学問・資格

WEB検定(WEBデザイナー)合格! 90種類目の資格

 本日、「WEB検定(WEBデザイナー)」の4度目の挑戦をし、合格した。

 80点以上が合格のところ、過去3回は、62点、68点、72点だったので、今回、合格できるかどうかというところだろうと思っていたのだが、余裕で合格した。

 試験中、手がつけられないような問題がほんの数問しかなかったため、「もしかすると80点くらいは行っているのではないか」という感触があった。

 コンピュータ採点なので、試験結果は、試験終了後、10秒もすれば出る。

 終了のボタンを押す。

 ドキドキしながら結果が出るのを待っていると、「合格」という文字が現れた。

 やった。合格だ。

 点数を見てみると、なんと86点。余裕の合格だったのである。

  詳しい点数は、また後日、以下のリンク先に掲載しようと思う。

  http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/mark.html

  一回の受験料が16800円なので、そうそう受けるわけに行かないが、4回目だろうが合格できて良かったと思っている。これで私は90種類の資格に合格したことになる。

 正直、初めてこの試験を受けたとき、62点しか取れず、「うわ~、こんなの難しすぎて手が出ないなぁ」という感触だった。それが今では86点という高得点でなんなく合格できた。

 私は、こういうふうに自分の力で成長していくことができることにスリルを感じているのである。もちろん、これから先も自分で自分に課題を掲げ、いろいろなことに挑戦していきたいと思っている。

 

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「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」試験結果

 7月7日、驚くことに試験日からわずか2日目にして、「オーストリア政府公認ドイツ語検定」の試験結果が返ってきた。

 試験によっては合否通知が来るまで2ヶ月近くかかるものもあるので、こんなに早いとはびっくり仰天である。ただ、待たされれば待たされるほどストレスがたまるので、早く分かるのはありがたい。おそらく試験日であった7月5日のうちにすべて採点しおえ、7月6日の午前中に発送したのであろう。

 合格している場合は、合格証も送られてくることになっているので、大きな封筒で届くことになるが、不合格の場合は、合格証はないので小さな封筒となる。だから、封筒だけで合否は分かってしまうのだ。

 ポストを開けると、小さな封筒が入っていた。その封筒の下のほうに「Japan-Austria」のマークがあったので、その時点で不合格であることがすぐに分かってしまった。

 問題は何点取れているかだ。合格基準点まであまりにかけ離れていれば落胆してしまうだろうが、後一歩であれば、次回の合格に向けてやる気がでるというものだ。別に私は合否に拘っているわけではないし、すでに「ドイツ語検定2級」に合格した身だ。別に不合格になっても恥ずかしいわけでもない。ベストを尽くしたのだから、自信をもって結果を見ればいいのである。

 封を開けると、各項目の点数が書かれた通知が入っていた。。

 筆記試験225点満点で135点以上が合格となるところ100点だった。(その内訳は、読解75点満点中37.5点、文法30点満点中12点、リスニング75満点中32.5点、作文45点満点中18点)。

 やはり私の得点源である読解とリスニングで失敗したのは痛かった。ただ、今回は不慣れなせいで高得点が出せなかったが、今回のあの出来で100点取れているわけだから、次回は難なく135点以上が出せそうな気がしている。もっとも、それなりに勉強しなければならないだろうが。

 面接試験は75点満点で45点以上が合格のところ31点だった。

 正直、初めてのドイツ語面接で31点が取れたことは、逆に自信につながった。あとは口頭表現をスラスラ言えるまでたくさん覚えればいいだけのことだろう。次回は45点以上取れそうな気がする。

 結果として、筆記試験も面接試験も両方不合格になってしまったが、私としては、次回の合格へむけて良いモチベーションとなった。なぜなら、最大限頑張れば、次回はなんとか合格できそうな点数だったからである。

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今年これから狙ってみたい資格

 私は現段階で89種類の資格を保持している。

 だが、まだまだ自分の実力を磨いていきたいと思っているので、そのモチベーションを高めるために資格にも挑戦してみたい。

 今年、これから挑戦してみたいのは、以下の資格である。

(1)「WEB検定(WEBデザイナー)」 3度目の挑戦で合格を目指す。

(2)「ウェブデザイン技能検定3級」 WEB業界初の国家試験なので挑戦しみたい。

(3)「ITパスポート試験」 腕試しに受けてみたい。

(4)「WEB検定(WEBディレクション)」 WEBデザイナーに合格した後に挑戦してみたい。

(5)「ドイツ語検定準1級」 合格の自信はないが、どの程度点が取れるか試してみたい。

(6)「オーストリア政府公認ドイツ語検定」 先日B1を受けたが不合格なら再受験をしたい。万が一、合格していたら、その上のB2を受けてみたい。

(7)「ビジネス数学検定」 点数アップを目指したい。

(8)「ドットコムマスター★★」 そう簡単には合格できないだろうが、再度挑戦したい。

 こんなに沢山、試験を受けると言えば、きっと「そんな試験、受けて、何になるの? ドイツ語なんて、何にもならないんじゃないの?」と言う人がいるだろう。しかし、何度も言うようだが、好きなことに向かってコツコツコツコツと努力しておかなければ、大きな夢が叶うわけはないのだ。

 あなたはどんなことをして、自分に磨きをかけようとしているのかな?

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オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)受験記

 7月5日(日)に「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B1)」を初受験した。

 感想を一言で言えば、問題自体は「ドイツ語検定2級」よりもはるかに難しく感じた。特に、私自身の得点源だと思っていたリスニングはチンプンカンプンという感じだった。

 この試験は等級が6つあり、日本では上の5つの等級が受験できるようだ。私が受けたのは上から4つ目の等級であるB1レベルだが、B1レベルであっても合格すれば、ドイツの一部の音楽大学などでは入学許可レベルなのだから、簡単ではない。

 試験は神奈川県のたまプラーザにある國學院大學のキャンパスであった。「ドイツ語検定」と比べると認知度が低いためか、私の等級の東京の受験生は私を含めて6名であった。

 まずは90分の筆記試験があったが、得意であるはずの読解でいきなり躓いた。「ドイツ語検定2級」では読解問題はほぼ満点のできだったので、すこし油断していたのかもしれないが、それにしても難しかった。読解でつまづいた挙げ句に文法ではさらに躓いた。この時点で、今回の合格はほぼ不可能に近いのではないかという思いが出てきた。しかし、せっかく高い受験料を払って受けているのだから、途中で諦めるのはよくない。そう思って奮闘した。

 5分の休憩を挟んで、リスニングに入った。「ドイツ語検定2級」のリスニングではほぼ満点だったので、リスニングは得意だと思っていたのだが、やはり本場オーストリアの試験はレベルが違う。もう、まったくわけの分からないことを延々としゃべりまくっており、途中で聞く気が失せてしまうほどだった。ただし、すべて○×問題なので、まったく当てずっぽうで回答しても確率から言えば、5割は正解になるのだ。そういう事情を考慮すれば、そうとう難しい問題にせざるを得ないのかもしれない。

 リスニングが終わると、15分の休憩を挟んで、作文の試験に入った。これは通信添削講座があるので、受験する人は、事前に受けておいたほうがいいだろう。お金はかかってしまうが、いきなり作文の問題をやれといわれても、ドイツ語作文に慣れていなければ、なかなかドイツ語で書けるものではないからだ。私はどれくらいの点数がもらえたか全く分からないが、とにかく書いたことは書いた。これも添削講座を受講していたおかげである。

 リスニングが終わると、後は個別に面接試験に入った。私の場合は、待ち時間が約1時間あり、ずっと待合室で待機することになった。日本語がまったく使えず、ドイツ語だけの面接となると、普通の人なら、ドキドキするだろうが、ありとあらゆる試験を受けてきた私は特に焦ることもなければ、ドキドキもしなかった。今までありとあらゆる修羅場を経験しているので、ドイツ語で会話をせよ、と言われたくらいではビクともしないのだ。 

 面接試験の部屋に呼ばれると、2人の中年女性が座って待っていた。2人ともオーストラリア人だ。私はイギリス留学中に多くのドイツ人やオーストリア人と話したことがあるが、彼らとは英語で話したのであって、ドイツ語で話したことは一度もない。だが、もうどうにでもなれ、という感じで、私は好き勝手なことを好き勝手にドイツ語でどんどんしゃべりはじめた。

 ただし、途中でいろいろと質問されると、やはり、言葉につまってしまった。「ドイツ語は何年勉強してきたのか?」という質問に対し、「大学時代2年間勉強しました」と答えると、「ドイツ語が専攻だったのか?」と聞かれた。「いいえ、私の専攻は経済学と言語学と工学と哲学でした」と答えると、怪訝そうな顔をされ、「そんなに沢山、専攻したの?」と聞かれて困った。そうだ、私はたしかに4つの大学を出て4つも専攻があったが、そんなに沢山の大学を出ている人など想定していなかったのだろう。あるいは、「専攻」の意味が分かっていなかったのかと思われたかもしれない。余計なことは言わずに「専攻は哲学です」とだけ言ってすませておけば良かったのだが、後の祭りだ。しかも、私は「経済学(Wirtshaftswissenschaften)」のことを「経済(Okonomie)」と言い間違えて言ったので、それも減点の対象となるだろう。

 その他、ドイツ語の単語が出てこないときは、適当に英語で答えたりしていたら、面接官は苦笑いをして、「ドイツ語でいう○○のことですね」と訂正されたりした。もう、なんだか必死にやりとりしたのだが、私としては生まれて初めてオーストリア人とドイツ語で会話をしたわけであるから、いい経験をさせてもらったと思っている。こういう試験でも受けない限り、一生涯、私はオーストリア人とドイツ語で会話をするということもなかったかもしれないからだ。

 合格の自信はない。得点源だと思っていた読解とリスニングがあのていたらくでは、まず合格していないだろう。ただ、合格に向けて頑張ってきたことは無駄になっていないと思う。私の友人に、「試験というものは合格がすべてだ。合格しなければ何の意味もない」という人がいるが、私にとっては今回、こうして必死に勉強して受験したことは、合否にかかわらず意味があったと思っている。なぜなら、私はこうして勉強したおかげでカントの作品も深く読めるようになったし、グリム兄弟の『グリム童話』も愉しめるようになったからである。また、喩え15分間という短い間であっても、オーストリア人とドイツ語で会話をしたことは私の人生に彩りを与えてくれ、いい意味で刺激になった。

 仮に不合格であったとしても、私はいずれまた再挑戦したいと思っているし、「ドイツ語検定準1級」も秋に初挑戦するときの土台がこれでできたとも思っている。

 

 

 

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WEB検定(WEBデザイナー)再受験決意

 人間というものは、ものぐさなもので、必要に迫られない限り、困難なことはなかなか手が出ない。特に勉強がそうで、「どうしてもせざるを得ない」という状況にならないかぎり、やろうやろうと思っているだけでは、なかなかできるものではないのだ。

 そこで私は、自分でモチベーションをあげるために資格試験に挑戦している。

 WEBの勉強も、結局、試験を受けないとなると、日常生活の忙しさにかまけて、何もしないことになっているので、「WEB検定(WEBデザイナー)」の再受験を決意した。実際、こうでもしないかぎり、なかなか勉強しないからだ。

 7月中に受験しようと思う。

 80点以上が合格のところ、1回目が62点、2回目が68点であった。

 もちろん、80点以上を目指すのだが、合否にはこだわらない。自分なりにベストを尽くせばそれでいいのだ。

 あなたは、今、どんなことに情熱を燃やしているのかな?

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ドイツ語会話一人練習法

 オーストリア政府認定ドイツ語検定の試験日が近づいてきている。

 大学院入試のために必死に覚えたドイツ語単語も、おおかたは忘れていたが、この試験を受けるために先月から復習し、半分くらいは覚え直している。ずいぶん、勘が戻ってきた。

 しかし、この試験は、面接試験もあるのだ。

 「筆記(文法、読解、作文、リスニング)」だけでも合格すれば、部分合格証が出るというので、面接対策の勉強はほとんどしていなかったのだが、まったく勉強しないよりは、一応はやっておこうと思う。

 そこで今取り組んでいるのが、『ドイツ語会話周遊券 (シリーズ 旅の30フレーズ) 』である。

 会話はもともと相手がいなければ成立するものではないので、ドイツ人の会話相手がいればベストなのだが、日本にいてそんな贅沢なことは言っていられない。ドイツ人に家庭教師でもしてもらえれば一番だが、お金がかかる。

 そこで、手っ取り早く実力をつけようと、この本をやっているのである。

 方法は簡単だ。基本フレーズをスラスラ言えるようになるまで特訓だ。

 「この映画はどれくらいですか?」「お店は何時まで開いていますか」「医者を呼んでください」などなど。こういうフレーズをすぐに口に出せるようにしておくというのが私の特訓法であり、これは一人でもできることだ。

 さすがに読解問題ばかりやっていると、こういう簡単そうなフレーズもなかなか瞬時には出てこない。やはり会話は会話で勉強しなければならないのだ。

 私の友人に「試験は合格しないと意味はない」みたいなことを言う人がいるが、私は合格・不合格にはこだわっていない。私が目指しているものは合格そのものではなく、自分を磨くことであり、特にドイツ語などは、私の職業と直に関係する目標ではないので、気楽に受けてこようと思う。もっとも気楽に受けるといっても、それは「いいかげんに受ける」という意味ではない。あくまでベストを尽くすのである。

 

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学問をする意味

 私が学問をする意義を話すと、必ずと言っていいほど、次のような質問があがる。

「学問なんてやって何になるの? そんな、役に立つ機会がめったにないことをわざわざ勉強して何になるの? 今まで、何かの役に立ったことってあるの?」

 私は、学問は教養を身に付けるため、言い換えれば、自分を磨くためにあるのであり、直接お金儲けにつなげようとか、直接快感を得ようという目的には、すぐには役に立たないと思っている。(ただし、長い目で見れば、大いに役立つ可能性はあると思うが)。

 例えば、私は今、ドイツ語で『グリム童話』を読んでいる。学問の意義が分からない人にとっては、まったく役に立たないことをやっているとしか思えないだろう。私の職業が文筆家・翻訳家であっても、ドイツ語の翻訳などする予定はないし、ましてや童話など今の仕事とは直接関係がないからだ。

「童話なんて、読むだけ馬鹿らしいよ。所詮、作り話だろう? なんでそんなことやっているの? それが何か生活に役に立つの? お金儲けにつながるか? そんなことをやるより、どんな単純なことでも、世のため人のためになることをしたほうがいいんじゃないの?」

 そう言いたいだろう。

 しかし、童話を読むことは本当に何の役にも立たないのだろうか?

 『グリム童話』でも、よく読めば、それぞれの話の中に人生で役に立つ黄金のルールが描写されているのが分かるだろう

 例えば、「蛙の王さま」の話では、「どんな小さな約束であっても、守らなければならない」という黄金のルールが説かれているのだ。

 私がこう言えば、こう反論する人もいよう。

「そんなのわざわざ童話なんか読まなくてもわかっているよ。仮に読まなければならないにしても、『約束はどんな小さな約束であっても守ろう』ということが直接書かれた文章でもいいじゃん。なんでわざわざ童話なんか読まなくてはならないの? そんな作り話を読む意義なんて何もないよ」

 しかし、そんなことを言っている皆が皆、「約束はどんな小さな約束であっても守ろう」ということが実践できているだろうか? 

 私は自分のビジネス上の経験からでも断言できるが、大きな約束、重要な約束であっても、守られないことなどよくあるのである。例えば、約束していたお金を半分に値切られるという、あってはならないことも何度か経験しているのである。

 童話を通して読めば、約束が破られる人の悔しさが追体験できるわけだ。読んでいるときに、「ああ、約束を破られると、こういう辛い思いをするのだなぁ」ということを考えながら読むからである。これは単なる人生論とか、格言集とかでは、なかなか味わえない体験である。そしてそういう読書体験を繰り返す中で、「約束したことはどんな小さな約束でも守ろう」という品格が生まれてくるのだ。例えば、人と待ち合わせをするときも、遅れないように気をつけるようになるだろうし、仕事の上でも、納期を必ず守るようになるだろう。ましてや、約束していた報酬を値切るなんてことなど絶対にしなくなるだろう。

 あなたが、学問などやっても何の役にも立たないと思うのであれば、やる必要はない。お金儲けにつながらないことはやる意味がないと思うのなら、お金儲けに直接つながることだけをやって生きたっていい。ただ、学問をやることに意味があるのか・ないのかは、学問をやってから判断すべきことであって、学問をやらないうちから、「やっても意味はない」と決めつけられないのではないかな? 少なくとも私にとっては学問は非常に意義があるし、ますます学問をやって、学んだことを少しでも世のため人のためになることに役立てたいと思っている。

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「学問をしても、役に立つことなんてめったにないんじゃないの?」

「学問なんて頑張ってやっても、それを活かせることなんて、滅多にないんじゃないの? そんな滅多にないことのために、わざわざお金をかけたり、労力をかけたりして頑張るよりも、手軽にできることで、世のため人のためになることをやったほうがよっぽどいいんじゃないの?」

 学問をやっても、それが十分に活かせたと思えない人であればあるほど、こう考えるのではないだろうか。

 たしかに、いくら学問をやっても、学んだことを、世のため人のために一切使えないとしたら、学問をする意味などほとんどないといえよう。たとえば、モグラの生態の研究に一生涯を費やした学者がいたとしよう。しかし、結局、現代の科学で解明されていること以上のことはなにひとつ見いだせなかったとしよう。こういう場合、いくら本人がモグラについて詳しいと自慢したくても、やったことが世のため人のために何も役に立たないのであるから、まったく独りよがりである。そんなことなら、たとえ、どんな単純な仕事であれ、世のため人のためになることをやったほうが何倍もいいのである。

 しかし、「学問なんて、やったところで、社会の役に立つことはめったにない」といって、なんら新しい知識を身につけようとしない人は、考えてもらいたいのだ。

 学んだことが本当に一生涯、役に立たないのだろうか? あるいは、役に立つことが本当にめったにないと断言できるのだろうか?

 たとえば、私は以前、高校卒の社員ばかりで成り立っている会社でアルバイトをしていたことがある。彼らは口癖のように、「勉強なんてやっても意味はない」「大学なんか行っても意味はない。高校を出たら働いたほうがよっぽどましだ」ということを言っていた。

 私が資格を受けることをもらしても、「宮崎さんって翻訳家ですよね? エクセルの資格を取ってなにになるんですか? だって、そんなのできるようになっても、せいぜい家計簿をつけるくらいしか使い道はないですよね? そんな滅多に活かせる機会のないことにお金を使うのってもったいなくないですか?」みたいなことをいつも言っていたのである。

 当然、そういう考えをしているのだから、彼らは会社から命令されないかぎり、自ら率先してエクセルを学ばないだろうし、パワーポイントも学ばないだろう。ましてや、ホームページ作成やブログもしないだろう。いや、ビジネスコンプライアンス検定を受けるという発想になったり、あるいは、通信教育で大学に行ってみようとか、外国語を学んでみようということにはならないのではないか。

 だって、そうだろう?

 エクセルでさえ、「そんなのできるようになっても活かせる機会なんでめったにない」と言っているのだから、大学の通信教育でフランス文学や科学哲学や倫理学や歴史哲学なんて履修しても「まったく意味がない」と思うだろうし、英語やドイツ語なんて勉強する意義など見出せないだろう。

 だが、どうだろう? 本当に、外国語をやっても、大学の通信教育をやっても意味がないだろうか? 使い道なんて、本当にめったにないだろうか? エクセルはどうだろうか? パワーポイントはどうだろうか? 本当に勉強するだけばからしいのだろうか? 

 でも、「活かせる機会がめったにないことは、やるだけばからしい」なんて言っていたら、努力するものはなくなってしまわないか? 彼らは、きっとこういうのではないか?

「書道なんてやってもばからしい。今はみんなパソコンだ。使い道がない」「楽器がひけるようになって何になるの?」「外国語が話せるようになっても、道端で外国人に声をかけられることって一生で何回あるの? そんなのにお金かけるってばからしいよね?」「フランス文学の本を読んで、それが何になるの?」

 こういうふうに、彼らは、なんでもかんでも、役に立たない、役に立たないといって、直接金儲けにつながることにしか目を向けなくなるのだ。考えていることが、目先のことだけになってしまうのだ。

 たとえば私は最初の大学時代、夏休みは、アルバイトなどせず、ずっと図書館にこもって文学作品を読んだり、英語の勉強をしていた。翻訳家にあこがれてはいたが、なれるとは思っていなかった。回りの友人たちは、「なんでそんなことやっているの?」と言いながら、ほとんどはアルバイトに精を出していた。

 しかし、その10年後、私は専業作家になっていた。これは大学時代の読書や勉強がものを言ったのだ。

 「活かせる機会がめったにないことは、やるだけばからしい」といって、自分を磨くことを怠れば、未来は開けてこない。それは当然だ。というのも、目先のことだけ考えて、お金になりそうなことしかやらないのだから、大きなことができるようにはなれない。

 もちろん、興味のないことはしなくてもいい。しかし、目先のことだけ考えて、「活かせる機会なんてめったにないんじゃないか?」みたいに言っていたら、情熱をもやせるものはなくなるのではないか? お金になりそうになりことがことごとく馬鹿らしく見えてくるのではないか?

 かくいう私は、いま、ドイツ語や哲学の勉強に打ち込んでいる。人から見れば、「そんなのいくら頑張って勉強しても、活かせる機会なんてあまりないんじゃないの?」と思えるかもしれない。

 でも、こうやってコツコツ勉強していれば、将来、ドイツ語関連の本が書けるかもしれないし、哲学の本がかけるかもしれない。大学の先生になるという道が開けるかもしれない。どんな道が開けてくるか、それはやってみないとわからないのだ。最初の最初から、「そんなのやっても活かせる機会はめったにない」といっていたら、お金儲けにならないことは一切できなくなるのではないかな?

