるようになるには、日頃から良い習慣を身に付けることが必要なのだ。

 さて、では、理性の部分を開発し、欲望部分をうまくコントロールできるようになったら、それですぐさま「尊敬に値する人間」と言えるだろうか?

 答えはノーである。

 たしかに、理性の部分を開発し、欲望部分をうまくコントロールできるようになれば、それはそれで「善い人間」だといえる。しかし、「ただの善い人間」にすぎないかもしれない。「尊敬に値する人間」になるには、それにプラスアルファーが必要なのだ。

 では、その「尊敬に値する人間」と呼べるプラスアルファーとは何か?

 それは次回お話しすることにしよう。

 

 

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2009年5月16日 (土)

他人から尊敬される人になるには(1)

 だれでも、他人から尊敬される人になろうと思うだろう?

 あなたは、他人から尊敬される人になるには、どんなことをすればいいと思うだろうか。

 おそらく、ほとんどの人は、頭の中で次のような図式を描いているだろう。

「結婚式(あるいは葬式)にあれだけ大勢の人が出席していた」=「それだけ人望が厚い証拠だ」→「よし、俺も、自分の結婚式(葬式)には、できるかぎり多くの人に来て貰えるような人間になろう!」→「そのためには、俺も、他人から評判の良い人間になろう!」

「年賀状を毎年1000枚も出している」=「それだけ人脈がある立派な人なのだ」→「よし、俺も、マメに手紙やハガキを出そう。あの人のように莫大な数の年賀状を出す人になろう!」

 このようにして、彼らは「他人からの評判」を良くし、広い人脈を築こうとする。彼らの基準はあくまで他人だ。他人にどう思われるかが基準なのだ。なぜなら、彼らは「他人からの評判が良いこと」=「尊敬されること」という図式が頭にインプットされているからである。

 しかし、考えて貰いたいのだ。それは錯覚ではないか? 他人からどう思われるかが、本当に尊敬に値する人間になることに重要なことか?

 古くは古代ギリシャ時代にソクラテスがいみじくもこう警告していた。

 人間にとって最も重要なことは「自分の魂をすぐれたものにすること(善い人間になること)」であり、最も気にしてはならないことは「他人からの評判」だと。

 つまり、ソクラテスが言いたかったのは、他人からの評判が良い人が尊敬される人間ではなく、魂がすぐれている人間(善い人間)が尊敬される人間だということだ。さらに言い換えれば、「日々、尊敬に値することをコツコツとやっている人間が尊敬される人」なのだ。尊敬されるか否かの基準は他人ではなく、本人の生き方にあるのだ。

 もう一度よく考えてもらいたい。人脈があったり、人気があることが、本当に尊敬される条件か?

 例えば、某お笑い芸人が莫大な費用をかけて盛大な結婚式を挙げ、何千人から祝福されただろう。ファンも含めれば、全国でも何百万人が祝福しただろう。彼ほど人気のある人など日本中探してもそうそういないだろう。しかし、2年もしないうちに、自らの重なる不倫によって結婚生活を破綻させてしまっただろう。いくら彼のファンであれ、不倫は軽率な行為だったとしか言いようがないだろう? しかも一度の不倫などではなく、度重なる不倫だったわけだろう? 私はそのお笑い芸人を非難したいわけで書いているのではない。ただ、「人気があること」と「尊敬に値する人間であること」は必ずしもイコールにはならないという例を挙げたに過ぎない。

 誤解しないでほしいのは、私は「他人からの評判」を良くしようと努力してはいけないとは一言も言っていないことだ。他人からの評判を良くしたいのなら、そうすればいい。ただ私が言いたいのは、「他人からの評判」を良くすることよりも「自らの魂をすぐれたものにすること(善い人間になること)」ほうが遙かに重要だと言っているのだ。もっと言ってしまえば、「自らの魂をすぐれたものにすること(善い人間になること)」のほうが「他人からの評判を良くすること」の数百倍も数千倍も大切なことである。

 では、「自らの魂をすぐれたものにする(善い人間になる)」には具体的にはいったい何をすればいいのか? 

 さて、あなたに質問だ。あなたなら、どう答える? あなたは日々、こういう目標のために何をしている? あるいは、こんなことなどしなくてもいいと思っているだろうか?

 私は私なりの答えを持っている。それは次回お話しすることにしよう。

 

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2009年5月15日 (金)

ウェブデザイン技能検定

 驚くことに、WEB初の国家試験が誕生した。その名も「ウェブデザイン技能検定」である。合格すれば、「ウェブデザイン技能士」になれるという。 

 私が今挑戦している「WEB検定(WEBデザイン)」と出題範囲が重なるので、非常に興味がある。しかし、困ったことに、この「ウェブデザイン技能検定」には実技試験もあるのだ。しかも、WEBオーサリングツール(ホームページビルダーなど)が使えないとなるから、さらに困る。

 実は、私は大昔、まだWEBオーサリングツールがない時代に、あるインターネットスクールでWEBオーサリングツールなしでホームページ作成に挑戦していたのだが、作成に手間がかかりすぎるし、何もかもがチンプンカンプンでニッチもサッチもいかなくなってしまって投げ出していた。

