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2009年6月

2009年6月30日 (火)

WEB検定(WEBデザイナー)再受験決意

 人間というものは、ものぐさなもので、必要に迫られない限り、困難なことはなかなか手が出ない。特に勉強がそうで、「どうしてもせざるを得ない」という状況にならないかぎり、やろうやろうと思っているだけでは、なかなかできるものではないのだ。

 そこで私は、自分でモチベーションをあげるために資格試験に挑戦している。

 WEBの勉強も、結局、試験を受けないとなると、日常生活の忙しさにかまけて、何もしないことになっているので、「WEB検定(WEBデザイナー)」の再受験を決意した。実際、こうでもしないかぎり、なかなか勉強しないからだ。

 7月中に受験しようと思う。

 80点以上が合格のところ、1回目が62点、2回目が68点であった。

 もちろん、80点以上を目指すのだが、合否にはこだわらない。自分なりにベストを尽くせばそれでいいのだ。

 あなたは、今、どんなことに情熱を燃やしているのかな?

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2009年6月29日 (月)

実現可能な目標をもちなさい

 人間、目標を持たずに生きていると、本当に、何もしないうちに「あっ」という間に時間だけが素通りしていく。あとになってから、他人が成功しているのを見て、「ああ、私もがんばれば良かった」みたいなことを言っても、もう遅すぎるのだ。

 時間を大切に生きようと思えば、ぼんやりと生きるのではなく、目標を明確に掲げてがんばらなければならない。ただし、その際、大切なことは、たんなる夢物語を目標にするのではなく、真剣に取り組めば実現の可能性が50%ていどはある目標を掲げることだ。実現の可能性が低い目標は掲げても意味はない。いや、むしろ逆効果とも言える。

 例えば、某大学の通信教育課程にいる人がブログをつけている。

 当初は「3年で卒業する」という目標を掲げていたのが、4年になり、5年になり、6年になり、7年になる。それでもまだ卒業までの道のりは遠いままだ。卒業が遅延するたびに、いつも、もっともらしい言い訳や負け惜しみが書かれてある。遅延のたびに猛反省し、「今度という今度は、この計画通りに進める」とかたい誓いが書かれてあるが、後日、またブログを訪れてみると、やはりいつもどおり計画が崩れている。計画どおりに行ったためしがない。

 毎度毎度計画がすぐに崩れるので、見ている方からすれば、「どうせまた、本気で実行するつもりがないのに、たんなる夢物語を書き込んでいるのではないか」と思えてしまうのだ。

 さて、あなたに聞いてみたい。あなたはどうだろうか。立てた計画はだいたい計画どおりに進むだろうか? それとも、立てていた計画が毎度毎度崩れてしまっているだろうか?

 もしも、立てていた計画が毎度のように崩れるとしたら要注意だ。その癖は本人が直さない限り、いつまでたっても治らないぞ。

 本気でその癖を治そうと思ったら、まず、実現の可能性がほとんどないことを目標にしてはならない。そんな夢物語を目標にしても、当の本人が最初から実現しようと努力しないはずだから夢が実現するわけはない。次に大切なことは、どんなことを目標してもいいが、実現の可能性が50%ていどはある目標を掲げ、その実現のために全力を尽くすことだ。

 

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2009年6月28日 (日)

ドイツ語会話一人練習法

 オーストリア政府認定ドイツ語検定の試験日が近づいてきている。

 大学院入試のために必死に覚えたドイツ語単語も、おおかたは忘れていたが、この試験を受けるために先月から復習し、半分くらいは覚え直している。ずいぶん、勘が戻ってきた。

 しかし、この試験は、面接試験もあるのだ。

 「筆記(文法、読解、作文、リスニング)」だけでも合格すれば、部分合格証が出るというので、面接対策の勉強はほとんどしていなかったのだが、まったく勉強しないよりは、一応はやっておこうと思う。

 そこで今取り組んでいるのが、『ドイツ語会話周遊券 (シリーズ 旅の30フレーズ) 』である。

 会話はもともと相手がいなければ成立するものではないので、ドイツ人の会話相手がいればベストなのだが、日本にいてそんな贅沢なことは言っていられない。ドイツ人に家庭教師でもしてもらえれば一番だが、お金がかかる。

 そこで、手っ取り早く実力をつけようと、この本をやっているのである。

 方法は簡単だ。基本フレーズをスラスラ言えるようになるまで特訓だ。

 「この映画はどれくらいですか?」「お店は何時まで開いていますか」「医者を呼んでください」などなど。こういうフレーズをすぐに口に出せるようにしておくというのが私の特訓法であり、これは一人でもできることだ。

 さすがに読解問題ばかりやっていると、こういう簡単そうなフレーズもなかなか瞬時には出てこない。やはり会話は会話で勉強しなければならないのだ。

 私の友人に「試験は合格しないと意味はない」みたいなことを言う人がいるが、私は合格・不合格にはこだわっていない。私が目指しているものは合格そのものではなく、自分を磨くことであり、特にドイツ語などは、私の職業と直に関係する目標ではないので、気楽に受けてこようと思う。もっとも気楽に受けるといっても、それは「いいかげんに受ける」という意味ではない。あくまでベストを尽くすのである。

 

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2009年6月27日 (土)

品格を磨いたら、それが何なの?

 先日、私は名作といわれる文学作品を読み込むことで、知らず知らずのうちに品格が身に付くという話をした。文学作品を読んで、登場人物たちの感情を追体験することにより、一般の人生論や幸福論では身に付きにくい良い品性が身に付くのだという話をした。しかし、きっとこう反論する人もいよう。

「品格が身に付いたからといって何になるの? お金儲けにつながるの? そんなことのために文学作品なんて読まなきゃなんないの? そんなことやっても意味ないと思うけどなぁ」

 では、逆に品格のない人の場合を考えてみたい。一例をあげよう。

 先日、自宅の呼び出し音がなったので、ドアを開けずに、インターホンごしに音声だけで会話をしはじめた。

「どちら様でしょうか?」

「KDDIの○○と申します。本日は簡単な調査のために伺いました。今、インターネットはお使いでしょうか?」

「はい、もう光で使っています」

「プロバイダはどちらでしょうか?」

 こういう感じて、インターフォンごしに会話をしていると、調査はすぐに終わるのでドアを開けて欲しいと何度も懇願しはじめた。しかたがないので、ドアを開けると、

「私、KDDIから来ましたこういうものです」

 といって社員証のようなものを提示してみせた。きっと「怪しい者ではない」と強調したかったのだろう。しかし、私は、その社員証を食い入るように見た。本当にKDDIなのか確かめるためだ。私はこう尋ねた。

「KDDIの方、ですか?」

 すると、おびえたような口調にかわり、

「あっ、すいません、ええとですね、実はですね、KDDIの子会社なんですよ」

 私は、もうその時点でうさんくさいと思い始めた。

  そんなことは気に留めず、彼は話し続けた。

「ええとですね、実は、今、とてもお得なキャンペーンをやっているのです。お客様の今のプロバイダから当社のプロバイダに変えていただくと、なんとキャッシュバックがもらえるのです。しかも、月々の会費が…」

 もう、いきなり勧誘の話になっているのである。彼はインターフォンごしに「単なる調査ですぐに終わる」と言っていた。しかし、調査ではなく勧誘なのである。私は、これは話すべきではないと思い、こう言った。

「あっ、すいません。私、今これから大急ぎで外出するので、お話を聞いている時間はないのです」

「ええと、では、今日は何時頃帰って来られますか? よかったら、今日、帰宅された後でまた伺いますが」

「そうですね、夜中の10時以降ですかね~」

「そうですか~。土日とかは家にいらっしゃいますか?」

「だいたい、いませんね」

「もしよろしければ、また伺う日時を約束していただければ、その時間に伺いますが…」

「今はいつが都合がつくかは分からないので、またこちらから連絡させてもらいますので、すいません、今日はもう私、出ますので…」

 こういってドアを閉めた。

 しばらくすると、その男性と同じマンション内の住民のある男性とが大声で口論しているのが聞こえてきた。

住民「あんた、なんだと思っているんだ。このマンションは勧誘目的で入ってくるのは禁止されているんだよ」

勧誘員「いえ、勧誘目的ではありません。あくまで調査目的です」

住民「なにが調査だよ。調査じゃなくて、勧誘じゃないか。出て行け! お前、自分がやっていることがどういうことか分かってるのか!」

 さて、ここであなたに聞いてみたいのだ。

 この勧誘員は品性があるといえるだろうか? おそらくプロバイダの新規加入者を増やさなければならないというノルマでもあるのだろう。そのノルマを達成することが彼にとっての最大の目標になっている。しかし、その目標達成のために、「やってはならないこと」をやってしまっているだろう?

