学問・資格

WEB検定(WEBデザイナー)合格! 90種類目の資格

 本日、「WEB検定(WEBデザイナー)」の4度目の挑戦をし、合格した。

 80点以上が合格のところ、過去3回は、62点、68点、72点だったので、今回、合格できるかどうかというところだろうと思っていたのだが、余裕で合格した。

 試験中、手がつけられないような問題がほんの数問しかなかったため、「もしかすると80点くらいは行っているのではないか」という感触があった。

 コンピュータ採点なので、試験結果は、試験終了後、10秒もすれば出る。

 終了のボタンを押す。

 ドキドキしながら結果が出るのを待っていると、「合格」という文字が現れた。

 やった。合格だ。

 点数を見てみると、なんと86点。余裕の合格だったのである。

  詳しい点数は、また後日、以下のリンク先に掲載しようと思う。

  http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/mark.html

  一回の受験料が16800円なので、そうそう受けるわけに行かないが、4回目だろうが合格できて良かったと思っている。これで私は90種類の資格に合格したことになる。

 正直、初めてこの試験を受けたとき、62点しか取れず、「うわ~、こんなの難しすぎて手が出ないなぁ」という感触だった。それが今では86点という高得点でなんなく合格できた。

 私は、こういうふうに自分の力で成長していくことができることにスリルを感じているのである。もちろん、これから先も自分で自分に課題を掲げ、いろいろなことに挑戦していきたいと思っている。

 

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「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」試験結果

 7月7日、驚くことに試験日からわずか2日目にして、「オーストリア政府公認ドイツ語検定」の試験結果が返ってきた。

 試験によっては合否通知が来るまで2ヶ月近くかかるものもあるので、こんなに早いとはびっくり仰天である。ただ、待たされれば待たされるほどストレスがたまるので、早く分かるのはありがたい。おそらく試験日であった7月5日のうちにすべて採点しおえ、7月6日の午前中に発送したのであろう。

 合格している場合は、合格証も送られてくることになっているので、大きな封筒で届くことになるが、不合格の場合は、合格証はないので小さな封筒となる。だから、封筒だけで合否は分かってしまうのだ。

 ポストを開けると、小さな封筒が入っていた。その封筒の下のほうに「Japan-Austria」のマークがあったので、その時点で不合格であることがすぐに分かってしまった。

 問題は何点取れているかだ。合格基準点まであまりにかけ離れていれば落胆してしまうだろうが、後一歩であれば、次回の合格に向けてやる気がでるというものだ。別に私は合否に拘っているわけではないし、すでに「ドイツ語検定2級」に合格した身だ。別に不合格になっても恥ずかしいわけでもない。ベストを尽くしたのだから、自信をもって結果を見ればいいのである。

 封を開けると、各項目の点数が書かれた通知が入っていた。。

 筆記試験225点満点で135点以上が合格となるところ100点だった。(その内訳は、読解75点満点中37.5点、文法30点満点中12点、リスニング75満点中32.5点、作文45点満点中18点)。

 やはり私の得点源である読解とリスニングで失敗したのは痛かった。ただ、今回は不慣れなせいで高得点が出せなかったが、今回のあの出来で100点取れているわけだから、次回は難なく135点以上が出せそうな気がしている。もっとも、それなりに勉強しなければならないだろうが。

 面接試験は75点満点で45点以上が合格のところ31点だった。

 正直、初めてのドイツ語面接で31点が取れたことは、逆に自信につながった。あとは口頭表現をスラスラ言えるまでたくさん覚えればいいだけのことだろう。次回は45点以上取れそうな気がする。

 結果として、筆記試験も面接試験も両方不合格になってしまったが、私としては、次回の合格へむけて良いモチベーションとなった。なぜなら、最大限頑張れば、次回はなんとか合格できそうな点数だったからである。

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今年これから狙ってみたい資格

 私は現段階で89種類の資格を保持している。

 だが、まだまだ自分の実力を磨いていきたいと思っているので、そのモチベーションを高めるために資格にも挑戦してみたい。

 今年、これから挑戦してみたいのは、以下の資格である。

(1)「WEB検定(WEBデザイナー)」 3度目の挑戦で合格を目指す。

(2)「ウェブデザイン技能検定3級」 WEB業界初の国家試験なので挑戦しみたい。

(3)「ITパスポート試験」 腕試しに受けてみたい。

(4)「WEB検定(WEBディレクション)」 WEBデザイナーに合格した後に挑戦してみたい。

(5)「ドイツ語検定準1級」 合格の自信はないが、どの程度点が取れるか試してみたい。

(6)「オーストリア政府公認ドイツ語検定」 先日B1を受けたが不合格なら再受験をしたい。万が一、合格していたら、その上のB2を受けてみたい。

(7)「ビジネス数学検定」 点数アップを目指したい。

(8)「ドットコムマスター★★」 そう簡単には合格できないだろうが、再度挑戦したい。

 こんなに沢山、試験を受けると言えば、きっと「そんな試験、受けて、何になるの? ドイツ語なんて、何にもならないんじゃないの?」と言う人がいるだろう。しかし、何度も言うようだが、好きなことに向かってコツコツコツコツと努力しておかなければ、大きな夢が叶うわけはないのだ。

 あなたはどんなことをして、自分に磨きをかけようとしているのかな?

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オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)受験記

 7月5日(日)に「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」を初受験した。

 感想を一言で言えば、問題自体は「ドイツ語検定2級」よりもはるかに難しく感じた。特に、私自身の得点源だと思っていたリスニングはチンプンカンプンという感じだった。

 この試験は等級が6つあり、日本では上の5つの等級が受験できるようだ。私が受けたのは上から4つ目の等級であるB1レベルだが、B1レベルであっても合格すれば、ドイツの一部の音楽大学などでは入学許可レベルなのだから、簡単ではない。

 試験は神奈川県のたまプラーザにある國學院大學のキャンパスであった。「ドイツ語検定」と比べると認知度が低いためか、私の等級の東京の受験生は私を含めて6名であった。

 まずは90分の筆記試験があったが、得意であるはずの読解でいきなり躓いた。「ドイツ語検定2級」では読解問題はほぼ満点のできだったので、すこし油断していたのかもしれないが、それにしても難しかった。読解でつまづいた挙げ句に文法ではさらに躓いた。この時点で、今回の合格はほぼ不可能に近いのではないかという思いが出てきた。しかし、せっかく高い受験料を払って受けているのだから、途中で諦めるのはよくない。そう思って奮闘した。

 5分の休憩を挟んで、リスニングに入った。「ドイツ語検定2級」のリスニングではほぼ満点だったので、リスニングは得意だと思っていたのだが、やはり本場オーストリアの試験はレベルが違う。もう、まったくわけの分からないことを延々としゃべりまくっており、途中で聞く気が失せてしまうほどだった。ただし、すべて○×問題なので、まったく当てずっぽうで回答しても確率から言えば、5割は正解になるのだ。そういう事情を考慮すれば、そうとう難しい問題にせざるを得ないのかもしれない。

 リスニングが終わると、15分の休憩を挟んで、作文の試験に入った。これは通信添削講座があるので、受験する人は、事前に受けておいたほうがいいだろう。お金はかかってしまうが、いきなり作文の問題をやれといわれても、ドイツ語作文に慣れていなければ、なかなかドイツ語で書けるものではないからだ。私はどれくらいの点数がもらえたか全く分からないが、とにかく書いたことは書いた。これも添削講座を受講していたおかげである。

 リスニングが終わると、後は個別に面接試験に入った。私の場合は、待ち時間が約1時間あり、ずっと待合室で待機することになった。日本語がまったく使えず、ドイツ語だけの面接となると、普通の人なら、ドキドキするだろうが、ありとあらゆる試験を受けてきた私は特に焦ることもなければ、ドキドキもしなかった。今までありとあらゆる修羅場を経験しているので、ドイツ語で会話をせよ、と言われたくらいではビクともしないのだ。 

 面接試験の部屋に呼ばれると、2人の中年女性が座って待っていた。2人ともオーストラリア人だ。私はイギリス留学中に多くのドイツ人やオーストリア人と話したことがあるが、彼らとは英語で話したのであって、ドイツ語で話したことは一度もない。だが、もうどうにでもなれ、という感じで、私は好き勝手なことを好き勝手にドイツ語でどんどんしゃべりはじめた。

 ただし、途中でいろいろと質問されると、やはり、言葉につまってしまった。「ドイツ語は何年勉強してきたのか?」という質問に対し、「大学時代2年間勉強しました」と答えると、「ドイツ語が専攻だったのか?」と聞かれた。「いいえ、私の専攻は経済学と言語学と工学と哲学でした」と答えると、怪訝そうな顔をされ、「そんなに沢山、専攻したの?」と聞かれて困った。そうだ、私はたしかに4つの大学を出て4つも専攻があったが、そんなに沢山の大学を出ている人など想定していなかったのだろう。あるいは、「専攻」の意味が分かっていなかったのかと思われたかもしれない。余計なことは言わずに「専攻は哲学です」とだけ言ってすませておけば良かったのだが、後の祭りだ。しかも、私は「経済学(Wirtshaftswissenschaften)」のことを「経済(Okonomie)」と言い間違えて言ったので、それも減点の対象となるだろう。

 その他、ドイツ語の単語が出てこないときは、適当に英語で答えたりしていたら、面接官は苦笑いをして、「ドイツ語でいう○○のことですね」と訂正されたりした。もう、なんだか必死にやりとりしたのだが、私としては生まれて初めてオーストリア人とドイツ語で会話をしたわけであるから、いい経験をさせてもらったと思っている。こういう試験でも受けない限り、一生涯、私はオーストリア人とドイツ語で会話をするということもなかったかもしれないからだ。

 合格の自信はない。得点源だと思っていた読解とリスニングがあのていたらくでは、まず合格していないだろう。ただ、合格に向けて頑張ってきたことは無駄になっていないと思う。私の友人に、「試験というものは合格がすべてだ。合格しなければ何の意味もない」という人がいるが、私にとっては今回、こうして必死に勉強して受験したことは、合否にかかわらず意味があったと思っている。なぜなら、私はこうして勉強したおかげでカントの作品も深く読めるようになったし、グリム兄弟の『グリム童話』も愉しめるようになったからである。また、喩え15分間という短い間であっても、オーストリア人とドイツ語で会話をしたことは私の人生に彩りを与えてくれ、いい意味で刺激になった。

 仮に不合格であったとしても、私はいずれまた再挑戦したいと思っているし、「ドイツ語検定準1級」も秋に初挑戦するときの土台がこれでできたとも思っている。

 

 

 

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WEB検定(WEBデザイナー)再受験決意

 人間というものは、ものぐさなもので、必要に迫られない限り、困難なことはなかなか手が出ない。特に勉強がそうで、「どうしてもせざるを得ない」という状況にならないかぎり、やろうやろうと思っているだけでは、なかなかできるものではないのだ。

 そこで私は、自分でモチベーションをあげるために資格試験に挑戦している。

 WEBの勉強も、結局、試験を受けないとなると、日常生活の忙しさにかまけて、何もしないことになっているので、「WEB検定(WEBデザイナー)」の再受験を決意した。実際、こうでもしないかぎり、なかなか勉強しないからだ。

 7月中に受験しようと思う。

 80点以上が合格のところ、1回目が62点、2回目が68点であった。

 もちろん、80点以上を目指すのだが、合否にはこだわらない。自分なりにベストを尽くせばそれでいいのだ。

 あなたは、今、どんなことに情熱を燃やしているのかな?

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ドイツ語会話一人練習法

 オーストリア政府認定ドイツ語検定の試験日が近づいてきている。

 大学院入試のために必死に覚えたドイツ語単語も、おおかたは忘れていたが、この試験を受けるために先月から復習し、半分くらいは覚え直している。ずいぶん、勘が戻ってきた。

 しかし、この試験は、面接試験もあるのだ。

 「筆記(文法、読解、作文、リスニング)」だけでも合格すれば、部分合格証が出るというので、面接対策の勉強はほとんどしていなかったのだが、まったく勉強しないよりは、一応はやっておこうと思う。

 そこで今取り組んでいるのが、『ドイツ語会話周遊券 (シリーズ 旅の30フレーズ) 』である。

 会話はもともと相手がいなければ成立するものではないので、ドイツ人の会話相手がいればベストなのだが、日本にいてそんな贅沢なことは言っていられない。ドイツ人に家庭教師でもしてもらえれば一番だが、お金がかかる。

 そこで、手っ取り早く実力をつけようと、この本をやっているのである。

 方法は簡単だ。基本フレーズをスラスラ言えるようになるまで特訓だ。

 「この映画はどれくらいですか?」「お店は何時まで開いていますか」「医者を呼んでください」などなど。こういうフレーズをすぐに口に出せるようにしておくというのが私の特訓法であり、これは一人でもできることだ。

 さすがに読解問題ばかりやっていると、こういう簡単そうなフレーズもなかなか瞬時には出てこない。やはり会話は会話で勉強しなければならないのだ。

 私の友人に「試験は合格しないと意味はない」みたいなことを言う人がいるが、私は合格・不合格にはこだわっていない。私が目指しているものは合格そのものではなく、自分を磨くことであり、特にドイツ語などは、私の職業と直に関係する目標ではないので、気楽に受けてこようと思う。もっとも気楽に受けるといっても、それは「いいかげんに受ける」という意味ではない。あくまでベストを尽くすのである。

 

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学問をする意味

 私が学問をする意義を話すと、必ずと言っていいほど、次のような質問があがる。

「学問なんてやって何になるの? そんな、役に立つ機会がめったにないことをわざわざ勉強して何になるの? 今まで、何かの役に立ったことってあるの?」

 私は、学問は教養を身に付けるため、言い換えれば、自分を磨くためにあるのであり、直接お金儲けにつなげようとか、直接快感を得ようという目的には、すぐには役に立たないと思っている。(ただし、長い目で見れば、大いに役立つ可能性はあると思うが)。

 例えば、私は今、ドイツ語で『グリム童話』を読んでいる。学問の意義が分からない人にとっては、まったく役に立たないことをやっているとしか思えないだろう。私の職業が文筆家・翻訳家であっても、ドイツ語の翻訳などする予定はないし、ましてや童話など今の仕事とは直接関係がないからだ。

「童話なんて、読むだけ馬鹿らしいよ。所詮、作り話だろう? なんでそんなことやっているの? それが何か生活に役に立つの? お金儲けにつながるか? そんなことをやるより、どんな単純なことでも、世のため人のためになることをしたほうがいいんじゃないの?」

 そう言いたいだろう。

 しかし、童話を読むことは本当に何の役にも立たないのだろうか?

 『グリム童話』でも、よく読めば、それぞれの話の中に人生で役に立つ黄金のルールが描写されているのが分かるだろう

 例えば、「蛙の王さま」の話では、「どんな小さな約束であっても、守らなければならない」という黄金のルールが説かれているのだ。

 私がこう言えば、こう反論する人もいよう。

「そんなのわざわざ童話なんか読まなくてもわかっているよ。仮に読まなければならないにしても、『約束はどんな小さな約束であっても守ろう』ということが直接書かれた文章でもいいじゃん。なんでわざわざ童話なんか読まなくてはならないの? そんな作り話を読む意義なんて何もないよ」

 しかし、そんなことを言っている皆が皆、「約束はどんな小さな約束であっても守ろう」ということが実践できているだろうか? 

 私は自分のビジネス上の経験からでも断言できるが、大きな約束、重要な約束であっても、守られないことなどよくあるのである。例えば、約束していたお金を半分に値切られるという、あってはならないことも何度か経験しているのである。

 童話を通して読めば、約束が破られる人の悔しさが追体験できるわけだ。読んでいるときに、「ああ、約束を破られると、こういう辛い思いをするのだなぁ」ということを考えながら読むからである。これは単なる人生論とか、格言集とかでは、なかなか味わえない体験である。そしてそういう読書体験を繰り返す中で、「約束したことはどんな小さな約束でも守ろう」という品格が生まれてくるのだ。例えば、人と待ち合わせをするときも、遅れないように気をつけるようになるだろうし、仕事の上でも、納期を必ず守るようになるだろう。ましてや、約束していた報酬を値切るなんてことなど絶対にしなくなるだろう。

 あなたが、学問などやっても何の役にも立たないと思うのであれば、やる必要はない。お金儲けにつながらないことはやる意味がないと思うのなら、お金儲けに直接つながることだけをやって生きたっていい。ただ、学問をやることに意味があるのか・ないのかは、学問をやってから判断すべきことであって、学問をやらないうちから、「やっても意味はない」と決めつけられないのではないかな? 少なくとも私にとっては学問は非常に意義があるし、ますます学問をやって、学んだことを少しでも世のため人のためになることに役立てたいと思っている。

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「学問をしても、役に立つことなんてめったにないんじゃないの?」

「学問なんて頑張ってやっても、それを活かせることなんて、滅多にないんじゃないの? そんな滅多にないことのために、わざわざお金をかけたり、労力をかけたりして頑張るよりも、手軽にできることで、世のため人のためになることをやったほうがよっぽどいいんじゃないの?」

 学問をやっても、それが十分に活かせたと思えない人であればあるほど、こう考えるのではないだろうか。

 たしかに、いくら学問をやっても、学んだことを、世のため人のために一切使えないとしたら、学問をする意味などほとんどないといえよう。たとえば、モグラの生態の研究に一生涯を費やした学者がいたとしよう。しかし、結局、現代の科学で解明されていること以上のことはなにひとつ見いだせなかったとしよう。こういう場合、いくら本人がモグラについて詳しいと自慢したくても、やったことが世のため人のために何も役に立たないのであるから、まったく独りよがりである。そんなことなら、たとえ、どんな単純な仕事であれ、世のため人のためになることをやったほうが何倍もいいのである。

 しかし、「学問なんて、やったところで、社会の役に立つことはめったにない」といって、なんら新しい知識を身につけようとしない人は、考えてもらいたいのだ。

 学んだことが本当に一生涯、役に立たないのだろうか? あるいは、役に立つことが本当にめったにないと断言できるのだろうか?

 たとえば、私は以前、高校卒の社員ばかりで成り立っている会社でアルバイトをしていたことがある。彼らは口癖のように、「勉強なんてやっても意味はない」「大学なんか行っても意味はない。高校を出たら働いたほうがよっぽどましだ」ということを言っていた。

 私が資格を受けることをもらしても、「宮崎さんって翻訳家ですよね? エクセルの資格を取ってなにになるんですか? だって、そんなのできるようになっても、せいぜい家計簿をつけるくらいしか使い道はないですよね? そんな滅多に活かせる機会のないことにお金を使うのってもったいなくないですか?」みたいなことをいつも言っていたのである。

 当然、そういう考えをしているのだから、彼らは会社から命令されないかぎり、自ら率先してエクセルを学ばないだろうし、パワーポイントも学ばないだろう。ましてや、ホームページ作成やブログもしないだろう。いや、ビジネスコンプライアンス検定を受けるという発想になったり、あるいは、通信教育で大学に行ってみようとか、外国語を学んでみようということにはならないのではないか。

 だって、そうだろう?

 エクセルでさえ、「そんなのできるようになっても活かせる機会なんでめったにない」と言っているのだから、大学の通信教育でフランス文学や科学哲学や倫理学や歴史哲学なんて履修しても「まったく意味がない」と思うだろうし、英語やドイツ語なんて勉強する意義など見出せないだろう。

 だが、どうだろう? 本当に、外国語をやっても、大学の通信教育をやっても意味がないだろうか? 使い道なんて、本当にめったにないだろうか? エクセルはどうだろうか? パワーポイントはどうだろうか? 本当に勉強するだけばからしいのだろうか? 

 でも、「活かせる機会がめったにないことは、やるだけばからしい」なんて言っていたら、努力するものはなくなってしまわないか? 彼らは、きっとこういうのではないか?

「書道なんてやってもばからしい。今はみんなパソコンだ。使い道がない」「楽器がひけるようになって何になるの?」「外国語が話せるようになっても、道端で外国人に声をかけられることって一生で何回あるの? そんなのにお金かけるってばからしいよね?」「フランス文学の本を読んで、それが何になるの?」

 こういうふうに、彼らは、なんでもかんでも、役に立たない、役に立たないといって、直接金儲けにつながることにしか目を向けなくなるのだ。考えていることが、目先のことだけになってしまうのだ。

 たとえば私は最初の大学時代、夏休みは、アルバイトなどせず、ずっと図書館にこもって文学作品を読んだり、英語の勉強をしていた。翻訳家にあこがれてはいたが、なれるとは思っていなかった。回りの友人たちは、「なんでそんなことやっているの?」と言いながら、ほとんどはアルバイトに精を出していた。

 しかし、その10年後、私は専業作家になっていた。これは大学時代の読書や勉強がものを言ったのだ。

 「活かせる機会がめったにないことは、やるだけばからしい」といって、自分を磨くことを怠れば、未来は開けてこない。それは当然だ。というのも、目先のことだけ考えて、お金になりそうなことしかやらないのだから、大きなことができるようにはなれない。

 もちろん、興味のないことはしなくてもいい。しかし、目先のことだけ考えて、「活かせる機会なんてめったにないんじゃないか?」みたいに言っていたら、情熱をもやせるものはなくなるのではないか? お金になりそうになりことがことごとく馬鹿らしく見えてくるのではないか?

 かくいう私は、いま、ドイツ語や哲学の勉強に打ち込んでいる。人から見れば、「そんなのいくら頑張って勉強しても、活かせる機会なんてあまりないんじゃないの?」と思えるかもしれない。

 でも、こうやってコツコツ勉強していれば、将来、ドイツ語関連の本が書けるかもしれないし、哲学の本がかけるかもしれない。大学の先生になるという道が開けるかもしれない。どんな道が開けてくるか、それはやってみないとわからないのだ。最初の最初から、「そんなのやっても活かせる機会はめったにない」といっていたら、お金儲けにならないことは一切できなくなるのではないかな?

 

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勉強が嫌いな人は土日に何やるの?

 私が以前、アルバイトをしていた会社の社員が高卒がほとんどだったという話をした。別に「高卒だから」というレッテルを貼りたいわけではないが、彼らから聞いた話では、どうも彼らの多くが「勉強などやっても意味はない」「やるだけ馬鹿らしい」と思っているふしがあるという話もした。

 しかし、本当に「勉強しなくていいこと」「仕事をしなくていいこと」=「幸せ」なのだろうか。

 もし、勉強しなくていい、仕事しなくていい、となったら、その空いた時間、一体何をするのであろうか? 

 これも彼ら同士の話から分かったのだが、どうも彼らは毎週といっていいほど土日をパチンコとか競馬といった「賭け事」やテレビやテレビゲームといった「遊び」に費やしていた。おそらく、勉強することがないのだから、それくらいしかやることがないのだろう。スポーツしているとか、書道をやっているとか、小説を書いているとか、そういった努力が必要なものが出てくる幕は一切なかったのである。

 しかし、パチンコ、競馬、テレビ、テレビゲーム、それをずっとやって行くのって、そんなに楽しいことだろうか。

 パチンコにしろ、競馬にしろ、お金がかかるだけではないか? 結局、賭け事は確率的には負けるようにできている。長年やっていたら、どんなに賭け事に強い人でも、儲かるようにはなっていないはずである。テレビやテレビゲームにしても、そんなに朝から晩までずっと見ていて楽しいことだろうか。

 私には、そんな人生、興味はない。

 私には「自分を磨く」という目標があるため、一生、勉強が続くだろう。一生、飽きることもないだろう。なぜなら、人から与えられた勉強をしているのではなく、自ら率先して見つけた勉強ばかりやっているからだ。今日もこれから図書館で必死に勉強に取り組むことになる。実に張り合いのある土日である。

 

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外国語を愉しむ方法

 私は今、カントの『純粋理性批判』を読んでいるわけだが、ドイツ語の原書だけを読めと言われると、ちょっと難しすぎる。しかし、ドイツ語の原書と日本語訳を対訳にして読み進めていくと、ドイツ語の原書もなんとか読めるのである。対訳であれ、カントをドイツ語で読めるようになると、「ドイツ語の読解力を高めるためだけの読書」とはまったく違った愉しみがある。

 どの外国語についても言えることだが、ただ単に「その外国語の読解力を高めようとして読む読書」は面白くはないだろう? それは野球に喩えていえば、あくまで準備体操であり、ウサギ跳びであり、ランニングであり、素振りだろう? だから面白みがなくて当然なのだ。

 一方、「読みたい本をその外国語で読む」という読書に切り替えると、面白みがグンと高まる。それは野球に喩えていえば、実際に試合に出るような愉しみである。原書がすいすい頭の中に入ってくると、もうそれは試合でホームランでも打ったかのような感激に浸れるはずだ。

 思うに、外国語の愉しみを知らない人は、試験で点数を取るためだけの勉強、つまり「準備体操」ばかりやっていたのではないか。だから外国語で読む愉しみを知らないままなのではないか。「試合」に出たことがないのだから、感激もないはずである。

 例えば、あなたがデール・カーネギーのファンだとしよう。カーネギーの訳書を何度も何度も繰り返して読んだとしよう。ならば、今度は英語の原書でカーネギーを読んでみたらどうか? いきなり英語で読むのが大変なら、原書と訳書を横に並べて、対訳にして読むのだ。

 方法は簡単だ。訳文を一文読んだら、それに対応する英文を一文読むのだ。そうして読んでいけば、英語が多少苦手な人であっても、原書で読めるのだ

 するとどうだ! もう、そこには新しい世界が開けて来ている。そう、「原書で読む愉しさ」という今までになかったスリリングな世界なのだ。1年前の私には到底考えられなかったのだが、今では私はカントをドイツ語の原書で取り組んでいる。しかも、対訳で読み進めれば、ドイツ語でも分かるのだ! 1年前にドイツ語の学習参考書で面白みのない文章ばかり読み進めていたときとは比べようもない愉しみがあるのだ。

 あなたも、自分の好きな外国語の作家を対訳で読んでみないか? 新たな世界が開けてくるぞ!