 「ホームページを作るって、こんなに面倒なのか! こんなの、やってられないよ!」

 そういう苛立ちが募り、しばらく放置していたのである。そのときの授業料は15万円くらいしたが、15万円もかけて習ったものが結局、何にもならなかったのである。

 それから数年後に、ホームページビルダーという便利なものが登場し、それでとりあえずホームページを立ち上げた。そしてそれ以来、真面目にHTMLを覚えることなく、すべてホームページビルダー任せで作って来たのだ。そしてそれでいいと思っていた。

 しかし、この試験の実技ではホームページビルダーが使えないので、HTMLをマスターしなければならないのである。それでなければ、合格はまず無理なのである。

 私としては、せっかくならば、国家試験でもあるし、受験してみたい。ただ、次の試験が6月末であり、まだ受験申込みが出来るのであるが、今回はどうしようかと迷っている。というのも、HTMLをマスターするには時間がなさ過ぎるからである。

 先日受けた「WEB検定(WEBデザイン)」も、あと一歩というところまで来ているので、遅くとも今年の秋くらいまでには合格を勝ち取り、その後、この「ウェブデザイン技能検定」に挑戦しようかなと思っている。これは何がなんでも次回くらいに「WEB検定(WEBデザイン)」に合格したい。

 それにしても、IT関連の資格は本当に次々と新しい試験が登場するものだ。それだけIT社会になっているといえよう。インターネットが登場して15年。そのわずか15年の間に社会は激変した。しかし、これからの15年はさらに大きな変化を遂げるだろう。だからこそ、コツコツとITの勉強は必要なのであり、そのためにIT関連資格に自ら率先して受けることは大切なのである。

 

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2009年5月14日 (木)

不況の今こそ投信ではないのか?

 私の友人に不動産投資に強い関心を示している人がいる。

 しかし、私は不動産投資の面倒を考えると、投信のほうが何倍もいいのではないかとしか思えないのである。今は不況でほとんどの投信は驚くほど基準価格が下がっている。つまりは、今投信を買えば、同じお金でも多くの口数になり、分配金も多くなるのだ。

 例えば、2ヶ月前に買った「ワールドリート・オープン」はものすごい利回りになっている。

 私は手数料込みで20万円ほど「ワールドリート・オープン」を買い増しした。するとその20万円分の投資により、毎月の分配金はなんと3505円も増えているのである。

 もう一度いう。20万円で3505円である。だから分配金がずっと同じであれば1年で42060円も入ってくることになり、その部分だけの利回りを考えれば、なんと21%強である。そんな利回りが不動産投資で可能だろうか?

 どんなに利回りのいい不動産物件でも、せいぜい利回り11~12%が限界であろう。しかも、手数料や税金などを引けば、実質の利回りは10%にも満たないだろう。9%出れば御の字ではないか。しかも、不動産投資のデメリットは、空室リスクもあるということと、部屋は年々劣化するので、いずれは補修費がいることだ。それだけではない。時間も食われてしまうのだ。特に私のように自由時間にあれこれとチャレンジしたい人間にとって、時間が食われるほど避けたいものはないのだ。

 そう考えれば、お金をいったん入れてしまえば、あとは放置プレーでいい投資信託は実にありがたい存在である。しかも、今は基準価格が軒並み下がっているため、私が投資したような「ワールド・リート」では利回り21%以上も出ているのである。それだけではない。投信は入れたら、即、利益が出始めることだ。翌月から分配金が出るのだ。それによって毎月毎月暮らし向きが向上するのだ。

 「不況だから投信は危ない」。そう思う人もいるだろう。たしかに短期で考えれば危険だろう。しかし、私のように「一生預ける」くらいの覚悟があれば、何も危険ではないのだ。なぜなら約15年も放置しておけば、預けたお金の全額は返ってくるからだ。私も投信歴は6年になるが、毎月毎月、ほぼ安定して分配金を生み出してくれているのだ。だから、基準価格が少々下がっても、何も心配などしていないのである。 

 

 

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2009年5月13日 (水)

自ら率先して課題にチャレンジするか、他人から課題を与えられるか

 自ら率先して課題を見つけ、次々とチャレンジする人は、高度なスキルや知識を獲得するため、それを仕事に生かせる日が来る。高度なスキルや知識を使った仕事をするため、高額な報酬が得られる。やがてファイナンシャルインデペンダンスを達成し、本当に好きなことだけに全身全霊を打ち込んだ充実した人生が歩める。

 反対に、自ら率先して課題が見つけられない人は、高度なスキルや知識をもっていないわけであるから、比較的レベルの低い仕事をしなければならない。当然、報酬も低い。だからファイナンシャルインデペンダンスも達成しにくい。イヤだろうが何だろうが、定年まで会社勤めをし続けなければならないだろう。

 あなたはどちらの人生を歩みたいのか?

 定年までずっと会社の中で与えられた仕事を淡々とこなすだけだろうか。それとも、会社の中の仕事でも、自ら率先して課題を見つけ、次々とチャレンジしているだろうか。あるいは、会社外でも、例えば本を書いて出版したり、懸賞論文に応募したり、アフィリエイトをやったりと色々とチャレンジしているだろうか。

 かくいう私は、すでに50冊以上の本を出版し、入ってきた印税を資産運用しているため、お金を稼ぐために働くということはしなくてもよくなった。言い換えれば、無理に困難なことに挑戦しなくても、だらだら過ごそうと思えばいくらでも永遠にだらだらできる身となった。

