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2018年2月27日 (火)

産業翻訳家と翻訳検定

私が産業翻訳家として企業に勤めていたとき、英日翻訳のチェックは京大卒社長が行い、日英翻訳のチェックはオーストラリア人校正者が行っていた。翻訳スタッフが一人で訳文をしあげてそれを商品として出すということはなかった。もしも誤訳があったり、不自然な表現があったら、会社の名に傷がつくからである。

 

京大卒社長のチェックは厳しかった。誤訳が見つかろうものなら、こっぴどく叱られた。社長は椅子に座ったまま叱るのだが、私たちは、社長の机の横に立たされたまま、延々と説教されるのだ。10分ていどで終わればいいが、30分40分と続くこともあった。これはかなり堪える。心身共に疲れる。

 

それに懲りた私は、自分がしあげた訳文をありとあらゆる観点から見直し、誤訳していないか十分に吟味し、日本語として不自然でないか何度も推敲して社長のチェックを受けるようにしたが、それでも毎回毎回叱られた。考えてみれば、英日翻訳など、ケチをつけようと思えば、いくらでもケチはつけられる。誤訳がなくても、「日本語として不自然だ」ともいえるのだから。

 

社長には叱られっぱなしだった私だったが、そんな私でもすでに当時、英検1級1次に合格していたし、翻訳検定の英日翻訳士3級日英翻訳士3級を持っていた。その他、ありとあらゆる英語関連の資格の一番上もしくは二番目の資格を保有していた。

 

「英日翻訳士3級」といえば、レベルが低いと思われがちだが、この試験の3級は「商品としての訳文を一人でしあげることができるレベル」であり、言い換えれば、フリーランスとしても一人でやっていけるレベルである。であるから「3級」といっても英検1級1次よりは難しいと思う。事実、長年の経験のある翻訳家が受けても、3級にすら受からないケースもあった。

 

一方、社長はどうかといえば、京大こそは出てはいるものの、大学卒業後は特に英語の勉強をしていたわけではなく、英語関連の資格はもちろん翻訳検定も受けたことがなかった。

 

しかし、それでいて、私の訳文をチェックし終えてから、自身が「お化粧直し」した訳文を評しては、満面の笑みを浮かべてよくこんなことを言っていた。

 

「これこそが英日翻訳士1級の訳だよ。どうだね、君、それが分かるかね? 君は英日翻訳士3級を持っているらしいが、私が受けたら1級だね。どんなに調子が悪くても2級は行くね」

 

しかし考えてみればわかると思うのだが、「何もない状態から訳文をしあげる作業」と「しあがった訳文をチェックし、いわゆるお化粧直しをする作業」とでは前者のほうが何倍も難しい。社長がやっているのは、いわゆるお化粧直しにすぎないのであって、それは「何もない状態から訳文をしあげる」ことと比べれば、10分の1ていどの労力で済むことである。

 

しかも翻訳検定はかなり難しい。プロの翻訳家でも3級に落ちる人もいるのに、2級はさらに難しく、1級は「合格者は出ない」とまで言われていた。それなのに社長は平気な顔で「私が受けたら1級だね」と笑いながら言うのであった。

 

そんな社長は我々翻訳スタッフに翻訳検定の資格を受けることを強くすすめていた。私はすでに3級をもってはいたが、2級以上を狙えと言われていた。

 

そんなある日、社長は私の訳文をチェックしながらいつものフレーズを口にした。

 

「私も翻訳検定受けてみたいよ。私ならまちがいなく1級だろうね。どんなに調子が悪くても2級だな、私が3級なんてありえない話だよ」

 

それに対して私はこういった。

 

「では、お受けになってはいかがでしょうか?」

 

「いや、私は老眼がひどくてね、小さい字を見ていると、目がしょぼしょぼしてくるんだ。だから実力が発揮できないと思う。拡大コピーでもして、もっと字を大きくしてくれたら、ぜがひでも受けたいんだがなぁ。残念でしかたがないよ」

 

東大大学院出身の翻訳スタッフは社長のこうした発言を聞いて「社長は、受けたい受けたいって言っているけど、受けるわけはないよ。だって、3級にも受からなかったら、大変なことになるじゃない。今まであんな偉そうなことを言っておきながら、3級にも受からなかったら、信頼が一気になくなるじゃない。社長はそれを恐れているのよ、受けるわけないよ」と言っていた。

 

当時私は翻訳検定の主催者の方と懇意にしていたこともあり、「老眼の人で受けたいと言っている人がいるのですが、問題を拡大コピーしてもらうことはできないでしょうか」と尋ねてみたところ、「おやすい御用ですよ」と快い返事をもらった。

 

そんなある日、京大卒社長がまた「私が受けたら1級間違いなしだ。目さえよければ、ぜひとも受けたいんだがなぁ」といつものフレーズを口にしたので、私はこう提案した。

 

「この前、主催者の人に聞いてみたんですが、問題を拡大コピーしてくださるそうですよ。ですから、お受けになってはいかがでしょうか?」

 

すると社長は困ったような表情を浮かべながら、こういった。

 

「おおそうか、じゃあ、受けようかな。よし、じゃあ、次回受けよう」

 

当時、その検定は東京の1会場の1部屋だけで行われており、受験生の数もせいぜい40~50人しかいなかった。私は2級以上の級を狙うために受けに行ったのだが、どこを探しても社長の姿はなかった。

 

それ以降、社長が翻訳検定のことを口にすることは一切なくなったのである。

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