 調査目的ではないのに調査目的だとウソをいい、KDDIの社員でもないのにKDDIの社員を語り、しつこく勧誘して相手に嫌な気分をひきおこす。とても品性のある人の行為とは言えないだろう。一方、小さいときから文学作品に親しむなどして本当に品性を身に付けた社員なら、もっとまっとうな方法で勧誘をするのではないかな? そして結局は、品性のある社員のほうが長い目で見れば、多くの新規加入者を得ているのではないかな?

 

 

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2009年6月26日 (金)

仕事は何のためにやるの?

 あなたは一体何のために仕事をしているのだろうか?

 少しでも世のため人のためになることを心がけてやっているのだろうか。それとも、ただ単にお金を稼ぐためだけにやっているのだろうか?

 「仕事」と一口に言っても本当に様々な仕事がある。なかには本当に大変な仕事もある。私は別に、どの仕事はどうだと決めつけた言い方はしたくないのだが、あくまで印象として述べれば、「大変そうな仕事」として、単純肉体労働とか、長時間勤務なのに薄給な仕事などがあげられる。また、ある人は、介護施設の職員は「大変だからなかなかできるもんじゃないよ」という。では、そのような「大変そうな仕事」についている人たちは、いったいなぜその仕事をしているのだろうか。心の底からその仕事がしたくてしているのだろうか?

 一方で、同じ「大変そうな仕事」でも、見るからに、それが好きだからやっているのだろうと思える仕事もある。例えば、プロ野球の選手である。彼らは本当に大変だろう。競争は厳しいし、たった1年でも成績が芳しくなければすぐにクビになる。だが、周りから見れば、「好きだからやっている」ように見える。その他、歌手、漫画家、作家、お笑い芸人など、「好きだからやっている」ように見える仕事は、いろいろあげられるだろう。

 これら2種類の仕事の違いは「好きでやっているか否か」の違いだろう。どちらの仕事も大変なのである。しかし、同じ大変な仕事であっても、一方はただ単にお金を稼ぐためにやっているのに対し、他方は好きだからやっているのである。もちろん、「100%お金のため」、「100%好きだから」ということはないかもしれないが、「お金のため」と「好きだから」の割合が違うのである。

 私は留学から帰国したとき、一時、借金まみれだったことがある。そのとき、短期ではあるが、単純肉体作業の仕事をしたことがあった。それは「その仕事が好きだから」やったのではなく、お金儲けのためだけに「本当はやりたくない仕事」だったけれどやったのである。具体的な仕事の職種はここには書かないが、単純肉体労働を1日8時間して、もらえるお金は5000円ていどだった。へとへとになるまで働いて5000円である。家に帰ったら、すぐにベッドになだれ込むようにして眠り込み、起きると、また肉体労働が始まるのである。そんな仕事をしていて思ったことは、「こういう仕事はもうこりごりだ」ということだった。

 どんな仕事であれ、世のため人のために役立っている。だから、そういう意味では、職業に貴賎はない。

 しかし、好きな仕事に就こうと思ったら、相当の覚悟を決めて、努力し続けるしかないのではないか。例えば、プロの出版翻訳家になるにしても、数年間でなれるような生やさしいものではない。外国語が相当できなければならないが、日本語の文章を商品として出せるだけの下積みも必要だ。それには少なくとも10年の修行が要るだろう。翻訳家は一つの例だが、その他、歌手にしても、漫画家にしても、役者にしても、それなりの努力を積まなければ、いきなりできるようにはならない。

 それができず、ちょっとしたことですぐに夢を投げ出す人は「いやな仕事」をせざるを得ないのではないかな? せっかく目標を定めても、ちょっとした困難にぶつかると、すぐに諦めている人は「いやな仕事」でも、お金儲けのために仕方なくせざえるを得ないのではないかな?

 あなたは「好きな仕事」をするのと「お金儲けのために仕方なしにする仕事」とどちらをしたいのかな? 

 

 

 

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2009年6月25日 (木)

学問をする意味

 私が学問をする意義を話すと、必ずと言っていいほど、次のような質問があがる。

「学問なんてやって何になるの? そんな、役に立つ機会がめったにないことをわざわざ勉強して何になるの? 今まで、何かの役に立ったことってあるの?」

 私は、学問は教養を身に付けるため、言い換えれば、自分を磨くためにあるのであり、直接お金儲けにつなげようとか、直接快感を得ようという目的には、すぐには役に立たないと思っている。(ただし、長い目で見れば、大いに役立つ可能性はあると思うが)。

 例えば、私は今、ドイツ語で『グリム童話』を読んでいる。学問の意義が分からない人にとっては、まったく役に立たないことをやっているとしか思えないだろう。私の職業が文筆家・翻訳家であっても、ドイツ語の翻訳などする予定はないし、ましてや童話など今の仕事とは直接関係がないからだ。

「童話なんて、読むだけ馬鹿らしいよ。所詮、作り話だろう? なんでそんなことやっているの? それが何か生活に役に立つの? お金儲けにつながるか? そんなことをやるより、どんな単純なことでも、世のため人のためになることをしたほうがいいんじゃないの?」

 そう言いたいだろう。

 しかし、童話を読むことは本当に何の役にも立たないのだろうか?

 『グリム童話』でも、よく読めば、それぞれの話の中に人生で役に立つ黄金のルールが描写されているのが分かるだろう

 例えば、「蛙の王さま」の話では、「どんな小さな約束であっても、守らなければならない」という黄金のルールが説かれているのだ。

 私がこう言えば、こう反論する人もいよう。

「そんなのわざわざ童話なんか読まなくてもわかっているよ。仮に読まなければならないにしても、『約束はどんな小さな約束であっても守ろう』ということが直接書かれた文章でもいいじゃん。なんでわざわざ童話なんか読まなくてはならないの? そんな作り話を読む意義なんて何もないよ」

 しかし、そんなことを言っている皆が皆、「約束はどんな小さな約束であっても守ろう」ということが実践できているだろうか? 

 私は自分のビジネス上の経験からでも断言できるが、大きな約束、重要な約束であっても、守られないことなどよくあるのである。例えば、約束していたお金を半分に値切られるという、あってはならないことも何度か経験しているのである。

 童話を通して読めば、約束が破られる人の悔しさが追体験できるわけだ。読んでいるときに、「ああ、約束を破られると、こういう辛い思いをするのだなぁ」ということを考えながら読むからである。これは単なる人生論とか、格言集とかでは、なかなか味わえない体験である。そしてそういう読書体験を繰り返す中で、「約束したことはどんな小さな約束でも守ろう」という品格が生まれてくるのだ。例えば、人と待ち合わせをするときも、遅れないように気をつけるようになるだろうし、仕事の上でも、納期を必ず守るようになるだろう。ましてや、約束していた報酬を値切るなんてことなど絶対にしなくなるだろう。

 あなたが、学問などやっても何の役にも立たないと思うのであれば、やる必要はない。お金儲けにつながらないことはやる意味がないと思うのなら、お金儲けに直接つながることだけをやって生きたっていい。ただ、学問をやることに意味があるのか・ないのかは、学問をやってから判断すべきことであって、学問をやらないうちから、「やっても意味はない」と決めつけられないのではないかな? 少なくとも私にとっては学問は非常に意義があるし、ますます学問をやって、学んだことを少しでも世のため人のためになることに役立てたいと思っている。

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2009年6月24日 (水)

WEB検定の受験料が1割引に!

 「WEB検定」の問題集が新発売になった。

 今までは公式テキストだけしか販売されていなかったが、ついに問題集が出た。

 私は「WEB検定(リテラシー)」は昨年、一発合格したのだが、「WEB検定(WEBデザイン)」は過去に2度挑戦して2度とも不合格になっている。

 80点以上が合格のところ、1度目が62点、2度目が68点である。

 受験料が16800円と安くないので、そんなに頻繁には受けられない。そこで今年の秋頃の受験を考えていた。

 ところが、問題集が新発売になったのを記念して、今、受験料1割引のキャンペーンをやっているらしい(ただし6月30日までに受験チケットを購入しなければならないようだ)。詳しいことは公式HPをご覧いただければいいと思う。

 これを知った私が、この情報をそのままにしておくわけはない。実は、ロンドン大学通信教育も視野に入れているので、あまりお金を使いたくはないのだが、せっかく1割引になるわけだし、秋に受験するくらいなら、1割引の今、受験したほうがいいかなと思い始めている。

 いずれにせよ、2度も不合格になっているので、次は戦略を立てて受けることにしたい。そこでせっかくなので今日、問題集を買ってみた。

 公式テキストだけで勉強すると、自分がどれくらいの点数が取れそうかまったく予想ができないのだが、問題集で勉強すると、模擬試験もついているため、自分の実力がより客観的に分かる。

 この問題集の模擬試験で80点近い点数が出せるようになったら、7月に受けてみようかなと検討しているところである。

  HPやブログを運営されている方、「WEB検定」はいかがでしょうか? 受験する・しないは別にしても、公式テキストを購入して勉強しておくと、色々な局面で役に立つのではないかと思います。