 しかし、私はただ遊んで暮らしたいとは思っていない。そんな人生、あまりにも退屈だ。

 私は他人から課題を与えられなくても、自ら率先して課題を見つけ、チャレンジしてきたし、これからもそれは続く。6つめの大学、7つめの大学、8つめの大学…と挑戦し、資格試験も200種類、300種類、400種類…と挑戦する。

 何度でも言う。他人から与えれた課題(仕事)を仕方なしにやるだけの人生は、ハッキリ言って退屈だ。

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2009年5月12日 (火)

WEB検定(WEBデザイン)再受験記

 本日、「WEB検定(WEBデザイン)」を再受験してきた。

 結果から先に言えば、80点以上が合格のところ、68点で不合格であった。

 ただ、1回目の受験の時が62点だったのが、今回68点まで伸びたので、不合格であっても、私としては「合格」である。

 語学にしろ、ITにしろ、一足飛びに実力をつけようと思っても無駄だ。そういう勉強法では、実力が期待どおりに伸びないのにイライラが募って、やる気を失ってしまうだろう。結局、最後に笑うのは、コツコツコツコツと続けた人なのだ。そしてまさに今私は、そのコツコツコツコツを実践している最中なのである。

 今回68点まで伸びたことは私にとって意義が大きい。なぜなら、80点という目標がかなり近づいたからだ。62点から見れば80点というのは「雲の上の存在」だ。しかし、68点から見れば80点は「がんばれば私にもできるかもしれないという存在」だ。ここが大きいのだ。

 「WEB検定(WEBデザイン)」は、問題によっては非常に簡単なものも含まれてはいるが、80点をたたき出すには、相当勉強しなければならない。しかし、公式テキスト『ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック2 Webデザイン 』を隅から隅まで一語一句に至るまで理解するまで読み込めば、合格は可能だと思う。そしてこうしてコツコツと勉強していくことこそが大切なのである。

 私の場合は、今回、自分なりに頑張ったことは頑張ったのだが、テキストを隅から隅まで勉強しないままの受験であったので不合格になったのであるが、次回、あるいは、次々回あたりは合格が目指せると思う。現実的なとこで、次回は75点以上を狙い、次々回あたりでは合格を狙いたい。

 受験料が安くないので、パソコン検定2級のときのように毎月受けるというわけにはいかないが、8月頃にでも3度目の挑戦をしてみたい。

 

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2009年5月11日 (月)

WEB検定(WEBデザイン)再受験

 5月12日(火)に「WEB検定(WEBデザイン)」を再受験する予定である。

 合格する自信はない。合格の可能性は、30%程度だと思っている。

 なら、なぜ受けるのか? もっと自信がついてから受ければいいのではないか? 

 そう思う人もいるかもしれないが、私は私で受けることで勉強のモチベーションを高めたいと思っているのだ。

 前回が62点だったので、その後の伸び具合をチェックするのが目的だ。

 仮に70点取れたとすれば、その次に合格基準点である80点に向けて勉強するモチベーションとなると思っているのだ。

 正直に言って、WEBの勉強は、一朝一夕にはいかない。何度も何度もつまづき、何度も何度も克服することでスキルが身に付くのである。

 私のHPはデザイン的にはまだまだであるが、それでも少しづつはデザインを改善している。これもこうして勉強しているからこそ、できるのである。

 CBTなので合否結果は試験終了後にすぐ出る。結果は、このブログでも公表しようと思う。

 

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2009年5月10日 (日)

土日をどう過ごすかで人生が大きく変わる

 あなたは土日をどう過ごしているだろうか。

 会社が休みだからといって、単に楽なことをして過ごしているだけだろうか。それとも全身全霊を傾けて打ち込んでいるものを何か持っているだろうか。

 気をつけなければならないのは、平日よりも土日だ。なぜなら、ぼんやりと過ごしている人と目的意識をもって過ごしている人が一番差がつくのが土日だからだ。

 土日の2日であっても、真剣に勉強すれば20時間は勉強できる

 あなたは土日の2日間で、いったい何時間、夢の実現のために打ち込んでいるだろうか。

 土日の使い方でどれだけ差が出るか、私の例をお話ししよう。

 私は最初の大学を出てから4年近くは事務職員だった。給料が良かったので、私以外は転職など考えている人など(私の知る限り)いなかった。だからからか、何かに全身全霊で打ち込んでいるものを持っているような印象を受けた人はいなかった。何かやっているといっても、せいぜい趣味でテニスとか、旅行をしている人くらいだった。

 だが、私は違った。なぜか。なぜ私は平々凡々と事務職員を続けたくなかったのか。

 高校時代には10段階評価で10をもらい、大学時代もAA(Aよりも上の最高の評価)を貰っていた英語という武器を仕事に活かせる職業に転職したかったからだ。それは私にとって「絶対になさなければならない夢」、「一日でも早く実現したい夢」でもあった。

 だから、土日に同期がパーティを開いたりしても、行かなかった。なぜなら、少しでも多くの時間を英語という恋人に費やしたかったからだ。

 私は平日は平均2時間、土日は平均10時間は英語の勉強に費やした。年間で50冊以上の英語の本を読むと決意し、コツコツと読み続けていたのだ。年間で50冊といっても、4年続ければ200冊も英語の本が読めることになるのだ。

 土日をぼんやり過ごしていれば、事務職員はずっと事務職員のままである。私は別に事務職員を馬鹿にするつもりはない。立派な仕事だし、立派な人だっているだろう。だが、それでも事務職員は事務職員にしか過ぎない。