 

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勉強が嫌いな人は土日に何やるの?

 私が以前、アルバイトをしていた会社の社員が高卒がほとんどだったという話をした。別に「高卒だから」というレッテルを貼りたいわけではないが、彼らから聞いた話では、どうも彼らの多くが「勉強などやっても意味はない」「やるだけ馬鹿らしい」と思っているふしがあるという話もした。

 しかし、本当に「勉強しなくていいこと」「仕事をしなくていいこと」=「幸せ」なのだろうか。

 もし、勉強しなくていい、仕事しなくていい、となったら、その空いた時間、一体何をするのであろうか? 

 これも彼ら同士の話から分かったのだが、どうも彼らは毎週といっていいほど土日をパチンコとか競馬といった「賭け事」やテレビやテレビゲームといった「遊び」に費やしていた。おそらく、勉強することがないのだから、それくらいしかやることがないのだろう。スポーツしているとか、書道をやっているとか、小説を書いているとか、そういった努力が必要なものが出てくる幕は一切なかったのである。

 しかし、パチンコ、競馬、テレビ、テレビゲーム、それをずっとやって行くのって、そんなに楽しいことだろうか。

 パチンコにしろ、競馬にしろ、お金がかかるだけではないか? 結局、賭け事は確率的には負けるようにできている。長年やっていたら、どんなに賭け事に強い人でも、儲かるようにはなっていないはずである。テレビやテレビゲームにしても、そんなに朝から晩までずっと見ていて楽しいことだろうか。

 私には、そんな人生、興味はない。

 私には「自分を磨く」という目標があるため、一生、勉強が続くだろう。一生、飽きることもないだろう。なぜなら、人から与えられた勉強をしているのではなく、自ら率先して見つけた勉強ばかりやっているからだ。今日もこれから図書館で必死に勉強に取り組むことになる。実に張り合いのある土日である。

 

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外国語を愉しむ方法

 私は今、カントの『純粋理性批判』を読んでいるわけだが、ドイツ語の原書だけを読めと言われると、ちょっと難しすぎる。しかし、ドイツ語の原書と日本語訳を対訳にして読み進めていくと、ドイツ語の原書もなんとか読めるのである。対訳であれ、カントをドイツ語で読めるようになると、「ドイツ語の読解力を高めるためだけの読書」とはまったく違った愉しみがある。

 どの外国語についても言えることだが、ただ単に「その外国語の読解力を高めようとして読む読書」は面白くはないだろう? それは野球に喩えていえば、あくまで準備体操であり、ウサギ跳びであり、ランニングであり、素振りだろう? だから面白みがなくて当然なのだ。

 一方、「読みたい本をその外国語で読む」という読書に切り替えると、面白みがグンと高まる。それは野球に喩えていえば、実際に試合に出るような愉しみである。原書がすいすい頭の中に入ってくると、もうそれは試合でホームランでも打ったかのような感激に浸れるはずだ。

 思うに、外国語の愉しみを知らない人は、試験で点数を取るためだけの勉強、つまり「準備体操」ばかりやっていたのではないか。だから外国語で読む愉しみを知らないままなのではないか。「試合」に出たことがないのだから、感激もないはずである。

 例えば、あなたがデール・カーネギーのファンだとしよう。カーネギーの訳書を何度も何度も繰り返して読んだとしよう。ならば、今度は英語の原書でカーネギーを読んでみたらどうか? いきなり英語で読むのが大変なら、原書と訳書を横に並べて、対訳にして読むのだ。

 方法は簡単だ。訳文を一文読んだら、それに対応する英文を一文読むのだ。そうして読んでいけば、英語が多少苦手な人であっても、原書で読めるのだ

 するとどうだ! もう、そこには新しい世界が開けて来ている。そう、「原書で読む愉しさ」という今までになかったスリリングな世界なのだ。1年前の私には到底考えられなかったのだが、今では私はカントをドイツ語の原書で取り組んでいる。しかも、対訳で読み進めれば、ドイツ語でも分かるのだ! 1年前にドイツ語の学習参考書で面白みのない文章ばかり読み進めていたときとは比べようもない愉しみがあるのだ。

 あなたも、自分の好きな外国語の作家を対訳で読んでみないか? 新たな世界が開けてくるぞ!

 

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