 

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試験に合格するには戦略をたてよ

 私はすでに89種類の資格に合格してきたわけだが、特にここ数年は、多くの資格に合格してきている。これからもドシドシ挑戦しようと思っているのである。

 資格を受ける究極の目的は、自分を磨くことであるから、合否自体にはそれほど拘ってはいない。しかし、かといって手を抜いているわけではなく、合格を目指して懸命に勉強して受験している。あくまで大切なのは自分を磨くというだけで、合格したいことはしたいのだ。

 合格を目指すには、戦略が必要だ。

 例えば、部分部分で足きりがあるような試験では、足きりにひっかからないように勉強しなければならない。逆に、足きりが一切なく、単純に総合得点で合否が判定される資格であれば、得意分野をトコトン勉強してもいいわけだ。

 私が来月受ける「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」は、筆記試験(読解、文法、リスニング、ドイツ語作文)と口述試験がある。

 この試験のいいところは、筆記試験か口述試験かの1つしか合格しなくても、「部分合格証」が出ることだ。だから口述に自信のない私でも、最低、筆記試験だけでも部分合格を目指そうという気持ちになるのだ。

 肝心の筆記試験だが、読解、文法、リスニング、ドイツ語作文と4部分にわかれているのだが、これまた嬉しいことに、足きりがない。具体的に言えば、読解75点、文法30点、リスニング75点、ドイツ語作文45点の合計225点満点で135点以上取っていれば、それだけで合格となるのだ。

 つまり、文法も0点、ドイツ語作文も0点であったとしても、読解とリスニングの合計150点のうち135点以上をたたき出せば、それでも「筆記合格」となるのだ。

 私は、文法には自信がないが、ドイツ語作文にはもっと自信がない。スペルもかなりいい加減だ。それを短期間で伸ばすのは酷なのだ。しかし、足きりが一切ないので、読解とリスニングで9割取れば「筆記合格」となる。これを知って、俄然、勉強に身が入っているのである。

 

  

 

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本気で学問をすると

 本気で学問をすると、人は謙虚になるはずである

 もしも学問した結果、謙虚にならず、高慢になったとしたら、それはまだ学問を中途半端にしかやっていないからだろう。なぜなら、本気で学問をすればするほど、「自分がいかに何も知らないか」を知る羽目になるからである。

 例えば、ニュートンの引力説は誰もが知っているだろう。

 ニュートンが引力説を発表して以来、長い間、それは「絶対に正しい」と思われ続けてきた。しかし、アインシュタインがその間違いを指摘し、それまで「絶対に正しい」と思われていたことが、正しくないことが証明されてしまったわけである。

 この例かも分かるように、この世で私たちが獲得した知識の中で「絶対に正しい」というものは存在しえないのである。少し難しい話になるが、「絶対に正しい」と言えるのは純粋数学と純粋自然科学しかない。それ以外の、経験したことや、観察したことから、「絶対に正しい」と言えるものは導き出すことは不可能なのだ。

 無学の人に多いのは、自分の狭い狭い範囲で観察したことや経験したことから、ゆがんだ偏見をもっていることだ。

 もう一度いう。私たちは、まだまだ知らないことばかりなのだ。まず、自分が「知らない」ということを知ることが重要なのである。

 

 

 

 

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目標を持つ大切さ

 大学院入試が1月下旬にあったのだが、実は、入試直前まで必死にドイツ語の習得に努めていた。なぜなら、ドイツ語の出来・不出来が合否に大きく影響すると思っていたからである。

 ところが、入試を終えて以来というもの、「ドイツ語をやろう、やろうと」思っていながら、なかなか身を入れた勉強ができずにいた。

 翻訳の仕事や大学院の授業などで「忙しかったから」という理由もあるのだが、それにしても、時の流れるのは早いもので、ドイツ語の勉強をほとんどせずに、1月下旬から5月下旬まで4ヶ月も過ごしたのである。本当に「あっ」という間の4ヶ月だった。

(こんなことではいけない。こんな調子では、時間が過ぎるだけで、全然ドイツ語の実力は伸びないではないか!)

 そう反省した私は、モチベーションをあげるために、自ら率先して「オーストリア政府公認ドイツ語検定」を自らに課した。こうでもしないかぎり、ドイツ語の勉強など、なかなか独学でできるものではないのだ。

 5月下旬に申込みをすませると、不思議なもので、ドイツ語の勉強に身が入るようになった。また大学院入試直前のときように、いつもポケットに単語カードを入れて、四六時中、ドイツ語単語を覚えるようにするようになったのである。

 面白いもので、試験を受けるという目標があれば、すいすいドイツ語単語が覚えられるのである。これこそが目標の力なのだということを再度実感した。

 試験まで残り1ヶ月。とにかく自分の置かれた環境の中でベストを尽くして挑戦してみたい。ただ私は合否には一切拘っていない。というのも、合格になろうが不合格になろうが、基本的に今の私の職業生活や私生活を大きく変えるものではないからだ。私は、ただ自分の理性を磨くためにドイツ語に挑戦しているだけなのだ。

 合否結果は、このブログでも公表しようと思う。

 あなたは、今、どんな目標をもっているのかな? 

 

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数学的センスの磨き方

 「数学なんて勉強して何になるの? そんなの社会に出て何も役に立たないんじゃないの?」

 私大文系専願者、あるいは、数学嫌いの高卒者には、こう考えている人も多いのではないだろうか。

 しかし、数学的センスは、日常生活において大いに求められるものである。

 例えば、投資にしても、投資信託がいいのか、株がいいのか、不動産投資がいいのかを判断する際、数学的センスがある人とない人とでは、見方が違ってくる。

 数学的センスがあればあるほど、より賢明な判断を下すだろうが、センスがない人であればあるほど、あとで後悔するような判断を下すだろう。投資は、「金を儲けてやろう」という欲望に突き動かされて素人が手を出したところで、やけどをするのがオチ、という場合が多い。リスクや利回りや、投資をしたことで発生する様々な要因などを総合的に判断しながらやっていかなければならないのだが、そこで数学的センスが要求されるのだ。

 では、数学的センスを磨くにはどうすればいいのか。

 答えは単純だ。数学の勉強をする以外にはない。というのも、単に日常生活を繰り返すだけでは、数学的センスが磨かれることはないからだ。書道を練習しない人が自然に字がうまくならないように、あるいは、水泳の練習をしない人が自然に速く泳げるようにならないように、数学的センスも練習しなければ磨かれることなどないのだ。

 ただ社会人には、いい知らせがある。『ビジネス数学検定』というのがあるので、それに挑戦してみたらどうか。すべてビジネスに直結する問題で成り立っており、勉強すればするほど、数学的センスが求められるビジネスシーンで、より的確な判断が下せるようになること請け合いだ。

 ぜひお勧めの資格である。

(なんで、そんなの勉強しなきゃいけないの)

 そういう声が数学嫌いの人から聞こえて来そうだが、数学的センスを磨くことは本人のためになることなのだ。

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原書で好きな本を読むメリット

 私は、自分が書いた著書の中でも、「英語は中途半端に勉強するくらいなら、きっぱりと捨ててしまって、空いた時間を別の勉強に充てよ」ということを書いている。しかし、それはけっして万人に対して「英語は勉強しなくていい」と言おうとしているのではない。

 義務教育を受けた人ならだれしも、何年も英語の勉強もしているのだから、もう少し続けて、原書で好きな本を読めるようになってほしいとは思っているのである。ただ、中途半端なことをやって、片言の英語がしゃべれるようになって満足して終わるくらいなら、その労力は別の勉強に充てた方がいいと言っているのである。

 私が特に頑張って欲しいと思っているのは、そこそこ名の通った大学を出ている人たちである。彼らは、少なくとも入試のときに英語の勉強をしているわけだから、原書がスラスラ読めるくらいまでがんばれ、とハッパをかけたいのだ。

 では、なぜ、原書が読めるようになったらいいのか?

 英語が嫌いな人は、必ず、こう反論してくる。

「英語が原書で読めるようになって、それが一体なんなの? 私には関係ないよ。だって仕事で英語なんか使わないもん。苦労してまでそんなに英語の勉強しても、お金儲けにつながらなんだから、勉強する意味がないよ。だいたい、ほとんどの本は翻訳書が出ているんだから、それで十分じゃん」

 それで話は終わりである。

 英語に興味がないのなら、無理に頑張れとは言わない。

 しかし、「翻訳書が出ているからそれで十分間に合う」というのなら、それは違うと言いたい。なぜなら、翻訳書で読むのと原書で読むのとでは、感動が全然違うからだ

 翻訳書だとどうしても原書に表されている細かいニュアンスがそげ落ちているので、味が落ちるのだ。わかりやすく喩えていえば、原書が「カラー映画」だとすると、翻訳書は「モノクロ映画」だ。原書が「ステレオ」だとすると、翻訳書は「モノラル」だ。どうしても、それくらい味が落ちてしまうのだ。

 翻訳書に頼っている人は、映画を「モノクロ」で観て、音楽を「モノラル」で聴いているようなものなのだ。彼らはそれで満足かもしれないが、原書が読める人間から見れば、それでは全然物足りないのだ。

 あなたにも好きな外国の作家がいるだろう? 学生時代から何度も何度も繰り返した作家もいるのではないか? だったら、それを原書で取り組んでみたらどうか? いきなり原書に取り組むのが難しいようなら、日本語と英語を対訳にして読めばいいのではないか?

(なんで、そんな面倒なことしなくちゃならないの? 俺は翻訳書で十分愉しめたよ。いまさら英語なんてイヤだよ。別に英語の試験があるわけじゃないし…)

 どうも、こういう声が聞こえて来そうだが、原書で好きな本を読む知的愉しみを知れば、「こんな愉しみ方があったのか! 新しい世界が開けたようだよ! もっと早く知っていれば良かったよ」とスリリングな爽快さが味わえるのだ。子供からも、「ウチのお父ちゃんは日曜日には英語の本を読んでいる、お父ちゃんってこういう側面があったのか、すご~い!」と密かに尊敬されるかもしれないではないか。 

 とはいえ、原書がスラスラ読めるようになるには、それなりに努力しなければならない。だが、それを乗り越えれば、原書が読めない人には味わえない、質の高い喜びが味わえるようになるのだ。「モノクロ映画」が「カラー映画」に変わるのだ。あなたは一生、「モノクロ映画」でいいのか? 「カラー映画」を見たいとは思わないのか? それを一度味わってしまうと、もう「モノクロ映画」「モノラル」には戻れないくらい、原書を読む愉しさが待っているぞ! そういう知的な愉しみを味わってみたいとは思わないか?

 

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私のこれからのチャレンジ

 人間は、ただ周りの出来事に反応して生きているだけでは、けっして人間性が磨かれることはない。何度も言うようだが、楽なことをしていて、「すごい人」などなれないのだ。困難にチャレンジしてこそ、人間が磨かれるのであり、それが個性となって輝くのである。何も挑戦せず、テレビ見たり、旅行に行ったり、おいしいものを食べたり…という、だれでもできることに喜びを見いだす人生を送っていたら、あっという間に老いぼれになってしまうのではないか?

 ところで、私のまわりにも、「教養などつけても、何のたしにもならない。なんでそんなに沢山の大学に行くの? 行って何になるの? そんなの単なる自己満足じゃん」みたいなことを言う人がいるが、教養こそが魂の栄養素なのだ。教養こそが、より善い人間になるための血となり、肉となるのだ。霊界の研究をすればすぐに分かることだが、この世で身に付けた真の教養というのは、この世でよりも、むしろあの世のほうで役に立つともいえるのだ。

 だから教養をつけることにチャレンジするのも、人間を磨く上でとても大切なことだと思っている。ただ、人間というものは、目標がなければ、どうしても怠けがちになる。というのも、何もないのに、ただ教養のために、という理由で次々と難解な書物に挑戦したり、ITの腕を磨いていくというのは、けっこう困難だからだ。

 そこで私はモチベーションを高めるために、いろいろな資格にチャレンジしていきたいと思っている。

 具体的には次の資格である。

オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」(7月に受験予定。できれば一発合格を目指している。最低でも、筆記試験だけでも「部分合格」は勝ち取りたい)。

ドイツ語検定準1級」(11月に受験予定。一回で合格する自信はないが、できるだけ合格点に近いところまで行きたいと思っている。今回どのていど点数が取れるかが分かれば、次回にどの程度頑張ればいいかが分かるというものだ)。

WEB検定(WEBデザイナー)」(8月頃受験したい。80点以上合格のところ、前回は68点であった。次回は最低でも75点以上を目指し、遅くとも今年中には合格を勝ち取りたい)。

ウェブデザイン技能検定」(いつ受験するかは決めていないが、近い将来、HTMLを復習し、ある程度の自信がついたら、受験してみたい)。

ビジネス数学検定」(1000点満点で800点以上取ると、AAAという最高の評価が貰える。ただし、制限時間が短い割に問題数が多いため、800点以上取るのは、相当な数学的センスと訓練が必要である。私は前回640点であったが、まだ伸びしろはあると思っている。ただ、今のところ、700点くらいが限界かもしれない。最終的には800点超えを目指したい)。

 また、私は将来的にはロンドン大学の通信教育課程で(学位を目指したいと思っている。いつ始めるかということに関しては未定であるが、これは是非近い将来、挑戦してみたいと思っている。

 

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オーストラリア政府認定ドイツ語検定問題集

 「オーストラリア政府認定ドイツ語検定」の問題集が宅配便で送られてきた。

 開いてみると、当たり前のことだが、最初から最後まですべてがドイツ語で書かれてある。

 1ページ目を開いた瞬間から、頭がパニックだ。なにしろ、書いてあることの意味がよく分からないだけでなく、知らない単語があまりにも多すぎる。

「おいおいおいおい、大丈夫かい、こんなの受けても…」

 ドイツ語検定2級には合格したが、考えてみれば、ほとんどの問題は4択問題だった。つまり、ドイツ語を書いたり、話したりしなくても、4つの中から1つ選んでおけばよかったのである。

 しかし、この検定はまるで違う。

 なにしろ、日本語がない。

 第二に、ドイツ語作文もあれば、ドイツ語での面接もあるのだ。

 このブログを見ている人は思うかもしれない。

「なんで、そんなに苦労してまでドイツ語やってるの? だって、英語の翻訳家なんでしょ? ドイツ語ができるようになって一体何だというの? お金が儲かるの? そんなに大変なら、最初からやなければいいじゃん」

 だが、私は挑戦する。それが私の義務だと思っているからだ。

 何度も言うようだが、人間というのは、ただ周りの出来事に反応して惰性だけで生きていても人間性は磨かれないのだ。言い換えれば、何かに挑戦しないかぎり、人間性は磨かれない。だが、人間は生きている以上、自分を磨く義務があるのだ。なぜなら、そのために生まれて来たからである。

 何に挑戦するかは本人しだいだ。だが、挑戦しない人生は、「ただ無為に過ごす人生」であり、その責任は自分が負わされることになるのだ。哲学者サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言ったが、自由を無為に過ごしたら、その責任はすべて自分が取らなければならないのである。

 私は、別に合格には拘っていない。挑戦すること自体に意義がある。精一杯がんばろうと思う。

 

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学問をせずして「いい人」になれるのか?

 学問をせずして「いい人」になれるのか? 

 多くの人は次のように答えるのではないか。

「私のまわりにも、学歴のない人でも『いい人』はいっぱいいるよ。学歴なんか関係ないよ。学問をやったからといって『いい人』になれるかどうかはまったく関係ないよ」

 ただ、私はそういう人に聞いてみたいのだが、彼らがいう「いい人」の基準はいったい何だ? 彼らのまわりにいる「いい人」とはいったいどんな人だと言うのだ?

 あなたの場合はどうだろうか? あなたが「いい人」だと思う基準は何だろうか。その基準に間違いはないだろうか? 

 例えば、ある人は、他人に人気があるかないか人を判断する基準である。つまり、人気があればあるほど「いい人」であり、人気がなければ「悪い人」である。

 またある女性は、年収が人を判断する基準である。つまり、年収が高い人が「いい人」であり、年収の低い人が「つまらない人」である。

 また別の人は、結婚しているか否かが人を判断するときの基準である。結婚している人が「いい人」であり、未婚者は「欠陥人間」である。

 このように人はそれぞれ他人を判断する基準を持っている。私が疑問を投げかけたいのは、その基準は本当に正しいのか? ということだ。あなたが勝手に正しいと思いこんでいるだけの話ではないのか? ということだ。

 何が人間として「善い」ことなのかという疑問は、古くソクラテスから始まった。ソクラテスは、まわりのみなが「善い人」とはどんな人かを知っていると思いこんでいるので、具体的にどんな人が善いのか一人ひとり尋ねてまわった。しかし、まともに答えられる人は一人もいなかった。

 こうして哲学が生まれたのである。

 人間にとって「善い」とは何か。人間が果たすべき義務とは何か。こういうことを突き詰めて考えていく作業が始まったのである。そしてその作業を突き詰めてやっていくと、人間はいかに何も知らないかということに行き着いたのである。

 つまり、私たちは、まだまだ知らないことだらけであり、それを少しでも明確に見極めていくには学問をするしかないのだ。言い換えれば、学問をしないで、ただ単に通俗的な価値観(「結婚していれば善い人」とか「他人に人気がある人が善い人」という基準)だけで他人を判断していれば、まちがった判断をしやすいままであり、人間として進歩など何もないのだ。

 例えば、「結婚」という基準を取り上げてみても、この世ではいかに多くの間違った結婚があることが分かる。

 『独身の価値の証明―幻想をもたない国の男女関係 』という本に「結婚に失敗する10の理由」が載せてあった。その理由とは、①理想を下げて、結婚のために結婚する。②親の束縛から逃れるために結婚する、③妊娠してしまったから結婚する、④親への反抗から結婚する、⑤金のために金持ちと結婚する、⑥外見に惹かれて結婚する、⑦身体の関係ができているから結婚する、⑧孤独に耐えかねて結婚する、⑨安心感を求めて結婚する、⑩いつまでも独身ではいられないから結婚する、である。

 アメリカでは結婚したカップルの半数は離婚すると言われており、日本でも昔よりは離婚率が高まっているだろう? こうしたことからも、「間違った結婚」も多くあり、「結婚しているから善い人」「結婚していない人は欠陥人間」という基準が正しいと主張するのがいかに無理があるかが分かるだろう。

 誤解しないで欲しいことは、私は学歴がある人が「いい人」だと言っているのではないことだ。大切なのは学歴ではなく、学問に対する姿勢だ。つまり、いつまでも真理を見極めようと努力する姿勢だ。どこの大学を出たかとか、そういうことが大切なのではない。中卒だろうが高卒だろうが、つねに真理を見極めようと努力している人は立派に「学のある人」だと言えるのだ。

 最後にもう一言いっておこう。私たちはまだまだ何も知らないのだ。知っていると思ったら大間違いだ。そもそもその「知っている」ことも、両親や周りの人たちから聞いた通俗的な価値観をそのまま取り入れただけのものにすぎないのではないか。そんなものは本当に「知っている」うちには入りやしない。だから言っているのだ。人間はつねに謙虚な態度を失わず、何が人間として善いのか問い続けていなかければならないのであり、それこそが学問なのだ。

 

 

 

 

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青山学院が都心回帰

 私は複数の大学を出ているが、最初の母校が青山学院である。だから、一番思い入れの強い大学であり、だからこそ母校の発展を願っている。

 その青山学院が、2012年4月から、文系は4年間、青山キャンパスで修学することになるというニュースが流れている。どうやら正式に決まったようだ。ライバル校である立教、明治などは受験生を大量に青学に奪われることになるのは必至であり、すでに戦々恐々としているという。

 私が入学した頃は、厚木キャンパスという山奥の校舎に2年間通わなければならなかったこともあり、それが原因で人気にかげりが出てき始めていた(それでもブランドだけは依然として強かったが)。それがとうとう青山回帰という秘伝の宝刀を抜くことになったようだ。(リンク先のブログ参照)。

 http://blog.goo.ne.jp/rainwalk007/e/cafe040fea7fef3142374f5072993753

 これで青山学院の人気は急上昇し、私大では早慶に次ぐNO.3の地位を上智と競う大学になるのではないか。なんといっても校舎が青山にあるというのは最大の強みである。この強みは他の大学ではマネができないのだから、これを武器にしたのは正解といえよう。(しかし、なぜもっと早くやらなかったのか? というより、なぜ厚木キャンパスなど建てたのか?)

 そういう意味でも、青学は今が「お買い得」の大学だと言えよう。あと数年もすれば、人気が急上昇するのは目に見えているからである。数年後のことも考えて決めるのであれば、青学はお勧め大学の一つといえよう。

 

 

 

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新年あけましておめでとうございます

 読者の皆様、新年、あけましておめでとうございます。

 今年も、目標に向かってがんがん頑張っていきますので、楽しみにしていてください。

 さて、今年の私の努力目標はたくさんありますが、目に見える形での目標としては以下のものがあります。

 慶應大学卒業。これはあと卒業試験のみとなっております。卒業ができなければ大学院に合格してもパーになりますので、なにがなんでも卒業したいと思っています。

 大学院入学。合格に向け、ベストを尽くすのみです。試験の結果は、このブログで発表することになると思います。

 ブログ・HPを充実させる。昨年秋にブログを開設して以来、徐々に読者数も増えていますので、より充実したブログを目指します。大学院入試が終わったら、本格的にHPのデザインの研究に入るつもりです。

 各種資格試験に挑戦。今年は色々な資格に挑戦しようと思っています。具体的には、「ドイツ語検定準1級」「フランス語検定4級」「WEB検定(WEBデザイン)」「インターネットユーザー能力認定試験上級」「ドットコムマスター★★」「CIWサイトデザイナー」など挑戦したい資格でいっぱいです。

 あなたの今年の目標は何でしょうか?

 では、お互い目標に向かって、今日から新たなスタートを切りましょう!

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この正月をどう過ごすつもりか?

 私は大学2年の終わり頃から本をよく読むようになった。人生論、小説、詩集、童話、学術書などなど、手当たり次第になんでも読んだ。 

 そんな私を友人たちはよくこう批判した。

「試験でもないのに、どうしてそんなもの読んでいるの? そんなもの読んで一体何になるの? 何にもならないと思うけどなぁ」

 そういって彼らは、毎日毎日アルバイトに精を出していた。小説や童話を読むくらいなら、お金を稼いだほうが何倍も良かったのだろう。

 たしかに小説や童話などは、読んでも、すぐに何かに結びつくというものではない。お金儲けに結びつくわけでもなく、ビジネススキルが身に付くわけでもない。成績が上がるわけでも、いい会社に就職できるわけでもない。

 では、読む意味がないのか? 単なる暇つぶしていどの意味しかないのか。

 私はそうは思わないのだ。

 読みながら、どういう生き方が美しい生き方なのかを考えてみる。それだけでも、ものすごく意味のあることだと思うのだ。いや、もっと言えば、それこそが本当に意味のあることなのだ。

 今、私はドイツ語の勉強のためにグリム童話の原書『Kinder Und Hausmarchen 』と翻訳書『完訳グリム童話集 1 (講談社文芸文庫) 』を照らし合わせながら読んでいる。すると、童話の中に金言ともいえる言葉がちりばめられているのが分かる。(なお、原書の一部を朗読したテープ『Junior Talking Books』も同時に利用している)。

 例えば、『蛙の王様』の中には、王が娘にこう言う場面がある。

約束したことは、いやでもなんでも守りなさい

困っているときに助けてくれた者を、ないがしろにするものではない

 世の中を見回してほしい。

 約束したことを守らない人間がいかに多いかが分かるだろう? 困っているときに助けてもらったのに、その恩をすぐに忘れてしまう人間がいかに多いかが分かるだろう? きっとそういう人たちは、約束したことを守る大切さ、困っているときに助けてくれた人に礼儀を果たす大切さを学んで来なかった人たちなのだ。そうは思わないか? そういう人たちが本当に成功者になれているのか? 人から尊敬される人間になっているのか? 本当にお金持ちになっているのか? なっていないだろう?

 目的意識を持って小説なり童話なりを読めば、その中から人生でもっとも大切なことが学べるのである。たしかにビジネススキルは身に付かないかもしれない。何かの試験に合格することもできないかもしれない。しかし、そんなことよりも遙かに人生に大切なことが学べるのだ。

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正月休みをどう過ごすか

 会社勤めをしている人の多くは、12月27日から1月4日まで9連休があるのではないだろうか。

 あなたは、その9連休をどう過ごそうと思っているだろうか? 一日一日の計画は立てているだろうか? それとも、成り行きまかせだろうか?

 実は、この正月休みこそが、成功する人と平凡な人とがもっとも差がつくのである。

 何度でも言うが、成功する人というのは、究極の目標を見据えており、「最重要なこと」を最優先して実行している。したがって、9連休なら9連休で、その間に自分ができること、やるべきことをあらかじめ決めている。もちろん、9日のすべてがすべて自分の自由にはならないだろう。家庭サービスをしなければならないかもしれない。あるいは、両親の介護が必要かもしれない。しかし、それでも、成功する人というのは、9連休のすべてを成り行きまかせにするということはない。

 一方、平凡な人は、すべてを成り行きまかせにしており、それゆえ、「楽しいこと」「愉快なこと」「それほど重要でないこと」「本当は嫌だけど義理でやるだけのこと」ばかりが次々と予定に入り込んでくるのである。その結果、「最重要なこと」は何一つしないまま、「あっ」という間に9連休が過ぎ去るのである。

 「たった9日のことじゃないか」と馬鹿にしてはならない。一心不乱に取り組めば、9日間でも、実に多くのことを成し遂げることができるのだ。

 例えば、私は27才で社員翻訳スタッフとなったのだが、いずれは出版翻訳家になりたいと思っていた。しかし、日頃は仕事があまりにも忙しく、家と会社の往復で、自分の自由時間があまり取れなかったため、英語の書物を読む時間がなかった。そこで私は、正月休みは「英語の書物を1日1冊読む」という目標を掲げて実行していた。例えば、9連休であれば9冊、10連休であれば、10冊読むということをやっていたのだ。実際、9連休で9冊読むと、自分でも驚くほど実力が伸びているのを実感していた。

 目的意識を持たないまま、流れに流されるまま生きていると、9連休など、本当に「あっ」という間に過ぎ去るのである。今日は忘年会だった、今日は大掃除をしていた、今日は年賀状の返事を書いていた、今日は正月番組を見ていた、今日はずっと寝ていた…。そんなことをしていると、何もしないうちに9日間が終わる可能性がある。

 もちろん、年賀状も、忘年会も、テレビも、否定しない。それぞれにはそれぞれの価値はあろう。

 ただ、私が言いたいのは、本当に大きな目標を成し遂げる人というのは、「最重要なこと」をしっかりと見極めており、流れに流されるままにしないということだ。一方、平凡な人は、人生の大半が「それほど重要でないこと」ばかりで埋め尽くされている。だから大きなことが成し遂げられないのである。

 その違いが最も顕著に現れるのが正月休みだということだ。

 もう一度聞く。あなたは、この9連休をどう過ごそうと思っているだろうか。あなたの夢を実現させるために「最重要なこと」はいくつ入っているだろうか?

 私の書いていることに無批判に賛同する必要はない。しかし、もし興味があれば、『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則 』を読んでみるといい。時間の使い方が劇的に変わるはずだ。そしてその結果、次々と信じられないようなことができるようになる。

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ここだけで教えるドイツ語単語の覚え方

 私のブログに「ドイツ語 単語 覚え方」という3つのキーワードで検索してたどり着いた人がいるようだ。そこで、私独自のドイツ語単語の覚え方を披露してみたい。

 実はドイツ語というのは英語の親戚ではあるが、ドイツ語独特の特徴として、2語以上からなる造語が多いことが挙げられる。英語では2語で表すはずのところを1語ですませてしまっていることが多いのだ。私は、それをまとめて覚えるようにしている。

 具体例をあげて説明しよう。例えば、ドイツ語の文章を読んでいて、Bildという単語にぶつかり、それが未知の単語だったと仮定しよう。ちなみに、Bildは「絵」「画像」「イメージ」という意味である。

 すると、「Bild」を単語カードの表面に書き入れ、裏面に「絵」「画像」「イメージ」と書き入れいる。

 多くの人は、これで終わりにするのではないだろうか。しかし、これだけでは効率が悪い。未知の単語1語にぶつかり、1語を覚えるだけで終わりになるからだ。

 このような場合、私はBildが含まれる造語も一気に単語カードに書き入れ、一気に覚えてしまうのだ。例えば、Bildの造語としては以下のようなものがある。

 Bildnisは「肖像」、Bildsharfeは「画像の鮮明度」、Bildschrimは「画面」、Bildschnitzerは「木彫家」、bildshonは「絵のように美しい」、Bildtelefonはテレビ電話」、Bilddokumentは「ドキュメント写真」…。

 実は、こういう造語は電子辞書を使えば一発で分かるのである。なぜなら、Bildと入れれば、Bildで始まる単語も一覧できるからである。ちなみに私は『SEIKO IC DICTIONARY 電子辞書 SR-V5010 英語/ドイツ語モデル 音声対応 』を使っているが、大活躍してくれている。

 それだけではない。私は造語だけでなく、同意語や反意語なども一度にまとめて覚えるようにしている。

 このように覚えていけば、ほかの人が2~3語覚えている間に、私は楽に5~10語も覚えられてしまうのだ。関連のない未知の単語を2~3語覚えるよりも、造語や同意語、反意語を一気に覚えてしまえば、5~10語でも遙かに簡単に覚えられるのだ。私が語学に強いのはこういう独自の覚え方を実践してきたからだ。

 私はドイツ語は青山学院大学で学び、卒業後しばらく経って4級に一発合格した。その後ずいぶん長い間遠ざかっていたが、昨年秋に3級に合格し、今年は2級に合格した。

 フランス語は、まったくの独学で勉強し、フランス語検定5級は一発合格。4級は一度挑戦したが不合格になった。もし来春、大学院に合格したら、来年の6月には4級に再挑戦したいと思っているくらいである。まったくの独学でも3級くらいまでならいけると思っている。

 実はスペイン語も、かじったことがある。イギリスの大学院で半年スペイン語の授業を受けていたのである。帰国してスペイン語検定6級でも受けてみようかと思っていたが、仕事があまりにも忙しくなりすぎたため受けていないだけである。ちょっとした挨拶程度なら分かる。

 私は、語学の勉強が嫌いだという人には語学の勉強は勧めない。なぜなら、膨大な時間がかかるからだ。しかし、語学の好きな人は、電子辞書という武器を片手に、私が披露した単語の覚え方を参考に、爆発的に語彙力をつけてほしい。語彙力さえつければ、自然と読解力もつくはずだからだ。出版翻訳家である私が自信を持ってあなたに語学上達の秘訣をお教えする。実は、その秘訣とは、一にも二にも、語彙力を増強させることだったのだ。

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ドイツ語検定2級に合格!