 だが、私はどうしても英語を自分の武器にしたかった。だから、英語、英語、英語という生活を送り、25歳でとうとう翻訳士の資格を得た。その後私はある民間企業の翻訳家に転職したのだが、それでも飽きたらず、とうとう留学した。留学中は一日もかかさず、英語という恋人とつきあった。

 イギリス留学が終わる頃には英語は恋人ではなくなった。恋人というより女房になっていた。英語よりも、むしろエッセイが恋人となった。書く楽しみを知ったからだ。それで私は留学から帰国してからは、毎日、エッセイを書きまくった。書いて書いて書いて、投稿して投稿して投稿した。その結果、300回投稿を繰り返したときに、ある雑誌社から「エッセイの連載をしてもらえないか」と電話がかかってきて、月に約10万円でエッセイの連載が始まったのだった。最初は信じられなかった。毎月毎月、自分の好きなことを好きなように書いて、しかも雑誌に載せて貰って、10万近く貰えるのだ。

  その後も私は書いて書いて書きまくった。また翻訳し翻訳し翻訳しまくった。その結果、ベストセラーにも恵まれ、今はこうしてファイナンシャルインデペンダンスを達成できたのだ。

 土日をただ単に惰性だけで生きているのと、全身全霊を傾けてやるものを持っているのとでは、いかに大きな差が出るかがおわかりであろう。

 そして今は私は学問に全身全霊を傾けている。ドイツ語でガムシャラに勉強している。それだけでなくITの資格にも挑戦している。まさに毎日が全身全霊で取り組んでいるのだ。幸い、上智大学の図書館は土日も開いており、静かに勉強できる。余談だが、上智大学の館内放送はバイリンガルで流れてくる。最初に日本語、その後で英語で流れてくる。慶應大学でも日本語だけだったのだが、さすが国際色豊かな上智である。こうして英語の放送を聞いているだけでも、学問に対する憧憬が深まる。ああ、この大学で学問に打ち込めるのはなんと幸せなことかと精神が高揚する。

 もう一度いう。

 土日をどう使うかで、あなたの夢が実現するか、それともマンネリで面白みに欠ける人生を生きながらえるかが決まるのだ。本気で夢を実現したのなら、土日という貴重な時間をドブに捨てるようなことはするな。そのためには、自ら率先して困難な課題を次々と見つけ、チャレンジすることだ。

 

 

 

 

 

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2009年5月 9日 (土)

あなたは自分の仕事を愛しているのか?

 多くの人は、お金を儲けるために仕事をしているだろう。しかし、愛情をこめて仕事をすることもできるし、単にお金儲けの手段として惰性で必要最低限のことだけして済ませることもできるだろう。

 ここで私は、ある銭湯の話をしよう。作り話ではなく、本当の話なのである。

 私は自宅に銭湯があるから銭湯に行く必要はないのだが、私の住む街には「ふれあいデー」というのが月に2回あり、すべての銭湯で通常450円の銭湯代が100円になる。そういうわけで2,3年に1回くらいは気分転換に銭湯に出かけることがあるのだ。

 私は東京都や神奈川県の銭湯をいくつも知っているのだが、私が今日入った銭湯は、とても不快であった。何が感じが悪いかといえば、異常なくらい張り紙がしてあり、あれをするな、これをするな、やったら罰金だ、出て行ってもらう…と、まるで客を脅すかのような文言が並んでいたのだ。

 すべてではないが、覚えているだけでもここで紹介してみよう。

 まず入り口に張り紙がしてあり、「自転車での来所はご遠慮下さい」とある。よく見れば、2カ所に張り紙がしてある。まあ、これは普通であろう。

 銭湯に入ると、下駄箱のことろに大きな張り紙がしてあり、「鍵をなくされた方は実費をいただきます」とある。こんなことまで書かなくてもいいだろうと思うが、まあ、この程度なら書いてあってもおかしくはなかろう。こういう張り紙ならたまに見かけるのも事実だ。

 お金を払って入ると、腰をかけられる小さな休憩所のような所があったのだが、そこに「いったん風呂場から出られると再入場はできません」とある。サウナでもあるまいし、こんな銭湯でいったん風呂から出て、再度入ろうとする人がいるのかどうか分からないが、風呂屋さんとしては、あらかじめ、再入場を禁止しておきたいわけだろう。

 脱衣所に入ると「ロッカーの鍵は必ず閉めてください」とある。同時に「ロッカーの鍵をなくされた方は実費をいただきます」と2カ所に張り紙がしてある。おいおい、「鍵をなくするな」というのは分かるが、そんなになくす人が多いのか? 何度も何度も注意しなくても分かるよ、と言いたくなってくる。

 その他、「入れ墨の方の入浴は固くお断りします」とか「酒に酔った方の入浴は固くお断りします」などと10箇条くらい書き出されている。こういう張り紙は、まあ、普通かもしれない。

 しかし、これからが問題だ。風呂に入ろうとすると、「湯水を大切に」とか「節水にご協力お願いします」と張り紙がある。さらに横には「当店の水は軟水です。ご理解お願いします」などとある。

 風呂場に入ってみると「カランは手を使って回してください」とか「カランの上のレールには体重を乗せないでください」とある。さらに「シャワーは使うときだけ湯水を出してください」とか「カランの独り占めは恥ずかしいことです。やめてください」とある。ここまで来ると、読んでいる私のほうがだんだん気分が悪くなる。そんなに態度の悪い客ばかりなのか? と疑いたくなる。

 風呂に入ろうとすると、大きな張り紙で「入る前に前と後ろをよく洗ってください!」とある。さらにその右にはもっと大きな張り紙で「深夜入浴の方は大声をあげると近所迷惑になりますので、けっして大声をあげないでください」とある。おいおい、どれだけ態度の悪い客が来たんだよ、とものすごく感じが悪くなる。

 だが、こんなもので張り紙は終わらないのだ。ウソではない。本当のことなのだ。

 排水溝のところには「ここで唾をはかないで下さい!」とある。別の排水溝のところに行ってみると、やはりそこにも「ここで唾をはかないて下さい!」とある。おいおい、そんなに皆、唾を吐いているのか? と疑いたくなる。というより、こんな張り紙、生まれて初めて見たぞ。

 浴槽内を回ってみると、カランのところに所々張り紙がある。よく見てみると、「ここで髪を染めないでください」とか「カランは譲り合って!」とか書かれてある。さらに「ここで洗濯はしないでください」ともある。どれだけ人に注意するのが好きな店主なのかとおもわずにいられなくなってくる。

 さらに「スタッフに協力していただけない方はやむをえず退室していただきます」というのが2カ所に貼られてある。今までそんなひどい客がいたのかと訊きたくなる。

 この銭湯には小さなサウナがついており、別料金を払えばサウナに入れるようになっているのだが、サウナの入り口にもきっと何か張り紙がしてあるぞと思っていたら、案の定、「事前にサウナ料金を払わずにサウナに入室した場合は罰金を払っていただきます」とある。

 サウナの横の冷水にも張り紙がしてあり、「身体がほてった人が一度に冷水に入ると温度があがってしまうので、ここに入るときは事前に冷水をあびて身体を冷やしてから入ってください」とある。そして冷水の横に付いている排水溝にも「ここで唾を吐かないでください」とあるのだ。

 ここまで来ると、楽しいはずの「ふれあいデー」も、こんなにたくさん、あれするな、これするな、あれしたら罰金を払ってもらうぞ、これしたら出て行ってもらうぞ…という張り紙を見て、実に気分が悪くなってしまった。

 風呂から出ようとしたら、ドアのところに、「戸はきちんと最後まで締めて下さい!」とある。またその下に「ここを出る前によく身体を拭いてください!」ともある。そんなこと言われなくても分かっているよ、と言いたくなる。

 我慢の限界に来たのは、その次の張り紙であった。脱衣所で身体を拭いていたら、ゴミ箱の上にこんな張り紙があったのだ。

ここでおむつを捨てると、その臭いが部屋中にまわって臭くなるので、けっしておむつを捨てないでください!」

 大きな張り紙がしてあったら、どうしても目に入ってくるのである。そしてそのたびに注意されると、だれもがイヤな気分になるのではないだろうか? しかも、「おむつを捨てるな」なんて、みんなに言わなくてもいいことではないか? そんな人、何千人に1人くらいしかいないのだから、その特定の人だけに注意すればいいことではないか?

 あなたに聞いてみたいのだ。あなたはこんなにたくさん張り紙がしてある風呂で気持ちよく入浴できるだろうか。あるいは、この風呂屋の店主は本当にお客さんに気持ちよく風呂に入ってもらいたいと思っていると思うだろうか。

 誤解しないでほしいのは、私は注意してはいけないというつもりも、張り紙をしてはならないというつもりもないことだ。同じ張り紙をするのにしても、もっと洗練された言葉が使えるのではないかということである。

  

 

 

 

 

 

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2009年5月 8日 (金)

あなたの仕事はお金儲けのためのものか、社会奉仕のためのものか

 あなたは今、仕事をしているだろうか? その仕事はいったい何のためにやっているだろうか? お金儲けのためだろうか? それとも社会奉仕のためだろうか? その両方のためにやっているとしたら、どちらの比重が大きいだろうか? 

 どうだろうか? 真剣に「世のため人のためになろう」と思って仕事に打ち込んでいるだろうか? それとも、時にめんどくさいと思いながら、お金儲けのためにしぶしぶやっているだけだろうか?

 お金儲けのために惰性だけで仕事をしていると、どうなるか、一つの例から考えてみたい。

 私が今の街に引っ越してきたとき、食堂が少ないのには驚かされた。しかし、その代わり、弁当屋さんが意外に多かった。道を歩いていると、あっちにも、こっちにも、弁当屋があったのだ。だから必然的に弁当をよく利用するようになった。

 しかし、いつの間にか1店、2店、3店と姿を消した。

 もちろん、姿を消した本当の理由は私には分からない。だが、推測するに、営業努力が足りなかったのではないかとも思えるふしがあるのだ。つまり、消えた弁当屋はお金儲けのために惰性だけでやっていたのではないかと思えてしまうのだ。

 姿を消した弁当屋も、まあまあの弁当を出していた。ただ、いつ買いに行っても、同じ種類の弁当が数種類あるだけだった。だから、ときどきなら食べてもよいのだが、何日か連続で食べることはできなかった。飽きてしまうからだ。

 毎日毎日、まったく同じ弁当を延々と作っていく。それはそれでもきちんとした仕事ではある。だが、それで十分だろうか? お客さんをいつも魅了する弁当屋になろうと思えば、いつもいつも同じ弁当ばかり出し続けるだろうか。それでも十分売上があるうちはいいだろう。そのまま惰性で同じ弁当を作り続けていてもお客は買ってくれるだろう。しかし、さらに善い弁当屋が現れると、お客を奪われてしまうのではないか。たちまちのうちに廃業に追い込まれるのではないか?