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2009年6月23日 (火)

「学問をしても、役に立つことなんてめったにないんじゃないの?」

「学問なんて頑張ってやっても、それを活かせることなんて、滅多にないんじゃないの? そんな滅多にないことのために、わざわざお金をかけたり、労力をかけたりして頑張るよりも、手軽にできることで、世のため人のためになることをやったほうがよっぽどいいんじゃないの?」

 学問をやっても、それが十分に活かせたと思えない人であればあるほど、こう考えるのではないだろうか。

 たしかに、いくら学問をやっても、学んだことを、世のため人のために一切使えないとしたら、学問をする意味などほとんどないといえよう。たとえば、モグラの生態の研究に一生涯を費やした学者がいたとしよう。しかし、結局、現代の科学で解明されていること以上のことはなにひとつ見いだせなかったとしよう。こういう場合、いくら本人がモグラについて詳しいと自慢したくても、やったことが世のため人のために何も役に立たないのであるから、まったく独りよがりである。そんなことなら、たとえ、どんな単純な仕事であれ、世のため人のためになることをやったほうが何倍もいいのである。

 しかし、「学問なんて、やったところで、社会の役に立つことはめったにない」といって、なんら新しい知識を身につけようとしない人は、考えてもらいたいのだ。

 学んだことが本当に一生涯、役に立たないのだろうか? あるいは、役に立つことが本当にめったにないと断言できるのだろうか?

 たとえば、私は以前、高校卒の社員ばかりで成り立っている会社でアルバイトをしていたことがある。彼らは口癖のように、「勉強なんてやっても意味はない」「大学なんか行っても意味はない。高校を出たら働いたほうがよっぽどましだ」ということを言っていた。

 私が資格を受けることをもらしても、「宮崎さんって翻訳家ですよね? エクセルの資格を取ってなにになるんですか? だって、そんなのできるようになっても、せいぜい家計簿をつけるくらいしか使い道はないですよね? そんな滅多に活かせる機会のないことにお金を使うのってもったいなくないですか?」みたいなことをいつも言っていたのである。

 当然、そういう考えをしているのだから、彼らは会社から命令されないかぎり、自ら率先してエクセルを学ばないだろうし、パワーポイントも学ばないだろう。ましてや、ホームページ作成やブログもしないだろう。いや、ビジネスコンプライアンス検定を受けるという発想になったり、あるいは、通信教育で大学に行ってみようとか、外国語を学んでみようということにはならないのではないか。

 だって、そうだろう?

 エクセルでさえ、「そんなのできるようになっても活かせる機会なんでめったにない」と言っているのだから、大学の通信教育でフランス文学や科学哲学や倫理学や歴史哲学なんて履修しても「まったく意味がない」と思うだろうし、英語やドイツ語なんて勉強する意義など見出せないだろう。

 だが、どうだろう? 本当に、外国語をやっても、大学の通信教育をやっても意味がないだろうか? 使い道なんて、本当にめったにないだろうか? エクセルはどうだろうか? パワーポイントはどうだろうか? 本当に勉強するだけばからしいのだろうか? 

 でも、「活かせる機会がめったにないことは、やるだけばからしい」なんて言っていたら、努力するものはなくなってしまわないか? 彼らは、きっとこういうのではないか?

「書道なんてやってもばからしい。今はみんなパソコンだ。使い道がない」「楽器がひけるようになって何になるの?」「外国語が話せるようになっても、道端で外国人に声をかけられることって一生で何回あるの? そんなのにお金かけるってばからしいよね?」「フランス文学の本を読んで、それが何になるの?」

 こういうふうに、彼らは、なんでもかんでも、役に立たない、役に立たないといって、直接金儲けにつながることにしか目を向けなくなるのだ。考えていることが、目先のことだけになってしまうのだ。

 たとえば私は最初の大学時代、夏休みは、アルバイトなどせず、ずっと図書館にこもって文学作品を読んだり、英語の勉強をしていた。翻訳家にあこがれてはいたが、なれるとは思っていなかった。回りの友人たちは、「なんでそんなことやっているの?」と言いながら、ほとんどはアルバイトに精を出していた。

 しかし、その10年後、私は専業作家になっていた。これは大学時代の読書や勉強がものを言ったのだ。

 「活かせる機会がめったにないことは、やるだけばからしい」といって、自分を磨くことを怠れば、未来は開けてこない。それは当然だ。というのも、目先のことだけ考えて、お金になりそうなことしかやらないのだから、大きなことができるようにはなれない。

 もちろん、興味のないことはしなくてもいい。しかし、目先のことだけ考えて、「活かせる機会なんてめったにないんじゃないか?」みたいに言っていたら、情熱をもやせるものはなくなるのではないか? お金になりそうになりことがことごとく馬鹿らしく見えてくるのではないか?

 かくいう私は、いま、ドイツ語や哲学の勉強に打ち込んでいる。人から見れば、「そんなのいくら頑張って勉強しても、活かせる機会なんてあまりないんじゃないの?」と思えるかもしれない。

 でも、こうやってコツコツ勉強していれば、将来、ドイツ語関連の本が書けるかもしれないし、哲学の本がかけるかもしれない。大学の先生になるという道が開けるかもしれない。どんな道が開けてくるか、それはやってみないとわからないのだ。最初の最初から、「そんなのやっても活かせる機会はめったにない」といっていたら、お金儲けにならないことは一切できなくなるのではないかな?

 

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2009年6月22日 (月)

国民年金60歳から受け取るか、65歳から受け取るか

 国民年金は65歳から受けるのが一般だが、60歳からでも減額して受け取ることができるという。詳しい減額率までは知らないが、仮に65歳で受け取る額の7割だとしよう。

 あなたなら、どちらで受け取りたいだろうか?

 こういうときに、数学的センスが必要とされるのだ。

「微分・積分なんて、習ったところで、社会に出て、一体何の役に立つの? 数学なんて、できなくても、算数レベルのことが分かれば、一般社会で生きていけるのではないの?」

 そういう人はそういう人だ。

 ただ、微分・積分の概念が分かれば、何も複雑な計算などしなくても、どちらが得かが瞬時に分かるだろう。

 65歳から受け取るとして、70歳まで生きるとすれば、

 100、100、100、100、100だ。つまり、死ぬまでに500を受け取ることになる。

 60歳から受け取るとして70歳まで生きるとすれば、

 70、70、70、70、70、70、70、70、70、70だ。つまり、死ぬまで700を受け取ることになる。

 70歳までしか生きないと仮定すれば、500対700で、早期受け取りのほうが得である。

 長生きをすればするほど遅くから受け取ったらほうが有利になることはすぐに分かるだろう。問題は、自分が何歳で死ぬかである。

 しかし、早く受け取った場合、そのお金を投資に回して、年7%で回したら、話はガラリと変わってくるのだ。もしも60歳のときに受け取った70が年7%で回ってくれれば、65歳のときは105になっている。そういうことを計算できるか否かが、数学的センスの違いなのだ。 

 つまり、年金を生活費として当てにする必要がない人、言い換えれば、年金をすべて投資に回せる人であれば、早く受け取って、それをそのままそっくり投資に回したら、ぐんぐん成長するということが言いたいのである。なにも65歳まで待たなくても、60歳から受け取って、その受け取ったお金をすべて投資信託に回せば、どんどん分配金も増えるのだ。

 私が60歳になる頃には、また年金制度も変わっているかもしれないので、今から期待するのはやめておくが、早期受け取り制度があれば、利用してみたいと思っている。

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2009年6月21日 (日)

好きなことをしてお金が入ってくる人、嫌いなことをしてお金を稼ぐ人

 あなたは次の2つの選択肢があるとしたら、どちらがいいのか?

1,好きなことをして、その結果、お金が入ってくる

2,お金儲けのために、しかたがないから特に好きでもない仕事をして、お金が入ってくる。

 ほとんどのすべての人は、1の選択肢のほうを選びたいのではないか?

 だが、私が見る限り、「好きなことをして、その結果、お金が入ってきている人」は極めて少ない。統計を取ったわけではないが、推測するに、1%ていどの人しかいないだろう。残りの99%くらいの人は、お金儲けのために今の仕事をしているわけだ。

 歌手、お笑い芸人、プロ野球選手、作家、翻訳家、漫画家…こういった職業についてい人は、「好きなことをした結果、お金を得ている人」の割合が比較的多いように思えるが、どう見ても「だれもやりたがらないような仕事」に就いている人は、好きでその仕事をやっているようにはなかなか思えない。

 しかし、「お金儲けのために、しかたがないから今の仕事をしている」という人の多くは、学生時代から、自分の好きなこと自体、なかったのではないか? 空いている時間があったら、好きなことを打ち込むということをせずに、アルバイトに精を出していたのではないか?

 私はアルバイトは極力しなかった。好きなことがあったからだ。お金儲けよりも、やりたいことがあったからだ。私はとにもかくにも、英語、英語、英語という毎日を過ごしていた。あけてもくれても英語だった。

 「将来、翻訳家になりたい」と口にしたら、大笑いした友人もいた。「なれるわけないじゃん」と見下したことをいう友人もいた。しかし、私は英語が好きだから、あけてもくれても勉強に打ち込んでいた。その後も、かたっぱしから英語関連の資格に挑戦したり、翻訳の通信教育に打ち込んだ。25歳のときは、当時の給料の1ヶ月分を投入して児童文学の翻訳書を自費出版までした。そういう毎日を10年続けたからこそ、翻訳をしたり、英語の参考書を書いたりという、「好きなことをして」お金が稼げるようになったのである

 お笑い芸人としてテレビに出られるようになるにも数年から10年くらい修行がいるだろし、歌手、書道家、作家、翻訳家、プロ野球選手なども、好きなことを数年から10年くらいトコトン追い続けなければ、お金が儲かるようにならないだろう。

 出版翻訳家として言わせて貰えれば、出版翻訳家になろうと思えば、最低でも5年ないし10年くらいは、修行しなければならない。

 今のあなたは1と2のどちらだろうか?

 もし2だとして、1に変わりたいとは思わないだろうか?

 もしそうなら、道のりは長いかもしれないが、「本当に好きなこと」を見つけるべきではないか? お金が儲かる・儲からないは別として、「とにかく好きだからやってみたい」ということを探すべきではないか? お金を第一に考えていたら、けっして見つからないのではないかな?

 今の私は、ドイツ語や哲学、ITの勉強をやっているのである。それはたしかに今は直接お金儲けにはつながらない。だが、「好きだから」という理由だけで5年ないし10年続けたら、それはそれでお金儲けにつながるかもしれないだろう? そういう「好きなことを続ける」という心構えがないかぎり、「好きなことをして、お金が入ってくる」という好ましい状態にはなりにくいのではないかな?

 

 

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2009年6月20日 (土)

スウェーデンボルグの本を翻訳中

 今、私は、エマニエル・スウェーデンボルグの本を翻訳している。

 出版予定は11月頃である。

 私は、今までにもすでに30冊くらいの翻訳書があるが、この本ほど、興味深く、かつ、内容の深い本はないと思っている。

 この本は、霊界の様子を見てきたスウェーデンボルグの話である。

 このブログを見て頂いたいる人にも、ぜひ、お勧めしたい本である。

 出版をお楽しみに。

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2009年6月19日 (金)

「楽がしたいなら死になさい」

 はっきり覚えていないのだが、たしか海援隊の「母に捧げるバラード」の中に、鉄也の母が鉄也にこう説教するせりふがあったと思う。

楽がしたくなったら、そのときは、死になさい

 世の中の多くの人は、「不労所得を得て楽したい」とか、「会社員なんか止めてフリーになって楽したい」とか、「会社勤めなんかやめて主婦になって楽したい」とか、楽したい楽したいと思っている人が多いようだ。

 しかし、人間がこの世に生きている本当の目的は、魂の修行なのだ。楽をすることが人生の目的なんかではないし、実際、毎日毎日、何もせずに生きているのは「退屈」という地獄が待ち受けているだけで、けっして面白いものではないのだ。

 だから、どんな境遇にあっても、私たちは生きているかぎりは、ずっと魂を磨き続けなければならない

 たとえ、不労所得を得て、一生、働かなくてもいい境遇になったとしても、毎日毎日、なにもせずにぼんやりあめ玉をしゃぶりながら生きていてはならないのだ。働かなくてよかったら、別の何かで自分を磨かなければならないのだ。

 もし、あなたが一生、お金のために働かなくてもいいとなったら、あなたは一体、何をして自分を磨くのかな? 

 とにかく、どんな境遇にあっても、不満をもらさず、それを自分に与えられた修行の機会だと思って、受け入れることだと思う。楽をしたい、楽をしたい…と思っても、私たちは生きているかぎり、楽はできないようになっているのである。

 

 

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2009年6月18日 (木)

なぜ学問をやるの?

 なぜ一生懸命学問をするのか?

 それは、自分を磨くためである。

 特に私の場合は、今、大学院で勉強していることを一生懸命がんばったところで、それが何になるかといえば、何かになるわけではない。ただ単に学問をやったというだけに過ぎない。

 私は、それを承知の上で、学問に取り組んでいるので、

「なんで、こんなことやらなきゃなんないんだろう?」

 という疑問がわくことはないのだ。

 別に学問にこだわる必要はないと思う。スポーツでも、書道でも、音楽でもいい。あるいは、ビジネスでもいい。自分が磨けるのであれば、なんでもいいんじゃないかな

 あなたは、何を通して、自分を磨こうとしているのかな? 

 

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隣人愛の第一歩

 どんな人が尊敬に値するかといえば、隣人愛を自分の「義務」として実践した人である。カントの哲学を勉強した人なら、定言命法というのを学んでいるはずなので、すぐに分かるだろう。カントの言うとおり、たんに隣人愛を実践しただけでは尊敬に値するとまではいえず、「義務」として実践しなければならないのだ。

「言っていることが全然分からないよ」

 こういう声が聞こえてきそうである。まあ、これはカントの哲学を勉強しなければ、分からないだろう。だが、一つ言えることは、隣人愛を実践することが「尊敬に値する人間」になるための第一歩であるということだ。これなら、理解して貰えるだろう。人間は、ただ単に自分のためにお金を稼いだり、自分の名誉のために働いたとしても、一つも偉くはないのだ。

「隣人愛を実践する? よく分からないなぁ」

 またまたこういう声が聞こえてきそうである。

 隣人愛を実践するというのは、平たく言えば、倫理的に生きるということだ。倫理的に生きるとは、人間関係を大切に生きるということだ。人間関係を大切に生きるとは、相手の人間性を認め、相手がいやがることをしない、相手のよころぶことをする、ということだ。隣人愛を実践するのは、これがスタートなのだ。

 まだ分からないだろうか?

 例をあげて説明しよう。倫理的に生きる機会は、日々、いくらでもある。

 例えば、仕事上でも、いろいろな約束があるだろう。約束をきちんと守る、とういのも一つの倫理的行為だ。なぜなら、約束を破られるほうは腹が立つだろう? 約束をきちんと守れば喜んでもらえるだろう? だから、毎回毎回、期限を破ったり、集合時間に遅刻する人は、その時点で倫理観に欠けるといえよう。

 倫理的に生きるには、例えば、次のルールがある。

・ウソはつかない。(ただし、相手のためにウソをついたほうが望ましい場合は除く)

・約束したことは守る。(守れるかどうか分からないことは軽々しく約束しない)

・社会のルールにしたがう。(ただし、全く無為意味なルールは場合による)

・自分だけを例外視しない。(自分さえよければいい、という考え方を捨てる)

・他人を批評・非難・否定しない。(上から目線でしゃべらないという意味である)

 このように倫理的に生きる機会は日々、いろいろな場面であるのだ。

 上記の5つのルールを完全に守っているだけでも、倫理観はかなり高いほうだと思うが、ただし、これらは隣人愛を実践する最低条件であり、本気で隣人愛を実践しようと思えば、自ら率先して、社会をよくしようと努力しなければならない。

 隣人愛をたくさん実践すればするほど、死んだあとで、よい世界に入れるのだ。あなたは死んだあと、よい世界に入りたくはないのか? 入りたいのなら、今すぐ、隣人愛を一つでもおおく実践するための夢を描くべきだ。

 さあ、あなたはどんな形で、隣人愛を実践していこうとしているのか? 

 あなたの夢を聞かせてもらいたい。

 

 

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2009年6月17日 (水)

不労所得だけで食べていける幸せ

 私は留学から帰国したとき32歳になっていた。なかなか仕事が見つからなかったので、借金が最大で50万円弱できたこともあった。

 しかし、その後、猛烈な売り込みで、仕事をたくさんとり、年柄年中働いて、32歳から41歳の10年間で、ゴーストライター本4冊を含め、合計60冊近くの単行本を出してきた。

 借金50万円からスタートした私の文筆家人生は、まさに茨の道だった。借金には毎月利子がつくので、地道に返していかなければ、なかなか借金が減らないのだった。

 幸い、ベストセラーにも何冊か恵まれ、資産運用もうまく行っているため、41歳の段階で、不労所得だけで食べていけるようになった。そう、私は、もう一生、お金を稼がなくても食べていけるのだ。

 思い起こせば、10年間、本当に激務、激務だったが、その激務に耐えたからこそ、今、こうして不労所得だけで食べていけるのだと思う。

 「お金を稼がなくても一生、不労所得だけで食べていける」

 これは実にありがたい境遇だ。

 よく考えてみてほしい。どんな会社であれ、お互い性格のあうものどうしが集まって仕事をしているのではない。お金儲けのためだけに、毎日毎日、一緒に働いているのである。いやだろうが、なんだろうが、そうせざるを得ないから、しているという人が多いのではないか。

 ある出版業界関係者が書いているブログを読んでみると、今の出版業界は非常に大変なようだ。インターネットの普及で、どんどん本が売れなくなってきているという。当然、どの出版社も、「売れる本」を作ろうとする。毎日毎日、売上数字をあげるためにアクセクしているという。

 私が文筆家になると言ったとき、両親は大反対していた。両親の立場からすれば、それは当然だろうし、今の私から見ても、文筆家として生計を立てることは大変だと思う。本当に大変だと思う。ただ、今の私は、それを「乗り切った」感があるのだ。

 1日平均労働時間14時間。それを1年365日、10年間続けた結果だと思っている。10年間のうち例外的に仕事をしなかった日も、せいぜい数日しかない。親の葬式の日も、葬儀が終わった後で仕事をしていたくらいであった。それくらい仕事づくめの日々だったのだ。今から思えば、実に、大変な日々だった。

 

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2009年6月16日 (火)

隣人愛の第一歩は?