 ドイツ語検定の合否通知が来た。

 合格最低点は65.47点のところ、私の得点は73.38点だったため、合格した

 合格最低点は65%前後になるだろうと予想していたとおりだったし、単純正解率70%であった私の得点も傾斜配点によって多少70%を上回ると予想していたとおりであった。

 結局、余裕しゃくしゃくとまではいかないが、まあまあの得点で合格した。

 私は正直に告白するが、受験の2ヶ月くらい前までは合格率20%前後だと思っていたのだ。懸命にがんばれば受験日には合格率50%を多少上回ることができるのではないかという予想をして、ガムシャラに頑張ったところ、見事合格を勝ち取ったわけである。

 実は、昨年の3級も同じような状況であった。受験することを決めたのが9月末で、そのときは合格率は20%もないと思っていたのだ。それから2ヶ月、必死にがんばれば合格率50%くらいになるだろうと思いながら頑張った。基本的には『独検4級突破単語集 』と『独検3級突破単語集 』の2冊だけしかできなかったのだが、不思議なことに合格した。

 昨年、3級に合格してから、今年は2級に向けて勉強しいていたのであるが、本気になって取り組んだのは正味3ヶ月くらいであった。具体的に何を使ったかに関しては、以下のリンク先に挙げているので参考にしていただきたい。

 http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/gogaku.htm

  これで一気にモチベーションが高まった。次なる目標は大学院入試である。現時点での合格率は20~30%くらいだと(何の根拠もないのに)勝手に推測しているのだが、受験2ヶ月前までは到底無理だと思っていたドイツ語検定2級にも通ったとことであるし、受験日まで粘りに粘って、最終的には合格率50%を超えられるよう頑張りたい。

 ただし、大学院入試の合否には拘らない。大切なことは、自分に与えられた環境で自分なりにベストを尽くせるかどうかだ。自分なりにベストを尽くしさえすれば、自分としては「満点」だ。それが外部基準に合致するか否かは私にはコントロールできることではない。だからこそ、「人事を尽くして天命を待つ」わけである。

  

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節約のすすめ

 私のブログを読んで、私のことを勉強オタクの変人だと思っている人も多いと思うが、中には、「学問に熱中できて羨ましいな。私も、自由な時間があれば、この人のように学問に熱中したいな」と思っている人もいるかもしれない。

 そう思っている人のために、ちょっとした節約術を伝授してみたいと思う。というのも、学問というのは、お金に困っていない人であればあるほど熱中できるものだからだ。(もっとも、会社員であれば、たとえお金に困っていなくても、それほど自由に時間は使えないかもしれないが…。でもそういう人でも、ファイナンシャルインデペンダンスを達成しさえすれば、会社を辞めて学問に打ち込むこともできよう)。

 実際、お金儲けに奔走していると学問などできはしない。なぜなら学問は「やってもやらなくても生きていけるもの」に過ぎないからだ。一方、お金はなければ生きていけないわけであるから、お金に困っている人は何が何でもお金を稼がなければならない。そういうわけで、学問は後回しになるのである。しかし、それでは学問の愉しさを味わうどころではない。

 そこで、とにもかくにも節約を実践することで人生のできるだけ早い時期にファイナンシャルインデペンダンスを達成し、学問に打ち込もうではないか。そのための節約術を披露してみたい。

 節約のポイントは、まず無駄遣いを極力減らすことである。しかし、これは個々の価値観が違うので、詳しい説明は省く。私がお勧めしたいことは、月々のキャッシュフローを見直すことである

 例えば、新聞の購読。これはあなたの夢を実現させるために絶対に必要なものだろうか? 「学校・職場でも読める」あるいは「インターネットでもおもだったニュースは読める」という人であれば、購読をいったんストップしてみるのも検討の価値はあろう。これで月々約4000円浮くのは大きい。

 保険も考えものだ。毎月のことなので、無駄な保険料を払っていないか確かめたほうがいい。

 携帯電話や固定電話の料金体系も見直してみるとよい。最近は安いプランも多くてビックリするくらいである。私は数年前まで携帯電話に約4500円、固定電話に約4000円くらいの基本料を払っていたのだが、今では両方とも約1000円である。

 コンビニやスーパーのポイントカード利用も見逃せない。こういうことも馬鹿にしてはならない。例えば、私の利用するコンビニでは100円あたり1ポイント(1円)がつく。スーパーでは200円あたり1ポイント(1円)がつくが、最近ではエコポイントといって、ビニール袋を利用しなければそれだけで2ポイント(2円)をつけてくれるようになった。

 プリペイドカードも金券ショップで安く買える。例えば、私が利用している金券ショップでは図書券は3%引きで手に入る。マックカードは5%引きだ。さらに区民プールのプール利用券はプリペイドで買えば20%のプレミアムがつく。

 このように、いろいろと節約していけば、かなり節約ができることが分かるだろう。

 本気で学問に打ち込もうと思えば、「最重要なもの」にだけお金を使うようにして、人生のできるだけ早い時期にファイナンシャルインデペンダンスを達成することだろう。そのためには節約できるところはトコトン節約したほうがいい。特に「使っても使わなくてもどうでもよいもの」にお金を浪費するくらいなら、投資信託に入れたほうがいいだろう。なぜなら、そうすることによって、ますます「お金を稼ぐ必要性」から解放されるからである。

 今は不景気で投資信託も軒並み基準価格を下げているが、債権型・毎月分配型のものであれば、それほど心配することはないと思う。国がつぶれない限り、分配金は毎月出るのであるから、長年もらい続けていれば、いずれは投資した額の全額以上が返ってくることになるからだ。むしろ、今は基準価格が下がっているので、買い時だとさえ思っているくらいである。 

 

 

 

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「国内留学」の愉しみ

 私は、昔、イギリスの大学院に2年間留学していたのであるが、そのときは、本当に思う存分、勉強ができた。もともと英語の書物を心ゆくまで読んでみたいという「やむにやまれぬ欲求」がくすぶっていたのだが、それがイギリス留学期間中は、思う存分、満たすことができた。この2年間の読書体験が私を出版翻訳家に育てたのだと思う。

 イギリス留学の何がそんなに良かったのか。それはイギリスに住んでいることで、日本にいたときのように、やらなければならないことがあれもこれもなかったからである。

 日本にいたときは、やりたいこと、やらざるをえないことがあまりにも多すぎた。例えば、上司が引っ越しするから手伝ってくれと頼まれる。結婚式に出てくれと頼まれる。親戚の葬儀にも呼ばれる。12月は1ヶ月まるまる年賀状書きにつぶれる。歓送迎会があれば、飲み会もある。

 それだけではない。誘惑も多すぎる。テレビでは毎日興味をそそられる番組をやっている。スイッチを入れたが最後、いつの間にか2時間3時間が消えてなくなる。新聞も読めと上司に厳しく言われている。新聞を読んでいると、映画の広告が目にはいる。見にいきたくなる。

 しかし、忙しいあまり、自分の夢の実現のための時間を奪われていたら、夢が実現するはずなどないのだ。特に学問の場合はそれが言える。なぜなら、学問などは、やってもやらなくても生きていけるからである。止めようと思えば、すぐにでも止められるからだ。そして、多くの人は、忙しさにかまけて、いとも簡単に学問への情熱を失うのである。(もともと学問への情熱を持っていなかったという人のほうが多いかもしれないが)。

 逆に言えば、学問をずっと続けていくことは、誘惑に弱い人間にとっては、極めて困難なことである。だからこそ、私は「留学」を勧めたいのである。いや、実際に留学しなくてもいい。国内にいながらにして、気分だけでも「留学」すればいいのだ

 どういうことかといえば、留学した気になって、色々な誘惑を断ち切るのである。実際、留学してしまえば、日本で楽しめるはずのものも諦めざるを得ないのであるから、留学した気になれば諦められるというものだ。

 例えば、テレビは捨てることをお勧めする。実際、留学してしまえば日本のテレビ番組など見られないのだから、留学したと思えば、テレビなど見なくてもいいだろう? 私の家にはテレビはない。テレビを捨てて10年以上になるが、何ら支障はない。それどころか、毎日、落ち着いた静かな時間が取れるので幸せである。 

 年賀状も、本当に書きたい人だけに書くことにしたらどうだろうか。実際、イギリス留学中に経験したことだが、イギリスまで手紙や年賀状(クリスマスカード)を書いてくれるのは、本当に親しかった人だけである。

 新聞も、購読するのをやめるのも一つの手だ。おもだったニュースはインターネットのポータルサイトで素早くチェックができるのだから、毎日毎日、新聞に40分も50分も時間を割くのは時間の無駄だ。お金もかかるのだから、二重にもったいない。私は新聞の購読を中止したが、なんら支障を来していない。むしろ、新聞に振り回されなくなって良かったと思っているくらいだ。

 映画も、演劇も、スポーツも、本当にどうしても観たいもの以外は一切シャットアウトしたらどうだろうか。本当に観たいものだけに厳選すれば、そんなにたくさん観なければならないこともないだろう。

 人付き合いも、本当につきあいたい人だけに厳選してつきあうことにすれば、学問をする時間が減らずにすむ。一番もったいないのは、単なる「人数合わせ」のために出席を頼まれて、しかたがなく行く結婚式の二次会などの飲み会である。遠い場所だったりすると丸一日がつぶれることになるが、丸一日の重要さが分かっている人にとっては実にもったいない。だから「義理で出る」ということはやめることだ。

 このようにして様々な誘惑を断ち切ってみるのだ。あたかも「留学」しているかのように…。私はこれを「国内留学」を呼ぶ。

 私は、イギリス留学中の2年間の読書体験があるから、あたかも「国内留学」でもしているかのように、毎日図書館にこもって学問に打ち込んでいられるのである。それは実に贅沢な時間である。

 

 

 

 

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ドイツ語検定の結果が待ち遠しい

 ドイツ語検定の秋の試験は毎年11月23日にある。

 昨年は3級を受け、12月17日に合格証書が送られて来た。

 今年は2級を受け、結果を待っているところであるが、来週の頭から半ばくらいには、合否結果が送られてくると思う。

 合格している場合は合格証と一緒にくるので大きな封筒で来る。不合格の場合は小さな封筒で来る。したがって、ポストを開けた瞬間に合否は分かってしまう。

 別に、ハラハラもドキドキもしていないが、待ち遠しいことには違いない。

 実は、2級を受ける前と後とでは、後のほうが懸命に勉強しているのである(というのも大学院受験が迫っているからである)。そういうわけで、大学院入試に合格しようがすまいが、ドイツ語は勉強を続けて、来年の秋には準1級を受けてみようと思う。

 なんでもそうだが、自分の実力の伸びが実感できるときが一番やりがいが湧く。私の場合、2級の合否結果はまだ出ていないのであるが、仮に不合格だったにせよ、単純計算で70%の正答率を取ったこと自体が私にとっては「成功」だった。それでやる気が出たところもある。

 合否通知は来週に来ることだろう。

 合格していれば、一気に大学院入試までモチベーションが高まると思う。結果を見るのが楽しみである。

 結果は、このブログで公表する予定である。

 

 

 

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偉人になるには

 哲学者であれ、思想家であれ、学問において一流と呼ばれている人には、きわめて長い年月、学問に打ち込んでいる人が多い。

 例えば、マルクスは、裕福であったエンゲルスによって経済的援助を受けていたため、お金を稼ぐために働く必要がなく、若いときからずっと学問に打ち込むことができた。そのおかげで歴史に名を残す大著が書けたわけである。

 お金儲けにまったく無頓着であった人もいる。百科全書派として知られるディドロは、定職につくことなく、貧しい生活をしながらも、ありとあらゆる学問に打ち込んでいた。今で言えば、フリーターを続けながら学問に打ち込んでいたわけである。そして30代半ばにして一冊の翻訳書を出したのがきっかけで、その後、百科全書の編纂に携わるようになり、やがて世に名を残すほどの思想家になった。

 ここでは2人の例を挙げたにすぎないが、いずれにせよ、世に名を残している思想家には、お金儲けに奔走することなく、学問に打ち込む時間をふんだんに取っていた人が多い

 現代においても、それは言えるだろう。実際、お金儲けのことばかり考えていたら、なかなか腰を据えた学問などできないと思う。

 では、お金儲けに縛られないようにするにはどうすべきか。

 不労所得が得られる仕組みを作ることである。できるだけ若いうちに作ったほうがいい。

 方法はいろいろあろう。本を書いて印税を手にしてもいい。不動産を得て家賃を得てもいい。しかし、もっとも簡単なのは投資信託ではないだろうか。今、世界的な不況で基準価格が驚くほど下がっているが、実は、今は「買い時」でもあるのだ。

 無駄遣いするお金があったら、投資信託にかけることをお勧めしたい。コツコツ貯めていけば、それだけ分配金も増える。分配金が増えれば、それだけ「お金を稼ぐ必要性」からも解放される。そしてその時間で学問に打ち込めることができる。

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流されない強い自分になる

 ドイツ語単語1日100語。

 私は、こういうノルマを決め、それを毎日続けている。これを大学院入試の数日前まで続けるつもりだ。

 もちろん、それは簡単なことではない。

 毎日、ドイツ語の文章を読み、知らない単語を電子辞書で調べ、それを単語カードに記入していく。これだけでも相当な時間・労力がかかる。しかも、それを片っ端から覚えていくのである。それにも相当時間がかかる。覚えたはずの単語も、2、3時間後にはすっかり忘れているのだから、これまた覚え直さなければならないのだ。時間がかからないわけはない。

 しかし、ノルマにしてしまえば、苦しくても続く

 私の友人に、書くのが嫌いな人間がいたが、ブログを書き始めて以来、毎日ブログを書くのをノルマにしたようだ。そして驚くことに、それがずっと続いているのだ。これこそノルマの力だといえよう。

 私は、それがたとえどんな結果になろうが、自分で決めたノルマであるから、絶対に守り抜く。そういう意気込みで続けている。

 ノルマを続ける際に、最大の障害になるのが、「楽しいこと」だ。

 テレビ、インターネット、雑誌、新聞、つきあい、年賀状…。こういった「楽しいこと」にいったん身を預けてしまうと、いとも簡単に流されやすい。ノルマなどふっとんでしまうのだ。

 テレビなどは特にそれが言えるわけで、面白い番組があったりすると、2時間、3時間などすぐに消えて無くなる。

 私は、その怖さを良く知っているので、とてもストイックに自分の夢を追い求めている。

 誤解を避けるために言っておくが、テレビを見るのがいけないわけではない。年賀状に一人ひとり丁寧にメッセージを書くのがいけないのではない。つきあいで飲みに行くのがいけないのではない。雑誌や面白そうな本を読むのがいけないのではない。そういうことをしたいのであれば、すればいい。たしかにそういうことも価値あることだろう。

 しかし、そういったことはあなたの夢の実現にとって「最重要なこと」を後回しにしてまで、すべきことだろうか。「今、絶対にしなければならない重要なこと」だろうか。

 人生は短いのである。

 あれもしたかった、これもしたかった、しかし、気がついてみたら、何もしないうちに「あっ」という間にこんなに年月が経っていた。そういう後悔をしないには、「最重要なこと」を「楽しいこと」の犠牲にしてはならないのだ。

 私はとにかく、突き進む。

 他人から見れば、おかしなことをしているとしか見えないだろう。いったい何のためにそんなに必死になっているの? としか思えないだろう。

 しかし、私は他人にどう思われようが気にしない。私には私の大きな夢があるのであり、それは最終的には社会貢献につながる夢である。おもしろおかしく生きればいいという矮小な夢なんかではないのだ。その夢の実現のために、今、何をするのが最重要なことかは分かっているつもりだ。

 だから今の私はとにかくノルマをコツコツと続けていくのみだ。

 何度も言うようだが、私は別に名誉や地位や金銭がほしくてこんな努力をしているわけではない。アリストテレスのいうエウダイモニアのためにやっているのである。そう、エウダイモニアのために命がけになっているのである。

 ところで、あなたは命がけで打ち込んでいるものはあるだろうか?    

  

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受験の下見

 受験シーズンである。

 かくいう私も、来年、大学院を受験するのである。

 先日、下見に行ってみた。私の自宅から自転車で35分だった。電車を使ったとしたら、電車に乗っている時間は約15分だが、電車待ち時間や最寄り駅からの歩く時間を含めれば、結局、35分ていどはかかるだろう。だから、結局、電車賃のかからない自転車で行ったほうがよいということになる。それに自転車通学だと、いい運動にもなる。

 それにしても、こんなに通いやすい場所にあるとは知らなかった。

 キャンパスを下見していると、否が応でも、気がひきしまった。

「ようし、こうなったら、思いっきり、学問に打ち込んでやるぞ」

 そういう気持ちになった。

 受験を控えている人は、下見に行ける人であれば、下見に行くのもいいと思う。下見に行って、そこで学問に打ち込んでいる自分をイメージすれば、勉強にもはりがでるというものだ。

 思えば、私は高校3年のとき、下見もすることもなく、青山学院大学を受験したのであるが、厚木キャンパスがあれほど通いにくい場所にあるとは知らなかった。受験雑誌などのイメージだけで受けたわけであるが、実際、通うとなると大変であった。厚木の山の中に住んでいるなら別だが、そうでない人は、本厚木駅からバスで最低でも25分くらいはかかっていたし、月々のバス代も馬鹿にならなかった。今、青学の教養は相模原に移転して通いやすくなっていると思うが、どの大学を志望するにせよ、実際に通いやすいかどうかは大きなポイントとなると思う。受験をする人は、そういう意味も含め、下見をしてみるといいだろう。

 

 

 

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学問の世界にどっぷりと浸れる喜び

 私の友人に人事部で働いている人間がおり、会社で起きたことをブログで紹介している。

 読んでいて、つくづく思うことは、会社には色々な人間がいるが、中にはどうしようもない人間もいるということだ。そして、悪いことは、どうしようもない人間は、まさに「どうしようもない」ということである。

 もしも人間がみんな理性的であり、多少の欠点があっても、指摘すれば直るものなら、問題はなかろう。しかし、現実の世界には、「何度言っても分からない人間」もいる。会社員はそういう人とも一緒に働いていかなければならないわけだから、その点は大変だと思う。

 私にも経験があるから分かるが、いっしょに仕事をしていも、期限を守れない人間は、毎回のように何だかんだと言い訳をしては期限を守らない。「悪い、悪い」と言いつつも、毎回期限が遅れるのである。何度せっついても、どうしても期限を守らないのだ。

 私も最初の頃は約束を反故にされるたびに怒っていたが、あるとき悟ったのだ。そういう人を「直そう」としても無駄だということを。というのも、本人が本気で直そうと思っていない限り、他人が直そうとしたところで、直りはしないからだ。

 私の場合、フリーなので、何度も約束を破る人間とはすぐに縁を切ることができるわけだが、会社員の場合は、それがなかなかできないので、なんとか「丸くおさまる」方法を考えなければならないのではないか。

 その点、学問の世界は一般の社会とは違う。学問の世界は、まさに理性の世界であり、人間関係の煩わしさはない。(もっとも、学問の世界といっても、それを職業にしてしまえば、それなりに煩わしさがあるだろうが、学問をしている身分の人間には、そういったものがない。ただ単に学問に打ち込んでさえいればいいからだ)。

 私は、ファイナンシャルインデペンダンスを達成してからというもの、心おきなく、学問の世界にどっぷりと浸ることができている。「お金儲けがすべてだ」と思いこんでいる人から見れば、ずいぶんおかしなことをしていると思うかもしれないが、お金を儲ける必要がなくなってしまえば、お金儲けなどに興味が湧くわけはないのだ。なぜなら、お金儲けよりも何倍、何十倍も楽しいことを知っているからである。

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ドイツ語をやるのは何のため?

 私は、ここのところ、がむしゃらにドイツ語の勉強をしているわけだが、こういう友人の声が聞こえてきそうである。

「なんでそんなに一生懸命、ドイツ語やってるの? いったいそれが何になるの? お金儲けにつながるの? お金儲けにつながらないことやっても意味がないんじゃないの? 大学院の受験科目にあるからやっているだけなの? でも大学院に合格しなければ勉強する意味なんてないよね? そもそも大学院を出て何になるの? 大学を5つも出て、いったい何になるの? それだけお金がたくさん稼げるようになるの? 俺だったら、学費に使うお金があったら旅行でもするけどなぁ」

 お金儲けこそが人生の究極の目的だと考えている人にとっては、お金儲けにつながらないことは「やっても意味のないこと」にしか思えないだろう。だから、勉強してもお金儲けにならないようなことをやるのは愚の骨頂だと思えるのではないか。

 しかし、お金儲けこそが人生で最も大切だという価値観で生きていると、学問だけでなく、書道をやっても意味はなくなるし、笛がうまく吹けるようになっても、太鼓がうまくたたけるようになっても、キャッチボールがうまくなっても意味がなくなりはしないか? だから、例えば、子供に書道や笛や野球などやらせるよりも、金儲けのスキルを教えたほうがいいということにならないか?

 何度もいうように、お金儲けが人生の究極の目的にはなりえないのである。

 アリストテレスに言わせれば、人生の究極目的はエウダイモニアである。私は、エウダイモニアを目指して頑張っているのであって、お金、名声、名誉、権力、地位…といった外的なモノを求めて頑張っているのではない。

 人生の究極目的であるエウダイモニアとは何なのかを理解すれば、笛をふくのに一生懸命になったり、書道に打ち込んだり、野球に打ち込む意味が分かってくる。なぜ、それが「美しい」ことなのかも理解できるようになる。

 今、私は、最大限の努力を払ってドイツ語をマスターしようとしている。それはエウダイモニアという究極目的のためであって、同時に、大学院合格という目的のためである。しかし、究極目的はエウダイモニアであって、大学院合格というのは小さな目標にすぎない。ドイツ語検定というのはさらに小さな目標であり、だから合否に拘るなんてことはない。だから、ドイツ語検定や大学院に不合格になろうが、私は落胆することはないのである。私にとってはエウダイモニアに一歩でも近づいていることが実感できさえすれば、十分満点なのだ。

  

 

 

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1日100語、10日で1000語

 ドイツ語単語を1日100語のペースで覚えている。

 ということは、10日で1000語である。

 したがって、10日前は「うわ~、こんな難しい文章、読めない」と恐れていた文章も、10日経てば、そんなに怖くはなくなっているのである。

 しかし、覚えるだけではなく、覚え直すことも必要となってくる。

 どういうことかといえば、1日100語覚えても、10日経てば、その半分は忘れているのである。

 毎日毎日、夜寝る前には完璧に覚えて寝る。というより、覚えきるまでは寝ないと決めているため、覚えざるをえない。

 しかし、2日、3日、4日と放置しておくと、どんどん忘れて行ってしまう。

 そこで私はときどき「覚え直す日」を儲けている。

 「覚え直す日」も、新たに100語は覚えるのであるが、それを覚えたら、昔覚えたはずの単語カードを取り出して、それを覚え直すのだ

 残念なことだが、10日くらい経ったものは、半分、ひどい場合は7割くらいが、記憶があやふやとなっている。しっかりと頭に定着しているのは3割から4割か。

 しかし、面白いことに、覚え直すのには、それほど時間がかからない。最初に覚えるときの5分の1ていどの時間しかかからないのだ。

 こうやって、覚える、忘れる、覚える、忘れる…のサイクルを永遠に繰り返す。そうすることによって頭にしっかりと定着させるのだ。これで奇跡が起こるのだ。

 これから先、私はドイツ語から哲学の勉強に重点を変えていく。哲学用語をドイツ語単語を覚えた要領で、ガンガン覚えていくつもりだ。

 今年はこれから先、クリスマスも正月もない。正月三が日も特に何をするでもなく、勉強に打ち込む。私としてはベストを尽くす。それでどうなるかは分からない。ただ、ベストを尽くすのみだ。

 合否は、このブログで公表する。楽しみにしておいてほしい。

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ノルマの威力

 私は今、大学院受験を目指してドイツ語を勉強しているわけであるが、日々のノルマとして新しいドイツ語単語100語覚えることを自分に課している。

 一日100語である。しかも、それを一日の休みなく、毎日続けるのだ。

 つまり、今日も100語、明日も100語、あさっても100語、4日後も100語、5日後も100語…ということを延々と続けていくのだ。

 これは、ある人から見えれば、とんでもない数字のように思えるかもしれない。

 正直、最初のことはけっこうきつかった。

 しかし、今では当たり前のように覚えていくことができる。

 そのために単語カードを使っているのだが、毎日100語覚えるわけだから、新しい単語カードもどんどんものすごいペースで作っていかなければならない。そのための時間もけっこうかかることはかかる。

 しかし、これを「絶対に守らなければならないノルマ」にしてしまえば、意外と覚えられるものである。

 朝起きたら単語カードをぱらぱらめくり、食事の前にぱらぱらめくり、勉強の前にぱらぱらめくり、自転車で移動している間、信号待ちのときにぱらぱらめくり、勉強の合間にぱらぱらめくり、夕食の前にぱらぱらめくり、夜ぱらぱらめくり、風呂に入る前にぱらぱらめくり…。そして、眠る前に完全に暗記するまで覚える。

 これを繰り返すのである。そして、執拗に繰り返しているうちに、いつの間にか覚えている。

 目標を掲げても、いつも計画倒れになってしまうという人は、目標達成までの道のりを細かく分けて自分にノルマを課したらどうだろうか。

 実際、ノルマの威力は凄い。

 例えばの話だが、「ノルマを達成できなかったとしたら、自分の子供が殺される」とでも思いこんで取り組んでみたらどうだろうか。もし本当に自分の子供が殺されるとしたら、あなたには何がなんでもドイツ語単語100語を覚えるだろう。それくらいのことはできるはずだ。「できない」といっているのは本気になってないだけの話だ。

 人間、死ぬ気で頑張れば、一日ドイツ語単語100語を完全暗記するくらい、何のことはないのだ。そして、それを毎日毎日繰り返しさえすれば、1ヶ月で3000語、2ヶ月で6000語、3ヶ月で9000語を覚えることができる。

 私はここでドイツ語単語の暗記について書いたが、何にしても、目標が達成できないという人は、とにかく自分にノルマを課すことだ。「3ヶ月で1冊本を書く」といっておきながら、ずるずるずるずるずるずると書くのを遅延し、1年経っても書いていなかたっという人も多いらしいが、そういう人は、「1日に何ページは書く」というノルマでも決めないと、いつまでも悪い癖は直らないのではないか。