 一方、今でも繁盛している弁当屋は、正直、毎日食べても飽きがこないのである。実際、私は季節によってはほぼ毎日その弁当屋の弁当を買うこともあるのだが、それでも飽きが来ない。飽きがこないどころではなく、毎日、弁当を食べるのが一つの楽しみになるくらいなのだ。というのも、いつ行っても何種類もの弁当があり、それぞれ微妙におかずが異なっており、しかも日々変化するのだ。だから、買いに行っている最中も、「今日はどんなおかずがあるかな?」と楽しみになるくらいなのである。このような弁当屋なので、昼食時は、わざわざ遠くから足を運んで買いにくる人もいる。

 私は、ある日、その弁当屋の店員にこう声をかけたことがある。

「ここの弁当は、本当に毎日食べても飽きが来ませんね。いつも新鮮な感じを受けます」

 するとその店員は、にっこり笑って、こう答えた。

「ええ、お客さんのために精一杯努力していますから」

 きっと、ここのお店は、お金儲けのために惰性で弁当を作っているのではなく、本当に心の底からお客さんに喜んでもらいたいという気持ちで弁当を作ってくれているのだろう。

 私は、正直、その店員が「お客さんのために精一杯努力していますから」と答えたとき、とても嬉しくなった。「そうか、やっぱり、陰では相当の努力をしてくれていたんだ。だってこれだけおいしいものな」。そう思ったのである。

 今のあなたの仕事は何だろうか。

 レストランの店員だろうか。学校の教師だろうか。翻訳家だろうか。セールスマンだろうか。会社員だろうか。

 どんな仕事であれ、お金儲けのためだけに惰性で仕事をすることはできるだろう。何もそんなに必死になってお客さんのために特段の努力をしなくても、毎月毎月給料は貰えるだろう。しかし、そういう人ばかりが集まる会社は、いずれ先に紹介した姿を消した弁当屋のような運命をたどるのではないか。

 かくいう私は、文筆業・翻訳業が生業である。ただ単に「文章が書ければよい」あるいは「英語の翻訳ができればよい」のなら、私は5つも大学に行く必要などなかったのである。しかも、今私が必死に勉強しているのは英語ではなく、ドイツ語だ。

 しかし、私は惰性で生きたくなかった。私が書く文章、私が翻訳する文章によって、少しでも読者に喜んでもらいたいと思ったのだ。そしてそれが私が生きている意義であり、義務なのだと思ったのだ。だから私は今でも必死に勉強を続けているのであり、それは一生、努力し続けなければならないと思っている。私は6つ目、7つ目、8つ目…と延々と大学に入学するだろう。足が立たなくなるまで学問を続けていくだろう。それはひとえに世のため人のために役立つことをしようと願っているからだ。

 最後にもう一度言おう。惰性だけで仕事をするな。自分の働きによって、少しでも世の中が明るくなるように精一杯努力することだ。 

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2009年5月 7日 (木)

善いブログ作りのために

 「毎日ブログを書いているのにアクセス数が思うほどあがらない」と嘆いている人も多いのではないだろうか。

 私自身がまだまだ勉強中であるし、それほどアクセス数が多いわけではないから偉そうなことは言えないが、私のブログも徐々にではあれアクセス数は増えている。

 では、アクセス数を増やすには何をすべきだろうか。より多くの人に見て貰うにはどういう努力をすべきか。

 もちろん、「アクセス数が多い」=「善いブログ」というわけではない。というのも、やたらめったら有名人の名前を盛り込み、有名な事件を取り上げ、だれかれとなくトラックバックすれば、それなりにアクセス数をあげることはできるからだ。しかし、それがブログを運営する本当の目的ではないはずだ。

 ブログを運営する本当の目的は、あくまで善いブログを運営することであり、善いブログを運営していれば、それなりにアクセス数はあがるのではないかと思っている。

 では、善いブログを運営するには何が必要なのか。どんなブログであれば、たくさんのユーザーに訪れてもらえるようになるのか?

 ピーター・モーヴィル氏は、ユーザーエクスピリエンスを向上させる7つの要素として次の7つを挙げている。(『ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック2 Webデザイン』を参照)

 役に立つこと、使いやすいこと、望ましいこと、探しやすいこと、アクセスしやすいこと、信頼にあたいすること、価値を生み出せること

 つまり、この7つの要素があれば、放っておいても、ユーザーは集まってくるのである。

 あなたのブログは役に立つことが書かれてあるだろうか。信頼にあたいするだろうか。何か価値を生み出しているだろうか。探しやすいだろうか。アクセスしやすいだろうか。

 同じ個人的なことを書くのであっても、こうしたことを少し意識してブログを運営すると、徐々にアクセス数があがるのではないかと思うのだ。例えば、何かの検定試験を受けにいったときでも、ただ単に日記として書くのではなく、ブログを読む人にとって、「こういうことは気をつけたほうがいい」とか「こういうことは知っておいたほうが得だ」ということを情報提供すれば「役に立った」ことになるだろう。そのような意識的な努力をすることによって、自然と多くの人が集まるブログになるのではないか?