 私は、学問はずっと続けていくつもりだが、学問が人生で一番大切だとは言っていない。学問をするのは、あくまで自分を磨くためであり、最終的には学んだことを隣人愛に活かすことが大切なのである。学んだことを、ただ自分の名誉のため、自分のお金儲けのために活かしただけでは、尊敬に値するとまでは言えない。

「隣人愛が大切なことは分かったよ。だけど何をするの? 偉そうなことを言っているけど、実際、何をやっているの?」

 こんな声が聞こえてきそうである。

 隣人愛といっても、何も大きなプロジェクトに取り組まなければならないというわけではない。できる範囲ないのことをコツコツやっていけばいいのだ。例えば、献血でもいいだろう。献金でもいい。コンビニやマクドナルド、スーパーなどに行けば、募金箱はたいていおいてある。それに小銭を入れてあげてもいいだろう。あなた自身がお金に困っているのなら、ベルマークを集めてどこかの学校に持っていったっていいのではないか。

「なんだ、隣人愛、隣人愛って、たったそれだけか?」

 そう思うかもしれないが、何もそんなことが隣人愛だというつもりはない。というより、そういうことを特別しなくても、もっともっと大切なことがある。

 隣人愛の第一歩は「倫理的な言葉を使うこと」だ。隣人愛はそこがスタートだし、それをしないで隣人愛は実践しようがない。

「倫理的な言葉を使う? う~ん、よく分からないなぁ。倫理的な言葉って」

 そういう声が聞こえてきそうである。

 分かりやすく説明しよう。「倫理」というのは「人間関係」という意味だ。だから「倫理的な言葉を使う」ということは「人間関係を大切にする言葉遣いをする」ということだ。さらに言い換えれば、「もし自分が相手の立場だったら、言ってもらいたくない言葉遣いをしないこと、言ってもらいたい言葉遣いをすること」といえるだろう。

 例えば、図書館である青年がペットボトルを持ち込んで飲んでいた。それを見たある中年男性は激怒して、つかつかとその青年のところに歩み寄り、こう怒鳴った。

「このバカが! 飲むんじゃねぇよ。掲示板よく読め!」

 これは「倫理的な言葉」ではない。言い換えれば、「人間関係を大切にした言葉」ではない。話しかけているのは確かに人間ではあるが、モノとして扱っている。相手の人間性を認めていない。ただ、マナー違反をしているのに腹を立てて、怒りを爆発させただけである。

 同じ注意をするのであっても、「倫理的な言葉」が使える人なら、

「この図書館は、その掲示板にも書かれてあるとおり、飲食は禁止になっていますよ。気をつけられたほうがいいのではないですか?」

 というふうに、相手の人格を傷つけないように注意するだろう。

「な~んだ、たったそれだけのことか。そんなんなら私もいつも倫理的な言葉を使っているよ」

 そういうかもしれない。しかし、「倫理的な言葉」を使うことは意外と難しいのだ。特に他人を注意するときは、カッとなっているときが多いので、ついつい他人の人格を無視して、けなすようなことを言いやすいのだ。

 先日、私が自転車で道路を走っていたら、私の後ろから猛スピードで飛ばしてくる自転車があった。私が道を曲がろうかどうしようか迷いながら自転車の方向を変えようとしたとたん、後ろからきたその自転車と一瞬、ぶつかりそうになった。私は、後ろから来ている自転車にはまったく気づいていなかったし、何も私が危険な走行をしていたわけではない。なのに、その自転車に乗っていた男性は、私とすれ違いざまに、大声でこう怒鳴った。

「あぶね~んだよ、このバーカ。死ね!」

 私は、一瞬、殺気を感じた。しかし、こういう風に、たった一言ののしられただけで、私はその日、一日中、気分が晴れなかった。わざと危険走行をしていたわけでもないのに、なんで「バーカ」と罵られなければならないのか。おそらく、その男性は、ふだんから、ちょっとでも気にいらないことがあったら、すぐにこのように相手をののしったり、見下したりするのだろう。言い換えれば、「倫理的な言葉遣い」のできない人なのだろう。そう思うと、むしろ可哀相な人だと思えた。

 言葉遣いが大切だということがお分かりいただけだろうか? 隣人愛の第一歩は倫理的な言葉遣いをすることだということもお分かりいただけただろうか? 人間は、言葉によって励まされたり、口論したり、憎しみあったりするのである。倫理的な言葉、つまり、人間関係を大切にする言葉が使えるようになることが、隣人愛の第一歩ということがお分かりいただけだろうか?

 あなたは、自分の同僚、友達、配偶者、子供、見知らぬ人…に対して、どういう言葉を使っているのかな? 倫理的な言葉を使っているだろうか? 配偶者や子供だけでなく、見知らぬ人に対しても、倫理的な言葉を使えるようになることは、それだけでもとても重要なことではないかな? 

 

 

 

 

 

  

 

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2009年6月15日 (月)

夢の実現に大切なこと

 あなたはどんな夢をもっているのかな?

 どんな夢をもっていてもいい。短期の夢であろうが、長期の夢であろうが。

 ただ、私が見ているかぎり、いつも夢を語るだけで、いつの間にかその夢が消えてなくなっている人と、ほぼ描いていたとおりに実現させる人がいる。

 例えば、私は1年前、大きな目標として3つの夢を描いていた。それは「慶應大学卒業」「ドイツ語検定2級合格」「大学院合格」だった。

 その3つとも実現した。

 しかし、夢を夢のままで終わらせている人もけっこう多いのではないかな?

 夢を実現させたいのであれば、全身全霊を傾けて取り組めば、実現する可能性が50%ていどある夢を描くことだ。そして、その実現までのステップを考え、全力で取り組むことだ。

 しかし、実現する可能性が極めて低いことを夢見たり、本人の努力ではどうしようもないこと(つまり、運に左右されやすいこと)は、夢見ていても、努力のしがいがない。本人も最初の最初から、

(どうせ頑張ったところで、実現するわけないよな)

 と諦めているのではないか? そんな夢は、当然、実現しにくいだろう?

 もう一度いう。

 夢を一つひとつ実現させて行きたいのなら、本当に自分の能力だけで実現する可能性が50%程度はある夢を夢見ることだ。運まかせ、他人まかせの夢は、努力のしようがないのだから、本人にはどうしようもないのではないか?

 私には、これから先、まだまだ夢はたくさんある。

 

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2009年6月14日 (日)

勉強が嫌いな人は土日に何やるの?

 私が以前、アルバイトをしていた会社の社員が高卒がほとんどだったという話をした。別に「高卒だから」というレッテルを貼りたいわけではないが、彼らから聞いた話では、どうも彼らの多くが「勉強などやっても意味はない」「やるだけ馬鹿らしい」と思っているふしがあるという話もした。

 しかし、本当に「勉強しなくていいこと」「仕事をしなくていいこと」=「幸せ」なのだろうか。

 もし、勉強しなくていい、仕事しなくていい、となったら、その空いた時間、一体何をするのであろうか? 

 これも彼ら同士の話から分かったのだが、どうも彼らは毎週といっていいほど土日をパチンコとか競馬といった「賭け事」やテレビやテレビゲームといった「遊び」に費やしていた。おそらく、勉強することがないのだから、それくらいしかやることがないのだろう。スポーツしているとか、書道をやっているとか、小説を書いているとか、そういった努力が必要なものが出てくる幕は一切なかったのである。

 しかし、パチンコ、競馬、テレビ、テレビゲーム、それをずっとやって行くのって、そんなに楽しいことだろうか。

 パチンコにしろ、競馬にしろ、お金がかかるだけではないか? 結局、賭け事は確率的には負けるようにできている。長年やっていたら、どんなに賭け事に強い人でも、儲かるようにはなっていないはずである。テレビやテレビゲームにしても、そんなに朝から晩までずっと見ていて楽しいことだろうか。

 私には、そんな人生、興味はない。

 私には「自分を磨く」という目標があるため、一生、勉強が続くだろう。一生、飽きることもないだろう。なぜなら、人から与えられた勉強をしているのではなく、自ら率先して見つけた勉強ばかりやっているからだ。今日もこれから図書館で必死に勉強に取り組むことになる。実に張り合いのある土日である。

 

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2009年6月13日 (土)

「なんでこんな勉強しなきゃなんないの?」

 私は、今、ドイツ語や哲学の勉強をしている。しかし、ドイツ語も哲学も「勉強せざるをえない」からしているのではない。私は、勉強しなくてもいっこうにかまわないのである。ドイツ語にしても哲学にしても、したからといってお金が儲かるわけでもなく、何か形になるわけでもない。なのに、必死になって勉強しているのは、その究極の目標が自分を磨くことだからである。だから、勉強していて、「なんでこんな勉強しなきゃなんないの?」という疑問がわくことはない。

 実際、私は今、ドイツ語の通信教育もしており、ドイツ語の手紙を書く練習もある。一生、ドイツ人にドイツ語で手紙を書くことなどないかもしれない。なのに、私は、「なんでこんなこと勉強しなきゃなんないの?」とは思わない。

 私は、今、ハッキリ言える。

 私が今、必死になって勉強しているのは、自分を磨くためである。だから、勉強がイヤになることはないし、「なんでこんなに勉強しなきゃなんないの?」という疑問が生じることがない。それどころか、勉強をすればするほど、勉強の大切さを知るし、ますます勉強したくなるのだ。

  一方、勉強していても、外的な目的(昇進するため、試験に合格するため、単位を取るため、いい会社に就職するため)のためにだけ勉強している人は、勉強そのものが好きでやっているわけでないから、ふと「なんでこんなこと勉強しなきゃなんないの?」という疑問がわくこともあろう。

 私は、以前、高卒ばかりの人が勤務する職場でアルバイトをしていたことがある。私は「高卒だから」ということでレッテルを貼りたくはないのだが、彼らと話をしていて、よく感じていたことは彼らの多くは、「学校の勉強などやる意味がない」「高校で習ったことは社会に出て何の役に立たなかった」「大学生はバカばかりだ。大学なんか行く意味はまるでない」「検定試験なんか受けて何になるの? そんなに必死になって勉強して『ドットコムマスター』なんて取っても何にも役に立たないんじゃないの?」「エクセル使えるようになってそれが何なの? 宮崎さんって翻訳家だよね? 翻訳家がエクセル使う機会って、せいぜい家計簿つけるくらいしかないんじゃないの? そんなのにお金使うのってもったいない。俺なら旅行でもするけどね」…と、とにかくなんでもかんでも「勉強すること」を否定したがっていたということだ。

 私は、別に「勉強すればするほどいい」という価値観を主張したいわけではない。「勉強しても意味はない」と思うのなら、しなければいいだけの話である。

 ただ、もしあなたが勉強していて、ふと「なんでこんな勉強しなきゃなんないの?」という疑問が湧いてくるのなら、勉強する本当の意味を考えてみるのもいいのではないか? 「勉強しないこと」イコール「幸せ」なのか? それとも「勉強によって自分を磨くこと」イコール「幸せ」なのか。私の昔のアルバイト先の同僚の多くのように「勉強しなくていいこと」=「幸せ」と考えるのかな?

 あなたはどっちなのかな? 

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2009年6月12日 (金)

受け身の勉強と攻めの勉強

 大学院での授業が楽しくなってきた。

 その理由は、大学院の授業は、基本的に「攻めの勉強」と言えるからだ。そういう点では大学での授業とは大きく異なる。

 大学の授業は、ほとんどが大教室で行われ、先生1人が50人から100人くらいの生徒に向かってぺらぺらしゃべり、生徒はそれをノートに取る、といった「受け身の勉強」である。もちろん、例外はあるだろうが、基本的には既定の知識を詰め込むのが生徒の仕事だ。だから、まあ、面白みという点で言えば、そんなに面白い作業ではない。大学での勉強で唯一、創造性をいかんなく発揮できる場が卒論だろう。

 一方、大学院の授業は、基本的に自分の思想をゼロから作り上げ、プレゼンテーションをしたり、他人と討論をすることになる。いわば「攻めの勉強」であり、何をするにせよ、創造性が要求される。だからこそ、厳しいといえば厳しいのだが、それだけ面白みがあるといえる。

 「行列のできる法律相談所」というテレビ番組を見たことがある人なら分かるだろうが、法律の世界にも、判断が微妙な問題はたくさんある。そういう微妙な問題について、それぞれの弁護士が持論を展開し、弁護士バトルをするわけで、見ている方は、そこが面白いのである。

 大学院での授業も、決められたテーマに沿って、それぞれの生徒が持論を展開し、バトルを繰り広げることになるわけだが、そのバトルが面白いのである。1時間30分の授業でも、バトルを繰り広げていると、本当に「あっ」という間に時間が過ぎ去る。

 バトルに参加しようと思えば、それ相当の準備(予習)をしていくことになるのだが、そういう予習を毎回やっていくことで理解が深まっていくわけである。こういう攻めの勉強は、受け身の勉強の何倍もスリリングだし、実力もつくのである。

 こういう「攻めの勉強」を経験し、知的な刺激を受けると、もっともっと勉強したいと思うようになるのだ。もっともっと色々なテーマでプレゼンをしたり、バトルをしてみたいと思うようになる。つくづく勉強ができる幸せを感じているのである。

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2009年6月11日 (木)

あなたは夢を追いかけているか?

 ラジオの人生相談番組を聞いていると、65歳の男性が相談を受けていた。

「40年間、ずっと自営業をやって来たが、同じ仕事の繰り返しで、まったくおもしろくない。仕事をしたくないので止めたいのだが、止めると生活できなくなるので止めるわけにもいかない。毎日がおもしろくなくて、どうしようもない。一体どうしたらいいのか?」

 だいたいこんな相談であった。

 仕事を止めてしまうと生活できないのなら、たしかに止めるわけにはいかないだろう。

 だから、仕事をしながら現状を変えていくしか方法はない。

 回答者は、いろいろと提案をした。こうしてみたら新しい希望が湧いてくるのではないか、ああしてみたらいいのではないか…。

 しかし、それを遮るように相談者はこう言った。

「そんなの夢物語ですよ。だって、毎日毎日仕事しなきゃなんないんだから、そんな夢が簡単にかなうわけがないじゃないですか」

 それに対し、回答者はこう答えた。

「現状から逃げても何も始まりません。夢を実現しようと思ったら、まず夢を見ることから始め、その夢をどう現実化していくかを考えるべきです。夢をもたなければ、けっして現状が変わりません」

 あなたは今、仕事をしていて楽しいだろうか? お金を稼ぐためだけに仕事をしているだけだろうか? 

 もしそうなら、今すぐ自ら率先して夢を追いかけるべきだ。流れに流されるまま、必要最低限のことだけやっていても、現状は何も変わらないぞ。

 あなたの夢はいったい何なのだ?

 あなたはそれを本気で実現しようとして日々努力しているのか?

 それをしていないなら、先に紹介した65歳の男性のようなことになるのではないか?

 さあ、惰性で生きるのは止め、自ら率先して自らに課題を課し、一日一日成長していこうではないか! それが夢を実現する唯一の方法なのだ。

 

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2009年6月10日 (水)

外国語を愉しむ方法

 私は今、カントの『純粋理性批判』を読んでいるわけだが、ドイツ語の原書だけを読めと言われると、ちょっと難しすぎる。しかし、ドイツ語の原書と日本語訳を対訳にして読み進めていくと、ドイツ語の原書もなんとか読めるのである。対訳であれ、カントをドイツ語で読めるようになると、「ドイツ語の読解力を高めるためだけの読書」とはまったく違った愉しみがある。

 どの外国語についても言えることだが、ただ単に「その外国語の読解力を高めようとして読む読書」は面白くはないだろう? それは野球に喩えていえば、あくまで準備体操であり、ウサギ跳びであり、ランニングであり、素振りだろう? だから面白みがなくて当然なのだ。

 一方、「読みたい本をその外国語で読む」という読書に切り替えると、面白みがグンと高まる。それは野球に喩えていえば、実際に試合に出るような愉しみである。原書がすいすい頭の中に入ってくると、もうそれは試合でホームランでも打ったかのような感激に浸れるはずだ。

 思うに、外国語の愉しみを知らない人は、試験で点数を取るためだけの勉強、つまり「準備体操」ばかりやっていたのではないか。だから外国語で読む愉しみを知らないままなのではないか。「試合」に出たことがないのだから、感激もないはずである。

 例えば、あなたがデール・カーネギーのファンだとしよう。カーネギーの訳書を何度も何度も繰り返して読んだとしよう。ならば、今度は英語の原書でカーネギーを読んでみたらどうか? いきなり英語で読むのが大変なら、原書と訳書を横に並べて、対訳にして読むのだ。

 方法は簡単だ。訳文を一文読んだら、それに対応する英文を一文読むのだ。そうして読んでいけば、英語が多少苦手な人であっても、原書で読めるのだ

 するとどうだ! もう、そこには新しい世界が開けて来ている。そう、「原書で読む愉しさ」という今までになかったスリリングな世界なのだ。1年前の私には到底考えられなかったのだが、今では私はカントをドイツ語の原書で取り組んでいる。しかも、対訳で読み進めれば、ドイツ語でも分かるのだ! 1年前にドイツ語の学習参考書で面白みのない文章ばかり読み進めていたときとは比べようもない愉しみがあるのだ。

 あなたも、自分の好きな外国語の作家を対訳で読んでみないか? 新たな世界が開けてくるぞ!