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入試の準備

 私は、近く、大学院入試を受けるわけであるが、そのために準備をしておこうと思っている。勉強はもちろん頑張るが、勉強以外の準備も十分整えて臨もうと思うのだ。

 これは、大学入試、高校入試、中学入試などについても言えると思うので、参考になる部分があれば参考にしてほしい。

 まずは、インフルエンザ対策。インフルエンザにかかると受験できなくなるので、こればかりは気をつけたい。具体的には、予防注射があるが、それだけでは安心できない。予防率100%ではないからだ。ではどうするか。加湿器を使う、外出から帰ったらうがいと手洗いを徹底する、睡眠不足にならないようにする、人混みを避ける、人混みに入るときはマスクをする、などがある。

 次は、受験場の下見だ。私も近いうちに受験場を下見に行くつもりだ。私の場合、自転車で行ける場所なので、自転車で何分かかるか正確に計っておこうと思う。さらには、雨が降ったときのことを想定して電車で行った場合、自転車で行っているときにパンクした場合、そこからタクシーに乗った場合などを想定しておこう。

 さらに、午前と午後の時間が空いてしまうときは、その間をどこで過ごすかも考えておこう。私の場合、午前の試験と午後の試験の間が2時間も開く。しかし、その間に自宅には戻るだけの時間はない。だから、外出先で時間をつぶすことになるが、できれば勉強に適した静かな場所を探しておきたい。しかも受験場からできるだけ近い場所に。

 また、衣類も馬鹿にならない。雪が降って冷え込むことも想定しておこう。

 あとは、目覚まし時計を一つ余分に買っておこう。遅刻は厳禁だ。

 刻々と受験日が迫って来ている。

 結果は拘らないというものの、当然ながら合格したいことには変わりはない。だからこそ、インフルエンザとか遅刻とか寒すぎて調子が悪くなったなどの理由で不合格にはなりたくないのだ。勉強不足で落ちるなら納得もいく。でも、それ以外のことで落ちるといったことはできるだけ避けたい。

 

 

 

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適切な目標設定の威力

 私は先日、ドイツ語検定2級を受けたわけだが、受験3ヶ月前までは、合格の可能性は20%もないと思っていた。本当にそう思っていた。

 しかし、受験前3ヶ月の努力で、正答率70%を取った。合否結果はまだ出ていないものの、そこそこの成績だと思っている。

 某巨大掲示板による情報によれば、65%程度が合格ラインになるのではないかという噂もある。受験生の平均点によっては合格基準点の調整がされるので、安心はできないが、仮に不合格になったにせよ、合格ラインからかけ離れた数字ではない。我ながら、よくやったと思っている。

 では、なぜ私は、そこまで頑張ることができたのか。

 それは何より、目標が適切だったからだと思っている。

 実は、次々と成功を収めている人は、頭がいいというよりも、目標の設定のしかたがうまいのである。最大限の努力をすれば成功率が50%ていどになるような目標を設定し、懸命に努力するのだ。

 実は、成功率50%ていどの目標が一番やりがいがあるし、勉強にも一番身が入る。

 これが成功率20%以下の目標であれば、最初から「僕なんて頑張っても無理だよなぁ」みたいな意識が働くので、勉強に身が入らない。

 逆に成功率が80%以上の目標であれば、最初から「こんなの合格して当たり前だ」と思って、なめてかかるので、これも効果的ではない。

「別にそんなこと、言われなくても分かっているよ」と笑うかもしれないが、失敗する人の多くは、高望みをして、自分には合わない目標を設定し、失敗を重ねて、それで努力することそのものが嫌になってしまっているのだ。

 これは試験だけではない。たとえば金銭管理にせよ、仕事にせよ、失敗する人の多くは、できもしないことを望む。

「○年以内に部長に昇進する」とか、「○年以内に不動産を△件取得する」とか、「○年以内に□の資格を取得する」とか、「○年以内に●万円貯める」とか…。

 中には、最初から本気で取り組もうと思ってなかったのではないかと疑いたくなるような高い目標を設定し、失敗するたびに毎回毎回、言い訳をしている人もいる。

 目標を持つなというのではない。目標は持つべきである。なぜなら目標がなければ、ずるずるずるずると流されたままの人生になりやすいからだ。しかし、目標は「単に掲げただけの目標」であってはならない。そんな目標ならば、まだ掲げないほうがマシだ。そうではなく、最大限の努力を払えば、達成できる可能性が50%ていどのチャレンジングな目標を掲げよう。そういう目標こそが適切なのである。そして次々と成功を収めている人はそういった適切な目標を掲げるのがうまいのだ。

 自分に合った適切な目標を掲げ、日々、最大限の努力を払いながら努力していれば、たとえ目標が達成できなかったにせよ、目標達成と限りなく同じレベルの実力は身に付くし、やりがいがある。人生が知的冒険に変わるのだ。

 あなたは無理な目標を掲げていないだろうか? 今掲げている目標は本当に自分に合った目標だろうか? 本気で実行する気があるだろうか? そのために日々、時間を割いているだろうか? 単に「掲げるだけの目標」になっていないだろうか?

 自分に合わない目標は、今すぐ、見直そう。 

 

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ドイツ語秘密特訓法4

 私が思うところ、語学上達の最も重要な要因は自信である。

「私は語学が好きだ。きっとうまくなるに違いない」

 こういう自信を持って勉強している人ほど、同じ時間と労力をかけても、上達が速いのである。逆に、

「私は語学が苦手だ。ちょっとくらいがんばったところで、できる人にはかないっこない」

 と苦手意識を持って勉強している人であればあるほど、同じ時間と労力をかけても、上達が遅いのである。

 しかし私は、語学の才能に関して言えば、うまれつきの才能などないと思っている。いわゆる、外国語ができる人たちというのは、それだけ外国語の勉強に長い時間を費やしただけの話であり、生まれつき語学の才能があったからできるようになったわけではない。

 では、苦手意識を持ってしまった人はどうすればいいのか。

 答えは単純である。「私は語学が苦手だ」という間違った思いこみを捨て、単語の暗記であれ、読解であれ、リスニングであれ、文法問題であれ、なんでもいいから少しでも多くの時間を語学に費やすことである。それを続ければ、誰でもできるようになる。

 時間と労力を費やせば費やすほど、できるようになる。実は、それだけ単純な話なのである。もちろん、いろいろ工夫のしかたもあろう。しかし、基本は時間と労力をどれだけかけたかだ。

 今、私は猛スピードでドイツ語を特訓している。ドイツ語検定2級は、本腰を入れて勉強した期間は約2ヶ月半くらいだったが、集中してやったので、合格ラインあたりの点数が取れた(ただし、結果はまだ出ていない。今月下旬には通知が来るはずである)。

 この調子で大学院入試まで続ければ、ドイツ語も合格点を超えるだろう。もとより英語は合格点を超えると思っているので、英語とドイツ語はクリアできる。あとは哲学だ。これは、今まで勉強してきたことを総ざらいし、さらに追い込みをかける。

 

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ドイツ語秘密特訓法3

 ドイツ語秘密特訓法の中でも最強なのは、単語カードによる語彙力増強である。

「なあんだ、単語カードか、そんなのみんな知っているよ」

 と思う人も多いだろう。

 しかし、その使い方はどうだろうか。

 秘訣は、モノそのものではなく、使い方である

 私の場合は、外出しているときは、上着のポケットに必ず1つ単語カードを入れておく。

 銀行に行ってお金をおろすとき、順番を待っている間に、単語カードを出して覚える。

 レストランに行って、食事が出されるのを待っている間に、単語カードを出して覚える。

 自転車で移動しているとき、信号機で待たされている間に、単語カードを出して覚える。

 勉強と勉強の合間に、気分転換に、単語カードを出して覚える。

 散歩しながら、単語カードを出して覚える。

 こういう細切れの時間を使えば、1日に単語を覚える時間は割と取れるのである。どんなに忙しい人であれ、こういう時間をすべて集めれば、30分~1時間になるのではないか。実は、その間に、ガンガン頭に入れていけば、驚くほど覚えられるのだ。 

 覚えては忘れ、覚えては忘れ、覚えては忘れ…。

 これを繰り返すのだ。これこそが語彙力増強の秘訣だ。しかし、これは単語カードでやるしかない。単語集などでは効果は薄い。細切れの時間が効果的に使えないからだ。

 私はこの方法で、今、一日に新しい単語を100語覚えている。今日も100語、明日も100語、あさっても100語…。これを大学院入試の日まで続けるつもりだ。

「本当に、毎日毎日、そんなにたくさんの単語が覚えられるの?」

 と不思議に思えるだろうが、私は覚えている。

 毎日毎日グングン語彙力が身に付くのが実感として分かる。難しいドイツ語の文章も、だんだん読めやすくなっているのが日に日に分かる。

 実は、あと一つ、決定的な秘訣がある。それはまた今度書くことにしよう。 

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ドイツ語秘密特訓法2

 大学院入試のためにドイツ語に専念している。

 ここで、ドイツ語の秘密特訓法をお教えしよう。

 これはドイツ語に限ったことではなく、フランス語でも、中国語でも、何の言語でも言えることであるが、大量に読むことが上達の秘訣である。

 そのために、何を読むかというのが問題になる。

 その答えは、自分の興味のある記事を読むということなるのだが、今はいい時代になったものである。インターネットを使えば、読みたいドイツ語の記事は山のように見つけ出せるのだ。

 私は、ドイツ語で読むべきものをインターネットで探して、プリントアウトして読んでいる。だから本を買う必要がない。

 ちょうど私の場合は大学院受験もあるので、哲学関係の資料をドイツ語で探して、それをプリントアウトして読めば、ドイツ語の勉強にもなるし、哲学の勉強にもなるので一石二鳥なのだ

 これをドイツ語の勉強のためだけにドイツ語の参考書をやり、哲学の勉強のためだけに日本語で書かれた哲学の本を読めば、2倍の時間がかかる。それを私は一気にやっているのである。 

 だから、何語であれ、自分が勉強したい外国語を自分の勉強してみたい分野の資料をインターネットで探して、プリントアウトして読めばいいのだ。これこそがIT時代の秘密の外国語上達法である。

  ただし、こうした勉強は、ある程度ドイツ語の実力がある人向けの勉強であり、まだそこまで行っていないという人は、ドイツ語の学習参考書で勉強したほうがいい。特にお勧めしたいのはCD付のもので、目と耳と両方で勉強することだ。具体的にどの学習参考書がいいかは、次のリンク先にまとめてあるので、参考にしてもらいたい。

 http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/gogaku.htm

 

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大学院の受験票が届く

 11月28日午後に卒論を出したが、その翌日の午前中に、大学院の受験票が届いた。

 なんともベストタイミングである。ちょうど、大学の勉強から、大学院の受験勉強に切り替えようと思っていたところだったので、これで刺激を受けて、やる気になった。

 受けるからにはベストを尽くそうと思う。

 結果には拘らない。ただ、ベストを尽くしたか尽くさなかったかは、後々、後悔となって現れるので、後悔のないよう、ベストを尽くそうと思う。

 あとは、当日、迷子になってはいけないので、近いうちに、下見にも行っておこうと思う。

 正直、今は合格の自信はあまりない。可能性はまったく分からないが、あえて言えば、20%くらいか。

 だが、ドイツ語検定2級も、受験3ヶ月前は20%程度の可能性しかないと思っていたところ、見事、追い上げて、正答率70%をもぎ取ったわけである。

 だから、今回も、これから追い上げようと思う。

 最終的には合格可能性50%を超えればいいと思っている。

 あとは運を天に任せるだけである。

 

 

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卒論提出

 2008年11月28日午後2時半、慶應義塾大学の卒業論文を事務局に提出した。

 あとは、卒業面接(約30分)を受け、それに合格すれば、とうとう「慶應大学卒業」ということになる。マラソンで喩えていえば、すでに国立競技場に足を踏み入れたというところか。

 長いようでいて、本当にあっという間にここまで来たという感じだ。

 慶應大学を卒業すれば、私は4つめの大学(そのうち2つは大学院)を出たことになるわけだが、特に慶應大学で勉強したことは、とても価値があったと思っている。

 具体的に、何がどう良かったのかを書いていると長くなるので、今回は書かないが、一言で言えば、お金よりも何倍も大切なものを身につけたと思っている。

 さあ、これからは、大学院入試の受験勉強に専念しようと思う。

 大学院入試の勉強となると、完全に孤独との戦いになる。大切なことはいかに自分に強くなるかだ。

 入試までの約2ヶ月で、ベストを尽くそうと思う。

 ベストを尽くせば、どんな結果になろうが、後悔しないと思うからだ。

 

 

 

 

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試験を受けて悔しがる人、爽快になる人

 私の友人に、ある難関試験を受け続けている人がいるが、以前、渋谷で受験し、試験が終わると、悔しさのあまり、渋谷から新宿まで歩いたという。

 私は、正直、驚いた。渋谷から原宿なら分かるが、渋谷から新宿なのだ。

 しかし、なぜ、そこまで悔しくなったのだろうか。私が思うに、きっと、「ああ、もっと勉強してたら、確実に合格していたはずなのに…。もしかするとギリギリで落ちているかもしれないなぁ」と思ったのではないか。それで悔しくなったのではないか。

 一方、私は、先日、ドイツ語検定2級を受け、受験し終わった後は、気分爽快であった。というのも、2ヶ月間、自分なりにベストを尽くしたし、これ以上できないというところまで頑張ったからだ。だから、私はネコカフェに行き、ネコをなでて帰るという余裕があったのである。

 余裕があったのは、合格を確信したからではない。受験後、合格か不合格かのボーダーラインではないかと感じたし、今もって、合格するかどうかは分からない。でも、別にドキドキもしていない。通ったら通っただし、落ちたら落ちただ。

 しかし、それでも、私は清々しい気持ちなのだ。合否に拘っていないからというのもあるが、それよりも、私は元々、合格するためだけに頑張って来たわけではないからである。わかりやすく言えば、私はベストを尽くすために努力してきたのだ。

 これから私は大学院を受験する。こちらのほうは、ドイツ語検定2級よりも遙かに私にとっては重要である。しかし、私はベストさえ尽くせば、おそらくドイツ語検定2級を受けた後のように、清々しい気持ちになれるのではないかと思う。合格はしたいが、拘っているわけではない。私なりにベストは尽くすが、ベストを尽くせば、それで満点だし、合格・不合格にかかわらず、きっと清々しいだろう。

 以前にも書いたが、私たち人間は、究極のところ、少しでも善い人間になるためにこの世に生まれてきたのであって、この世のモノ(資格、名誉、金銭など)を手にするために生まれてきたわけではないのだ。

 だから、目標を持って頑張ること自体はいいが、目標には拘らないようにしようではないか。そんな目標、ちっぽけな目標だ。ハッキリ言ってしまえば、どうでもいいんだ。それよりも、少しでも善い人間になるべく努力しようではないか。そちらのほうが遙かに重要な課題だ。

 誤解してほしくないことは、この世の目標をないがしろにしろということではないということだ。この世の目標はこの世の目標で、達成できるようにベストを尽くすべきだ。だが、そんなちっぽけな目標に拘るのではなく、究極の目標に目覚めよということである。

 

 

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学問と同時に検定試験にチャレンジ

 学問の本質は、真実を見極めることだと思う。しかし、勉強は勉強でやったほうがいいと思う。

 そのモチベーションとなるのが検定試験だ。

 私は、慶應大学に入学して以来、基本的に慶應大学での勉強を最優先してきた。どうしても卒業したかったからだ。頑張りさえすれば、「慶應大学卒業」という切符が手に入る。そのチャンスを無駄にしたくなかった。だから、ガムシャラに頑張ったところがある。

 ただ、慶應大学での勉強はそれはそれで頑張ったが、一方では資格試験にもチャレンジしてきた。慶應大学入学後にチャレンジした資格を思いつくまま挙げてみよう。

1,パソコン検定準2級(一発で合格)

2,パソコン検定2級(8回目で合格)

3,パソコン検定準1級(一発で合格)

4,ドットコムマスター★(7回目で合格)

5,ドイツ語検定3級(2回目で合格)

6,ビジネスコンプライアンス検定初級(一発で合格)

7,知的財産検定2級(一発で合格)

8,FLASHクリエイター検定初級(一発で合格)

9,WEB検定(リテラシー)(一発で合格)

 我ながら、よく頑張ったものだ。

 そして、このたび、ドイツ語検定2級に挑戦し、合否結果はまだ出ないが、単純計算で70%の正答率を出した。

 今は大学院入試があるので、検定試験の受験は極力控えるが、受験が終わったら、早速、いろいろな検定試験に挑戦しようと思っている。具体的には、ドットコムマスター★★、初級シスアド、FLASHクリエイター検定上級、WEB検定(WEBデザイン)などである。今からワクワクしているのである。

 検定試験に挑戦するのも、いいことではないか?

 

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ドイツ語検定2級の合否予想

 ドイツ語検定2級の模範解答が、ドイツ語検定協会のホームページに公表された。 

 ドキドキしながら答合わせをしてみた。

 問題数は、文法が17問、読解が14問、リスニングが9問、合計40問であった。

 答合わせをした結果は次のとおり。

 文法は17問中8問正解であり、正答率は47%であった。「習うより慣れろ」でドイツ語の勉強を推し進めた結果、文法のできはかなり悪かった。本当にドイツ語は語尾がごちゃごちゃ変化するので、なかなか覚えきれない。

 読解は14問中13問正解であり、正答率は93%であった。あと1問あっていたらパーフェクトであった。惜しい。しかし、これはドイツ語学科卒でもドイツ語文学科卒でもない私にとっては自分なりに良くやったと言える正答率である。

 リスニングは9問中7問正解であり、正答率は78%であった。「もしかすれば満点か」などと思っていたが、やはり引っかけ問題にはちゃんと引っかかっていたようだ。

合計40問中28問正解であり、単純計算でいくと、正答率70%ということになる。

 これですんなり合格、といってくれればいいのだが、どうなるかは分からない。というのも、1問あたりの配点は公式には発表されていないので、単純計算で70%でも、傾斜配点で計算するとそれをギリギリ切ってしまっている可能性もあるのだ。しかも、合格基準も受験生のでき次第で調整されるというから、何%取っていれば大丈夫というものがないのだ。

 某巨大掲示板によれば、文法問題は配点が小さく、読解問題のほうが配点が大きいという。それならば、私は読解問題はほぼ完璧のできだったから、合計では70%を超えることになる。ただ、その掲示板に書かれてあることが正しいかどうかは分からないので安心はできない。

 ただ、単純計算であれ、70%を取っているということで、合格の可能性のほうが多少高いかなと思っている。合格の可能性は50%を少し上回っているという感じだろうか。落ちるとすれば、「あと1点足りずに落ちる」というギリギリの線ではないか。合格基準が65%以上になるか70%になるのか、はたまた75%になるのか、その辺が合否の境目だ。

 私にとって、このドイツ語検定は、大学院入試のための1ステップなので、合否にはそれほど拘っていない。だが、せっかくなら合格したい。あれだけ頑張ったのだから…。

 結果は12月下旬に郵送で通知されるようだ。

 合否は、大きな封筒が来ているか、ハガキが来ているかですぐに分かるだろう。合格の場合は合格証入りの大きな封筒が届くはずである。

 結果は、このブログで発表する。楽しみにしていてほしい。

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ドイツ語検定2級受験当日

 今日は、ついにドイツ語検定2級の受験日である。

 試験自体は午後2時からであるから、(これを書いている時間から)残り時間も本当にあとわずかである。だが、試験会場に向かう電車の中ででも、最後の最後まで努力しようと思う。

 私は、やるだけのことはやったと思っている。だから、合格しようが不合格になろうが、気にはしない。とういうより、気にならない。

 ただ、自分なりにものすごく実力がついたことが分かる。少なくとも、単語力だけでもこの2ヶ月の間に新たな単語を3000語近く覚えたのであるから、実力がついたのも当然だ。勉強していてよく思うのだが、本当にこのペースで勉強し続けたら、来年の秋には準1級でも狙えるのではないかと思うほどだ(ちなみに2級以上は年に1回しか試験がない)。

 さあ、これが終わったら、あとは大学院入試に全力投球だ。

 実は、大学院入試まで、あと2ヶ月しかない。ドイツ語検定は合格になろうが不合格になろうが、その後、たいして人生が変わりはしないが、大学院入試は、その後の人生が大きく変わる。大学院生活がスタートするか否かが決まるのであるから…。私にとっては重大事である。

 だから、一分一秒も無駄にしないようにベストを尽くそうと思う。ベストを尽くして、それで不合格になれば、それはそれで諦めもつくだろう。しかし、ベストを尽くさなければ、「ああ、もっと勉強しておけば良かった」と後悔することになろう。だから、私がすべきことはベストを尽くすこと、それだけである。

 特に注意したいのは、インターネットである。ネットサーフィンというのは、できるだけやらないように心がけているが、たまに興味のあることを調べていたら、ずるずるとネットサーフィンで時間を奪われていることがある。これは本当に気をつけたい。

 ドイツ語検定2級の結果は、1ヶ月くらいしたら出ると思う。結果はこのブログで発表する。楽しみにしておいてほしい。合格する自信があるから書いているのではなく、自分なりにベストを尽くしたという自信があるから書いているのである。合格する自信は50%程度しかない。

 

 

 

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ドイツ語検定2級まで1週間を切る

 ドイツ語検定2級まで1週間を切った。

 今は、『Horizonte―東京大学ドイツ語教材 [CD付] 』という東京大学出版会から出ている参考書を使って勉強をしているが、この本、東京大学から出ているだけあって、かなり高度である。前半から後半にかけて難易度があがっていくと書かれてあるのだが、いきなり最初から難しい。これはドイツ語検定1級向けではないか。それくらい難しい。

 ただ、私も捨てたものではない。今まで努力してきたかいがあったのか、難しいながらも、なんとか、辞書を引きながら大意はつかめる。

 思うに、語学というのは、才能とか才能でないとかの問題ではなく、コツコツやるかやらないかの差ではないかと思う。言ってしまえば、それだけで決まるのだ。

 思えば、2ヶ月前から、毎日毎日、これでもか、これでもか、とドイツ語単語を覚え、ドイツ語を聞きまくり、ドイツ語を読みまくった(ただし、文法はていねいにやってはない)。

 そのおかげで、ドイツ語を見ても、おびえなくなった。どんなに難しいドイツ語であっても「なんとなくだが分かる」という自信がつきつつある。

 今のところ、合格する可能性は50%程度ではないだろうか。2級といっても、初挑戦であるから、手応えが分からないので、50%程度としておこう。ただ、合格したとしても、それは「さらに大きな目標」へのステップにしかすぎないので、浮かれることなく、コツコツと勉強は続けるつもりだ。

 結果が出たら、このブログで発表する。楽しみにしておいてほしい。

 さて、忙しくて書店になかなか行けないという人のために、私がお勧めのドイツ語教材をご紹介しよう。下記のページに飛んでいってもらえれば、それが分かるようになっている。

http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/gogaku.htm

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TOEFL iBT初受験

 ロンドン大学通信課程に入学する可能性もあるので、入学資格となるTOEFL iBT(インターネット・ベースド・テスト)を受けてきた。本当は大学院入試のためにドイツ語や哲学の勉強に一分一秒でも多く時間を割きたいのであるが、まあ、大学院入試にも英語の試験があるので、その予行演習にもなるという見方も無理をすればできなくはないと思い受験を決めた。

 TOEFLは大昔受けたことがあったが、今ではTOEFL iBTというのに変わっている。これは紙の試験ではなく、インターネットで行われる試験である。パソコンに向かって、パソコンの画面に現れた英語を見ながら、パソコンの画面に出てくる英語の質問に答える。そういうやり方である。

 しかし、正直、参った。結果を待つまでもなく、不本意な結果であることが分かる。力を出し切れなかった。

 私が受けたのは法政大学であったが、なにしろ初受験なので、要領が分からなくて困った。

 パソコンに向かって受験するのだが、席が狭く、いつ隣の人とぶつかりそうな感じなのだ(実際に一度足がぶつかって、あわててしまった)。私はIT関連の資格をアールプロメトリックセンターでよく受けるのだが、そこでは受験生ごとにしきりがしてあって、試験に没頭できるのだが、法政大学ではしきりという贅沢なものはなかったのである。

 しかも、受験生が集まったときに一斉にスタートするのではなく、個々人ごとにスタートする。だから私が読解問題を解いているときに、隣の席に受験生が座ったり、その受験生が試験監督に質問していたりする。気が散ってどうしようもない。

 私は、正直、読解問題の途中で棄権して帰ろうかと思った。何度も棄権してやろうかと思った。というのも、まったく集中できなかったのだ。

 しかし、それだけではない。リスニングのセクションも、個々人が聞いている英語が違うわけだが、隣の人がボリュームを大きくしていたので、私に筒抜けになっており、これまた集中できない。

 さらにスピーキングは大きな問題であった。普通の試験の場合、スピーキングは面接で行われる。しかし、このテストではパソコンに向かって英語をしゃべらなければならないのだ。これもやはり、隣の人が当然気になる。気にするなといっても、ほんのわずかしか離れていないため、隣の人のしゃべる英語が聞こえてくるのだから気が散らないほうがおかしいだろう。

 パソコンに向かって回答するというのは、一見、採点しやすそうだが、こと外国語の試験に関しては、やはり紙でやったほうがいいような気がする。しかも、スピーキングをパソコンに向かってしゃべらせるというのは、点数をつけるほうはそのほうが楽なのかもしれないが、受験生にとっては違和感がある。しかも、隣の人の声を気にしながらしゃべっていては本来の実力が出せない。

 しかも、この試験、4時間以上にわたる試験だというのに昼休憩がなく、10時からドーンと最後までやるのである。(途中10分だけ休憩があるが、集中力勝負の英語の試験で途中10分しか休憩がないというのはかなりきつい)。

 この試験を受けられる人がいたら、席と席の間に仕切りのある試験場で受けたほうがいいと思う。私の経験からいえば、IT関連資格を3カ所で受けたことのあるアールプロメトリックセンターでは、すべて席と席の間に仕切りがしてあった。それでもやはりパソコンに向かってしゃべるというのは違和感があるだろうが、仕切りがないところだと、最初はどぎまぎして点数が出しにくいだろう。

 あと、この試験は昔のTOEFLとは出題形式がずいぶん違う。だから、事前にどんな出題形式かを知っておくと驚かずにすむだろう。私は『はじめて受けるTOEFL Test攻略×アプローチ―TOEFL iBT対応 全セクション対応+確認テスト1回付 』を購入し、眺めておいた分、それほど驚かずにすんだ。

 私は、来週の日曜日にドイツ語検定2級を受けるが、その後は大学院入試まで何も受けない。受験勉強に熱中するためである。

 ドイツ語検定は紙の試験である。リスニングもあるが、大教室でみんなが一斉に同じドイツ語を聞く。なんだか、こういう試験のほうが受験生にとってはありがたいような気がする。採点が便利だからという理由でパソコンで試験されても、特に外国語の試験のように集中力で点数がグンと変わるような試験は向かないような気がする。

 

 

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ロンドン大学通信教育の入学資格

 私は、来年早々、大学院入試を受ける予定である。

 しかし、いかに「合格してやるぞ!」と息巻いても、受けてみないことには、どんな結果になるかは分からない。ベストは尽くすが、だからといって、結果まではコントロールできないのだ。だから、あらかじめ不合格になったときの心構えも作っておく必要がある。

 受けてもないうちから、「不合格になったら…」と不合格になったときのことを考えることは、ややもすれば消極思考ではないかと批判を浴びるかもしれないが、世の中に100%ということはないのであるから、不合格になったときのことも考えておくべきなのだ。

 思うに、これは大学院入試だけではなく、あらゆる試験を受験する人にも言えることではなかろうか。合格目指して頑張るのはいいが、不合格になったときのことも想定しておくべきだ。そうしておけば、不合格になっても取り乱さなくても済む。

 だが、もちろん、合格したときのことを夢みて、それをイメージしながら勉強したほうがいい。不合格の場合を考えておくのは、あくまで不合格になっても落ち込まないようにするためである。

 私の場合、大学院入試に失敗したら、ロンドン大学の通信教育を考えている。

「私はすでにイギリスの大学院まで出ているのだから、学部の通信教育なんて、すぐに入れるだろう」

 実は、そう気軽に思っていたところがあった。

 しかし、よく調べてみると、入学するには英語の能力を証明するものが必要であり、しかもそれは2年以内に受けた試験でなければならない。正直、私は英語の検定試験を10年以上も受けていない。ということは、受け直さなければならないのだ。なんだか非常に面倒だが、こればかりは仕方がない。

 しかも、ロンドン大学の場合、基準が高い。TOEFLだと580点以上となっている。普通、一般の大学であれば500点以上であり、大学院でも550点である。一流と呼ばれる優秀な大学の場合なら550点、大学院なら580点ということもあるが、ロンドン大学は学部の通信教育なのに580点なのである。いかにレベルが高いかが分かるだろう。

 私は、てっきり学部の通信教育なのだから、ロンドン大学だといえ、せいぜい550点もあれば入学させて貰えるだろうと踏んでいた。が、580点以上なのだ。昔の私なら580点以上といわれてもなんてことはなかったが、帰国して長い年月の経った今の私であれば、ブラッシュアップしなければ難しいかもしれない。というのも、TOEFLは、翻訳とは違い、反射神経を使ってパッパ、パッパと解いていかなければならない問題であり、あれは慣れなければ実力があっても点数に反映されにくい試験だからだ。

 ううむ。何をするにも超えなければならない壁があるな。しかし、悩んでいても仕方がない。とにかく、ベストを尽くすのみだ。

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試験を受けるときの心構え

 試験は、基本的に自分が興味がある試験で、かつ、不合格になったとしても「挑戦して良かった」と思える試験を受けるといいと思う。

 本当はあまり興味がない試験で、かつ、不合格になってしまったら「時間を無駄にしてしまった」と後悔するような試験なら、受けるのは考えたほうがいいと思う。というのも、人間、どんな行動を起こすにしても、うまく行く可能性もあれば、うまく行かない可能性もあるからだ。100%うまく行くということもありえないわけで、逆に言えば、うまく行かない可能性はゼロにはならないからだ。

 だから、うまく行かなかったとき、それをどう受け止めるかも考えておくべきだ。「うまく行かなくても、けっして後悔しない」。そういう心構えがあって初めて挑戦する資格があるといえる。

 資格試験にしろ、投資にしろ、事業にしろ、本人がいくら「今度こそは絶対にうまく行くはずだ。成功してみせる」と意気込んでも、本人の希望どおりになるかならないかは、やってみなければ分からないことである。

 例えば、今、私はドイツ語を必死に勉強している。ドイツ語検定2級を受けるためである。そしてその後に、大学院入試を受けるためである。もちろん、ドイツ語検定2級に不合格になる可能性もある。仮にドイツ語検定2級に合格しても、大学院に不合格になる可能性もある。

 しかし、私は、仮に不合格になったとしても後悔しないという自信がある。私にとっては自分なりにベストを尽くせば、それで満点なのだ。そう思えるからこそ、がんばれるのである。

 ドイツ語なんて、今の私にはお金儲けとは直接関係ない勉強である。2級に合格したところで、そんな実力ではドイツ語の翻訳などできるはずもない。ドイツに旅行したとしても、それほどドイツ語会話ができるとも思えない。そんなものに莫大な時間と労力をかけているのだ。もしも、その努力が「合格」という形で報われることがなかったにせよ、私は後悔しない自信がある。

 もう一度いう。試験にしろ、投資にしろ、事業にしろ、何をするにせよ、うまく行くかどうかはやってみなければ分からないことである。だからこそ、「もし自分の思い通りの結果が出せなくても決して後悔しない」という心構えで取り組まなければならないのだ。

 すべては自己責任なのだ。

 

 

  

 

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ドイツ語検定2級まで2週間を切る

 ドイツ語検定2級まで2週間を切った。

 先週の月曜に買った『ドイツ語ステップアップ 』が非常に良かったので、ガムシャラに取り組んで、1週間ですべて学習しおえた。(もっとも文法問題のすべてを解いたわけではなく、読解部分が理解できるようになったというだけであるが)。

 この参考書がいいのは、読解力をつけると同時に文法がおさらいできるようになっていることである。さらにCDが付いているのでリスニングも強化できる。だから、「ある程度ドイツ語が読めるのだが、文法があやふやだ」という人にはもってこいの教材だ。

 この本は、ドイツ語の初心者からドイツ語検定2級を目指している人まで使える。2級合格を目指している人にとっては前半は簡単に思えるかもしれないが、さらっと目を通しておけば文法のおさらいができる。後半は単語にしても文法にしても、2級受験レベルとしても使えると思う。

 私はこの1週間でガムシャラにこの参考書で実力をつけたので、今では、合格する可能性も40%は超えたと思っている。受験日までさらに復習を綿密にやっていけば、合格可能性は50%は超えると思う。実にチャレンジングな日々を送っている。

 今日からは『ビジネス・ドイツ語 』に取り組むつもりだ。これは、ビジネスで交わされる会話表現が主であるが、私は今までこうした会話体のドイツ語はあまりやっていなかったので、会話表現を身につけることで、さらに幅を広げようと思うのだ。

 合格・不合格には拘ってはいない。私にとってはベストを尽くせば、合格でも不合格でもよい。私にとっての最大の課題は、自分なりにベストを尽くせるか否かだけだ。

 結果は、このブログで発表する予定である。

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不合格の受け止め方

 私の友人がある難関試験を受け、不合格になったという。

 合格することも、もちろん大事であるが、合格・不合格よりも、その結果をどう自分の人生に活かすかのほうが何倍も大事だと思える。

 合格線上の実力の場合、ちょっとした運・不運によって合否が決まる。なのに、合格してしまった人は、不合格者の心の痛みが分からないので、合格したとたんに偉そうなことを言い出すことがある。人によっては、実に傲慢な人間になる人もいる。

 大昔の話だが、私が18才で大学受験をしたときのことだ。

 私の高校の過去の実績から言えば、現役で早慶に合格するのはせいぜい3~4名ていどだった。私は全校で5~10番くらいの実力だったが、絶対に現役合格に拘っていたので、早慶は受けなかった。模試でも毎回A判定が出る大学しか受けなかった。

 高校を卒業した年の3月末に同窓会があった。そのとき、私より成績が低かったある人が慶応に通ったと言った。信じられなかったが、彼は冷笑しながら私にこう言った。

「聞いたよ。お前、青学なんだってな。俺、慶応。勝ったね」

 それは、勝ち誇った者が負けた者に対して発する言葉だった。明らかに馬鹿にした言い方だった。私は深く傷ついた。なぜ「勝ったね」などと言われなければならないのか。

 私は、彼と偏差値競争をした覚えはなかった。志望校すら教えていなかったし、彼の志望校すら知らなかった。まさか私より成績が悪い彼が慶応を受けるとも思ってもいなかった。

 その言葉を聞いた私は地団駄を踏んで悔しがった。

「え、あいつで慶應に通ったの? なら僕なら、受けさえしていれば、早稲田か慶應に通ってたかもな」と。

 しかし、思うのだが、彼はその後、どんな人間になっただろうか。傲慢な人間になってはいないか。一つの物差しだけで人間を判断し、勝ったの負けただのと言う人間になってはいないか。自分は偉くて、世の中の人間は馬鹿だと思う人間になってはいないか。学歴で人を判断する人間になっていないか。

 不合格になったら、それは悔しいだろう。

 でも、合格・不合格よりももっと大事なことがある。合格しても、不合格者の気持ちを察することができない冷たい人間になっては、合格の意味も減じる。逆に、不合格になっても、もっと大事なものを見つめてコツコツ努力すれば、「負け組」がどんな辛い思いをしているかも思いをはせられる優しい人間になれる。

 不合格になったら、それは辛いであろう。しかし、それだけ「負け組」の気持ちをより深く理解できる人間になったと解釈したらどうだろうか。人間、自分が「負け組」の立場に立たされない限り、「負け組」の気持ちなど分かりやしないのだから…。

 

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語学上達法

 西洋の言葉は、耳から覚えるのが一番であると思う。特にドイツ語は、発音とスペルがほとんど同じといえる言語なので、「耳で理解できること」=「読める」ことということになる。あとはそれがどういう意味かを覚えれば、読解もできるということになる。

 今はいい時代になったもので、外国語学習用のCDはたくさんある。私が今、熱中しているのはドイツ語であるが、今はとにかく、毎日1時間以上は、ドイツ語のシャワーを浴びている。

 今、使っているのは、『ドイツ語の小説を読む〈2〉ベル:ある若き王様の思い出 』という小説を読んだものである。CD付きなので、目からも耳からも学べるようになっている。

 難易度的には、ドイツ語検定1級に相当するのではないかと思うが、私はこれを強制的に耳からシャワーを浴びせかけている。文法は分からないところがあるが、出てくる単語をすべて覚えて、何度も何度も繰り返し繰り返し聞いていると、なんとなく文法も自然とわかってくることがある。「習うより慣れろ」にはもってこいなのだ。

 今、ものすごいペースでドイツ語をやっている。なので、11月下旬にあるドイツ語検定2級も合格可能性は40%を超えたのではないかと思う。特に、リスニングは自信がつきつつある。これだけ毎日毎日ドイツ語を聞いていれば、だれでも慣れる。

 とにかく、外国語に関しては、慣れることが一番だ。頭で理解しようとアクセクするよりも、大量の時間を慣れることに使うことである。

 時に、息抜きにドイツ語映画を見ることもあるが、映画のドイツ語はさっぱり理解できない。これは仕方がない。ドイツ語の映画は気分転換に見ているだけであり、それでドイツ語を習得する気持ちはあまりない。

 検定試験に関してであるが、結果に拘っている人にとって検定試験は辛いものだろうが、今の私にとってドイツ語検定2級は待ち遠しいだけである。合格するか否かも、それほど気にはしていない。合格したいのは山々だし、ベストは尽くすが、結果には拘っていないのである。なにより、こうしてチャレンジできるものを持っているということ自体、チャレンジングであり、楽しいことなのだ。

 

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独学の難しさ

 今まで、私は学問の楽しさをこのブログで語って来たが、楽しいだけではなく、苦しさもある。

 何が苦しいかといえば、モチベーションを維持すること自体が難しい。

 強制的にやらなければならない勉強とは違って、やってもやらなくても生活に支障が出ないという学問の場合は、やらなくてもいいわけだから、自分で自分を動機づけないかぎり、ピタリと止めてしまいかねないのだ。

 そういう意味でも、学問を続けたい人は、どういう形でであれ、学ぶ機関に属したほうがいいだろう。属していれば、なんだかんだで、勉強を続けざるを得なくなるわけで、続けてさえいれば、道は開けて来るからである。

 今の私は、大学院入試に向けて、ドイツ語と哲学の勉強を中心にがんばっているが、これとて、「やってもやらなくても生活に支障が出ない」ことである。だから、めんどくさくなければ、ずっと遊んでいてもいいわけである。それを自ら強制するとなると、よほど自分に強くなければならない。

 今は、とにかく、ドイツ語検定2級合格あるのみだ。これに合格できないようでは、大学院合格などないだろう。検定まであと3週間となった。頑張るしかない。

 

 

 

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学問の魅力

 私は、今、4つ目の大学に在学しており、問題がなければ来年春には卒業をする。

 しかし、まだまだ学問は続けて行きたい。

 では、何が学問の魅力なのか。なぜ、そこまでして学問を続けたいのか。

 学問の魅力を語れば一冊の本になるだろう。だが、簡単に一言で言うとすれば、「心が洗われるような清々しさを感じることができる」とでも言おうか。点数を取るためだけに勉強している人には到底理解できないだろうが、そういった精神の高揚感が得られるのだ。

 日常の喧噪から離れ、本当に心からやってみたいという学問に打ち込んでいると、生きている喜びに打たれる。「うわ~、すごいことを知ったぞ。そうか、そうだったのか、分かったぞ。今まで、こんなこと考えたこともなかったけれど、こういうことだったのか」。そういう感動が得られるわけである。

 青山学院時代、私は長期休暇中などは、図書館にこもって読書や翻訳の通信教育に打ち込んだ。武者小路実篤、志賀直哉、森鴎外、石川達三、夏目漱石、三島由紀夫、トルストイ、イプセン…などを読みまくった。翻訳の通信教育では、英和大辞典と格闘しながら、一語一語、原稿用紙のマス目を埋めていった。できあがったときの喜びはひとしおだった。

 シェフィールド大学時代は、読む本が英語の本になったという違いはあるが、やはり私は図書館にこもり、読書を続けた。試験勉強のためではない。自分を成長させるという、ただそれだけのためにだ。『7つの習慣』の原書に出会ったのもこのときだ。その他、デール・カーネギーの原書を含め、さまざまな本を英語で読んだ。英語だからそんなに速くは読めないが、2年間の留学期間中に読んだ本は200冊は超えていただろう。

 慶應大学に入ってからも、読書に打ち込んだ。プラトン、アリストテレス、カント、ウエーデンボルグなどなど。それまで読んだことのなかった哲学者の原典に取り組んだ。なんだかんだで1000冊くらいは目を通したのではないか。もちろん、金儲けのために読んだ本ではない。言ってしまえば、「金儲けにならない本」ばかりを読んだとも言えよう。

 多くの人は疑問に思うかもしれない。

「そんな本を読んで、いったい何になるの? お金儲けにつながるの? 俺だったら、お金儲けに直接つながる本を読むね。株や、投資信託、アパート経営、アフィリエイト。そういった金儲けに直結する本を読むね。そんな小説や哲学の本、あるいは、英語の本を読んで何になるの? 世の中、金だよ。金がすべてだよ。そんな金儲けにならないことやっても意味はないよ」

 私も、お金儲けに直結する本は読んでいる。しかし、そういった本をいくら読んだところで、「心が洗われるような清々しさ」など得られたためしはない。

 なんといったらいいのか、学問に打ち込んで、清々しさを感じてしまうと、それこそが本当に人生で大切なものだという感じになってしまうのだ。そして、もっともっと真実を知りたい、もっともっと学問に打ち込みたい…となってしまうのだ。人生観がガラリと変わってしまい、この世のモノ(金、名誉、地位、権力など)を追い求めることに興味が薄れてしまうのだ。もっとも、こんなことが言えるというのも、私がお金に困っていないからかもしれないのだが。

 

 

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ドイツ語検定まで4週間

 ドイツ語検定2級まで後4週間となった。

 今のところ、合格する可能性は38%くらいか。まだ50%というところまではいかないものの、だんだん自信がつきつつある。単語力が徐々に付いてきているのが自分でも分かるのだ。そして単語力さえつければ、2級合格も射程圏に入ると信じている。

 単語力というのは、一時期、ガムシャラにでもつけたほうがいい。私の場合は、今、1日平均50個の単語を覚えている。覚えては忘れ、覚えては忘れ、覚えては忘れ…を毎日繰り返しているが、これをずっと繰り返しやっているため、かなり自信がついてきた。

 なぜ、1日50個平均で覚えられるのか。1日だけならともかく、それをなぜ毎日続けられるのか。20日、30日と本当にそれが続けられるのか。

 私の秘策(といっても、やっている人は多いと思うが)は、単語カードと耳を使った暗記である。

 単語カードは、単語集やドイツ語の記事から引っこ抜いて、あらかじめ大量に作っておく。これを朝起きたときに覚え、食事の前に覚え、食事の後に覚え、風呂に入る前に覚え、寝る前に覚える。これを繰り返す。繰り返しが基本だ。

 一方、耳を使った暗記というのは、CD付きの単語集をCDをかけながら覚えていくのである。私の場合、3級レベルの単語も忘れていたものが多かったので、復習もかねて『独検3級突破単語集 』を使っているが、これは3級を受ける人はもちろんのこと、2級を初受験する人であっても、復習として使ってもいいのではないか。

 あと4週間で、新しい単語を1000個覚えるつもりである。私なら、できると信じている。あと1000語覚えれば、2級の読解問題はなんとかなるはずだ。しかも、CDも使って覚えているのもあるわけだから、リスニングもかなり高得点が取れるはずだ。

 私は大学院受験のためにドイツ語を勉強しているのだが、2級を一発合格し、大学院受験のころは準1級以上の実力は身につけたいと思っている。かなりのプレッシャーを自分にかけていることになるが、私なら2級一発合格も可能だと思っているからこそ、こうしてブログに書けるのである。 

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真の目標は何なのか

 私の友人に社会保険労務士という難関資格を目指している人間がいる。合格率は例年1ケタ台だという。そんな彼は、結果待ちの今、合格しているかどうかが非常に気になっているようだ。最近では、ほぼ毎日のようにブログで、合格基準点について予想を立てたり、専門学校の予想を収集したりしている。

 気になるのは当然だろう。しかし、彼の場合は、それに、あたかも人生のすべてを賭けているかのような印象すら受ける。まるで「合格することがすべてだ」という勉強のしかたをしてきたのではないか。

 かくいう私であるが、本日、大学院の願書を提出した。思えば、この1年間、ひたむきに勉強に励んできたのも、大学院進学という夢を果たすためであったともいえる。だから、当然、一発合格といきたいところではあるのだ。

 もちろん、私も、受験後、結果が出るまでは落ち着かないだろう。始終、結果が気になるだろう。しかし、私の場合は、合否が人生のすべてではないと割り切っている。

 彼の場合、合格しようがしまいが、今の仕事を続けるか辞めるかという変化はないはずだ。しかも、それがすぐに何かの変化をもたらすというものでもないはずだ。なのに、あたかも人生のすべてのような意気込みだ。

 一方、私の場合は、合格すれば、来春からその大学院に行くことになるわけであるから、生活は一変する。まさにガラリと変わる。なのに、私は、合否がすべてだとは思っていないのだ。

 何度もいうようだが、人間、しょせんは死ぬ身だ。この世で今起こっていることは、正しいこともあれば、間違っていることもある。そんなものに右往左往するのは止めて、自分の信じる道を行こうではないか。

 人間にとって一番大切なのは、善い人間になるということにつきる。それ以上に大切な目標などないし、あってはならない。善い人間になるということを究極の目標として常に意識し、「仮象の目標」として「大学院合格」とか「難関試験合格」とか「家庭サービス」とか「営業成績1位」とか、そういう目標を持てばいいのだ。

 でも「仮象の目標」には拘ることなどない。そんなものは、達成できれば素直に喜べばいいが、達成できなくても、自分なりにベストを尽くしていればそれだけで満点なのだ。

 私は、別に大学院に落ちても、そんなに落ち込まないではないかと思っている。「あ、落ちたか」程度だろう。誤解してほしくないのだが、私は投げやりになっているのでもなければ、勉強せずに受験しようと思っているわけでもない。自分なりにベストを尽くすが、ベストを尽くしても、問題との相性が合わなければ落ちることもあるわけだから、そんなものにいちいち振り回されないぞ、ということである。

 最後にもう一度いう。「仮象の目標」には拘るな。人間は魂を磨くためにこの世にやってきているのだ。魂を磨いていれば、それで満点なのだ。「仮象の目標」を達成するためにベストを尽くすのはいいが、「真の目標」(善い人間になる)が究極の目標であることを忘れるな。

 

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学問の職分

 私の友人に、こんなことを言う人がいる。

「俺は大学を出たけど、大学で学んだことは、仕事の上ではまったく役に立たなかった。お金儲けにもつながらなかった。大学生なんて馬鹿だらけだ」

 大学を中退していく人間は、たいがい、こんなことを言って止めていく。

「こんなこと勉強して一体何になるの? 何かの役に立つの? 努力するだけ馬鹿らしい」

 しかし、「学問など何の役にも立たない」と本気で思っているのであれば、なぜ企業は、採用にあたって学歴を気にするのか? 専門学校生ばかり集めたほうが、いいのではないか? 大学教育が意味がないと思っているのなら、なぜ大卒を採る? なぜ自分の子供を大学に行かせたがる?   

 いったい、学問の職分とは何か。   

 難しい理論は別にしても、学問は人間としての幅を広げるという点では大いに役立っていると思う。

 ある大学教員は、「大学をともかく出た子」と「優秀だが大学に行かなかった子」をたくさん見て比較してみたところ、たとえ大学でほとんど勉強しなかった子でさえ、スタンスの取り方や考え方が明らかに違うと著書の中で述べている。もちろん、大卒のほうが人間的に幅が広いというのである。

 実際、大学教育では、仕事に直結することよりも、仕事には直接関係ないことばかり教えている。

 私も、慶應大学文学部では仕事に直結しないことを多く学んだ。『ドラキュラ』の小説を読んで登場人物の人間関係を探ったり、『徒然草』を読んで人生のはかなさを知ったり、英語の授業では、毎回のように、日本人の偉人(福沢諭吉、王貞治、豊臣秀吉、本田宗一郎、森田昭夫、田中角栄、三島由紀夫、夏目漱石など)を紹介するエッセイを英語で書いた。英文学では『チャタレイ夫人の恋人』という過激な作品にもチャレンジした。論理学では、虫ずが走るような難しい論理記号を学んだ。その他、あれこれ学んだが、仕事に直結するものはほとんどといってない。

「『ドラキュラ』の小説を読んだからといって、それが何になるの? そんなの仕事に何の役にも立たないじゃない。ばかばかしい。そんな無駄な勉強するくらいなら、簿記の勉強したり、ITの勉強したりしたほうがよほど仕事に役立つわ」

 そう思うのなら、そう思えばいい。そして、お金儲けに直接つながることだけをやればいい。でも、こうした「無用の長物」こそが人間の幅を広げてくれるのである。そしてそれこそが学問の職分なのだ。

 学問の価値を否定したがる人間に言っておくが、学問をやっていれば、意外なところで、意外な形で役立つことがあるのだ。「やっているときは、何の役にも立たないと思っていたけど、気が付いてみたら、あそこであれを勉強していたからこそ、今の自分があるんだ」ということがよくあるのだ。しかし、それはずっと学問を続けた人だけが味わえることであって、早々に学問を止めてしまった人にはそういう「いいこと」など起こるわけがないのだ。

 

 

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どんな資格を受けるべきか

 自分を高めるために次々と試験にチャレンジしようと思うとき、どんな資格を受けるべきか。

 私の答えは、「自分にぴったり合った資格を受けるべきだ」である。

 「ぴったり合った」というのは、内容はもちろんのことだが、難易度についても言えることだ

 すぐに挫折してしまう人は、自分に合っていない試験ばかりを受ける。見栄を張って難関大学を受けたり、難関試験を目指したりする。しかし、自分の能力とはかけ離れた目標であるため、なかなか合格できず、「いくら頑張っても僕には無理なんだ」と結論づけ、悪循環に陥る。それでイヤになっている。

 一方、成功する人というのは、ベストを尽くせば合格する可能性が50%程度になる難易度の資格を受けている。だから、ベストを尽くして合格すれば達成感が得られるし、落ちたとしても、次回、あるいは、次々回に合格するべく、さらに努力しようと思えるのだ。実際に合格するのが7度目、8度目になってしまうこともあるが、最後まで諦めることはない。というのも、彼らには自分の能力に対する十分な自信があるからだ。

 自分の能力から極端にはずれた試験を目指そうとするのではなく、ベストを尽くせば合格する可能性が50%程度になる資格を目指すべきである。そういう試験がもっとも挑戦のしがいを感じることができる。合格率90%の資格なら、通って当たり前だから通ってもそれほど嬉しくないだろうし、合格率10%の資格なら、頑張ってもなかなか通りはしない。そういう資格は目指さないほうがいいのだ。

 かくいう私は、この後、どんな資格を目指すのか。そしてその合格可能性を自分ではどれくらいだと思っているのか。

 「WEB検定(Webデザイナー)」 合格率35%

 「CASEC」 スコアが出るだけなので、合格不合格はない。

 「ドイツ語検定2級」 合格率35%

 しかし、試験直前までベストを尽くせば、合格率は50%程度になる見込みなのである。まさに「私にぴったりの難易度の試験」なのだ。

 

 

   

 

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心が洗われる体験

 私は、今、4つ目の大学に在籍しているが、卒論以外の単位はすべて取得したし、卒論も完成に近づいた。したがって、無事にいけば、来年3月には「4つの大学を卒業した」ということになるだろう。

 「4つの大学を出る」ということは、ほかの人から見れば、少しおかしなことかもしれない。きっと、「なんでそんなにたくさんの大学を出るの? 何がそんなに楽しいの? 何を求めているの? お金儲けにつながるの? いったい何がしたいの? 最終的に求めているものはいったい何なの?」と訊きたくなるだろう。

 金銭とか、昇進とか、試験合格とか、異性とか、名誉とか、そういった「外的なモノ」ばかりを求めている人から見れば、不思議で不思議でしかたがないだろう。あるいは、馬鹿らしいと思う人すらいるだろう。

 しかし、正直に言うが、私は心の底から学問を続けて良かったと思うし、学問は今後も一生続けたいとも思っている。もちろん、大学に在籍しなくても、一人だけで学問を続けることも不可能ではないが、やはり、独りよがりにならないためにも、大学に在籍したほうがいいと思っている。

 では、学問の何がそんなにいいのか?

 「外的なモノ」を求めてアクセクしているだけでは、けっして味わえないような清々しさが味わえるとでも言おうか。これは実際に味わった人にしか分からない心情だと思うので、どう表現しようが分かってもらえない人には分かってもらえないと思うが、それでもあえていえば、新しい概念を理解できたとき、心が洗われるような感じがするのだ。清々しくなるのだ。

 実際、昨日もカントの著作を読んでいて、今までの40年以上の人生で知らなかった概念がスーと心の中に入ってきて驚嘆した。「そうか、そうか、そういうことだったのか! 分かったぞ! こんな大切なこと、今までよく知らずに生きてきたな。いや~、これを知ることができて本当に良かった」と実に清々しい気持ちを味わったのだった。と同時に「世の中のほとんどの人は、こういう大切なことをまったく知らずに生きているんだよなぁ」とも思った(余計なお世話かもしれないが)。

 私は4つ目の大学である今の大学に入学して初めて、プラトン、プロティノス、アリストテレス、カントを始め、さまざまな哲学者の著書を読んだ。難解な文章は、なかなかすんなりとは読めないこともあるが、ときに、読んでいて、とても清らかな感じになることがある。

 登山にたとえて説明しよう。

 登山は、最初のうちは、ただ上り坂を登るだけである。辛いことばかりである。何の楽しみもない。「こんな辛いことなら、何か報酬がなければやってられないな」と思う。だからからか、ほとんどの人は途中で登るのを止める。しかし、7合目、8合目…と登り続けていくと、急に視界が開けてくることがある。ふと後ろを振り向いたら、下界が遠いところで開けてくる。実に清々しい景色だ。今まで登山なんかしても意味はないと思っていたが、こんなに素晴らしい景色が見ることができるとは。いや~、ここまで辛抱して登ってきて良かった。よし、これなら頂上まで登ってみよう。きっと、さらに素晴らしい光景が目に入ってくるはずだ。

 学問には、登山と似ていて、こうした楽しみがあるのだ。

 もちろん、学位取得となると、こういった楽しみばかりではない。辛いことも多い。とにかく単位を取得するには、レポート、レポート、レポート、暗記、暗記、暗記の毎日である。正直言って、いくら学問が好きな人だといえ、こうした作業のすべてが好きかと言えば、そうではないはずだ。しかし、こうした作業を乗り越えてこそ学問の醍醐味が味わえるのである。

 ところで、いつ入学するかは未定であるが、私はロンドン大学の通信教育課程を考えている。通信課程の場合は、年間の授業料もディプロマコースだと、たしか(曖昧な記憶によれば)20万円程度だったと思うし、ディプロマだと最短で1年で取ることができるコースがあるのだ。しかも、イギリスに行くことなく日本のブリティッシュカウンシルで試験が受けられるらしい。もっとも、通学課程との差は一切ないらしく、通信課程を独学で卒業するのは極めて困難なようだが。でも、いずれ挑戦してみたいと思っている。

 ちなみに、私に「もう留学する気はないのか?」と尋ねる人がいるが、これから先、留学しようとは思っていない。留学するとなると、滞在費を含め、年間で最低でも200万とか300万もかかる。いや、渡航費や保険、その他諸々の経費を入れると、もっとかかるかもしれない。しかも、学位が取れる保証など何もないのだ。その点、通信課程であれば、たしかに孤独との戦いというハンデはあるものの、学費が安く押さえられる点と、なにしろ、日本にいながらにして勉強ができるというメリットがある。通学課程も通信課程も、j授与されるのはまったく同じ学位であり、優劣は一切ない。学費のことを考えれば、当然、通信課程という結論になる。 

 

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ドイツ語単語の効果的な覚え方

 外国語は単語力で決まるというが私の信念である。そこで、私は、今、必死になってドイツ語単語を覚えている。1日平均50個覚えている。これは結構たいへんな数字である。10日で500個、1ヶ月続ければ1500個、2ヶ月で3000個も覚えるわけであるから、もし本当に続ければ、相当な力が付く。

 私がドイツ語の勉強をしているのは、来年1月に大学院受験があるからなのだが、その前に11月に腕試しにドイツ語検定2級に挑戦する。私としては、2級くらい一発で合格と行きたいところである。

 が、そのためには単語力を一気に増強させる必要がある。

 なんといっても、今のままでは、単語が分からずじまいで何を読んでも、チンプンカンプンだからだ。これでは大学院入試どころでなく、ドイツ語検定2級も危うい。

 そこで、とにもかくも、単語、単語、単語の毎日なのだ。 

 単語集はいろいろある。あるいは、単語集ではなく、文章を読みながら、知らない単語を電子辞書でひきひき単語カードに記入していき、その単語を覚えるという手もある。ちなみに私が使っているのは『SEIKO IC DICTIONARY 電子辞書 SR-V5010 英語/ドイツ語モデル 音声対応』であるが、私の場合、大いに活躍してくれている。ドイツ語学習者はぜひ買うべきものの一つだと思う。

 単語力の増強のしかたはいろいろあるが、ここでドイツ語検定2級合格を目指している人に、面白い単語集をお教えしよう。単語集というより、実際はドイツ語学習書だが、単語力増強にはもってこいだ。

 それは『今すぐ覚える音読ドイツ語 (東進ブックス)』である。

 この本のいいところは、複雑な単語の場合、どんな言葉とどんな言葉が合わさって成り立っているかまで説明してあることだ。

 例えば、Niederlage(敗北)という単語は、nieder(低い)+Lage(位置)の2つの成り立っている。あるいは、Lebensmittel(食料品)という単語は、leben(生きる)+Mittel(手段)の2つで成り立っている。

 こういう説明があると、すんなりと頭に入ってくるのだ。この本は直接ドイツ語検定2級用の単語ばかりが収録されているわけではないが、実力をつけるにはもってこいだと思うし、2級を狙うのであれば、これくらいは覚えておいて損はないと思う。

 私としては、この本で単語力を増強させて、一気にドイツ語検定2級を一発合格といきたいところである。ずいぶんと先の話になるが、結果は、このブログで報告するつもりである。

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あなたは「善そのもの」のために努力しているか?

 人間の究極の目標は、善い人間になるということであって、それ以外のことにアクセクと一生懸命になって生きても、死んでいくときに、「ああ、なんで、こんなつまらないことをアクセクと求めていたんだろう?」と後悔するのがオチである。

 だいたい、お金にしても、名誉にしても、権力にしても、あの世に持っていけないだろう? なぜ、そんなものをアクセク・アクセクと求めようとしているのか?

 では、善い人間になるにはどうすればいいのか。

  再度、カントの言葉を借りよう。

「自分自身を改善すること、自己自身を教化すること、そして自ら(道徳的に)悪である場合には自己自身で道徳性を身につけようとすること」(『カント全集17』)

 では、あなたは、そのためにどんな努力をしているだろうか。

 お金が稼げる人間になるための努力、昇進するための努力、家族を喜ばせるための努力、試験に合格するための努力、恋人に好かれるための努力…こういった努力は、カントに言わせれば「傾向」にしたがってアクセクしただけの努力にすぎず、善い人間になるための努力とは異質である。

 こんなことを言えば、私は逆にあなたから「じゃあ、そういうあなたは、善い人間になるためにいったいどんな努力をしているの?」と訊かれるかもしれない。

 その質問にお答えしよう。

 私は、善い人間になるために、例えば、伝記を読んでいる。慶應大学に入学して以来、沢山の伝記を読んできた。マーク・トゥエイン、マゼラン、ダーウィン、モーツアルト、ビートルズ、ダ・ヴィンチ、ヘレン・ケラー、アインシュタイン、ベンジャミン・フランクリン、スカガウィア、ジョニー・アップルシード、ハリー・ホウディニ、ロナルド・レーガン、エレノア・ルーズベルト、ルイス・アームストロング、マリア・タルチーフ、アニー・オークリー、トーマス・エジソン、アメリア・アーンハートなどの伝記をすべて英語で読んだ。こうした伝記を読むのは、単位を取るためでもなく、英語の試験を受けるためでもなく、昇進を目的としているためでもなく、ただ単に「善い人間になろう」としてのことだ。「善い人間になる」という以外には一切何の報酬も求めず、ただひたすら読んだ。

 外的な報酬ばかりを求めてアクセクしている人から見れば、おかしなことをしていると思うだろう。「なぜ、そんな本、一生懸命になって読んでいるの? そんな本を読んで、何の役にたつの? お金が儲かるようになるの?」といって不思議がるだろう。というのも、彼らは、「外的な報酬が得られないのなら努力するだけ馬鹿らしい」という信念体系を持っているからだ。

 あるいは、私は自分の仕事とは直接関係ないのに、ビジネスコンプライアンス検定、知的財産検定などの資格試験に挑戦し、合格した。もっともこちらのほうは、人によっては「試験合格という外的な報酬のために頑張ったのであって、善い人間になるための努力ではないだろう?」と批判するかもしれない。ただ、そういう人は、よく考えてもらいたいのだが、これらの試験は知名度も低く、通ったところでそれが直接お金や昇進や名誉に結びつくとは言えない。それなのに私がわざわざ受けたのは、「少しでも社会の仕組みを知って、より善い人間になろう」としてのことだ。外的な報酬を第一に考えて勉強していたわけではないのだ。

 あなたは、お金とか、昇進とか、家族の笑顔とか、恋人の笑顔とか、そういった外的な報酬を求めるのではなく、ただ「善い人間になる」という内的な報酬だけを求めるための努力を何かしているだろうか? 

 実は、そういう努力こそが、本当に本人を成長させるのである。節制・正義・勇気・自由・真理などのソクラテスのいう「魂自身の飾り」となるのだ。

 最後にもう一度いう。お金とか、権力とか、昇進とか、そういった「外的な報酬」ばかり求めてアクセクするな。そういうモノを求めるなとは言わない。だが、そういうモノは第二、第三の目標にとどめておいて、やはり第一の目標としては、善い人間になるという目標を持とうではないか。カントも言うとおり、それが理性をもって生まれた人間の義務なのだ。ただ単に「モノ」を求めてアクセクするのなら、動物でもできるのだ。

 

 

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不合格になってすぐに止める人、続けられれる人の差

 私は88種類の資格を保持している。同じ種類の異なる等級は一つの種としてカウントしているので、例えば、ドイツ語検定4級と3級をもっていても一種類としてカウントしている。それでも88種類になっている。

 私は、まだまだ色々な資格にチャレンジしていきたいし、200種類、300種類となっても、止めるつもりはない。

 なぜ、そこまでがんばれるのか。

 ある人は、せっかく検定試験に挑んでも、たった2度か3度、不合格になったら、それで「自分には合わない」といって挑戦を止める。私からすれば実にもったいない話である。しかし、そんな人たちは、私にこう尋ねるだろう。

「だって、もうイヤになっちゃったんだもん。どうしてあなたはそんなに何度落ちてもへこたれることなく挑戦できるの?」

 心理学の用語に「原因帰属」という言葉がある。これは成功したり、失敗したりしたとき、その原因をどこに帰属させるかという意味である。

 たった2度か3度の失敗しただけで、すぐイヤになって目標を放棄する人というのは、失敗の原因を自分の能力に帰属させているのである。言い換えれば、「自分には目標を達成するだけの能力がないんだ」と勝手に思いこんでしまうのだ。だからやっても成功するはずがないと思ってしまい、やる気がなくなってしまうのだ。

 一方、7度も8度も失敗しても、へこたれることなく、何度でも挑戦できる人というのは、失敗の原因を自分の努力不足に帰属させているのである。「自分には目標を達成する潜在能力はある。今回、目標達成に至らなかったのは、ただそこまで準備が不十分だったからだ。十分な準備をして臨めば、きっと私にもできるはずだ」と解釈しているのだ。だから、もう一度、十分な準備をしてから挑戦しようと思うのだ。

 もちろん、本人がいくら努力したところで、能力的に達成不可能な目標というものも存在するだろう。歌手になるとか、プロ野球の選手になるとか、漫才師になるとか、そういう目標には「生まれつきの才能」が必要なのかもしれない。わかりやすい例でいれば、パイロットになろうと思えば、視力が良くなければ本人がいくら努力したところでなれはしない。これは「準備不足だからなれない」のではなく、「合わないからなれない」のである。

 だが、私が見る限り、日本に存在する資格試験の95%以上は、本人がそれなりの努力をすれば誰もが通るような資格ではないかと思っている。つまり、合格するか・しないかは、合う・合わないの問題ではなく、努力したか・しなかったかだけの話にすぎないのだ。それなりの努力さえすれば、合おうが合うまいが、合格できる資格が圧倒的大多数を占めているのだ。

 なのに、多くの人は、たった数回失敗しただけで、「この試験は私には合わない。私なんかが頑張っても合格できない」などと勝手に結論づけて諦めるのだ。しかし、ハッキリ言っておくが、このような「原因帰属」のしかたをしていると、人生、何もかもが悪循環に陥りやすい。

 例えば、スキーをやったとしよう。うまく滑ることができなかった。2度も3度も挑戦したがうまくいかなかった。そのようなとき、本当は単に練習が不足しているからうまく滑られないのかもしれないのに、彼らは「私にはスキーは合わない。私にはスキーの才能がない」と結論づけてしまうのだ。

 あるいは、本を書こうと思ったとしよう。ところが2社も3社売り込んでも相手にされなかった。そのようなとき、本当は、単に書く練習が不足していただけなのかもしれないのに、彼らは「私には文才がない、書くだけ時間の無駄だ」と決めつけてしまい、書くのを止める。

 このように間違った「原因帰属」をしていると、なんでもかんでも2、3度挑戦しただけで、すぐに諦めてしまう忍耐力のない人間になってしまうのだ。いや、それだけでない。忍耐力のない人間になれば、自分の周りに、何度失敗しても挫けずに夢に挑戦しつづけている人がいても、「無理無理、お前がいくら頑張ったところで成功しやしないよ」みたいなネガティブなことを言うようになるのだ。なぜなら、彼ら自身が「2,3度挑戦してダメなら才能がないということだ」という信念体系を持っており、その信念体系をすべての人に適用しようとするからだ。当然、自分の夢を否定された人は、彼らから自然と離れていくようになる。気が付いてみたら、彼らの周りには、「2、3度挑戦してダメなら才能がないということだ」という信念体系をもった忍耐力のない人ばかりが集まるようになる。

 これこそが間違った信念体系を獲得した人が陥る悪循環なのである。 

 ちょっとした失敗ですぐにイヤになって目標を放棄する人は、今一度、どのような「原因帰属」のしかたをしているのか、よく考えてみたらどうだろうか。本当は「努力したか・しなかったか」の話にすぎないのに、「(自分に)合うか・合わないか」という話にすり替えて間違った信念体系を形成し、本当は頑張りさえすれば「できること」を勝手に「私にはできない」と思いこんで放棄するほどもったいないものはないからだ。  

 

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学のある人と学のない人の差

  学問を続けていて、よく思うことは、学のある人と学のない人の決定的な差というのは、学のある人であればあるほど推論の仕方が優れていて、学のない人であればあるほど推論の仕方が稚拙であるということだ。もちろん個人差はあるだろうが、これはある程度一般的な傾向として言えるのではないかという印象を持っている。

 推論には、演繹的推論、帰納的推論、アブダクションと3つの種類の推論のしかたがある。それらがどんな推論なのかという説明はここでは省くが、学のない人であればあるほど、これらの推論の仕方が実におそまつであり、稚拙なのだ。

 簡単に言えば、学のない人であればあるほど、因果関係のない複数の出来事の間に、勝手に因果関係を見出して、それを十分に吟味することなく、正しいと思い込んでしまうのだ。あるいは、ほんのわずかな例を観察しただけで、本当はそうでない可能性もあるのに、それを十分に吟味しないうちに、正しいと思い込んでしまうのだ。

 もちろん、学のある人も推論はする。その推論が正しいか正しくないかに関しては、学のない人とは大差ない。しかし、学のある人であればあるほど、自分の推論が正しいか正しくないかを十分に吟味しようとするのだ。

 前にも言ったが、もう一度「学のある人」というのはどういう人かを思い出してほしい。それは、一流大学を出たとか、難関資格を取ったという人ではなかったはずだ。繰り返していうが、「学のある人」とは、「自分が無知であることを自覚しており、常に真理を追究する態度を持った人」のことであり、「知を愛する人」のことなのだ。

 だからこそ、学のある人であればあるほど謙虚な態度で、自分が知っていると思っていることが間違っている可能性があることを素直に認めるのだ。逆に、学のない人であればあるほど、間違った推論から、いろいろと間違った結論を導き出しており、偏見にみちているのだ。

 学がない人であればあるほど、信念体系が間違いだらけで成り立っている。それだけならまだしも、その信念体系を吟味しようとすらしない。だからいつまで経っても間違った信念体系が修正できないままなのだ。そこに大きな不幸の原因が潜んでいるのだ。

 一方、学のある人は、さまざまな信念を抱いているが、同時に自分が無知であることを自覚しているため、仮に自分の信念が誤りだと分かったら、すぐにでも修正するだけの心の広さがあるのだ。だから、一年一年、大きく成長するし、成長すればするほどますます謙虚にもなり、ますます知を愛するようになるのだ。

 不思議なもので、私はもうすぐ4つ目の大学を卒業しようとしているのに、自分が無知であるという自覚は4つ目の大学を卒業しようとしている今が一番強い。そしてだからこそ、ますます学問をやり、真理を知りたいと思っているのである。

 逆に、学のない人であればあるほど、「なんで学問なんてやる必要があるの? そんなことやっても何の役にも立たないでしょう。私は、世の中のことなんてたいていことは知っているよ。学問なんて、やるだけ無駄だよ」みたいなことを言うのである。こういう態度で生きているわけであるから、彼らの信念体系が修正される見込みは実に低いのである。

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学問をしないで善い人になれるのか

  私は「善い人間になるには学問は必要だ」と言った。しかし、私がこう言えば、次のように言って反論する人がいるのだ。

「そうかなぁ。そんなことはないと思うけどなぁ。世の中には、学はなくても‘いい人’はいっぱいいるよ。それに、一流大学を出てもおかしい人だって沢山いる。‘いい人’になるには学問はほとんど役に立たないよ」

 誤解のないように断っておくが、私が「善い人間になるには学問が必要だ」というところの「学問」は、学歴とは直接関係はない。したがって、論理的には、一流大学を出ても学のない人もいれば、中卒でも学のある人もいることになる。

  私がいうところの「学問」とは、「自分が無知であることを自覚し、真理を見極めようと自ら努力すること」であり、言い換えれば「知を愛する」ということだ。そして、それは、金が儲かりそうだとか、試験で高得点が取れそうだという、すぐに見返りがあるからという理由でする努力とは全く異質のものだ。

 私は、「学はなくても‘いい人’はいっぱいいるよ」と主張する人に聞いてみたいのだが、‘いい人’とはどんな人のことなのだろうか。おそらく、「性格がいい」という意味で‘いい人’といっているのだと思うが、「性格がいい」というのは、何を根拠に、何を基準としていっているのだろうか。

 たとえば、ある人は無遅刻無欠席で勤勉に働いている。その姿と見ていると、勤勉で‘いい人’に見えるかもしれない。また、ある人は毎週子供たちを公園につれていき、キャッチボールをしている。その姿を見ていると、やさしく愛情深い ‘いいお父さん’に見えるかもしれない。また、ある人は、恋人の誕生日には毎年必ずプレゼントをする。その姿を見ていると、いかに恋人のことを深く愛している‘いい人’に見えるかもしれない。

 ほかにもいろいろ‘いい人’だと思ったという根拠はあるだろう。しかし、それだけのことで本当に‘いい人’だといっていいのだろうか。

  私が、こういう疑問を投げかけるのも、「‘いい人’だと思っていたのに、よくつきあってみると‘とんでもない人’だった」という人が後を絶えないからである。

  私の結論を言おう。善い人になるには、学問は絶対に必要である。(ただし、学問だけやればいいというのではなく、学問以外にも必要なものもある)。

  勤勉だとか、子供の面倒見がいいとか、毎年誕生日にプレゼントを欠かさないとか、そんなのは性格が‘いい’といううちには入らない。カントの言葉を借りれば、それらはすべて「傾向」にしたがって行動したのみに過ぎず、道徳的価値内容はゼロに等しいのだ。そんな人間を‘いい人’だと思っていても、あなたと利害関係が衝突したとたん、‘ひどい人’に豹変してしまいかねないのだ。

 では、どんなことをすれば道徳的価値内容があることになるのか。

 カントは次のように述べている。

「自分自身を改善すること、自己自身を教化すること、そして自ら(道徳的に)悪である場合には自己自身で道徳性を身に付けようとすること」(『カント全集17』)

 そしてそのためには学問がどうしても必要なのだ。

 性格が‘いい’といっても、すぐに見返りのあるようなことばかりに奔走している人は道徳的価値内容のあることを為しているとは言えず、「善い人」たりえないのだ。「善い人」になるには、道徳的価値内容のあることをしなければならないわけだが、そのためには学問がどうしても必要なのだ。

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ロンドン大学入学資格

 私は、来春、某大学院を受験するのであるが、一発で合格するかどうか分からないため、滑り止めとしてロンドン大学(通信課程)を考えているのである。

 そうすれば、大学院入試に不合格になったとしても、ロンドン大学で哲学の勉強をしながら「浪人」というチャレンジングな生活ができるようになる。

 しかし、ロンドン大学に入学するには、iBT版TOEFL(あるいは認定されたその他の英語試験)を受けなければならない。私は、英語の資格なら沢山持っているのだが、すべては大昔に受けたものであり、今はすべて失効しているのだ。「シェフィールド大学大学院を出た」という学歴では通用しないのだ。(そういえば、先日、全世界の大学ランキング・ベスト100というのを見たが、私の母校の一つであるシェフィールド大学は全世界70位で入っていた)。

 正直、私の英語の実力(特にTOEICとかTOEFLといった、反射神経の早さを求められるような試験に対する実力)はそうとうさび付いているのではないかと思う。しかも、iBT版TOEFLはスピーキングまであるというではないか。留学から帰国して以来、ほとんど英語を話す機会がなかったわけであるから、スピーキング力など、どれほど落ちているか不安でもある。

 翻訳とか読解だけであれば、それほど苦労はしないだろうが、今から、iBT版TOEFLで何点取れるかはまったく自信がないのである。私も英語を長年勉強してきたという自負があるから、そうそう悪い点を取りたくない。別に悪い点を取ったからといって、誰から非難されるということもないのだが、やはり自分自身、悪い点数は見たくはないという「恐れ」もあるというのが正直なところだ。

 しかし、では、受けないかといえば、受けざるを得ないのである。ロンドン大学に入学したいのなら、避けては通れない道なのだ。

 そこで、私はまずCASECから受けてみようと思う。以前、3度受けてみたところ最高871点という点数が出た。これはTOEICに換算すれば940点という点数になるらしいが、CASECの最高のランクは880点以上であるから、まだ挑戦する価値はある。まずはこれで腕ならしをしてから、iBT版TOEFLを狙おうと思う。

 ちなみに、CASECというのは自宅でインターネット接続で受けられる試験であり、TOEICでは何点に相当するという相関関係まで分かるようになっている。受験料がたしか3500円程度なので、気に入らない点数が出たら、何度も受け直せるのだ。これで850~880点くらいが出れば、それほど英語の反射神経が落ちていないことが分かるというものだ。

 近いうちにCASECを受けてみたいと思う。

 

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学問は本当にお金儲けにつながらないのか?

 学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、その価値を過小評価したがる。

 彼らは、口を揃えてこんなことを言う。

「大学なんて行くだけ馬鹿らしいよ。大学生なんて馬鹿ばっかりじゃん。遊んでばかりいて。そんなんだったら、専門学校でしっかり技能を身につけて就職したほうが何倍もいいよ」

「俺は大学を出たけど、大学で勉強したことは社会に出てからは何も役に立たなかった」

「資格試験なんて、いくら努力して取っても意味がないと感じた。だってお金儲けにつながらないもん。俺の人生には何も関係がないと感じた。馬鹿らしいのでもう挑戦しない」

 皆、口を揃えて、これでもか、これでもか、と学問も勉強も下らないと言うのだ。

 しかし、果たして学問や勉強は本当にお金儲けにつながっていないのだろうか。将来的にも、一生涯、何の役にも立たないのだろうか。やるだけ馬鹿らしいのか。そんなに下らないことばかりなのか。

 逆に言えば、直接お金儲けにつながることだけやっていれば、効率よくお金儲けができるようになるのだろうか?

 私ははなはだ疑わしく思うのである。

 私の経験をお話ししよう。私は自分を磨くために様々な資格にチャレンジしてきた。他人から見れば、なんでそんな資格を取るの? と不思議がられるような資格にもチャレンジした。例えば、「アロマテラピー検定」とか「タイピングエキスパート」とか「数学検定」とか「フランス語検定」とか「ドイツ語検定」とか。こういう資格が仕事で役だったと思うことは一度としてない。いや、むしろ、直接お金儲けにはつながったと実感する資格などほとんどといってないのだ。

 しかし、これらの資格に挑戦しつづけたおかげで、私には克己心、忍耐力、IT力、集中力、自負心、文章力、読解力など様々な実力がついたと思っている。もちろん、それぞれの資格で要求される知識も身に付いた。

 勉強が嫌いな人から見れば、「けっ、馬鹿らしい。そんなもの、別に身に付こうが付くまいが関係ないじゃん。お金儲けにつながらかったら、何の意味もないじゃん。『アロマテラピー検定』なんて、なんで受けるの? 馬鹿じゃないの?」と思うかもしれない。

 しかし、私はこうして沢山の資格を取得した副産物として、資格取得に関する本や勉強法に関する本の執筆依頼が来たし、雑誌のインタビューも受けた。それ以外にも実行力のつけかたや、自分を磨く方法に関する本の執筆依頼も来た。印税にすれば数百万円は稼がせて貰ったわけである。

 もう一度いう。少なくとも数百万円は、資格に沢山チャレンジしてきた副産物として入ってきたのだ。一見、お金儲けにつながっていないと思われる資格取得も、私の場合は、大いにお金儲けにつながったのだ。

 学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、すぐに見返りを求めてしまうようだ。そして、すぐに見返りがなければ、「やっても無駄だった、何の意味もなかった」と決めつけて、学問や勉強を放棄して、すぐにお金儲けにつながるものや、すぐに快楽が得られるものばかりを求めるのだ。

 しかし、そのように、すぐにお金儲けにつながるもの、すぐに快楽が得られるものばかりを求めて行動していても、人間として大きく成長はしないのではないだろうか。

 例えば、お金儲けに奔走して、お金儲けのテクニックが書かれた本を50冊も100冊も読み、株だ、投資信託だ、アパート経営だ、節約だ、アフィリエイトだ、副業だ、ローンの繰り上げ返済だ、節税だ…と金儲けに奔走した人生を送ったところで、何が得られるかといえば、せいぜい金だろう? 

 その金で何をする? だって学問やったり勉強やったりするのが馬鹿らしいと思っているのなら、金が儲かっても、せいぜい旅行したり、温泉に行ったりするくらいのものだろう? それともさらに金を求めるのか?

 しかし、学問や勉強をしっかりやっておけば、それは意外なところで意外な道が開ける可能性が出てくるのだ。 

 例えば、デール・カーネギーの『道は開ける』という本が好きな人がいるとしよう。直接金儲けにならないが、自分を高めるというただそれだけの為に原書でそれを読むという努力をしてみたとする。英和辞典を引き引き、すべてを読破する。こんな努力をしても、すぐにはお金儲けにつながることはないので、勉強が嫌いな人から見れば、「なんでそんなこと勉強しているの? だって英語なんて勉強しても仕事で使わないんだったら、勉強しても意味ないじゃん」と批判するだろう。

 しかし、そうやって『道は開ける』の原書をすべて暗記するくらいまで読み込んでいれば、その英語の知識が将来、意外な形で役に立つかもしれないだろう? 例えば、デール・カーネギーの著作権はたしか2015年頃に切れる。つまり、著作権が切れさえすれば、自由に使っていいわけだから、デール・カーネギーの本を元に自分で英語のテキストを作って、英語学習塾を開いてもいいわけだ。もしそうなれば、一風変わった英語教室ができて評判になる。英語力だけでなく、人間力のつく英語教室だと評判になる。

 あるいは、英語の学習参考書をデール・カーネギーの言葉を元にして作ってもいいわけだ。いや、さらに一歩進んで、デール・カーネギーの新訳をさせてもらえないかと出版社に売り込んでもいいのだ。

 これはあくまで一例に過ぎないし、必ずしもそのとおりになると言うわけではない。ただ、私が言いたかったのは、このように勉強をしっかりしておけば、いつ、どこで、どういう形かは分からないが、道が開けることがあるということだ。

 なのに、学問や勉強が嫌いな人であればあるほど、そういう、地道な勉強を嫌って、すぐに見返りの得られるものばかりを求めるのである。

 何度でも言う。

 学問や勉強は、しっかり打ち込んでいれば、いつ、どこで、どのような形かは分からなくても、いずれ道が開ける可能性が高まるのだ。しかし、すぐに見返りが得られるようなことしか関心を示さず、学問や勉強を小馬鹿にしてやって来なかった人は、基礎ができないので、道が開ける可能性も低いままなのだ。後になってから「ああ、俺ももっと勉強しておけば良かったなぁ」と後悔しても遅いのだ。 

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ロンドン大学に資料を請求

 私は青山学院大学国際政治経済学部、英国国立シェフィールド大学大学院言語学研究科、金沢工業大学大学院工学研究科を経て、現在、慶應義塾大学文学部に在籍している。

 慶應義塾大学は来年の3月で卒業予定であり、来年4月からは、某大学院に進学を希望している。正直言って、まだまだ勉強したいのである。学問をやればやるほど、自分がいかに無知であるかが分かり、さらに知りたくなるのだ。

 こんなことを言えば、必ず、こう聞き返されてしまうだろう。

「学問なら大学院に行かなくても一人だってできるんじゃないか?」

 しかし、実際問題として、何の目標もないのに、ただ一人、自宅にこもって読書ばかりやっても、長続きはしないと思うのだ。人間、どうしても安き安きに流れるものだから、学位取得という目標があったほうが、キリリと気持ちも引き締まる。

 某大学院を受験する予定であるが、すんなり1回で合格できるかどうか。しかも1校しか受けないのである。

 合格するまで2回でも3回でも4回でも受け続けてもいいと思っているのだが、それまでどうやって「浪人」するか、それを考えているのである。というのも、どこかの大学に在籍せずに自宅で「浪人」していても、結局は、ダラダラやって終わり、ということになりかねないからだ。

 そこで、もしも受験に失敗したら、別の大学院の「科目等履修生」になろうと思っていたわけである。「科目等履修生」であれば、年間授業料も安いし、単位も取れる。そして、単位を積み重ねていけば、いずれ修士号も取れるのだ…と思っていたのだが、よくよく調べてみると、ごく普通の大学院では修士号は取れないらしい。防衛大学校などの特殊な大学院の場合のみ修士号に読み替えてくれるというだけの話のようだ。

 「科目等履修生」では修士号が取れないということを知り、今考え始めたのが、いっそのこと「ロンドン大学」の通信教育を始めてはどうかということだ。

 ロンドン大学の通信教育は、日本にいながらにして受講できるし、受講料も安い。ディプロマコースだと最短1年で終わるし、値段も20万程度だ。しかも、「ディプロマ」という大学の正規の学位が取れるのだ。

 私は早速、ロンドン大学に資料を請求してみた。

 まあ、私の最終目標は「より善い人間になる」ことなので、試験に合格するか否かにはそれほどこだわってはいない。最善の努力をしつづけていれば、それだけで「合格」なのだ。 

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ドイツ語単語1日50個

 慶應大学のほうは、すでに卒論以外はすべて終了しているし、卒論もおおかた書き終わりつつあるので、目下の最大の目標といえば、ドイツ語である。

 11月下旬にドイツ語検定2級に初挑戦するのだ。

 で、以前にも書いたとおり、私の一つの信念として、外国語は単語力で決まる、というのがある。

 実は、昨年の11月にドイツ語検定3級に挑戦したのだが、文法とか読解の勉強はほとんどしておらず、『独検4級突破単語集』『独検3級突破単語集』を中心に2ヶ月間がんばったら、それだけで通ってしまったのだ。

 しかし、今度は2級である。

 付け焼き刃的な勉強では通らないと踏んだ私は、単語力に関しては『今すぐ覚える音読ドイツ語 (東進ブックス)』『独検合格 単語+熟語1800 改訂版』の2冊で補強し、さらに読解力と単語力を同時に補強するために『ドイツ語の小説を読む〈1〉ベル:きまぐれな客たち』を使っている。

 あと、一つお勧めなのは、なんでもいいのでインターネットでドイツ語で書かれた記事を探し、プリントアウトして読むことである。自分の興味のあることであれば、楽しく読めるし、読解力と単語力が同時につく。私は哲学者の紹介の記事をドイツ語で探して読んでいる。

 もう一つ、絶対にお勧めなのは電子辞書だ。私は『SEIKO IC DICTIONARY 電子辞書 SR-V5010 英語/ドイツ語モデル 音声対応』を使っているが、ドイツ語を勉強している人はこれがあるのとないのとでは大違いである。買って損はないので、ぜひ買うべきだと思う。こんな便利なものを買わない手はない。

 私はドイツ語の文章を読んで、知らない単語にぶつかるとすぐさまこれで引いて、単語カードに書き留め、それを覚えるようにしている。

 ドイツ語検定2級まで2ヶ月を切った。もちろん、申込みは既にしている。文法が心配といえば心配だが、単語力で乗り切って合格してやろうともくろんでいるのである。

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学問と隣人愛の関係

 私は数日前に、善い人間になるには3つのことが必要だと説いた。

 その3つとは、学問、良い習慣作り、隣人愛である。

 しかし、友人から、「学問と隣人愛がどこでどうつながるのかが分からない」というメールを貰った。

 たしかに、学問はできるが自分、自分、自分…と自分のことばかり気にして生きている人も多い。一流大学を出ても、あたたかみのない人間もいれば、犯罪を犯す人すらいる。とても隣人愛を実践していると言えそうにないという人も多い。彼らは、いわゆる「論語読みの論語知らず」という人たちである。

 誤解してほしくないことは、私は、「学問をやれば、それだけで直ちに隣人愛が実践できる人になれる」とは言っていないことだ。

 ただ、逆に考えてほしい。

 隣人愛を実践できる人になろうと志したとしよう。

 しかし、学問を一切やっていない人が隣人愛を実践しようとして、はたして何ができるだろうか。もちろん、そんな人でもできることはあるだろう。しかし、学問をやっていなければ、できることといっても、非常に範囲の狭い、小さな小さなことだけになるだろう。

 もちろん、そういった「小さな小さな親切」であれ、実践したほうがいい。学問をやっても、ふんぞり返って隣人愛を何ら実践しない人よりは、遙かに人間としては立派である。

 だが、学問をやっていればいるほど(言い換えれば、高度な知識を獲得していればいるほど)それだけ広い範囲で世の中に貢献できるのだ。つまり、広い範囲で隣人愛を実践しやすくなるのだ。

 例えば、外国人が道に迷っているとしよう。どう見ても、日本語ができずに困り果てている。そんなとき、英語が話せる人であれば、声をかけてあげて、道を教えてあげることができる。

 しかし、「英語なんて話せるようになって、いったいそれが何なの? ばかばかしい」といって英語の勉強をしていない人には、道に迷っている外国人を助けてあげることはできないだろう?

 私がここで挙げた例はほんの一例にしかすぎない。だが、学問をやっている人のほうが、それだけ広い範囲で隣人愛を実践できるということはおわかりいただけたのではないかと思う。

 再度言うが、学問をやっていなくても、隣人愛は実践できるのである。しかし、学問をやっていればいるほど、それだけ広い範囲で隣人愛が実践できるし、より高度な仕事を通して世の中に貢献できるのである。

 もちろん、学問だけやってそれを隣人愛に活かさないのであれば、学問をやる意味もない。しかし、隣人愛を実践しようという気持ちがあるのなら、学問をやることは大いに意義のあることなのである。

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「善そのもの」を見て取れ

 プラトンは、世に生きるほとんどの人は「囚人」だと言った。

 真っ暗闇の中で、何が善で何が善でないかを知らずに、ただ「善だと思われるもの(仮象の善)」をひたすら求める「囚人」だというわけである。

 これは今の日本でも同じことが言えると思う。

 言い換えれば、今の日本人もほとんどの人は「囚人」にすぎないのだ。

 実際、世の中の多くの人は、金銭、権力、名誉、贅沢品…といった「仮象の善」ばかりを求めて生きているように思える。私と関わりのあったビジネスマンも、頭の中にあることは売り上げのことばかりである。彼らは、何から何まで売り上げのことばかりしか言わないし、関心がない。考えていることのすべてが売り上げのことである。

 しかし、善だと見えても実際は善ではない「仮象の善」を求めても、けっして善は得られないし、幸せにはなれないのだ。

 では、善とは何か? 

 善そのものとは、節制、自制、誠実さ、正義、勇気といった「人間としての善さ」のことだ。

 こうした「善そのもの」を求めて行動していれば、善い人間に近づくことはできる。言い換えれば、幸せに近づくことができる。

 しかし、ほとんど人がやっていることは、「善そのもの」ではなく、「仮象の善」ばかりを求めているのである。

 例えば、ある人は、「お金がたくさん儲かること」が「善いこと」だと思っているとしよう。そして、あの手この手を使ってお金をたくさん儲けようとする。

 しかし、「仮象の善」を第一目標にすればするほど、おかしなことが起こる。

 なぜなら、「お金儲け」ばかりに目がくらんでしまえば、「善そのもの」が見えなくなるのだ。

 仕事をするとき、「お金儲け」を第一に考えていれば、「善そのもの」を犠牲にすることもでてこよう。しかし、そういう人は終局には、不幸になるのである。

 そんな愚かなことはしてはならない。お金を儲けたら幸せになれると思っていたら、大間違いだ。人間は「より善い人間になること」でしか幸せにはなれないのだから。

 だから、これだけは肝に銘じておかなければならない。

 「善そのもの」を第一の目標として生きること。お金儲けなどの「仮象の善」にけっして惑わされてはならないこと。結局、そのほうが幸せになれるし、皮肉なことに、お金も入ってくるのである。

 どうすればこのような思想が分かるか? 例えば、プラトンの『国家〈上〉 (岩波文庫)』や『国家 下  岩波文庫 青 601-8』は「善そのもの」とは何かを考える上でお勧めの本である。何度も味わうようにして読むことで、理解が深まる本である。

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お勧めのドイツ語学習書

 11月末にあるドイツ語検定2級に向けて学習中である。

 昨年秋にドイツ語検定3級に合格したが、2級は初挑戦なので、いかほどの結果が出るか楽しみである。

 私は、正直言って、今、楽しみながら勉強しているので、ドイツ語は苦痛ではない。落ちてもガッカリこないだろうし、「いったい何のために?」などという疑問も生まれてこないだろう。

 では、どんな学習方法をしているか?

 まあ、ほとんどの人と同じだと思うが、私の場合は、耳からの勉強を主体にしている。CDをかけっぱなすのだ。といっても、もちろん、テキストを眺めながらCDをかけたほうが効果的ではあるが。

 3級合格を目指しているのなら、お勧めは『独検4級突破単語集』と『独検3級突破単語集』だ。私は正直、この2冊の単語をすべて覚えてはいなかった。覚えていたのはせいぜい7割くらいだろうか。でも、それでも余裕で合格したのだ。正直なところ、文法だって読解だって大して勉強していなかった。ただ、この2冊の単語力だけでもしっかりやっていれば、読解もかなりできるし、合格できると思う。

 2級を目指しているのなら、もう少し本腰を入れてやらなければならないだろう。実は、今頃になって、3級を受ける前に買っておいた『新独検3級合格講座―初級ドイツ語グレード・アップ』を使って勉強しているのだが、CD付きなのでかなり勉強しやすい。短めの文章(1パラグラフか2パラグラフ)を読んで、それをCDで聞き直せば、頭に定着しやすい。これは3級対策というよりも、2級対策としても使えると思っている。なにしろ、私は3級を余裕で合格しているというのに、未だに持ってこの参考書の文章の中に知らない単語がたくさんあるからだ。

 2級対策として本腰を入れて単語力をつけるには、『独検合格 単語+熟語1800 改訂版』がいいと思う。これは元々2級レベルの単語・熟語も含まれているので、すでに3級に合格した人でも使うことができる。

 さらに単語力アップを目指すならば、『今すぐ覚える音読ドイツ語 (東進ブックス)』もお勧めだ。これで幅広い分野の単語が身に付く。しかもCDが2枚もついて1700円(+税)の値段は安い。

 手前みそになるが、私は高校時代、ずっと英語の成績が校内(315人)中、1~2番であった。なぜかといえば、単語力があったからだ。高校1年時で『試験にでる英単語』をすべて覚えていたので、怖いものなしだったのだ。ドイツ語も基本的には単語力ではないかと思う。単語さえすべて分かっていれば、なんとか読解できるのではないかと思う。私はドイツ語の文法は未だにさっぱり分からない。なのに2級合格を目指しているのだ。

 さあ、実際の試験ではどうなるか。結果はこのブログで公表するつもりですので、お楽しみに。

 

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人生の究極目的は何か

 難関資格にしろ、学問にしろ、大学の通信教育にしろ、いったんは志したものの、途中で嫌気がさして止めてしまう人が多い。実に多い。

 彼らは口をそろえて言う。

「こんなことやっても、人生に何の役にも立ちはしないのではないか…」

 しかし、私から言わせれば、それは「途中で止めたくなった言い訳」にしかすぎない。

 例えば、大学の通信教育は、最後までやり通す人は10%程度である。大学によって違うが、難関と呼ばれるところであればあるほどその率は低い。

 なぜか?

 フランスの作家の名前を覚えたり、イギリスの作家の本を英語で読んだり、難しい哲学の講義を聴いたり、英語でレターを書いたり、書道をやったり、社会学を学んだり…

 こういうことの一つひとつが直接人生の役に立たないと言い訳したくなるからだ。途中で止めていく人たちは、必ずそう言い訳をする。

 たしかに、そのような知識を蓄えたからといって「直接人生の役に立たない」ことのほうが多い。

 だが、ではそういった知識を蓄える意味がまったくないのだろうか?

 では、人生に役に立つ知識とは何か?

 金が儲かることをやれば「人生に役に立つ」と言えるということか?

 そもそも、我々はいったい何をしにこの世に生まれてきたのか?

 私の回答は一つである。

 それは、私たちはより善い人間になるために生まれてきたのだ。だから少しでも善い人間になることが人生の究極目的であって、お金を多く稼ぐことが人生の究極目的などではけっしてないのだ。

 だから、より善い人間になるためであれば、スポーツであれ、音楽であれ、資格取得であれ、学問であれ、通信教育であれ、何に打ち込んでもいいのだ。何に打ち込んでも意味はあるし、役に立つのだ。

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ITを極めるには時間もお金も労力もいる

 私の友人にブログの開設のしかたを教えたところ、彼は爆発的な勢いでブログを書いている。

 おそらく、その理由の一つは、「お金儲け」ではないだろうか。

 それはそれで構わないのであるが、やはりブログをそれなりに成長させたいと思えば、それなりにITの勉強をしておいたほうが望ましいことは言うまでもないことだ

 なぜなら、ほんのちょっとしたことでも、大きな差となって現れるからだ。

 私はまだアフィリエイトで成功したといえるところまで言っていないので、偉そうなことは言えないのだが、やはりITの勉強はやっておいたほうが色々な意味でいいと思う。

 しかし、実際、ITの勉強にはお金も時間も労力もかかる。

 先日受けた「WEB検定(リテラシー)」の「資格登録通知書」が昨日届いたのであるが、有効期限が書かれてあった。つまり、一定期間(2年)をすぎれば「失効」となり、また受験しなおさなければならないわけである。

 ううむ。受験料は16800円である。これをまた2年以内に受け直さなければならないのか。たしかにWEB業界の進歩は早いので、2年おきくらいに更新しなければ、資格としての意味も薄れていくのは分かるのだが…。それにしてもお金がかかる。

 「WEB検定(リテラシー)」の再受験はどうするか分からないが、いずれ「WEB検定(Webデザイン)」のほうは受けてみたいと思っている。こういうことでもないかぎり、なかなかしっかりとWebデザインについて勉強しようと思わないからである。

 ITはとにかく時間も労力もお金もかかる。それはある程度覚悟がいるだろう。ブログで「お金儲け」だけやろうとしても、なかなか難しいところがあるかもしれない。そんなことを思う日々を送っている。

 

 

 

 

 

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プラトンの『国家』

 今日もまた慶應大学の図書館で卒論を推敲した。

 私の卒論は、プラトン、プロティノス、アリストテレス、カント、スウェーデンボルグの5人を中心とした思想家の二元論思想の比較である。

 私は、慶應大学に入学して、しばらくの間、心理学で卒論を書くつもkyりでいた。

 そんな折、『教育学』の課題図書であった『国家〈上〉 (岩波文庫)』『国家 下  岩波文庫 青 601-8』を読んで衝撃を受けた。

 もともと霊界の研究には興味をもっていた。丹波哲郎の著書はおそらく30冊以上は読んだであろう。

 そんな私にとって、プラトンの『国家』こそは衝撃中の衝撃だったのである。もっともかなり骨のある本なので、何度も読み返さないと深く理解できないだろうが…。

 プラトンを読んだ私は、急遽、卒論の分野を心理学から哲学に変え、二元論思想を研究することにしたのだった。そして今では、大学院で哲学を専攻しようとしているのだ。

 しかし、図書館にこもってプラトンを読むとはなんとも心が清々しくなる体験であろうか。実に、ぜいたくな時間だといっていい。こんな時間がもてることは、非常に幸せなことである。

 世間のほとんどの人は、金、金、金…と金もうけのことばかりに頭を費やしている。しかし、プラトンの作品に没頭すると、そのような価値観から一気に抜け出すことができる。「より善い人間になることこそが人生の本当の意義である」ということを教えてくれるからだ。

 プラトンでもいい、アリストテレスでもいい、カントでもいい。全世界を揺るがしたと言われる思想家の本をじっくり読んでみると、人生観が大きく変わると思う。そういう経験、あったほうがいいと私は思うのである。

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ドイツ語が勉強しやすくなったものだ

 ドイツ語を勉強していて、つくづく思うのだが、昔と比べて実に勉強がしやすくなった。

 正直、これで外国語ができないなどと嘆いていてはダメだと思うくらいである。

 では、何がそんなに変わったのか。

 一番大きいのは、ドイツ語の電子辞書である。

 私が買ったのは『SEIKO IC DICTIONARY 電子辞書 SR-V5010 英語/ドイツ語モデル 音声対応』であるが、私が買ったとき(たしか今年になってからだと思う)、ドイツ語で本格的な電子辞書といえば2種類しかなかった。1つが私が買ったものであり、もう1つは、もっと高いものであった。私は迷わず安いほうを選んだわけだが、これで十分勉強がしやすくなったと思っている。

 正直、ドイツ語を勉強している人なら、ドイツ語の電子辞書は絶対に買うべきだと言える。これがあるとないとでは非常に大きな差が出る。

 実際、これがあると大助かりなのだ。というより、これがないと大変だ。いちいち、本タイプのドイツ語辞書なんて引いていたら、時間がいくらあっても足りない。いや、勉強自体、やる気が失せるだろう。

 次に大きいのは、ドイツ語検定である。

 やはり、こういう外的な目標はあったほうがモチベーションにつながる。

 今、私は一日平均50個のドイツ語単語を習得している。いつまで続くか分からないが、この調子でドイツ語検定2級受験まで突っ走ってみようと思う。どうも文法はやる気がしないので、読解力と単語力でカバーしてやろうというもくろみである。我流もいいところであるが、どこまでやれるかだ。「習うより慣れろ」で邁進中だが、それなりに楽しく勉強している。 

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ドイツ語検定2級に向けて猛勉強

 11月に『ドイツ語検定2級』に初挑戦する。

 昨夜受けた『ビジネス数学検定』は、思わしくない成績であったが、合格・不合格がでない試験であるため、不合格の烙印は押されることはなかった。しかし、11月末に受ける『ドイツ語検定2級』は、合格・不合格が出る。ギリギリでも合格すれば嬉しいだろうし、不合格になればそれなりに落ち込むであろう。

 正直、今のところ、まったく自信はない。

 現時点での合格率は10%くらいか。

 文法はすべて勘に頼っているし、男性名詞、女性名詞、中性名詞の区別などつかない。もう「習うより慣れろ」でやっている。

 しかし、思うのだが、あまり文法につっこみすぎると、面白みが半減して、結局、やめてしまいかねないと思うのだ。

 そこで私は、とにかく「習うより慣れろ」で押し通してみようと思う。

 読解力に関しては、ドイツ語の子供向けの本を何冊か読破したが、今は慶應義塾外国語学校中級コースで使用していたテキストを読み返している。

 ただ、私の真骨頂は単語力である。

 私が高校時代、英語の成績がずっと学年で1~2番でありつつけることができたのは、高校1年の時点で『試験にでる英単語』をすべて覚えていたからだと思っている。

 要するに、外国語の読解は、単語が分かれば、あとはなんとかなるのだ。実際、昨年の秋の『ドイツ語検定3級』は、ほぼ単語の暗記のみの勉強で合格した。

 そこで私は今、『独検合格 単語+熟語1800 改訂版』を使ってドイツ語単語を必死に覚えている。旧2級レベルの単語も含まれているし、この単語集のすべてをしっかりと覚えておけば、あとはなんとかならないか、と期待しているのだ。

 試験の結果がでれば、たとえ不合格であっても、このブログで公表しようと思う。恥ずかしい成績にならないよう、がんばろうと思う。

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ビジネス数学検定初受験

 先日見つけた『ビジネス数学検定』を初受験してみた。

 思いおこせば、最近の私は初受験にめっぽう強い。

 『CIWファンデーション』、『WEB検定(リテラシー)』、『FLASHクリエイター認定試験初級』、『P検準1級』、『知的財産検定2級』、『ビジネスコンプライアンス検定初級』…。

 これらの検定には初受験で合格している。

 だからかもしれないが、『ビジネス数学検定』も、悪い結果がでる気がせず、リラックスして受けてしまった。

 だが、それが大きな失敗の元だった。

 第一に、試験直前にコーヒーを大量に飲んでいたため、試験の途中でトイレに行きたくなってしまった。だが、トイレに行っている時間がもったいないので我慢しながら受けざるをえず、集中力に欠いた。

 第二に、画面操作に慣れていなかったせいもあり、選択肢が5つあるところ、スクロールしなければ5つめの選択肢が見えない問題があったのに、私は4つの選択肢の中から回答を見つけようとして、多大な時間を損失してしまったのだ。

 結果は、本当に恥ずかしい点数になって現れてしまった。

 570点である。評価はBB。

 これは本当にショックであった。

 言い訳になるが、私は数学の教師でもなければ、日頃数字を扱う仕事もしていない(なんといっても、本業は文筆・翻訳だから数字は全く扱わないのである)。また数学が専攻だったわけでもなければ、大学で数学の科目さえ取っていなかった。だが、それでもこの点数は私には受け入れがたい点数であった。

 正直、こんな点数ではブログで発表するのも憚れた。

 しかし、私は、自分の経験を正直に読者の方々に発表することで、読者の方々に何らか役に立てればと思って書くことにしているので、恥ずかしながらも結果を発表しよう。私の経験を参考にしていただければ幸いである。 

 実は『ビジネス数学検定―カナりマナべる 公式テキスト』を一通り、ざっと目を通したところ、計算時間は別にしても、考え方は分かるという問題がほとんどだったので、これなら8割くらい取れるのではないかとタカをくくっていた。『ビジネス数学検定―新しいビジネスのかたち』のほうは、問題は解かず、後半の難しめの問題をざっと目を通しておいただけであった。

 私の経験から言えることは、数学の教師とか、数字を扱う仕事をしている人以外は、この検定試験を受ける前に、上記2冊はかなり入念にやるべきだということである。試験問題に慣れておくという点でも、この2冊は買って、実際に問題を解いておくといいだろう。何の準備もせずに受験すると、面くらってしまうと思う。なにしろ制限時間が短いのに問題が多いのだ。

 今回の結果を振り返ってみて、私はかなり謙虚な気持ちになれた。ここのところ初受験の検定試験はすべて合格だったので、少しいい気になりすぎていたた。まさに「勝ち組」の気分でいたのだ。まるで頭を金槌でガツンとやられたような気分だ。

 今の私は、謙虚な気持ちになって、再受験にチャレンジすることを決意している。次回はぜひとも700点以上取ることを目標としたい。最終的には800点を目指そうと思っている。

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ビジネス数学検定の受検を決意

 学生時代、「数学なんて、いったい何の役に立つの?」なんて思っていた人も多いのではないかと思う。特に、私立文系の人には多いのではないだろうか。

 しかし、実社会の中で数学的思考を使う場面はいろいろとあるものだ。

 例えば、投資した場合の利回りの計算、携帯電話の料金プランの選択、株価の見方、電車の乗り継ぎの選択、過去のデータから将来の予測などなど。

 さまざまな場面で、数学的思考を身につけている人とそうでない人は大きな差が出るのだ。ほんのちょっとしたことで大きな差が出る可能性すらある。だから、数学はある程度勉強しておいたほうがいいと思う。

 ただ、社会人になると、なかなか数学にまでは手が回らないかもしれない。しかし、いいものができた。「ビジネス数学検定」だ。これは社会人が数学を勉強する良いきっかけになるのではないかと思っている。

 実は、先日「ビジネス数学検定」という検定試験があることを知り、『ビジネス数学検定―カナりマナべる 公式テキスト』『ビジネス数学検定―新しいビジネスのかたち』の2冊を買って勉強しているのだが、純粋に面白い。何がそんなに面白いかと言えば、やはり実生活に密着しているという点だろう。「なるほど、ここでこういう問題が解決できる思考力があれば、実生活でも大いに役立つだろうな」という問題ばかりなのだ。

 大半の問題は、私にとっては易しいが、その一方で、勉強しておかなければ解けない問題もある。株価チャートの見方、三角グラフの見方、単純平均と加重平均の計算方法など、意外と知らないことも多く、そういう意味では上記2冊は買って損はなかったといえる。

 この検定は自宅でもインターネットに接続して受けることができ(ただし動作環境に条件があるので受けられない人もいるだろう)、試験時間も60分と短いので、近々受けてみようと思う。第6回の受験の登録が9月29日までなので、それまでには受験しようと思っている。

 1000点満点で800点以上を出し、かつ本人が希望すれば、同検定協会のWEBサイトに名前を掲載してもらえるようだ。私としては一発で800点以上を出してみたい。が、何点が出ようが、結果はこのブログで公表しようと思う。

 問題集の問題を解いているかぎり、800点くらいは出そうな気がするが、問題は制限時間だ。60分で35問だから、相当のスピードで回答しなければならない。それができるか否かだ。

 問題集に関しては、上記2冊ともざっと目を通しておけばベターだと思うが、どんな問題が出ているかをチェックしさえすればいいという人であれば1冊でもいいかもしれない。ただ、1回で高得点を狙っている人であれば、2冊ともざっと目を通してから受験したほうが良さそうだ。

 実に、面白い検定ができたものだと思っている。そして、こうして勉強できることは私にとっては大きな喜びなのである。

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学問の楽しさ

 先日、私の友人に、ブログの開設のしかたを教えた。

 すると彼は感激し、まるで今まで休火山だったのがいきなり大爆発したかのような勢いでブログに記事を書きまくっている。

 では、なぜ彼は感激したのか。

 それは、今まで知らなかったことを知ることができたからだろう。今までできなかったことができるようになったからだろう。

 私は、学問の楽しさも同じだと思うのだ。

 今まで知らなかったことを知る喜び、今までできなかったことができるようになる喜び、これこそが学問の楽しさなのだ。

 実際、私は4つの大学で学んできて、実に多くのことを学んだ。だが、まだまだ学びたい。なぜか。それは今まで知らなかったことを知ることに大きな喜びを感じているからなのだ。ちょうど彼がブログを開設したときに感激したように、知らないことを知ることは本当に大きな喜びなのだ。

 だが、世の中の多くの人は、学問をするのをいやがる。それは、学問を学位を取るための手段、点数を取るための手段、就職するための手段にしているからだろう。だから、面白く感じないのだろう。

 実際、点数を取ろうと思って棒暗記することほどつまらないものはない。例えば、フランス文学の勉強といっても、実際は、作家の名前と作品の名前、当時のフランスの様子、こういった事実を棒暗記していく作業はそれなりに苦労する。

 しかし、点を取るという目標をしばし忘れて、学ぶことから自分を善くするためにどんなことが得られるかという視座を持ったら、それなりに面白くなるのだ。

 なんどでもいう。学問を止めてしまったら、成長がストップする。自分の身の回り5メートルの中だけで(自分の知っていることだけの中で)考えざるをえないからだ。

 たしかに学問には辛い側面もある。だが、楽しい側面もあることを忘れないでほしいのだ。

 「へ~、すごいな~」

 そういう感激も、学問を続けてさえいれば、味わうことができるのだ。

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書道をやるのは何のため?

