« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »

2017年3月

2017年3月 9日 (木)

客観的な物差しがない人を信じられるか

唐突だが、みなさんに訊いてみたい。

赤の他人が自分の語学力を述べるときに英検だの仏検だの伊検だのといった客観的な基準を提示せずに、単にその人独自のものさしだけで「マスターした」とか「モノにした」と言っている場合、その人をどの程度信じられるだろうか。

例えば、こんな場面を想像してみてほしい。

あなたは誰かにフランス語の知恵を借りたい。そんなとき、次のAさんとBさんとどちらに頼みたいと思うだろうか。

Aさん 仏検2級取得。

Bさん 本人は「フランス語をマスターした」と言っているものの、フランス語の通訳・翻訳をやっているわけでもなく、フランス語の先生をやっているわけでもなく、フランスに留学したわけでもなく、フランス人の友人がいるわけでもない。仏検の級を訊いても、「検定試験では本当の実力は判定できない」などというだけで仏検何級かは一切言わない。

もちろん、実際にAさんにもBさんにも会っていろいろと話せば、AさんがいいかBさんがいいかはわかってくるかもしれない。ただ、そういうことができないと仮定する。つまり、分かっている情報は先述したものだけで、年齢も性別も学歴もわからないとする。そういう場合、AさんとBさん、どちらを選ぶだろうか。

私だったらAさんにアプローチするだろう。

少なくともAさんは仏検2級を持っている。ということは、最低限、仏検2級レベルの実力があることが客観的に保証されており、その後Aさんが研鑽を積み重ねていれば、仏検2級以上の実力を持っているかもしれないのである。仮に仏検2級取得後かなりの年月が経っていたにせよ、一度は仏検2級合格レベルまで到達したことがあるということが証明されている。

その点、Bさんは、自分ひとりが「フランス語をマスターした」と言っているだけであり、それを裏付けるものが何もない。ひょっとすると挨拶と自己紹介程度のフランス語が話せるくらいで、フランス語の本などたいして読んでいないのかもしれない。なにしろ、仏検の級を訊いても、その質問には答えず、「検定試験では本当の実力は判定できない」と検定試験の意義を否定するだけなのである。

私は、「多言語をモノにした」と豪語する人の本を何冊か読んだが、少なくとも私が読んだ本の中には、客観的な基準を提示していた人は一人としていなかった。50か国語をマスターしたという日本人もいたが、どの程度「マスターした」のかが分からなので、信じろといわれても、その人の定義における「マスター」をしたのだろうなとしか思えないのだ。

別に「モノにした」という言葉を疑いはしないが、「モノにした」という言葉は人によって定義が異なるので、信じろといわれても、それはその人の定義における「モノにした」なのだろうとしか思えないのである。

一方、例えば、「英検1級、仏検2級、独検2級、伊検2級、西検2級、中検2級を取得しています」といった客観的な基準が示されていれば、ああなるほど、この人は6つの言語を相当がんばった人なんだなということが分かる。わざわざ本人が「モノにした」などと言わなくてもわかる。客観的にわかる。明確にわかる。

私は、誰かから語学力を問われることがあったとしたら、やはり自分の定義で「モノにした」とか「マスターした」とか「ペラペラです」といったことは言わず、検定試験の級を述べるとか、翻訳書を何冊出していますとか、会議通訳を何回やりましたとか、海外の大学院で学位を取りましたとか、そういう客観的な物差しを提示したほうがいいと思うのだ。、

というのも、例えば、誰かから仏検2級の合格証を提示されたら、その人に仏検2級の実力があるということを信じずにはいられないからである。

私が客観性を求めるのは、そういう理由からである。

別に、英検、仏検、独検、伊検、西検、中検、HSKなどが絶対だと言いたいわけではない。客観的な物差しとしては、他にもより良いものさしもあるかもしれない。ただ、客観性は大事だと言いたいのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年3月 3日 (金)

出版不況に思う

 出版不況が止まらないようだ。
 1996年をピークにどんどん売り上げが下がっており、とうとうピーク時の半分になったという。
 そのしわ寄せが一番来ているのが、作家・翻訳家だろう。
 ある作家が、「勝手に出版中止にされてひどい目にあった」という趣旨のことを書いているのを見かけた。
 私はそんな作家に言いたい。
 ひどい目にあったのであれば、泣き寝入りをするな、と。
 私も、編集者と二人三脚で最後の最後まで仕上げたのに、出版の間際になってから勝手に出版を中止にされたことが何度かある。
 そういうとき、出版社は、「出版契約が結ばれていなかった」という禁じ手を出して抗弁するのが常だ。
 しかし、出版契約は諾成契約といって両者の意思が合致した時点で立派に成立するのである。
 出版契約書に印鑑を押した時点ではなく、両者の意思が合致した時点で成立するのである。
 私は、何度も痛い目にあっているが、泣き寝入りはしないことにしている。
 泣き寝入りをすればするほど、出版社は、それが「当たり前だ」とつけあがるからだ。
 両者の意思が合致していると思えるに足りる証拠、例えば、メールとかが残っているのなら、引き下がる必要はない。
 なんなら本人訴訟をすればいい。
 私も本人訴訟をしたことがあるが、弁護士をつけないのだから自分の好きなようにできる。お金も印紙代くらいしかかからない。それでもって、きちんと取れるものは取れる。
 出版不況の今だからこそ、作家・翻訳家は注意しなければならないと思う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »