幸せ

幸せは「状態」の中にはない

 幸せは「状態」の中にはない。

 どういうことか説明しよう。

 独身者の中には、「結婚すれば幸せが訪れる」と思い、結婚を夢見ている人がいるだろう。「結婚」という状態が、自分の不幸を救ってくれる、そう期待している人もいるだろう。

 経済的に豊かでない人は、「遊んでも食べていけるような不労所得が得られたら幸せが訪れる」と思い、不労所得をほしがって、あれこれ投資物件を探しているだろう。

 しかし、「結婚」という状態があなたを永遠に幸せにすることはない。結婚すれば結婚したで、結婚後にさまざまな問題が生じるのであり、幸せの状態が永遠に続くわけではない。現に、つい先日も、某トップアイドルが夫婦で逮捕されたばかりである。その夫婦も一時期は幸せの絶頂だったかもしれないが、今では拘置所で暮らす羽目になっているだろう。この例からも分かるとおり、「結婚」という状態が幸せを永遠に保証することなどないのである。

 「不労所得で食べていける」という状態も同じである。不労所得が得られたら、金儲けという苦役からは解放される。しかし、それで幸せが続くかといえば、けっしてそんなことはないのだ。

 この点、アリストテレスは幸せの本質を実にみごとに見抜いていた。

 アリストテレスは、幸せは「状態」の中にはないとした。幸せがあるとしたら「活動」の中にあると考えたのだ。

 例えば、英語の能力に秀でている人がいるとしよう。その人にとっての幸せとは、自分の英語の能力をフルに発揮して、世のため人のためになることができたときではないか。例えば、通訳でも翻訳でもいい、他の人にマネできないような高い英語能力を発揮し、みんなに喜んでもらえることをしたとき、その人は「生き甲斐」を感じるのではないか。アリストテレスはそれをエウダイモニアという言葉で言い表したのである。

(結婚が自分を幸せにしてくれる…、金が自分を幸せにしてくれる…、名誉が自分を幸せにしてくれる…)

 多くの人は、そのように思いがちだが、この世は常に変化する世界であり、「不変の幸せの状態」など手に入ることなどないのだ。だから、そこを勘違いしてはならない。

 「私たちが目指すべき幸せとはエウダイモニアである」

 そう気づいたとき、本当の幸せに向けての第一歩が踏み出せるのではないか。 

 

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手っ取り早く金持ちになろうとするな!

 金持ちになるための本は多い。

 いいことを書いてある本もあれば、拝金主義的な本もある。どれを信じるかは本人しだいだ。だから、他人がどういう金儲けをしようとしているかについて、とやかくいうつもりはない。

 しかし、「手っ取り早く金持ちになる方法」は、それだけ危険であることを認識してもらいたいのだ。

 例えば、あえて書名は出さないが、あるベストセラーになった本をさらさらっと目を通してみると、そこに書かれてあったのは、だいたいこんなことだった。

「早く金持ちになりたければ、銀行からお金を借りて不動産に投資することである。投資信託は時間がかかりすぎる。レバレッジ効果をいかにうまく効かせるかが金持ちになれるかなれないかの境目だ」

 不動産投資で成功したその著者は、いかにも自慢げに金儲けのテクニックを披露しているのである。

 この本を読んだ人のうちの何割かは、「なるほど、こうやれば手っ取り早く金持ちになれるのか。よし、俺も銀行からお金を借りて不動産投資をしよう! 投資信託なんて、まどろっこしいことなんてやってらんないよ」と錯覚してしまうのではないか?

 自分の住居用に銀行に住宅ローンを組んでもらうのは仕方がないことだと思うが、不動産投資のために銀行からお金を借りてまで投資するというのは、リスクが高すぎはしないか。なにしろ、空室が何ヶ月か続いただけで、すぐに計算が狂って、取り戻しができなくなるおそれがあるのだ。

 しかも、もう一点、クビをかしげたくなることがある。不動産投資は「すぐに金持ちになれる」のか? いい物件を見つけようと思えば、半年、1年、1年半、2年…と、あれにしようか、これにしようかと迷っているうち、いつの間にか時間がかかってしまうだろう? 一見、「銀行のお金で不動産を取得して家賃収入を得る」というのは手っ取り早くお金が入りそうな感じだが、実は不動産を見つけるのに時間がかかるのだ。なんだかんだで、それなら最初から投資信託にかけておいたほうが良かったということにならないだろうか? なぜなら今なら投資信託に2年もかけていれば、投資した額の20%くらいは分配金で戻るからだ。

 私には、この本よりも『ベンジャミン・フランクリン 富を築く100万ドルのアイデア 』のほうがよっぽどいいことが書かれてあったと思う。こちらのほうは、お金儲けのテクニックというより、お金持ちになるための原理原則が書かれてある。そしてそれを一言でいえば「倹約と勤勉こそがお金持ちになるために最も大切なことであり、手っ取り早くお金もちになろうとしてはならない」ということである。

 お金持ちになりたいと思っている人には、私なら、むしろこうした本を読むことを勧めたいのだ。

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本質を理解しないうちは、金持ちになろうとするな!

 ネットサーフィンをしていると、いかに世の中の多くの人がお金をほしがっているかが分かる。もちろん、それはそれで構わない。何を望もうと本人の自由だから、とやかく言うつもりはない。

 しかし、お金儲けの本質を理解しないで、たんにテクニックだけでお金を稼ごうとするのは大きな失敗のもとだし、仮にそんなことをしてお金儲けをしても、けっして幸せにはなれないと思う。 

 よく考えてみてほしい。お金儲けの本質とは、「自分を世のため人のために役立てて、人様に喜んでもらい、その対価としてお金を貰う」ということであり、お金をたくさん稼ごうと思えば、それだけ人様に喜んでもらうことをしなければならないわけである。「お金が入ってくる」のが先ではなく後なのだ。その前に必ず「人様に喜んでもらう」がなければならないのだ。だから、お金儲けをしようと思えば、「どうすれば人様に喜んでもらえるか」と真っ先に考えなければならないわけである。

 しかし、たんにテクニック的なことだけでお金をガッポリ儲けてやろうという人は、自分を世のため人のために役立てようなんてことはちっとも考えていない。彼らが考えているとは、「とにかく手っ取り早く、できるだけ楽をしてお金を稼いでやろう」とういことだけだ。

 「どうすれば人様に喜んでもらえるか」などまったく関心がないのだ。だからこそ、彼らはリスクの高い儲け話に夢中になり、失敗しやすいのである。なぜなら、それはお金儲けの本質に反することをやっているからである。

 その点、私は「もっと金を儲けてやろう」という欲があまりないので、堅実な投資方法で地道に資産を増やしている。実に地道だが、着実に、年々、資産を増やすのに成功している。具体的には、家賃収入と投資信託の分配金であるが、余剰が出ると、すかさず投資信託に投資し、受け取る分配金を増やしている。少しづつではあるが毎月、分配金が増えており、いずれは雪だるま式に増え出すだろう。

 そういうわけで私は、リスクの高いものには一切手を出さない。株には手を出さないし、銀行から住宅ローンを借りて投資目的で不動産を取得するという「レバレッジ効果」にも関心がない。なぜなら、そういう高いリスクを負ってまで金を稼ぎたいという欲がないからである。私の身内に、銀行から莫大なローンを借りて不動産投資をした結果、大失敗に終わった女性がいるが、「金が欲しい」という欲望を満たすためだけで投資をすると、こういう失敗に陥りやすいのだ。

 もう一度いう。幸せになりたければ、幸せの本質を理解しなさい。そうすれば、たんにテクニック的なことだけを学んでお金儲けしても幸せになれないことが分かるはずだ。そしてそれが分かれば、リスクの高い投資に手を出す前に、お金儲けの本質を理解し、「自分なりの方法で世のため人のためになること」を探し始めることだろう。結局、そのほうがお金持ちになりやすいのである。

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不労所得があれば精神的にも強くなる

 私は、ラジオで人生相談をよく聞くのだが、人生相談で多いのが金銭トラブルだ。しかし、一口に金銭トラブルといっても、その根源は心理的な問題である場合が多い。

 例えば、口頭の約束だけでお金の貸し借りをした結果、相手から「返して貰ってない」という因縁をつけられて莫大なお金をゆすられたいうトラブルがよくある。ある女性は100万円を借りて、数回にわけて全額を返したにもかかわらず、その領収書を受け取っていなかったため、相手から「返してもらっていない」と因縁をつけられ、何度も上乗せで請求されているという。

 もちろん、因縁をつけているほうが悪いのである。しかし、こういう相談を聞いていて思うことは、なぜ領収書を出してもらっていないのか? なぜ口頭だけですませているのか? ということである。そういうのは、領収書をきちんと出してもらっていない方にも落ち度があるのではないか、と思ってしまうのである。

 ずるい人間は、書面にするのをいやがるものである。口頭だけですませて、都合が悪くなったら、いつでも逃げられるようにしているのである。逆に、相手をやりこめられると思ったら、書面がないことをいいことに、これでもか、これでもかと身勝手なことを言い出すのである。

 端から見れば、「なぜ口頭の約束だけで、そんな大金のやりとりを?」と思うのだが、これは心理的に弱い立場の人間は、相手に強く書面を求めることができなかったのであろう。

 その心理は私には痛いほどよく分かる。なぜなら、私自身、お金に困っていた時代は心理的にも弱かったからだ。

 例えば、出版社が本の執筆や翻訳を依頼してくる。その際、私が不労所得で食べていけるお金があれば、仕事を引き受けてもいいし、引き受けなくてもいい。しかし、貧乏であれば、なにがなんでも引き受けざるを得ないわけである。そんなとき、出版社側に対して、きつく、書面を求めることができるだろうか? それは心理的には不可能なのである。なぜなら、「そんなめんどうなこと言うのなら仕事を回さないよ」といわれやしないかと冷や冷やしているからだ。

 出版社側は、都合が悪くなったら、出版を停止して、「もともと出版契約などなかった」という風に逃げられるよように、出版契約書を出すのを渋るのである。私が「契約書を出してほしい」といっても、「ああ、ウチは、そういうの、いちいちやってませんから」とか、「まあ、そう固いこと言わないでよ、お互いの信頼関係でやっていきましょうよ」とか言い訳をして、出版契約書を出し渋るのである。そういうわけで、貧乏な文筆家は、口頭だけで仕事を引き受けざるを得なくなるのである。そうなると、当然、トラブルが生じやすい。

 しかし、不労所得だけで食べていけるようになるとこちらも強いものである。なにしろ、仕事を回してもらわなくても、いっこうにかまないからだ。だから出版契約書を出すのを渋るようであれば、最初の最初から仕事を引き受けなくてもいいのだ。出版契約書を求めて、「ああ、ウチは、そういうのいちいちやってませんから」と言われたら、「よろしければ、出版契約書を出していただけない理由をざっくばらんにお教えいただけませんか? 出せない理由は何でしょうか?」と強い立場で聞けるわけである。それでも出してくれなければ、仕事を引き受けないわけである。これでトラブルが未然に回避できるのである。

 トラブルを回避する鉄則をお教えしておこう。

 あなたが相手に書面を求めて、出し渋るようなら、相手の誠実さを疑いなさい。お金の貸し借りでも、きちんと借用証書なり、領収書を交わしながらやりなさい。何かの契約をするときも、必ず、書面で確認しながらやりなさい。相手にそれを強く求められないとしたら、結局、相手に都合のいいようにされてしまう可能性があることを前もって考慮しておきなさい。

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大きな夢を持て!

 私が学問は一生続けて行きたいと言えば、必ずといっていいほど、

「学問なんかやって何になるの? お金儲けにつながるの? そんなことやっても何の意味もないと思うけどなぁ。エクセル? なんで翻訳家の宮崎さんがエクセル習うの? そんなの家計簿をつけるくらいしか使い道ないんじゃないの? え? ドットコムマスター? それ取ったからといって、何かなるの? たいしたことないんじゃないの? ビジネスコンプライアンス検定? そんなの取っても何にもならないよ」

 と腐す人間がいる。彼らは、何にしても「そんなの意味がない」と否定してかかるのだ。

 では、そういう彼らは何をしているかといえば、直接お金儲けにつながることしかやっていないように思えるのである。つまり、彼らにとって「意味のあること」とは直接お金儲けにつながることであり、それ以外のこと、例えば、検定試験を受けるとか、書道に打ち込むとか、大学通信教育課程を出るとかという「自分を磨く」ことなど何も意味もないのだ。

 昨日、私の夢の一つである「宮崎伸治翻訳奨励賞」の創設についてブログで公表した。まだ具体的にいつ、どのような形で実施するかは決めていないが、告知方法はホームページとブログのみで行うつもりなので、広告費はかからないのである。新聞や雑誌に広告を出すとなると莫大な広告費がかかってしまうが、それをすべてホームページとブログで行えば広告費が不要なので、その分、賞金のほうに回せるわけである。

 しかし、いざ、こういう風に、自分だけにしかできない「世のため人のためになること」をしようと決意しても、その土台がない人間がいきなりは実行できないのである。

 例えば、ブログで告知するにしても、ある程度法的知識は必要となってくるだろう。著作権法について知っておかなければならないのはもちろんだが、ビジネスコンプライアンスの知識もある程度あったほうがいいだろう。応募者を管理するにはエクセルを習得しておいたほうがいいし、できればアクセスなどデータベースの知識があれば、なおさらいいだろう。もちろんITのことは熟知しておく必要があるので、最低限、ドットコムマスターの知識はあったほうがいいのだ。

 いざ何かやろうとしたとき、直接お金儲けにつながることしかやっていない人間は、できることが限られてしまうのだ。エクセルもできない、ITにも弱い、ホームページも作ったことがない、著作権のことも知らない、知的財産のことも知らない、外国語もできない、文章執筆能力もない…と、ないないづくしでは、何か大きな夢を実現しようとしても、できないだろう?

 だから私は言っているのである。その場その場で、すぐにお金儲けにつながるようなことだけやるのではなく、自分の好きなことに全力で取り組んでみたらどうか、と。このブログでも何度も何度も言っているように、目先のことだけしか見ずに、直接お金儲けにつながることだけしかやっていなければ、大きな成長もないし、いざ何かやろうと思っても、できることは限られてくるのだ。

 あなたは今、直接お金儲けにつながらないことで、全力で打ち込んでいるものはあるのかな? 

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一体何のためにお金が欲しいの?

 多くの人は、「お金持ちになりたい、楽して暮らしたい、不労所得がほしい…」と思っていることだろう。

 しかし、何度も何度もこのブログで言っているとおり、巨額の富を得ても、それで幸せになれるかどうかは別なのだ。実際、100億円以上稼いだという某音楽プロデューサーも、逮捕されて有罪判決をくらっただろう? また、犯罪をおかさなくても、巨額の富をもったままあの世には行けないのだ。あの世では、この世のお金などまったく何の意味ももたないのだ。

 だから、お金を人生の第一の目標にするな人生の第一の目標は善い人間になることだ善い人間になって、少しでも、世のため人のためになることをすることなんだ、ということを何度も何度も何度も何度も繰り返して言って来た。

「では、そういうあなたは、一体、何をやっているの?」

 と聞かれそうだが、私には夢がある。

 私は、私にしかできない形で「世のため人のためになること」をしたいのだ。では、それは何か。

 私は、もう少し資産を増やすことができたら、その暁には「宮崎伸治翻訳奨励賞」を創設したいと思っている。賞の受賞者には賞金を出すが、それはもちろん、全額、私が負担する。最初は賞金の額も少ないかもしれないが、ある程度のお金なら出せるだろう。

 では賞の目的は何か? それは「優秀な翻訳者になる素質がありながら、金銭的に恵まれないために、翻訳以外の仕事で時間が奪われ、翻訳の能力が埋もれたままになっている人の才能を開花させること」だ。

 実際、私は身にしみて感じていることだが、出版翻訳家になるのは大変だ。茨の道だと言ってもいい。実際、私自身が茨の道を歩んできたからよく分かるのだ。

 考えてもみてほしい。翻訳の通信教育を始めても、最後まで続く人は1割もいないだろう。しかし、その中でも出版翻訳家になれる人は1割もいないのだ。さらに、2冊、3冊…と本を出し続けていけるいわゆる職業翻訳家になれる人などそのまた1割もいないのではないか。というのも、出版翻訳というのは、労力の割にはお金にならない仕事だからである。運良くベストセラーに恵まれれば、金銭的にも潤うが、ベストセラーに恵まれるまでは悲惨そのものだ。しかし、そういう才能のある人を埋もれたままにしておくことは日本にとっても損失なのだ。だから、私はそういう人を発掘したいと思っているのだ。

 私は、お金をたくさん貯めて、そのお金で海外旅行がしたいだの、豪勢な料理が食べたいだの、豪遊したいだの、そんな自分の愉しみだけを考えているのではない。というより、そんなことをするより、やはり世のため人のためになることをしたいのだ。

「宮崎伸治翻訳奨励賞? なんだ、結局、自分の名前を売りたいだけなんじゃないか」

 そう思われるかもしれない。いや、それなら、別に私の名前を冠しなくてもいい。私は別に名をはせようなどとも思っていないし、そんな「名声」など、あの世にいったら何の価値もないことをよく知っているので、「名声」を得ることには興味がない。だから、私の名を冠さない、ごくありふれた賞の名にしてもいいと思っている。

 きっとあなたも「もっとお金がほしい」と思っていることだろう。しかし、それは何が目的なのかな? 自分さえ楽がしたいという思いでお金をほしがっているのかな? それとも、究極的には、何か世のため人のためになることをしようと思っているから、お金が必要なのかな?   

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自ら率先してやることの難しさ

 先日、慶應大学から冊子が届いた。

 その冊子には、今年3月に卒業した人のデータがあった。 

 私は今年3月に慶應大学通信教育課程を卒業したのであるが、卒業までにかけた期間はちょうど3年間であった。これは最も早いほうであり、例外的だと言える。

 慶應大学の場合、過去のデータを見れば、中退してしまう人が9割くらいいるわけだが、冊子のデータによれば、卒業した人でも卒業までにかけた平均年数が10.6年とあった。私が在学中に知り合った人も20年近くかけて卒業に至ったようである。

 今回の冊子には、「3年間ぴったりで卒業」した人の人数のデータはなかったが、「3年半以内」に卒業した人の人数が12人であることが分かった。「3年半で卒業」よりも「3年で卒業」のほうが難しいので、おそらく「3年で卒業」は私を含めて4~5人だったのではないか。

 これはどういうことを物語っているか。

 それは「自ら率先してやること」の難しさだと思う。

 人間というものは、ものぐさなもので、「今すぐやれ!」とハッパでもかけられないかぎり、「今やってもやらなくてもまったく困らないこと」を自ら率先してやるというのは、なかなかできないものなのである。実際、「別に今日、今すぐやらなくても…」みたいなことを考えていると、1日たち、2日たち、3日たち、1週間たち…となる。通学の場合は、授業に出てさえいれば、ハッパをかけられるので、否応なしにやるだろうが、通信の場合は、だれもハッパをかけてくれないので、自ら率先してやらないかぎり、いつまで経っても、課題が滞るだけなのだ。そういうわけで、卒業する人でも、平均10年以上かかっているわけである。

 かくいう私も、偉そうなことは言えない。慶應通信の場合は、卒論は別にしても、その他の科目は課題が与えられていたから、次々とやってこれたのだと思う。

 しかし、私の「ホームページを充実させる」という夢はなかなか進捗しないままだ。なぜなら、課題そのものも、自ら探して、取り組んでいかなければならないからだ。しかも、技術力も磨かなければ充実させることができないのだから、なかなかしんどい話なのである。だが、慶應通信でも3年で卒業したわけであるから、ホームページのほうも頑張って充実させて行きたい。まずは「WEB検定(WEBデザイナー)」を狙いたい。

 だれでも、お金が貰えるとか、お金が稼げるとか、異性にもてるとか、そういう欲望を満たすためであれば、あれこれと手練手管を考えながら頑張るものだ。だが、そういった目先の報酬が得られないもの、今すぐ取り組んでも取り組まなくてもまったく困らないようなものを自ら率先して頑張っていくというのは、けっこう大変なのである。

 あなたは、今、どんな課題に取り組んでいるだろうか?