 私の友人は、子供に書道を習わしている。

 先日、なぜ子供に書道を習わしているのか尋ねてみた。

 すると彼は、「きれいな字が書けるようになっていたら、就職するときに役立つからだ」と答えた。

 つまり、彼は、書道そのものによって自分を磨くという「内的な報酬」のためではなく、書道をやって字がうまくなっていたら就職のときに役立つという「外的な報酬」のために子供に書道を習わせているのである。

 ただ、思うのだが、何をやるにしても、「何かのために役立つから」という「外的な報酬」を求めて努力を重ねていたら、思い通りに事が進まなくなったとき、「俺って、いったい何のためにこんな努力しているんだ? 何にもならないんじゃないか?」と燃え尽きないだろうか?

 例えば、昇進とか、他人からの賞賛だとか、資格手当だとか、そういった「外的な報酬」を求めて、本当は好きでもない分野の勉強をして難関資格を目指すとする。こういう場合、勉強そのものが好きではないのであるから、思い通りの結果が得られないと燃え尽きてしまうのではないだろうか?

 逆に、「努力することによって内面を磨く」という「内的な報酬」を得ることを第一の目標とすれば、「外的な報酬」が得られようが得られまいが、あまり落ち込まずにすむのだ。

 今、私はいろいろなことに挑戦している。しかし、その究極目標は「より善い人間になる」ことであり、合格とかお金とか名誉といった「外的な報酬」を得ることではない。もちろん、副産物としてそういった「外的な報酬」が得られればそれに超したことはないが、それは得られようが得られまいが、私にはそれほど重要ではないのだ。だから、「外的な報酬」が得られなくても落ち込まないのだ。

 したがって、例えば、書道をするにしても、私の場合は、書道を通して自分を磨く(集中力を高める、精神力を鍛える)といったことが究極目標となり、他人に評価してもらうためという外的な報酬はそれほど重要ではないだろう。

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ブログでアフィリエイト

 ブログでアフィリエイトをやってお金を稼ぎたいという人は多い。

 ブログはホームページと違い、素人でも簡単に開設できるので、開設したら、すぐにその勢いでアフィリエイトをやろうとする人も多い。

 だが、私は、そんな人たちに、こう提案しておきたい。

 ブログは簡単に開設できるし、アフィリエイトもできる。しかし、ただ単にブログを開設して、それだけでお金儲けに走るよりは、今後のことも考えて、ある程度のITの知識を持っていたほうがいい。例えば、「ドットコムマスター★」「WEB検定(リテラシー)」「P検準2級」「CIWファンデーション」ていどの資格は持っておいたほうがいい。もちろん、持たなくてもアフィリエイトはできる。持たなければならない義務もない。だが、私が上記資格を取得したから言うわけではないが、実感として、これくらいの知識はあって損をすることはないと思うのだ。

 ただ、ITは「素人」だという人は、上記資格も、なかなか簡単には取得できないだろう。

 ならばどうするか。少なくとも、アフィリエイトのことだけでも詳しく勉強しておいたほうがいい。なぜなら、ほんのちょっとしたコツを知っているか知らないかでも大きな差が出るからだ。(といっても、私自身がまだアフィリエイトでは成果を出していないので偉そうなことは言えないのではあるが…)。

 今、私は数冊アフィリエイトの本を買って勉強しているのだが、体験談を延々と書いた本よりも、実践的なテクニックが満載の本のほうが勉強になるのではないかという気がしている。今、『ネットで儲ける!ブログでアフィリエイト』を読みながら勉強をしているところだ。アフィリエイトに関して色々なことが分かるのでいいと思う。

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受け身の勉強と責めの勉強

 私の友人に、ある難関試験を長年受け続けている人がいる。

 彼は、勉強というものにほとほと厭きてしまったらしい。

 しかし、それは勉強自体が受け身だからではないだろうか。

 たしかに、点数を取るためだけに、テキストや参考書に書かれてあることを暗記していく、という作業は面白みは少ない。

 私にしても、現在、慶應大学の学生であり、今まで単位取得のために、テキストに書かれてあることを暗記していくという作業を繰り返し、繰り返しやってきたのだが、それは面白いというよりも、率直に言えば、辛い側面もあった。

 だが、そういう作業をやった上で初めて「責めの勉強」ができるのである。

 では、「責めの勉強」とは何か?

 それは創造的な勉強といっていいだろう。

 例えば、自分が関心のあるテーマに沿って、とことん追求してみるというのがそれだ。そういう創造的な勉強は、純粋に面白いと言える。だが、そのレベルに達していないうちは、辛くても頑張って乗り越えていく以外にないのだ。

 私は、これから勉強は続けていくつもりだ。そして、モチベーションを維持するためにも、色々な資格試験にも挑戦していこうと思う。

 何度も言うようだが、私にとって資格試験に通ること自体が大切なのではない。その過程で自分が磨かれることのほうが大切なのだ。そして、こういう勉強のしかたをしているからこそ、厭きることがないのだと思う。

 今は大学院入試の勉強もあるので、そんなにたくさんの資格には挑戦できない。とりあえずは、ドイツ語検定2級、WEB検定(Webデザイン)、ビジネス数学検定の3つの受験を考えている。

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独学の難しさ

 学問は素晴らしいという人は多い。

 それは分かっていても、なかなか一人では継続するのは難しい。

 実際、学位取得や単位取得、検定試験合格といった目標がないのに、コツコツと学問が続けられる人などほとんどいないだろう。そういった目標があっても、なかなか続けるのは困難なのに、そういった目標もなにもないのに続けられるという人などほとんどいないのではないか。

 私も大学院受験のためにドイツ語の勉強を開始したのはいいが、慶應義塾外国語学校のコースが終了してから、どうしても勉強が怠けがちになっている。

 そこで、今は、10月からゲーテインスティチュートに通おうかなと考えはじめている。

 なかなか独学というのは難しいものだ。

 だから、こうやって自ら学問をせざるを得ない状況を作るのも一つの手だと思っているのである。

 いずれにしても、11月末にはドイツ語検定2級を受けるつもりだ。結果は気にしていない。しかし、せっかく受けるわけであるから、ベストは尽くしたい。

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ビジネス数学検定

 かなり昔になるが、「数学検定」を受けたことがある。

 準2級を受けてみようかと迷ったが、まずは3級で腕試しをしてみようと思い、3級から受け、一発合格であった。

 その後、忙しくなってきたこともあり、準2級は受けずじまいであった。

 受ける気が完全になくなったわけではないのだが、正直、「数学なんて今更やっても、あまり意味がないかな」という気がしはじめていたのだ。

 しかし、昨日、「ビジネス数学検定」という検定試験があるのを知った。

 サンプル問題を見てみると、なかなか面白い。ビジネスの局面で使われる数学の問題ばかりなのだ。

 これは本当に面白いし、ためになると思った。

 いつ受けるかは分からない。だが、いつかは受けてみたい。

 学問は、実社会と結びつかないと思えば思うほど、やる意義が見いだせなくなる。しかし、実社会に結びついているということが分かれば、やる気がでてくると思う。そういう意味でこの「ビジネス数学検定」というのはとても面白い検定だと思う。

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WEBデザインの勉強開始

 先月、このブログでも発表したとおり、「WEB検定(リテラシー)」に初挑戦し、一発合格した。

 今、狙おうと思っているのは、その上位資格である「WEB検定(Webデザイン)」である。

 というのも、私は、今、新規事業を立ち上げようとしており、それにどうしてもWEBの実力が必要なのである。特に今の私に必要なのはWEBデザインの実力なのだ。

 実は、WEBデザインに関しては、前々から実力をつけようと思っていたし、「CIWサイトデザイン」の資格取得を目標に勉強をがんばろうと思っていた。しかし、なんだかんだでそのまま勉強せずに来てしまっていた。なかなかいい参考書に出会えなかったというのもその原因の一つである。

 そこに先日、「WEB検定(Webデザイン)」という検定があるのを知り、今は毎日少しずつではあるが、コツコツと勉強を続けている。

 今、私が勉強に使っている本が『ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック2 Webデザイン』である。一部は「WEBリテラシー」と重複している箇所もあるが、「WEBデザイン」をしっかり勉強したい人はこれで勉強するといいと思う。

 この本で勉強をしてみて思うことは、やっぱり、勉強というものはコツコツとやっておくべきものだ、ということだ。知らないことも多々あるし、コツコツと勉強していると実力がついていくのが分かって嬉しい。

 「WEB検定(Webデザイン)」は、来月1日から開始される新しい検定試験である。私は自宅から自転車で10分のところで受けられるし、受験時間も90分だけだから、実力を見計らって一回受けてみようかと思っている。いつ受けるかはまだ決めていないが、いつかは受けると思う。というより、受けなければならないと思っている。

 ところで、話は変わるのだが、このブログ、始めてから1ヶ月になるが、驚くことに、昨日は23人の人が訪れてきていた。今までは10人ていどであったのが、一気に2倍以上になった。「のべ23人」ではなく、アクセス解析をした結果の「23人」であるから、おそらく、23人の別々の人が見に来てくれているのであろう。ブログ始まって以来の新記録である。これからますます読者が増えていくことが予想される。

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ドイツ語の電子辞書

 二昔前、私は青山学院大学で第二外国語としてドイツ語を履修していた。当時は、ドイツ語検定などなかったし、ドイツ語の電子辞書などもなかった。だから、勉強のモチベーションを維持するのも大変であったし、勉強そのものも苦労を強いられていた。

 しかし、今はいい時代になったものである。

 まずドイツ語検定ができた。これによって、勉強する意欲が高まった。

 それだけでない。ドイツ語の電子辞書でいいのができたのだ。私が使っているのは「SEIKO IC DICTIONARY 電子辞書 SR-V5010 英語/ドイツ語モデル 音声対応」であるが、これがあるだけで、なんと勉強がしやすくなったものか。本当に大助かりなのだ。

 この電子辞書には独和、和独のほかにも、英和、和英、さらには独英、英独、大辞泉なども入っているので、第二外国語がドイツ語だという人にはぴったりの電子辞書だといえる。ドイツ語を履修している人は、ぜひお勧めしたい。買って損はないと思う。

 しかも、良くなったのはそれだけではない。最近はインターネットの普及もめざましい。二昔前は考えられなかったが、今やドイツ語の本など買わなくても、ドイツ語の文章はインターネットでいくらでも収集できる。ニュースであれ、特定の分野の話であれ。

 私は、この秋、ドイツ語検定2級を受ける。初めての受験である。正直、今はあまり自信はない。合格率は50%くらいか。

 合格しようが、不合格になろうが、このブログで公表するつもりである。

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WEB検定リテラシー合格

 「WEB検定(リテラシー)」に初挑戦し、合格した。これで私の取得した資格の種類は87種類目となる。

 80点以上で合格になるところ、82点であったから、ギリギリだった。しかし、合格は素直に嬉しい。我ながら良くやったというところだ。

 正直なところ、落ちるわけにはいかなかった。なにしろ、曲がりなりにも工業大学を出ている身であるし、受験料も16800円と安くないので、再受験となると、経済的な面からも痛いからだ。 

 私は、他のIT資格として、「ドットコムマスター★」や「CIW(ファウンデーション)」「P検準1級」などを持っているが、これら3つと「WEB検定(リテラシー)」の難易度は、ほぼ同じくらいという印象を受けた。ただし、出題分野はかなり異なるので、それぞれの試験にはそれぞれの勉強が必要だ。

 特に思ったのは、この試験に関していえば、公式テキストである『Webリテラシー―プロデュース・ディレクション・デザイン・プログラミング (ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック 1)』を勉強しているか否かが大きく合格・不合格に左右するということだ。というのも、この公式テキストからの出題がかなり多かったからである。

 また、この資格は、WEBに仕事で直接携わらない人であっても、将来を見据えて言えば、勉強していて損はないという感想を受けた。なぜなら、ほとんどどんな仕事においても、WEBは間接的には関わりがあるといってもいいし、今後はますますWEBに依存する社会が到来するのは目に見えたことであるからだ。

 「WEB検定」は5種類あり、「リテラシー」が下位資格であり、上位資格として「WEBデザイン」など4つの資格がある。私はホームページやブログを運営しているので、次は「WEBデザイン」を狙うつもりである。ただ、受験料が安くないので、ある程度自信がついたときに受けようと思う。今は正直、自信はない。

 私が次々と資格にチャレンジしているのを見て、

「なんで宮崎さん、そんなに資格に挑戦するの? いったい何の役に立つの? だって宮崎さん、翻訳家なのに、なんで?」

 などと不思議がる人が多い。

 しかし、今、すぐ、その場で役に立つことばかりしかやらない人間には大きな成長もないと思っている。私はこれからもどんどん資格であれ、学問であれ、チャレンジしていくつもりである。

 本当は、もっともっと色々な資格にチャレンジしたいのだが、試験会場が遠かったり、試験時間が長いのは今は遠慮しておこう。というのも、大学院入試を控えているので、検定試験のためにわざわざ丸一日を費やすのは時間がもったいないからだ。その点、WEB検定は、自転車で10分で行ける場所(銀座)に試験会場があったので受けやすかった。 

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関連資格受験の勧め

 私は86種類の資格を保持しているのであるが、86種類の分野の資格というわけではなく、大半は英語・翻訳関連、IT関連、法律関連の資格である。

 例えば、法律関係では、ビジネス著作権検定、知的財産検定、ビジネスコンプライアンス検定は、それぞれ関連しているといえば関連しているといえる。

 英語の資格などでは、TOEICやTOEFL、英検、国連英検、国際英検…とたくさんあるが、英語の能力を測るという点では、どれも関連している。

 あなたが勉強している分野に関連資格が複数ある場合は、どんどん挑戦してみることをお勧めしたい。というのも、関連資格の勉強であれば、とっつきやすいし、すでに持っている関連知識を補強することも容易だからである。そうやってどんどん勉強を続けていけば、その分野のエキスパートになれる。

 私が今、狙っているのは、「WEB検定(リテラシー)」である。

 私は、すでにIT資格としては「ドットコムマスター★」や「P検準1級」など多くの資格を持っているが、この検定も見逃せない。

 この資格は、基本的にはWEB業界に携わる人向けの試験ではあるが、一般的なユーザーも知識として「リテラシー」くらいは取得しておいてもいいと思う。特に、自分でホームページやブログを開設している人であれば、「リテラシー」は必須といっても過言ではない気がする。

 私は今、『Webリテラシー―プロデュース・ディレクション・デザイン・プログラミング (ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック 1)』を使って勉強しているのだが、図解入りで読みやすく、また、自分でホームページやブログを開設している人にとってはぜひ知っておいたほうが良いと思われる内容であるので、再確認のためにも同書で勉強することは、とても良いことのように思える。

 実は、試験日は8月27日である。CBTなので、おそらく当日、試験終了直後に結果が出ると思う。試験結果が出たら、このブログで発表する予定である。 

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攻めの勉強

 勉強しなくていもいいという状況にあるとき、人は2つのタイプに分かれる。

 1つは、勉強しない人である。彼らは、試験でもないと自ら進んで勉強することはない。できるだけ楽をしようとしか考えない人である。だから、彼らの目からすれば、試験もないのに勉強している人が不思議で不思議でしかたがない。

 もう1つは、勉強することを自ら見つけて、次々と勉強していく人である。彼らは、勉強すること自体が目的になっている。彼は勉強に苦痛を感じることもあるが、それ以上に楽しみも感じている。

 あなたはどちらのタイプであろうか。

 しかし、我々はこの世に生きていれば、必ず、いろいろな問題にぶつかるのである。そういうとき、嫌でも「勉強」せざるを得ない状態に陥る。

 例えば、どうしてもITの知識なしには仕事ができない状態になったとしよう。そんなとき、コツコツとITの勉強をしてきた人にとっては、自由自在にITの知識を駆使して仕事ができる。逆に、ITの勉強をしてこなかった人にとっては、嫌がおうにも勉強せざるを得なくなる。同じITの勉強をするとして、どちらが楽しく勉強できるであろうか。

 勉強をするのであれば、必要に迫られて、あるいは、他人から強制されて勉強するよりも、自ら進んで勉強するほうが遙かに楽しい

 では、何の勉強をしたらいいのか。

 仕事上勉強しなくてはならないという分野がある人は、その分野の勉強であろう。

 仕事上勉強しなくてはならないという分野がない人は、なんでもいい、自分が興味のある分野の勉強でいい。IT、法律、哲学、心理学…。

 個人的なことになるが、私は、8月下旬に「WEB検定(リテラシー)」という検定試験を受けることに決めた。検定料は16800円と少し高めであるし、受けなければならないという状況ではないのであるが、それでも自ら進んで受けるのは、ただ単に実力をつけたいという積極的な気持ちがあるからである。

 試験結果が出たら、私のHPで公開しようと思っている。

http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/ 

 

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どんな知識に対しても心を閉ざさない

 知識というのは、あればあるほど得をすることが多いように思える。

 知識がないばかりに大損をすることは容易に考えられても、知識があったために損をしたということはあまりないように思える。

 もちろん、どんな人間にも、興味があることと興味のないことがあるので、なんでもかんでも知識を蓄えればいいかというと、そうでもない。雑学としての知識はすごい人でも、それ以外では頭角を現していない人もいるし、逆に雑学としての知識は乏しくても、自分の専門分野で頭角を現している人もいる。

 しかし、一つ確実に言えることは、よく知りもしないうちに、

「こんなことを知っていても、何の役にも立たない」

 といって心を閉ざすほど、もったいないことはないということだ。

 一例を挙げよう。私の母は、投資のことなど知りもしないうちから、「投資はばくちと一緒だ。日本円でもっておくのが一番いいんだ」と言い張って、株はもちろん、投資信託のことも知ろうとはしなかった。頑なに拒絶した。今の私から言わせれば、実にもったいないことをしている。

 そんな母の影響もあってか、私自身、投資には心を閉ざしていた。しかし、そんな私が、投資信託に心を開いて、よくよく勉強してみると、投資はばくちとは全然違うことが分かった。投資は、社会を活性化させるためにあるものであり、むしろ社会に対して良いことをしうているという解釈すらできることを知った。そして、実際、投資信託を始めてみると、まさに投資信託さまさまの日々が訪れたのである。

 私がここで言いたいことは、どんな知識に対しても、「こんなこと知っていても意味はない」などといって心を閉ざさないほうがいいということだ

 もちろん、知っていても本当にまったく役に立たない知識というものも多く存在する。というより、世の中のほとんどの知識は何の役にも立たない。だから、そういう雑多な知識を集めろというつもりはサラサラない。実際、そんな暇があれば、自分の専門分野で頑張ったほうがよほどいい。

 しかし、一つだけ言えることは、どんな知識に関しても言えることだが、心を閉ざしてしまえば、その時点で、せっかく素晴らしいことを知ることができるチャンスがあったとしても、それを自らつぶしてしまうことになる、ということだ。そんなもったいないことはしないほうがいい、と言いたいのである。

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IT時代にお勧めの資格

 唐突だが、10年前を思い出してほしい。

 10年前、あなたはインターネットをやっていただろうか。メールで交信をしていただろうか。それ以前に、自宅にパソコンを所有していただろうか。

 かくいう私自身、10年前といえば、まだパソコンを買ったばかりの頃だったと思う。インターネットにも接続して間もない頃であり、メールの交信といっても、交信する相手もいなかったように思う。

 それから10年。今では毎日インターネットを見ている。インターネットのない日など想像ができなくなっている。2年前には新聞の購読も止めて、インターネットでニュースを見始めた。以前は電話やファックスで行っていたことも、今やほとんどがメールで用が足りている。それだけではない。ネットでショッピングもするし、動画も見る。最近はブログも始めた。

 さて、では次に、10年後を想像してみてほしい。

 10年後、いったいどんな社会になっているだろうか。

 今以上にインターネットが影響力を持つ社会に変貌を遂げているに違いない。

 そんな中で、私が、ぜひ知識として所有しておいたほうがよいと思うのが「ドットコムマスター★」である。もちろん、ITに強い人はもっと様々な資格に挑戦するといいだろう。だが、IT企業に勤めている人以外の一般ユーザであっても、「ドットコムマスター★」はお勧めである。

 私がこんなことを言えば、

(私はIT企業に勤めているわけじゃないし、別にそんなの持ってなくてもいい。いったい何の役に立つの?)

 と反発する人もいるかもしれない。

 もちろん、興味がないのであれば、勉強する必要はない。ただ、先にも言ったように、10年後、ますますインターネットに依存する社会が到来したとき、ITの知識があるのとないのとでは雲泥の差が出るのは火を見るより明らかなのである。そのときになって、「あぁ、もう少しITの勉強をしておけば良かったなぁ」と後悔しても、遅いのである。というのも、何の分野でもいえることだが、知識というのは積み重ねがないと、一朝一夕に身に付きやしないからだ。

 さて、ではどんな本で勉強すればよいだろうか。私が数冊買って勉強した経験から言えば、同資格の勉強には、『.com Master 公式テキスト (2008 ★)』を使うのがいいだろう。やはり「公式テキスト」と謳っているだけあって、しっかり勉強できる。

 合格するかしないかはそれほど重要なことではない。ただ、実力として少しでもITの知識を身につけておいたほうが望ましい。そのためには、試験を受ける・受けないは別にしても、一冊、買っておいて、ときどき読んでおくくらいのことはしておいても損はないと思う。

 

 

 

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ドイツ語検定

 青山学院大学時代、私は第二外国語でドイツ語を履修した。たしか中級まで勉強したはずだ。

 大学を卒業してからというもの、ドイツ語の勉強をすることはまったくなかったが、たしか25才くらいのときにドイツ語検定4級を腕試しで受けてみると一発で合格した。

 その後、33才のときにドイツ語検定3級を受けてみた。といっても当時は仕事があまりにも忙しく、ほとんど勉強しないまま受けたので、落ちるだろうと思っていたが、案の定、落ちてしまった。4級と3級のレベルの差があまりにも大きいのを感じた。

 それから10年、まったくドイツ語のドの字すら思い出さない日々が続いた。実は、ドイツ語のテープもたくさん買っていたのだが、「どうせ一生、ドイツ語なんてやらないだろうな」と思って、知人・友人にタダであげたりしていたのだ。

 だが、人生、いつ、どこで、どうなるか分からないものである。

 そして私は昨年秋、ある決心をした。

(そうだ、大学院を受験しよう。とことん好きな勉強に打ち込んでみよう!)

 そう決意したのである。しかし、大学院には受験科目にドイツ語があるのである。

 そこで、早速、ドイツ語の勉強を再開した。ただ、せっかく持っていたドイツ語のテープの多くは知人・友人にあげていたため、新たにCD付きの『独検3級突破単語集』と『独検4級突破単語集』の2冊を買って、リスニングと同時に単語力の増強に努めた。

 検定試験までの2ヶ月間私が取り組んだのは、せいぜいその2冊くらいのものだった。しかも必死にやったというよりも、CDを聞きながら、テキストを眺めていた程度である。ガムシャラにやったわけではない。しかしそれでも余裕でドイツ語検定3級に合格した。小難しい文法書など一切やらなかったのだが、それでもこの2冊で単語力やリスニング力が十分に身に付き、それで合格点が取れたのである。私の感想としては、大学で初級レベルの文法を終えている人であれば、この2冊さえしっかりやっておけば独検3級合格はほぼ間違いないだろう

 なんと今年の秋にはドイツ語検定2級に挑戦しようと思っている。結果はこのブログで報告しようと思っている。合格であろうが不合格であろうが、報告しようと思っている。だから、恥ずかしい結果にならないようにベストを尽くそうと思う。

 試験日まであと3ヶ月。さあ、2級の壁は厚いのか? それとも難関を突破できるか? 我ながら楽しみである。そう、私は、今、楽しみながらチャレンジしているのだ。

 人生、自分が自由に設定した目標であれば、その目標を追いかけることは生き甲斐につながる。逆に、「本当の自分以外のもの」(他人・自分自身の昇進・見栄など)に影響を受けて設定した目標の場合は苦痛につながる。

 私は、幸せを感じながら、ドイツ語の勉強に日々励んでいるのである。

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試験のプレッシャーから解放される法

 私は、現在、5つめの大学に在籍しているし、大学以外でもおびただしい数の検定試験も受けてきた。だから、通常の人から比べれば、何十倍の試験を受けてきたと言えるだろう。

 そんな私であっても、試験を受けるときは、それなりに緊張するものである。

 検定試験の場合は割と気楽に受けているのであるが、大学の試験の場合は、単位取得がかかっているので、緊張するなというほうが無理である。試験直前になればそれなりに試験勉強はするし、刻々と迫ってくる試験日というのは、何度受けても慣れないもので、どうしても、そわそわそわそわしてしまう。

 そんなとき、私は、プレッシャーから自分を解放させるために、自分にこう言い聞かせている。

自分なりにベストを尽くしていれば、それだけでいいんだ。この世の中に『ベスト以上』のことができる人などいないのだ。自分なりにベストを尽くせば、どんな結果が出たとしても自分としては満点なんだ。結果なんか関係ないんだ

 このようなことを呪文を唱えるように自分に言い聞かせていると、不思議と落ち着くのである。

 試験前にプレッシャーに押しつぶされそうな人は、いったい何が不安なのか考えてみるといいと思う。

 不安はのは、不首尾な結果が出ることではないだろうか。

 しかし、なぜ不首尾な結果が出たらいけないのだろうか。不首尾な結果が出たら、いったいどんな不都合なことが起こるというのか。自分がそれを受け入れたくないというだけの話ではないだろうか。

 もしそうなら、「自分なりにベストを尽くしていれば、もうそれだけでいいんだ」と言い聞かせてみたらどうだろうか。試験のプレッシャーから一気に解放されるのは間違いない。

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資格を受ける意義

 私は、現在、86種類の資格を保持している。

 全く同じ資格で、等級だけが違う資格を持っている場合は、2種類ではなく、1種類としてカウントしている。例えば、ドイツ語検定4級とドイツ語検定3級を持っているが、これは2種類ではなく、1種類としてカウントしている。それで86種類である。

 これからも、いろいろな資格にチャレンジしていこうと思っているのだが、そんな私に多くの知人・友人は、疑問を投げかける。

「宮崎さんって翻訳家なんでしょ? なんでそんなこと勉強しているの? 宮崎さんがそんなこと勉強したって意味ないと思うけどなぁ」

 例えば、エクセルの資格のときもよく言われたし、パワーポイントの資格のときも言われた。FLASHクリエイターの資格のときも言われたし、知財検定のときも言われた。

 本当に、あの人も、この人も、という感じで、なぜ受けるの、どうしてそんなこと勉強しているの、意味ないんじゃないの、とやかましく言われ続けてきたのだ。

 だが、私は思うのだが、勉強したことが、いつ、どこで、どう役に立つかは勉強した後でなければ分からないものだ。例えば、私の寿命があと30年残っているとしよう。30年である。30年の間に何が起こるか分からない。その長い30年の間に、まったく役に立たないと断言できることってどれだけあるだろうか?

 例えば、「宮崎さんは翻訳家でしょ? エクセルなんて使えるようになって一体何の役に立つの? せいぜい家計簿つけるくらいでしょ? 俺なら、そんなITスクールに高い金払って通うくらいなら、旅行でも行くけどね」と言っていた人がいた。

 しかし、私はエクセルを学んでいて良かったと思っている。その後入学した大学院でも大いに使う機会はあったし、現在の大学でもやはり使う機会があるのである。一見、使う必要がないと思われる哲学の分野の卒論でも一覧表はエクセルで作っているのである。

 おそらく、私にそう助言した彼は、きっと未だにエクセルが使えないままだろう。というのも、彼にとってエクセルにお金を使うくらいなら、旅行に行く方がいいのだから…。しかし、私が思うのは、そうやって「役に立たない」と言って勉強を拒絶してしまうと、自ら成長する機会を失ってしまうのではないかということだ。 

 もちろん、興味のないことならやる必要はない。しかし、興味のあることであれば、「すぐに役に立つか立たないか」ということだけで判断せずに、やってみるといいと思う。そういう努力をしておけば、それが5年後なり、10年後、ひょんな形で結果として現れるかもしれないからだ。

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