 

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2009年6月 9日 (火)

試験に合格するには戦略をたてよ

 私はすでに89種類の資格に合格してきたわけだが、特にここ数年は、多くの資格に合格してきている。これからもドシドシ挑戦しようと思っているのである。

 資格を受ける究極の目的は、自分を磨くことであるから、合否自体にはそれほど拘ってはいない。しかし、かといって手を抜いているわけではなく、合格を目指して懸命に勉強して受験している。あくまで大切なのは自分を磨くというだけで、合格したいことはしたいのだ。

 合格を目指すには、戦略が必要だ。

 例えば、部分部分で足きりがあるような試験では、足きりにひっかからないように勉強しなければならない。逆に、足きりが一切なく、単純に総合得点で合否が判定される資格であれば、得意分野をトコトン勉強してもいいわけだ。

 私が来月受ける「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」は、筆記試験(読解、文法、リスニング、ドイツ語作文)と口述試験がある。

 この試験のいいところは、筆記試験か口述試験かの1つしか合格しなくても、「部分合格証」が出ることだ。だから口述に自信のない私でも、最低、筆記試験だけでも部分合格を目指そうという気持ちになるのだ。

 肝心の筆記試験だが、読解、文法、リスニング、ドイツ語作文と4部分にわかれているのだが、これまた嬉しいことに、足きりがない。具体的に言えば、読解75点、文法30点、リスニング75点、ドイツ語作文45点の合計225点満点で135点以上取っていれば、それだけで合格となるのだ。

 つまり、文法も0点、ドイツ語作文も0点であったとしても、読解とリスニングの合計150点のうち135点以上をたたき出せば、それでも「筆記合格」となるのだ。

 私は、文法には自信がないが、ドイツ語作文にはもっと自信がない。スペルもかなりいい加減だ。それを短期間で伸ばすのは酷なのだ。しかし、足きりが一切ないので、読解とリスニングで9割取れば「筆記合格」となる。これを知って、俄然、勉強に身が入っているのである。

 

  

 

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2009年6月 8日 (月)

本気で学問をすると

 本気で学問をすると、人は謙虚になるはずである

 もしも学問した結果、謙虚にならず、高慢になったとしたら、それはまだ学問を中途半端にしかやっていないからだろう。なぜなら、本気で学問をすればするほど、「自分がいかに何も知らないか」を知る羽目になるからである。

 例えば、ニュートンの引力説は誰もが知っているだろう。

 ニュートンが引力説を発表して以来、長い間、それは「絶対に正しい」と思われ続けてきた。しかし、アインシュタインがその間違いを指摘し、それまで「絶対に正しい」と思われていたことが、正しくないことが証明されてしまったわけである。

 この例かも分かるように、この世で私たちが獲得した知識の中で「絶対に正しい」というものは存在しえないのである。少し難しい話になるが、「絶対に正しい」と言えるのは純粋数学と純粋自然科学しかない。それ以外の、経験したことや、観察したことから、「絶対に正しい」と言えるものは導き出すことは不可能なのだ。

 無学の人に多いのは、自分の狭い狭い範囲で観察したことや経験したことから、ゆがんだ偏見をもっていることだ。

 もう一度いう。私たちは、まだまだ知らないことばかりなのだ。まず、自分が「知らない」ということを知ることが重要なのである。

 

 

 

 

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2009年6月 7日 (日)

目標を持つ大切さ

 大学院入試が1月下旬にあったのだが、実は、入試直前まで必死にドイツ語の習得に努めていた。なぜなら、ドイツ語の出来・不出来が合否に大きく影響すると思っていたからである。

 ところが、入試を終えて以来というもの、「ドイツ語をやろう、やろうと」思っていながら、なかなか身を入れた勉強ができずにいた。

 翻訳の仕事や大学院の授業などで「忙しかったから」という理由もあるのだが、それにしても、時の流れるのは早いもので、ドイツ語の勉強をほとんどせずに、1月下旬から5月下旬まで4ヶ月も過ごしたのである。本当に「あっ」という間の4ヶ月だった。

(こんなことではいけない。こんな調子では、時間が過ぎるだけで、全然ドイツ語の実力は伸びないではないか!)

 そう反省した私は、モチベーションをあげるために、自ら率先して「オーストリア政府公認ドイツ語検定」を自らに課した。こうでもしないかぎり、ドイツ語の勉強など、なかなか独学でできるものではないのだ。

 5月下旬に申込みをすませると、不思議なもので、ドイツ語の勉強に身が入るようになった。また大学院入試直前のときように、いつもポケットに単語カードを入れて、四六時中、ドイツ語単語を覚えるようにするようになったのである。

 面白いもので、試験を受けるという目標があれば、すいすいドイツ語単語が覚えられるのである。これこそが目標の力なのだということを再度実感した。

 試験まで残り1ヶ月。とにかく自分の置かれた環境の中でベストを尽くして挑戦してみたい。ただ私は合否には一切拘っていない。というのも、合格になろうが不合格になろうが、基本的に今の私の職業生活や私生活を大きく変えるものではないからだ。私は、ただ自分の理性を磨くためにドイツ語に挑戦しているだけなのだ。

 合否結果は、このブログでも公表しようと思う。

 あなたは、今、どんな目標をもっているのかな? 

 

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2009年6月 6日 (土)

学問の大切さ

 自分が「知っている」と思っているものは、あくまで「知っている」と思っているだけにすぎず、それが真実か否かは別問題なのである。

 なまじっか学問をやった人、または、無知な人は、自分が「知っている」と思っているにすぎないことを正しいと思いこんでいるのだ。

 だから、他人の意見をよく吟味しないうちに、否定する。

 実は、こういう人が一番かわいそうな人と言えるだろう。なぜなら、成長を自ら阻んでいるからである。

 今、この世で真実と思われていることも、実は真実ではない可能性だって十分にあるのだ。

 学問とは常に自分の独断と偏見を打ち破るための挑戦である。

 今まで真実だと思っていたことが実は単なる思いこみにすぎず、真実は全く別だったことが分かったら、どんなに世界が開けてくることだろう。

 それに気づくには、学問をやっていくしかないのではないか。

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2009年6月 5日 (金)

大学と大学院の大きな違い

 私は大学は青山学院大学、慶應義塾大学と2つの大学を出た。

 大学院は、シェフィールド大学大学院、金沢工業大学大学院と出て、今、3つ目の上智大学大学院にいる。

 大学と大学院の大きな違いというのは、大学が受動態での勉強であるのに対し、大学院が能動態での勉強であるということだ。

 言い換えれば、大学では、ほとんどすべての科目は、ただ先生が言ったことをノートに取り、それを暗記する、という授業であり、創造性を発揮しなくても、ただ真面目に勉強していればいいというものだ。

 だが、大学院はそれでは通用しない。大学院は一つの授業を受けるのでも、「ただ聞いていればいい」というのではなく、自ら率先して参加しなければならないわけである。

 大学院の場合は、人数も少人数なので、1つの授業でせいぜい10人から15人くらいしかいない。だから、ときどき、プレゼンテーションを求められ、質問攻めに会うのだ。

 思い起こしてみれば、大学院の授業はどれもハードだった。

 シェフィールドでは、すべて英語でコミュニケーションを取らなければならないのであるから、プレゼンももちろん英語だ。質問も英語でされるわけだ。だから、とにかく準備に時間がかかってしかたなかった。

 金沢工大のときでも、プログラミング込みのプレゼンのときは死ぬ思いをした。何しろ、プログラミングができなければプレゼンそのものができないのだ。しかも、すべてパワーポイントを作成しなければならない。なんと週に2回程度は毎週のようにプレゼンの機会があり、とても大変だった。

 さて、上智である。原典がドイツ語という点が実に困難である。しかも、レベルが高い。ドイツ語検定でいえば、間違いなく1級レベルのドイツ語である。なにしろ、ほとんどすべての単語が難解である。それをプレゼンするとなると、まあ、準備に時間がかかることかかること。

(そんなに大変なら止めればいいじゃん)

 そういう声が聞こえて来そうだが、私はこれからも自分を切磋琢磨するために学問は続けていこうと思っている。厳しさの中に愉しさがあるからである。そういう知的な愉しさというのは実はとても奥が深い愉しみであり、「○○を食べておいしかった」みたいなレベルの愉しみの何倍、何十倍も愉しいのだ。

 あなたも大学院を目指してみないか?