 かくいう私は、ついに来週の頭に『WEB検定(WEBデザイン)』の再受験をする。CBTなので結果は受験後すぐに判明するので、このブログでも公表しようと思う。 

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2009年5月 6日 (水)

オーストリア政府公認ドイツ語能力検定試験受験決意

 英語の検定試験に関していえば、日本国内で受けられる検定は正確な数字は分からないが40~50種類くらいあるだろう。いや、もっとあるのかもしれない。私も昔は、次々といろいろな英語検定に挑戦し、そのたびに実力を磨いたものである。

 しかし、ことドイツ語の検定試験に関していえば、非常に少ないのである。

 一番有名なのはドイツ語検定だが、準1級以上はなんと年に1度しか受験チャンスがない。検定試験をドイツ語学習のモチベーションにしたいと思っている私には実に残念なことである。しかも、準1級以上は、一次試験に合格しても、二次面接があり、ドイツ語がある程度はなせないと合格にはならないのだ。これが私にとって大きなネックとなりそうだ。

 他のドイツ語検定を探していたのだが、オーストリア政府公認ドイツ語能力検定試験というのを見つけた。これは日本で受けられるものの、オーストラリアで作成されている検定試験のようだ。

 等級は5段階あるようだが、一番下の級でも、面接があるらしく、それを知った私は受ける気にならなかったのであるが、よく注意書きを読んでみると、筆記試験だけ合格になった場合でも「部分合格」ということで合格証を出してくれるらしいのだ。これは私のようにドイツ語会話が苦手な人間にとっては朗報である。一応、部分合格であれ、合格は合格になるのだから…。

 この情報を知って、私は俄然、受験する気になったのである。

 ただ、オーストラリアで作成されている試験だけあって、一番下の試験でも、すべてドイツ語で質問も書かれてわけであるから、生半可な気持ちで受けても痛い目に合うだけだろう。だから、気を引き締めて挑戦してみたい。まずは腕試しということで5段階あるうちの一番下の級にチャレンジしてみたいと思う。7月に試験があるので、これから2ヶ月の猛勉強で合格できるかどうかだ。

 正直なところ、私は語彙力だけで勝負してきたところがあり、文法問題はやたらと弱い。さらにドイツ語で作文をしろと言われても、書く自信はない。正直、一番下の試験といっても、今受けたら合格率10%もないだろう。それをこの2ヶ月でどう合格率を高めていくかだ。

 

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2009年5月 5日 (火)

単語の覚え方

 私は大学院入試のため、昨年秋ごろから今年1月下旬まで、ドイツ語単語を死ぬほど覚えた。覚えた単語の数は、おそらく6000とか7000であろう。だから、文法は別にしても、単語力だけで言えば、ドイツ語検定準1級レベルまで到達したと思っている。

 特訓は凄まじかった。毎日毎日、ドイツ語の文献を読み、その中に出てくる未知の単語を『SEIKO IC DICTIONARY 電子辞書 SR-V5010 英語/ドイツ語モデル 音声対応 』で調べ、それを単語カードに書き出し、繰り返し繰り返し覚えたのである。

 私は、単語を覚えるもっとも効果的な手段は、単語カードだと思っているのである。それはドイツ語だけでなく、英語であれ、他の言語であれ、同じことである

 わざわざ作るのが面倒だと思う人もいるかもしれないが、その効果は抜群だ。というのも、いつもポケットに入れておき、信号待ちしているときの1分、買い物で並んだときの1分、銀行で並んだときの1分、食堂で料理が出されるまでの10分…こういうときに単語カードで繰り返し繰り返し覚えるようにすれば、1日100単語すら覚えることができるのだ。

 大学院入試が終わってからというもの、私は翻訳の仕事に熱中していたこともあり、ドイツ語とは3ヶ月も疎遠になっていた。「また真剣に取り組めば、すぐに記憶が戻るだろう」とタカをくくっていたところもあった。

 しかし、昨日、単語カードをぱらぱらとめくってみると、大半は忘れていたのである。たった3ヶ月前にはほぼ完璧に覚えていた単語も、その大半は忘れているとは…。

 翻訳の仕事のほうも軌道に乗ってきたので、そろそろドイツ語学習を再開しようと思っている。そしてモチベーションを挙げるために、ドイツ語検定以外のドイツ語の試験を見つけ、チャレンジしてみたいと思う。

 

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2009年5月 4日 (月)

流されるまま生きるか、自ら率先して課題に挑戦して生きるか

 あなたは、ゴールデンウィークをどう過ごしているだろうか。

 仕事が休みだからといってゴロゴロ昼まで寝て、起きたかと思うとテレビをダラダラ見て暮らしているだろうか。それとも、自ら率先して課題を見つけ、それに挑戦して生きているだろうか。

 自分の身の回りに起こる出来事に反応するだけの日常生活を繰り返し、流されるまま生きていると、「自分らしさ」は磨かれないままである。そういう人は、自ら率先して課題を見つけるけることができないわけであるから、好きだろうが嫌いだろうが、他人から与えられた仕事をするしかない。

 一方、自ら率先して課題を見つけ、それがどんなに継続困難であっても次々とチャレンジしていく人は、やがて高度な知識や技能を身に付けていくため、高度な仕事ができるようになる。ひいてはそれに見合った報酬が得られ、他人に仕事を与えられなくても、自ら率先して好きな仕事をクリエイトしていくことができるようになる。

 あなたは、他人から与えられた仕事を定年まで延々と続ける人生と、自ら率先して見つけた仕事を自らの使命としてやっていく人生と、どちらの人生を歩みたいのか?

 もしあなたが、「他人から与えられた仕事を延々と定年までお金儲けのためだけに続けるのなんてイヤだ。私も自分の好きな仕事を自分の使命としてやっていきたい」と思っているのなら、こういうゴールデンウィークこそが自らを磨く絶好のチャンスではないか?

 好きなものをする。例えば、作家になる。翻訳家になる。通訳になる。書道の先生になる。歌手になる。アフィリエイトだけで食べて行けるようになる。画家になる。学者になる。漫才師になる。こういうことは、長年の修練がなければできないことなのだ。このような好きな仕事に就いている人というのは、例外なく、自ら率先して課題を見つけ、それに挑戦した人であり、他人に与えられた課題しかやらないような人ではないのだ。

 もう一度いう。

 ゴールデンウィークは、自分を磨くためのまさにゴールデンタイムだ。自ら率先して挑戦してみたい課題を見つけ、チャレンジしてみることだ。

 かくいう私は、今は哲学の勉強、ドイツ語の勉強、英語の勉強、ITの勉強と大忙しである。しかも、何度も言うようだが、私は自ら率先して課題を見つけ、チャレンジしているのである。

続きを読む "流されるまま生きるか、自ら率先して課題に挑戦して生きるか"

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2009年5月 3日 (日)

これから狙っていきたい資格

 ゴールデンウィークもまっただ中である。

 このゴールデンウィークをどう過ごすかによって、大きな差がつく。目的意識をもっている人であれば、この数日間の間に大きな成長をとげる。例えば、1日平均10時間勉強すれば、5連休の人なら50時間、9連休の人なら90時間が勉強できることになる。一方、なんとなくぼんやり過ごしている人にとっては、何もしないうちに、「あっ」という間にゴールデンウィークが過ぎ去っていく。

 さて、私の場合は、単に大学院の勉強や仕事をこなすだけの日常で終わるのではなく、自ら率先して沢山の課題を見つけ、それにチャレンジしている。

 資格試験としては、今後、次のような資格にチャレンジしたい。

(1)「WEB検定(WEBデザイン)」

 世の中はもうWEBの時代だ。HPやブログを個人運営するのは当たり前の時代である。

(2)「WEB検定(WEBディレクション)」

 「WEBデザイン」が合格したら、早速、次のステップとして「WEBディレクション」に進みたい。

(3)「CIWサイトデザイナー」

 「WEB検定(WEBデザイン)」と関連資格なので、再チャレンジしてみたい。

(4)「ビジネス数学検定」

 「数学なんて勉強して何になるの?」という人がいるが、それは勉強の大切さを知らない人がいうせりふだ。実際、数学的センスを磨くことで、生活の質がグンと改善することだってよくあるのだ。そのためにも、こういう資格を受けることで、自分を磨くことは大切だ。

(5)「ドイツ語検定準1級」

 昨年2級に合格したので、今度は準1級に挑戦する。

(6)「ITパスポート試験」

 今は紙の試験のようだが、将来的にはCBT(コンピュータ版)でも受けられるようになると言われているので、CBTになったら受けてみたい。

(7)「ドットコムマスター★★」

 前回はさんざんな結果だったが、落ち込んではいない。コツコツ勉強して最後には合格したい。

 実は、まだまだチャレンジしたい資格はたくさんある。

 IT関連商品の紹介ページも作ってみた。下記のリンクがそうである。だ作ったばかりなので、たいしたことはないが、これからどんどん充実させていきたい。

http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/IT.htm

 

 

 

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2009年5月 2日 (土)

あなたはゴールデンウィークに何をするのか?

 ゴールデンウィークである。

 あなたは、このゴールデンウィークにいったい何をするつもりだろうか?

 私は、勉強に仕事(翻訳書の翻訳)に精を出す。またITの勉強にも精を出す。

 今日も明日も明後日も、ガンガン勉強するつもりだ。

 私はそれに生き甲斐を感じており、日々充実している。

 あなたは、どうだろうか? 

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2009年5月 1日 (金)

WEB検定(WEBデザイン)再受験決意

 私の夢の一つは、自分のホームページを充実させて、世の中に有益な情報を提供していくことである。

 そのために是非とも腕を磨かなければならないものがある。

 WEBの技術力である。

 WEBの技術力を高める方法は色々あると思うが、やはり、日常生活に流されていると、勉強にならない。なかなか自ら率先して技術力を高めようとしても、「どうしても今すぐやらなければならない差し迫った問題」ではないため、後回し、後回しになりがちなのだ。

 そこで私は、そんなことでは、ずるずるずるずると時間だけ経ってしまうと思い、「WEB検定(WEBデザイン)」の再受験を決意した。5月中に再受験してみたい。

 公式テキスト『ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック2 Webデザイン 』で勉強しているのであるが、やはり我流で勉強するよりも、こういうのできちんと勉強したほうがいいと思える。

 合格最低点は80点であり、前回受験時は62点しか取れなかった。

 正直、今回も自信はない。せいぜい70点がいいところだろう。しかし、そういって受験から逃げているとなかなか勉強しないのだ。だから、私は自分に課題をかすためにも自ら率先して受けてみたい。

 ホームページを持っている人、これからホームページを作ろうとしている人には、お勧めの資格である。受ける受けないに関わらず、デザインを勉強したい人は上記公式テキストを購入して勉強するといいだろう。 

 

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