 

  

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「仮象の目標」に拘るな

 「仮象の目標」に拘ることがいかに愚かなことか、例え話で説明してみよう。あくまで例え話であるので、その点留意してほしい。私がこの例え話で言いたいのは、「仮象の目標」に拘ることがいかに愚かなことかなので、それをしっかりと見極めてほしい。

 私は2年間外国に留学していたことがある。その国にはその国でしか使えないクーポン券がある。それはお金と同じように使えるのだが、お金には換金できない。当然、日本円にも換金できない。

 その国に永住するのであれば、クーポン券をたくさん稼げば稼ぐほど、いいだろう。なにしろクーポン券といっても実質的にはお金と一緒だから、お金をたくさん持っているのと同じようなものだ。そういうわけで、クーポン券獲得に必死になっている人もいた。

 しかし、いずれ日本に帰国することが分かっている人間にとって、使い切れないほどクーポン券を獲得することに何か意味があるだろうか? 例えば、あと1ヶ月で日本に帰国するとしよう。となると、その1ヶ月以内にクーポン券をすべて使い切ってしまわないと、ただの紙切れ同然となる。他人に譲ることもできず、換金することもできないのだから、まったくただの紙切れになるのだ。

 では、逆に日本に帰国して役に立つものとは何か? 英語力を磨いておけば、転職に役立つだろう。だれにも負けない英語力を備えておけば、通訳だろうが翻訳家であろうが、難なくなれるだろう。

 こういうことが分かれば、時間の使い方が変わってくるだろう。アクセクアクセクとクーポン券の獲得に時間を割くのが馬鹿らしくなって、そんなことをしているくらいなら、少しでも英語力を磨いておこうと思うだろう? 

 これで「真の目標」と「仮象の目標」の違いがお分かりいただけたのではないか。

 人間界ではお金をたくさん稼ぐことは意味があるように思えるかもしれないが、人間界を去って霊界に行けば、お金なんて何の意味ももたなくなるからだ。一方、人間界を去って霊界に行ったときに役にたつもののといえば、隣人愛である。言い換えれば、「他人に対する思いやり」といってもいい。それこそが霊界で役に立つのだ。

 どうだろうか。これでお金を稼ぐことよりも、「他人に対する思いやり」をもつことが何倍も大切であることが分かっていただけだろうか。

 お金を稼ぐことを目標にするなとは言わない。しかし、それは、例えて言えば、留学している人間がその国でしか使えないクーポン券を獲得しようとアクセクするのと同じようなものだと言っているのである。留学している人にとって「真の目標」は少しでも英語力を磨いて日本に帰国することであるならば、人間界に生きている我々にとっての「真の目標」とは「他人に対する思いやり」を持つことだと言えよう。その「真の目標」に比べれば、お金を稼ぐことはちっぽけなちっぽけな「仮象の目標」にしかすぎないのだ。

 お分かりいただけただろうか? 

 あなたはその「真の目標」のために日々努力しているだろうか? それとも「仮象の目標」だけしか見ていないだろうか? 

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急な出費は止まらない

 急な出費というのがある。

 まったく予想外な出費である。

 面白いように、なんだかんだで毎月のようにあるのである。こういう急な出費がなくなってくれれば、その分投資に回せるのだが…と思うのだが、なんだかんだで面白いように毎月急な出費がつきまとう。

 たとえば、金額が大きいものでいえば、デスクトップパソコンの修理代約5万、ノートパソコンの修理代約5万、インターフォンの買い替え約5万、DVDの大型モニターの修理代約5万、電動自転車のバッテリーの交換約4万などは、かなり痛い。

 少し痛いというのもある。自転車の部品の修理約1万、四十肩で通院約1万、歯科通院約1万、ガスコンロ買い替え約1万などである。こういうのも、ないに越したことはないが、まったくゼロになるものではない。

 「今月こそは、何もないように…」と願っていたのだが、なんと今日、風呂の中にCDレコーダーを落としてしまった。

 ドイツ語の検定試験日が近いので、時間の節約のために、CDレコーダーを風呂にもちこみ、ドイツ語を聞きながら風呂に入っていたのだが、ちょっとした不注意でCDレコーダーを風呂の中に落とした。

 その結果、うんともすんとも言わなくなり、新しいの買わざるを得なくなった。というのも、今が一番大切なときであり、試験日までの数日間でどれだけ耳を「ドイツ語耳」にするかにかかっているのだ。

 ううむ。買わないわけにはいかないだろう。今からすぐ電気店に飛んでいこう。

 こういう風に、急な出費はつきものなのであり、経済計画を立てるときには、あらかじめて想定して入れておくべきものなのだ。

 

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実現可能な目標をもちなさい

 人間、目標を持たずに生きていると、本当に、何もしないうちに「あっ」という間に時間だけが素通りしていく。あとになってから、他人が成功しているのを見て、「ああ、私もがんばれば良かった」みたいなことを言っても、もう遅すぎるのだ。

 時間を大切に生きようと思えば、ぼんやりと生きるのではなく、目標を明確に掲げてがんばらなければならない。ただし、その際、大切なことは、たんなる夢物語を目標にするのではなく、真剣に取り組めば実現の可能性が50%ていどはある目標を掲げることだ。実現の可能性が低い目標は掲げても意味はない。いや、むしろ逆効果とも言える。

 例えば、某大学の通信教育課程にいる人がブログをつけている。

 当初は「3年で卒業する」という目標を掲げていたのが、4年になり、5年になり、6年になり、7年になる。それでもまだ卒業までの道のりは遠いままだ。卒業が遅延するたびに、いつも、もっともらしい言い訳や負け惜しみが書かれてある。遅延のたびに猛反省し、「今度という今度は、この計画通りに進める」とかたい誓いが書かれてあるが、後日、またブログを訪れてみると、やはりいつもどおり計画が崩れている。計画どおりに行ったためしがない。

 毎度毎度計画がすぐに崩れるので、見ている方からすれば、「どうせまた、本気で実行するつもりがないのに、たんなる夢物語を書き込んでいるのではないか」と思えてしまうのだ。

 さて、あなたに聞いてみたい。あなたはどうだろうか。立てた計画はだいたい計画どおりに進むだろうか? それとも、立てていた計画が毎度毎度崩れてしまっているだろうか?

 もしも、立てていた計画が毎度のように崩れるとしたら要注意だ。その癖は本人が直さない限り、いつまでたっても治らないぞ。

 本気でその癖を治そうと思ったら、まず、実現の可能性がほとんどないことを目標にしてはならない。そんな夢物語を目標にしても、当の本人が最初から実現しようと努力しないはずだから夢が実現するわけはない。次に大切なことは、どんなことを目標してもいいが、実現の可能性が50%ていどはある目標を掲げ、その実現のために全力を尽くすことだ。

 

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品格を磨いたら、それが何なの?

 先日、私は名作といわれる文学作品を読み込むことで、知らず知らずのうちに品格が身に付くという話をした。文学作品を読んで、登場人物たちの感情を追体験することにより、一般の人生論や幸福論では身に付きにくい良い品性が身に付くのだという話をした。しかし、きっとこう反論する人もいよう。

「品格が身に付いたからといって何になるの? お金儲けにつながるの? そんなことのために文学作品なんて読まなきゃなんないの? そんなことやっても意味ないと思うけどなぁ」

 では、逆に品格のない人の場合を考えてみたい。一例をあげよう。

 先日、自宅の呼び出し音がなったので、ドアを開けずに、インターホンごしに音声だけで会話をしはじめた。

「どちら様でしょうか?」

「KDDIの○○と申します。本日は簡単な調査のために伺いました。今、インターネットはお使いでしょうか?」

「はい、もう光で使っています」

「プロバイダはどちらでしょうか?」

 こういう感じて、インターフォンごしに会話をしていると、調査はすぐに終わるのでドアを開けて欲しいと何度も懇願しはじめた。しかたがないので、ドアを開けると、

「私、KDDIから来ましたこういうものです」

 といって社員証のようなものを提示してみせた。きっと「怪しい者ではない」と強調したかったのだろう。しかし、私は、その社員証を食い入るように見た。本当にKDDIなのか確かめるためだ。私はこう尋ねた。

「KDDIの方、ですか?」

 すると、おびえたような口調にかわり、

「あっ、すいません、ええとですね、実はですね、KDDIの子会社なんですよ」

 私は、もうその時点でうさんくさいと思い始めた。

  そんなことは気に留めず、彼は話し続けた。

「ええとですね、実は、今、とてもお得なキャンペーンをやっているのです。お客様の今のプロバイダから当社のプロバイダに変えていただくと、なんとキャッシュバックがもらえるのです。しかも、月々の会費が…」

 もう、いきなり勧誘の話になっているのである。彼はインターフォンごしに「単なる調査ですぐに終わる」と言っていた。しかし、調査ではなく勧誘なのである。私は、これは話すべきではないと思い、こう言った。

「あっ、すいません。私、今これから大急ぎで外出するので、お話を聞いている時間はないのです」

「ええと、では、今日は何時頃帰って来られますか? よかったら、今日、帰宅された後でまた伺いますが」

「そうですね、夜中の10時以降ですかね~」

「そうですか~。土日とかは家にいらっしゃいますか?」

「だいたい、いませんね」

「もしよろしければ、また伺う日時を約束していただければ、その時間に伺いますが…」

「今はいつが都合がつくかは分からないので、またこちらから連絡させてもらいますので、すいません、今日はもう私、出ますので…」

 こういってドアを閉めた。

 しばらくすると、その男性と同じマンション内の住民のある男性とが大声で口論しているのが聞こえてきた。

住民「あんた、なんだと思っているんだ。このマンションは勧誘目的で入ってくるのは禁止されているんだよ」

勧誘員「いえ、勧誘目的ではありません。あくまで調査目的です」

住民「なにが調査だよ。調査じゃなくて、勧誘じゃないか。出て行け! お前、自分がやっていることがどういうことか分かってるのか!」

 さて、ここであなたに聞いてみたいのだ。

 この勧誘員は品性があるといえるだろうか? おそらくプロバイダの新規加入者を増やさなければならないというノルマでもあるのだろう。そのノルマを達成することが彼にとっての最大の目標になっている。しかし、その目標達成のために、「やってはならないこと」をやってしまっているだろう?

 調査目的ではないのに調査目的だとウソをいい、KDDIの社員でもないのにKDDIの社員を語り、しつこく勧誘して相手に嫌な気分をひきおこす。とても品性のある人の行為とは言えないだろう。一方、小さいときから文学作品に親しむなどして本当に品性を身に付けた社員なら、もっとまっとうな方法で勧誘をするのではないかな? そして結局は、品性のある社員のほうが長い目で見れば、多くの新規加入者を得ているのではないかな?

 

 

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仕事は何のためにやるの?

 あなたは一体何のために仕事をしているのだろうか?

 少しでも世のため人のためになることを心がけてやっているのだろうか。それとも、ただ単にお金を稼ぐためだけにやっているのだろうか?

 「仕事」と一口に言っても本当に様々な仕事がある。なかには本当に大変な仕事もある。私は別に、どの仕事はどうだと決めつけた言い方はしたくないのだが、あくまで印象として述べれば、「大変そうな仕事」として、単純肉体労働とか、長時間勤務なのに薄給な仕事などがあげられる。また、ある人は、介護施設の職員は「大変だからなかなかできるもんじゃないよ」という。では、そのような「大変そうな仕事」についている人たちは、いったいなぜその仕事をしているのだろうか。心の底からその仕事がしたくてしているのだろうか?

 一方で、同じ「大変そうな仕事」でも、見るからに、それが好きだからやっているのだろうと思える仕事もある。例えば、プロ野球の選手である。彼らは本当に大変だろう。競争は厳しいし、たった1年でも成績が芳しくなければすぐにクビになる。だが、周りから見れば、「好きだからやっている」ように見える。その他、歌手、漫画家、作家、お笑い芸人など、「好きだからやっている」ように見える仕事は、いろいろあげられるだろう。

 これら2種類の仕事の違いは「好きでやっているか否か」の違いだろう。どちらの仕事も大変なのである。しかし、同じ大変な仕事であっても、一方はただ単にお金を稼ぐためにやっているのに対し、他方は好きだからやっているのである。もちろん、「100%お金のため」、「100%好きだから」ということはないかもしれないが、「お金のため」と「好きだから」の割合が違うのである。

 私は留学から帰国したとき、一時、借金まみれだったことがある。そのとき、短期ではあるが、単純肉体作業の仕事をしたことがあった。それは「その仕事が好きだから」やったのではなく、お金儲けのためだけに「本当はやりたくない仕事」だったけれどやったのである。具体的な仕事の職種はここには書かないが、単純肉体労働を1日8時間して、もらえるお金は5000円ていどだった。へとへとになるまで働いて5000円である。家に帰ったら、すぐにベッドになだれ込むようにして眠り込み、起きると、また肉体労働が始まるのである。そんな仕事をしていて思ったことは、「こういう仕事はもうこりごりだ」ということだった。

 どんな仕事であれ、世のため人のために役立っている。だから、そういう意味では、職業に貴賎はない。

 しかし、好きな仕事に就こうと思ったら、相当の覚悟を決めて、努力し続けるしかないのではないか。例えば、プロの出版翻訳家になるにしても、数年間でなれるような生やさしいものではない。外国語が相当できなければならないが、日本語の文章を商品として出せるだけの下積みも必要だ。それには少なくとも10年の修行が要るだろう。翻訳家は一つの例だが、その他、歌手にしても、漫画家にしても、役者にしても、それなりの努力を積まなければ、いきなりできるようにはならない。

 それができず、ちょっとしたことですぐに夢を投げ出す人は「いやな仕事」をせざるを得ないのではないかな? せっかく目標を定めても、ちょっとした困難にぶつかると、すぐに諦めている人は「いやな仕事」でも、お金儲けのために仕方なくせざえるを得ないのではないかな?

 あなたは「好きな仕事」をするのと「お金儲けのために仕方なしにする仕事」とどちらをしたいのかな? 

 

 

 

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好きなことをしてお金が入ってくる人、嫌いなことをしてお金を稼ぐ人

 あなたは次の2つの選択肢があるとしたら、どちらがいいのか?

1,好きなことをして、その結果、お金が入ってくる

2,お金儲けのために、しかたがないから特に好きでもない仕事をして、お金が入ってくる。

 ほとんどのすべての人は、1の選択肢のほうを選びたいのではないか?

 だが、私が見る限り、「好きなことをして、その結果、お金が入ってきている人」は極めて少ない。統計を取ったわけではないが、推測するに、1%ていどの人しかいないだろう。残りの99%くらいの人は、お金儲けのために今の仕事をしているわけだ。

 歌手、お笑い芸人、プロ野球選手、作家、翻訳家、漫画家…こういった職業についてい人は、「好きなことをした結果、お金を得ている人」の割合が比較的多いように思えるが、どう見ても「だれもやりたがらないような仕事」に就いている人は、好きでその仕事をやっているようにはなかなか思えない。

 しかし、「お金儲けのために、しかたがないから今の仕事をしている」という人の多くは、学生時代から、自分の好きなこと自体、なかったのではないか? 空いている時間があったら、好きなことを打ち込むということをせずに、アルバイトに精を出していたのではないか?

 私はアルバイトは極力しなかった。好きなことがあったからだ。お金儲けよりも、やりたいことがあったからだ。私はとにもかくにも、英語、英語、英語という毎日を過ごしていた。あけてもくれても英語だった。

 「将来、翻訳家になりたい」と口にしたら、大笑いした友人もいた。「なれるわけないじゃん」と見下したことをいう友人もいた。しかし、私は英語が好きだから、あけてもくれても勉強に打ち込んでいた。その後も、かたっぱしから英語関連の資格に挑戦したり、翻訳の通信教育に打ち込んだ。25歳のときは、当時の給料の1ヶ月分を投入して児童文学の翻訳書を自費出版までした。そういう毎日を10年続けたからこそ、翻訳をしたり、英語の参考書を書いたりという、「好きなことをして」お金が稼げるようになったのである

 お笑い芸人としてテレビに出られるようになるにも数年から10年くらい修行がいるだろし、歌手、書道家、作家、翻訳家、プロ野球選手なども、好きなことを数年から10年くらいトコトン追い続けなければ、お金が儲かるようにならないだろう。

 出版翻訳家として言わせて貰えれば、出版翻訳家になろうと思えば、最低でも5年ないし10年くらいは、修行しなければならない。

 今のあなたは1と2のどちらだろうか?

 もし2だとして、1に変わりたいとは思わないだろうか?

 もしそうなら、道のりは長いかもしれないが、「本当に好きなこと」を見つけるべきではないか? お金が儲かる・儲からないは別として、「とにかく好きだからやってみたい」ということを探すべきではないか? お金を第一に考えていたら、けっして見つからないのではないかな?

 今の私は、ドイツ語や哲学、ITの勉強をやっているのである。それはたしかに今は直接お金儲けにはつながらない。だが、「好きだから」という理由だけで5年ないし10年続けたら、それはそれでお金儲けにつながるかもしれないだろう? そういう「好きなことを続ける」という心構えがないかぎり、「好きなことをして、お金が入ってくる」という好ましい状態にはなりにくいのではないかな?

 

 

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「楽がしたいなら死になさい」

 はっきり覚えていないのだが、たしか海援隊の「母に捧げるバラード」の中に、鉄也の母が鉄也にこう説教するせりふがあったと思う。

楽がしたくなったら、そのときは、死になさい

 世の中の多くの人は、「不労所得を得て楽したい」とか、「会社員なんか止めてフリーになって楽したい」とか、「会社勤めなんかやめて主婦になって楽したい」とか、楽したい楽したいと思っている人が多いようだ。

 しかし、人間がこの世に生きている本当の目的は、魂の修行なのだ。楽をすることが人生の目的なんかではないし、実際、毎日毎日、何もせずに生きているのは「退屈」という地獄が待ち受けているだけで、けっして面白いものではないのだ。

 だから、どんな境遇にあっても、私たちは生きているかぎりは、ずっと魂を磨き続けなければならない

 たとえ、不労所得を得て、一生、働かなくてもいい境遇になったとしても、毎日毎日、なにもせずにぼんやりあめ玉をしゃぶりながら生きていてはならないのだ。働かなくてよかったら、別の何かで自分を磨かなければならないのだ。

 もし、あなたが一生、お金のために働かなくてもいいとなったら、あなたは一体、何をして自分を磨くのかな? 

 とにかく、どんな境遇にあっても、不満をもらさず、それを自分に与えられた修行の機会だと思って、受け入れることだと思う。楽をしたい、楽をしたい…と思っても、私たちは生きているかぎり、楽はできないようになっているのである。

 

 

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隣人愛の第一歩

 どんな人が尊敬に値するかといえば、隣人愛を自分の「義務」として実践した人である。カントの哲学を勉強した人なら、定言命法というのを学んでいるはずなので、すぐに分かるだろう。カントの言うとおり、たんに隣人愛を実践しただけでは尊敬に値するとまではいえず、「義務」として実践しなければならないのだ。

「言っていることが全然分からないよ」

 こういう声が聞こえてきそうである。まあ、これはカントの哲学を勉強しなければ、分からないだろう。だが、一つ言えることは、隣人愛を実践することが「尊敬に値する人間」になるための第一歩であるということだ。これなら、理解して貰えるだろう。人間は、ただ単に自分のためにお金を稼いだり、自分の名誉のために働いたとしても、一つも偉くはないのだ。

「隣人愛を実践する? よく分からないなぁ」

 またまたこういう声が聞こえてきそうである。

 隣人愛を実践するというのは、平たく言えば、倫理的に生きるということだ。倫理的に生きるとは、人間関係を大切に生きるということだ。人間関係を大切に生きるとは、相手の人間性を認め、相手がいやがることをしない、相手のよころぶことをする、ということだ。隣人愛を実践するのは、これがスタートなのだ。

 まだ分からないだろうか?

 例をあげて説明しよう。倫理的に生きる機会は、日々、いくらでもある。

 例えば、仕事上でも、いろいろな約束があるだろう。約束をきちんと守る、とういのも一つの倫理的行為だ。なぜなら、約束を破られるほうは腹が立つだろう? 約束をきちんと守れば喜んでもらえるだろう? だから、毎回毎回、期限を破ったり、集合時間に遅刻する人は、その時点で倫理観に欠けるといえよう。

 倫理的に生きるには、例えば、次のルールがある。

・ウソはつかない。(ただし、相手のためにウソをついたほうが望ましい場合は除く)

・約束したことは守る。(守れるかどうか分からないことは軽々しく約束しない)

・社会のルールにしたがう。(ただし、全く無為意味なルールは場合による)

・自分だけを例外視しない。(自分さえよければいい、という考え方を捨てる)

・他人を批評・非難・否定しない。(上から目線でしゃべらないという意味である)

 このように倫理的に生きる機会は日々、いろいろな場面であるのだ。

 上記の5つのルールを完全に守っているだけでも、倫理観はかなり高いほうだと思うが、ただし、これらは隣人愛を実践する最低条件であり、本気で隣人愛を実践しようと思えば、自ら率先して、社会をよくしようと努力しなければならない。

 隣人愛をたくさん実践すればするほど、死んだあとで、よい世界に入れるのだ。あなたは死んだあと、よい世界に入りたくはないのか? 入りたいのなら、今すぐ、隣人愛を一つでもおおく実践するための夢を描くべきだ。

 さあ、あなたはどんな形で、隣人愛を実践していこうとしているのか? 