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2009年6月 4日 (木)

倫理学の大切さ

 私は40歳を超えてから慶応大学に入ったわけだが、そこで取り組んだ学問は自分を成長させる上で実に役立ったと思っている。特に哲学や倫理学で学んだことは、私を大きく変えるきっかけとなった。

 多くの人は、「もっとお金がほしい」「もっといい家にすみたい」「息子をいい大学に入れてやりたい」「休日にはこんな遊びがしたい」…

 そういうことばかりを追い求めて生きているのではないか? なぜなら、それによって幸せが手に入ると思いこんでいるからだ。

 しかし、そういう生き方は、単に欲望に動かされているだけに過ぎないのである。そういう点では、ネコと大差はない。ネコでも、毎日毎日、欲望に動かされて生きているではないか。それとどう違う?

 ネコと人間の一番大きな違いは、人間には理性が備わっている点だ。

 だから、人間はネコのように欲望に動かされて生きていくのではなく、理性にしたがって生きるべきなのだ。だから、「あれが欲しい」「これが欲しい」…ということばかり追い求めて生きていてはならないのだ。

 さて、理性にしたがって生きる上で必要なのは倫理観である。

 ネコには倫理観など必要はない。なぜなら理性をもっていないからだ。だから他のネコに迷惑になろうがどうしようが、ただ単に自分の欲望に身を任せて生きていていいのだ。

 しかし、理性のある人間は、他の人間に迷惑になることをしてまで自分の欲望を満たしてはならない。それが倫理観というものなのだ。

 倫理観を持つ上で、最低限守らなければならないルールは2つある。

 1つは、自分だけを特別視しないこと

 もう1つは、他人の意見がどんなに低級だと思えても、よく吟味しないうちに、それを否定しないこと

 これが倫理観を持つ最低のルールだ。

 

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2009年6月 3日 (水)

数学的センスの磨き方

 「数学なんて勉強して何になるの? そんなの社会に出て何も役に立たないんじゃないの?」

 私大文系専願者、あるいは、数学嫌いの高卒者には、こう考えている人も多いのではないだろうか。

 しかし、数学的センスは、日常生活において大いに求められるものである。

 例えば、投資にしても、投資信託がいいのか、株がいいのか、不動産投資がいいのかを判断する際、数学的センスがある人とない人とでは、見方が違ってくる。

 数学的センスがあればあるほど、より賢明な判断を下すだろうが、センスがない人であればあるほど、あとで後悔するような判断を下すだろう。投資は、「金を儲けてやろう」という欲望に突き動かされて素人が手を出したところで、やけどをするのがオチ、という場合が多い。リスクや利回りや、投資をしたことで発生する様々な要因などを総合的に判断しながらやっていかなければならないのだが、そこで数学的センスが要求されるのだ。

 では、数学的センスを磨くにはどうすればいいのか。

 答えは単純だ。数学の勉強をする以外にはない。というのも、単に日常生活を繰り返すだけでは、数学的センスが磨かれることはないからだ。書道を練習しない人が自然に字がうまくならないように、あるいは、水泳の練習をしない人が自然に速く泳げるようにならないように、数学的センスも練習しなければ磨かれることなどないのだ。

 ただ社会人には、いい知らせがある。『ビジネス数学検定』というのがあるので、それに挑戦してみたらどうか。すべてビジネスに直結する問題で成り立っており、勉強すればするほど、数学的センスが求められるビジネスシーンで、より的確な判断が下せるようになること請け合いだ。

 ぜひお勧めの資格である。

(なんで、そんなの勉強しなきゃいけないの)

 そういう声が数学嫌いの人から聞こえて来そうだが、数学的センスを磨くことは本人のためになることなのだ。

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2009年6月 2日 (火)

翻訳は時間がかかる

 私は、今、大学院のプレゼンのために、ドイツ語の原書を翻訳しているのだが、つくづく思うことは、翻訳は時間もエネルギーも莫大かかるということである。

 英語の翻訳でも大変であるが、ドイツ語となると、文法も難しいだけでなく、単語のニュアンスがつかみにくい。これはもう、やっていると、へとへとになる。

 本当に「あっ」という間に1時間、2時間、3時間…と経っていて、驚いて時計を見たら、すでに午前2時を回っていた。

(え~。もうこんなに時間が経っていたのか!)

 という感じである。

 でも、いい修行になるな、と思う。

 というのも、こういう機会がなければ、なかなか、ここまで必死に勉強しないからである。

 人間、なかなか自分一人で独学しろ、といわれても、なかなか続かないものだ。だが、こうして一緒に勉学に励む人たちの中に入っていれば、否応にも、やらざるを得なくなる。それで自分が磨かれるのである。

 あなたは、どんな「自分磨き」をしているのかな?

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2009年6月 1日 (月)

原書で好きな本を読むメリット

 私は、自分が書いた著書の中でも、「英語は中途半端に勉強するくらいなら、きっぱりと捨ててしまって、空いた時間を別の勉強に充てよ」ということを書いている。しかし、それはけっして万人に対して「英語は勉強しなくていい」と言おうとしているのではない。

 義務教育を受けた人ならだれしも、何年も英語の勉強もしているのだから、もう少し続けて、原書で好きな本を読めるようになってほしいとは思っているのである。ただ、中途半端なことをやって、片言の英語がしゃべれるようになって満足して終わるくらいなら、その労力は別の勉強に充てた方がいいと言っているのである。

 私が特に頑張って欲しいと思っているのは、そこそこ名の通った大学を出ている人たちである。彼らは、少なくとも入試のときに英語の勉強をしているわけだから、原書がスラスラ読めるくらいまでがんばれ、とハッパをかけたいのだ。

 では、なぜ、原書が読めるようになったらいいのか?

 英語が嫌いな人は、必ず、こう反論してくる。

「英語が原書で読めるようになって、それが一体なんなの? 私には関係ないよ。だって仕事で英語なんか使わないもん。苦労してまでそんなに英語の勉強しても、お金儲けにつながらなんだから、勉強する意味がないよ。だいたい、ほとんどの本は翻訳書が出ているんだから、それで十分じゃん」

 それで話は終わりである。

 英語に興味がないのなら、無理に頑張れとは言わない。

 しかし、「翻訳書が出ているからそれで十分間に合う」というのなら、それは違うと言いたい。なぜなら、翻訳書で読むのと原書で読むのとでは、感動が全然違うからだ

 翻訳書だとどうしても原書に表されている細かいニュアンスがそげ落ちているので、味が落ちるのだ。わかりやすく喩えていえば、原書が「カラー映画」だとすると、翻訳書は「モノクロ映画」だ。原書が「ステレオ」だとすると、翻訳書は「モノラル」だ。どうしても、それくらい味が落ちてしまうのだ。

 翻訳書に頼っている人は、映画を「モノクロ」で観て、音楽を「モノラル」で聴いているようなものなのだ。彼らはそれで満足かもしれないが、原書が読める人間から見れば、それでは全然物足りないのだ。

 あなたにも好きな外国の作家がいるだろう? 学生時代から何度も何度も繰り返した作家もいるのではないか? だったら、それを原書で取り組んでみたらどうか? いきなり原書に取り組むのが難しいようなら、日本語と英語を対訳にして読めばいいのではないか?

(なんで、そんな面倒なことしなくちゃならないの? 俺は翻訳書で十分愉しめたよ。いまさら英語なんてイヤだよ。別に英語の試験があるわけじゃないし…)

 どうも、こういう声が聞こえて来そうだが、原書で好きな本を読む知的愉しみを知れば、「こんな愉しみ方があったのか! 新しい世界が開けたようだよ! もっと早く知っていれば良かったよ」とスリリングな爽快さが味わえるのだ。子供からも、「ウチのお父ちゃんは日曜日には英語の本を読んでいる、お父ちゃんってこういう側面があったのか、すご~い!」と密かに尊敬されるかもしれないではないか。 

 とはいえ、原書がスラスラ読めるようになるには、それなりに努力しなければならない。だが、それを乗り越えれば、原書が読めない人には味わえない、質の高い喜びが味わえるようになるのだ。「モノクロ映画」が「カラー映画」に変わるのだ。あなたは一生、「モノクロ映画」でいいのか? 「カラー映画」を見たいとは思わないのか? それを一度味わってしまうと、もう「モノクロ映画」「モノラル」には戻れないくらい、原書を読む愉しさが待っているぞ! そういう知的な愉しみを味わってみたいとは思わないか?

 

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