 あなたの夢を聞かせてもらいたい。

 

 

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不労所得だけで食べていける幸せ

 私は留学から帰国したとき32歳になっていた。なかなか仕事が見つからなかったので、借金が最大で50万円弱できたこともあった。

 しかし、その後、猛烈な売り込みで、仕事をたくさんとり、年柄年中働いて、32歳から41歳の10年間で、ゴーストライター本4冊を含め、合計60冊近くの単行本を出してきた。

 借金50万円からスタートした私の文筆家人生は、まさに茨の道だった。借金には毎月利子がつくので、地道に返していかなければ、なかなか借金が減らないのだった。

 幸い、ベストセラーにも何冊か恵まれ、資産運用もうまく行っているため、41歳の段階で、不労所得だけで食べていけるようになった。そう、私は、もう一生、お金を稼がなくても食べていけるのだ。

 思い起こせば、10年間、本当に激務、激務だったが、その激務に耐えたからこそ、今、こうして不労所得だけで食べていけるのだと思う。

 「お金を稼がなくても一生、不労所得だけで食べていける」

 これは実にありがたい境遇だ。

 よく考えてみてほしい。どんな会社であれ、お互い性格のあうものどうしが集まって仕事をしているのではない。お金儲けのためだけに、毎日毎日、一緒に働いているのである。いやだろうが、なんだろうが、そうせざるを得ないから、しているという人が多いのではないか。

 ある出版業界関係者が書いているブログを読んでみると、今の出版業界は非常に大変なようだ。インターネットの普及で、どんどん本が売れなくなってきているという。当然、どの出版社も、「売れる本」を作ろうとする。毎日毎日、売上数字をあげるためにアクセクしているという。

 私が文筆家になると言ったとき、両親は大反対していた。両親の立場からすれば、それは当然だろうし、今の私から見ても、文筆家として生計を立てることは大変だと思う。本当に大変だと思う。ただ、今の私は、それを「乗り切った」感があるのだ。

 1日平均労働時間14時間。それを1年365日、10年間続けた結果だと思っている。10年間のうち例外的に仕事をしなかった日も、せいぜい数日しかない。親の葬式の日も、葬儀が終わった後で仕事をしていたくらいであった。それくらい仕事づくめの日々だったのだ。今から思えば、実に、大変な日々だった。

 

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隣人愛の第一歩は?

 私は、学問はずっと続けていくつもりだが、学問が人生で一番大切だとは言っていない。学問をするのは、あくまで自分を磨くためであり、最終的には学んだことを隣人愛に活かすことが大切なのである。学んだことを、ただ自分の名誉のため、自分のお金儲けのために活かしただけでは、尊敬に値するとまでは言えない。

「隣人愛が大切なことは分かったよ。だけど何をするの? 偉そうなことを言っているけど、実際、何をやっているの?」

 こんな声が聞こえてきそうである。

 隣人愛といっても、何も大きなプロジェクトに取り組まなければならないというわけではない。できる範囲ないのことをコツコツやっていけばいいのだ。例えば、献血でもいいだろう。献金でもいい。コンビニやマクドナルド、スーパーなどに行けば、募金箱はたいていおいてある。それに小銭を入れてあげてもいいだろう。あなた自身がお金に困っているのなら、ベルマークを集めてどこかの学校に持っていったっていいのではないか。

「なんだ、隣人愛、隣人愛って、たったそれだけか?」

 そう思うかもしれないが、何もそんなことが隣人愛だというつもりはない。というより、そういうことを特別しなくても、もっともっと大切なことがある。

 隣人愛の第一歩は「倫理的な言葉を使うこと」だ。隣人愛はそこがスタートだし、それをしないで隣人愛は実践しようがない。

「倫理的な言葉を使う? う~ん、よく分からないなぁ。倫理的な言葉って」

 そういう声が聞こえてきそうである。

 分かりやすく説明しよう。「倫理」というのは「人間関係」という意味だ。だから「倫理的な言葉を使う」ということは「人間関係を大切にする言葉遣いをする」ということだ。さらに言い換えれば、「もし自分が相手の立場だったら、言ってもらいたくない言葉遣いをしないこと、言ってもらいたい言葉遣いをすること」といえるだろう。

 例えば、図書館である青年がペットボトルを持ち込んで飲んでいた。それを見たある中年男性は激怒して、つかつかとその青年のところに歩み寄り、こう怒鳴った。

「このバカが! 飲むんじゃねぇよ。掲示板よく読め!」

 これは「倫理的な言葉」ではない。言い換えれば、「人間関係を大切にした言葉」ではない。話しかけているのは確かに人間ではあるが、モノとして扱っている。相手の人間性を認めていない。ただ、マナー違反をしているのに腹を立てて、怒りを爆発させただけである。

 同じ注意をするのであっても、「倫理的な言葉」が使える人なら、

「この図書館は、その掲示板にも書かれてあるとおり、飲食は禁止になっていますよ。気をつけられたほうがいいのではないですか?」

 というふうに、相手の人格を傷つけないように注意するだろう。

「な~んだ、たったそれだけのことか。そんなんなら私もいつも倫理的な言葉を使っているよ」

 そういうかもしれない。しかし、「倫理的な言葉」を使うことは意外と難しいのだ。特に他人を注意するときは、カッとなっているときが多いので、ついつい他人の人格を無視して、けなすようなことを言いやすいのだ。

 先日、私が自転車で道路を走っていたら、私の後ろから猛スピードで飛ばしてくる自転車があった。私が道を曲がろうかどうしようか迷いながら自転車の方向を変えようとしたとたん、後ろからきたその自転車と一瞬、ぶつかりそうになった。私は、後ろから来ている自転車にはまったく気づいていなかったし、何も私が危険な走行をしていたわけではない。なのに、その自転車に乗っていた男性は、私とすれ違いざまに、大声でこう怒鳴った。

「あぶね~んだよ、このバーカ。死ね!」

 私は、一瞬、殺気を感じた。しかし、こういう風に、たった一言ののしられただけで、私はその日、一日中、気分が晴れなかった。わざと危険走行をしていたわけでもないのに、なんで「バーカ」と罵られなければならないのか。おそらく、その男性は、ふだんから、ちょっとでも気にいらないことがあったら、すぐにこのように相手をののしったり、見下したりするのだろう。言い換えれば、「倫理的な言葉遣い」のできない人なのだろう。そう思うと、むしろ可哀相な人だと思えた。

 言葉遣いが大切だということがお分かりいただけだろうか? 隣人愛の第一歩は倫理的な言葉遣いをすることだということもお分かりいただけただろうか? 人間は、言葉によって励まされたり、口論したり、憎しみあったりするのである。倫理的な言葉、つまり、人間関係を大切にする言葉が使えるようになることが、隣人愛の第一歩ということがお分かりいただけだろうか?

 あなたは、自分の同僚、友達、配偶者、子供、見知らぬ人…に対して、どういう言葉を使っているのかな? 倫理的な言葉を使っているだろうか? 配偶者や子供だけでなく、見知らぬ人に対しても、倫理的な言葉を使えるようになることは、それだけでもとても重要なことではないかな? 

 

 

 

 

 

  

 

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夢の実現に大切なこと

 あなたはどんな夢をもっているのかな?

 どんな夢をもっていてもいい。短期の夢であろうが、長期の夢であろうが。

 ただ、私が見ているかぎり、いつも夢を語るだけで、いつの間にかその夢が消えてなくなっている人と、ほぼ描いていたとおりに実現させる人がいる。

 例えば、私は1年前、大きな目標として3つの夢を描いていた。それは「慶應大学卒業」「ドイツ語検定2級合格」「大学院合格」だった。

 その3つとも実現した。

 しかし、夢を夢のままで終わらせている人もけっこう多いのではないかな?

 夢を実現させたいのであれば、全身全霊を傾けて取り組めば、実現する可能性が50%ていどある夢を描くことだ。そして、その実現までのステップを考え、全力で取り組むことだ。

 しかし、実現する可能性が極めて低いことを夢見たり、本人の努力ではどうしようもないこと(つまり、運に左右されやすいこと)は、夢見ていても、努力のしがいがない。本人も最初の最初から、

(どうせ頑張ったところで、実現するわけないよな)

 と諦めているのではないか? そんな夢は、当然、実現しにくいだろう?

 もう一度いう。

 夢を一つひとつ実現させて行きたいのなら、本当に自分の能力だけで実現する可能性が50%程度はある夢を夢見ることだ。運まかせ、他人まかせの夢は、努力のしようがないのだから、本人にはどうしようもないのではないか?

 私には、これから先、まだまだ夢はたくさんある。

 

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あなたは夢を追いかけているか?

 ラジオの人生相談番組を聞いていると、65歳の男性が相談を受けていた。

「40年間、ずっと自営業をやって来たが、同じ仕事の繰り返しで、まったくおもしろくない。仕事をしたくないので止めたいのだが、止めると生活できなくなるので止めるわけにもいかない。毎日がおもしろくなくて、どうしようもない。一体どうしたらいいのか?」

 だいたいこんな相談であった。

 仕事を止めてしまうと生活できないのなら、たしかに止めるわけにはいかないだろう。

 だから、仕事をしながら現状を変えていくしか方法はない。

 回答者は、いろいろと提案をした。こうしてみたら新しい希望が湧いてくるのではないか、ああしてみたらいいのではないか…。

 しかし、それを遮るように相談者はこう言った。

「そんなの夢物語ですよ。だって、毎日毎日仕事しなきゃなんないんだから、そんな夢が簡単にかなうわけがないじゃないですか」

 それに対し、回答者はこう答えた。

「現状から逃げても何も始まりません。夢を実現しようと思ったら、まず夢を見ることから始め、その夢をどう現実化していくかを考えるべきです。夢をもたなければ、けっして現状が変わりません」

 あなたは今、仕事をしていて楽しいだろうか? お金を稼ぐためだけに仕事をしているだけだろうか? 

 もしそうなら、今すぐ自ら率先して夢を追いかけるべきだ。流れに流されるまま、必要最低限のことだけやっていても、現状は何も変わらないぞ。

 あなたの夢はいったい何なのだ?

 あなたはそれを本気で実現しようとして日々努力しているのか?

 それをしていないなら、先に紹介した65歳の男性のようなことになるのではないか?

 さあ、惰性で生きるのは止め、自ら率先して自らに課題を課し、一日一日成長していこうではないか! それが夢を実現する唯一の方法なのだ。

 

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好きなことをしたら、お金がどんどん入ってくる?

 あなたは次の1と2の選択肢があったら、どちらがいいのか?

 1,仕事をして、その対価としてお金を貰う

 2,好きなことをしたら、いつの間にかお金が入ってきている

 だれでも2を望むのではないだろうか。 

 好きなこと、例えば、歌うのが好きな人なら歌手、人を笑わせるのが好きな人なら漫才師、野球が好きならプロ野球選手…というふうに、好きなことをした結果、お金が入ってくる。

 これが理想ではないか? 

 実は、今の私は、2である。好きなことをして、それでお金が自動的に入って来ているのだ。今、私が取り組んでいる作品も、お金のためにやっているのではなく、好きだからやっているに過ぎないのだ。もちろん、仕事であるからタダでは引き受けられないが、基本的にお金儲けが第一の理由ではない。

 しかし、この世に住むほとんどの人は、1の理由で働いているのではないか。つまり、好きだから働いているのではなく、お金を貰うために働いているのではないか。その証拠に、もしお金が1円も貰えないとしたら、今の仕事をするか? しないのではないか?

 「好きなことをして、自然とお金が入ってくる」

 これを実現しようと思ったら、好きなことをトコトン追求しなければならない。ちょっとやそっとの困難があってすぐに投げ出すようではダメなのだ。

 例えば、私にしても、出版翻訳家になるまで、どれだけ険しい道があったと思う? 

 翻訳の通信教育を3年もやった。英語の学校も15校くらい通った。イギリス留学でも2年間で600万円くらい使った。社内翻訳スタッフ時代は、毎日のように雷を落とされた。

  本当に、思い出すだけでも、茨の道だったのだ。 

 「好きなことをやったら、自然とお金が入ってきた」という状況を作りたいのなら、まずトコトン好きなことに打ち込んでみたらどうか? ちょっとや、そっとのことで諦めていたら、いつまでたっても、お金の奴隷でいるしかない。逆に言えば、お金の奴隷で居続けるということは、「好きなこと」をトコトン追い求めなかった結果だとも言えるのではないか?

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平均打率を高めよ

 私たちがこの世に暮らしているのは、死後、できるだけ良い場所に行くためである。それが人生の最大の目的であり、お金を稼ぐとか、地位を得るとかといったことは、ちっぽけな目標に過ぎないのだ。

 死後できるだけ良い場所に行くには、少しでも善い人間になることが必要なのだが、あまり深刻になって考えるのもよくない。

「私は、今までの人生で、自分のことばかり考えてきた。自分、自分、自分…だった。とても天界など入れるわけはない。なんて愚かな人生を歩んで来たんだろう」

 そう思って、クヨクヨ過ごしていてもしかたないではないか。変えられるのは、これからだけなのだから、クヨクヨ過ごすのはよして、これから頑張ろうではないか。

 その際、「平均打率を高めよう」と考えるのが一番よい。

「今までの俺の人生は、自分、自分、自分…で、他人に対して思いやりなど持ったことなどなかった。打率で言えば、せいぜい1割、いや、それ以下だったかもしれない。これでは地獄入り間違いなしだ」

 たとえ、そう思えても、まだ人生は残っているのだ。これからの人生で最大限がんばって、1割の打率を2割、あるいは、3割に近づける努力をしていったらいいではないか。最終的に3割に行けば御の字だろう? 

 100点満点の人生など歩んでいる人などこの世に一人としていないのだ。それは野球の選手で打率10割を打つ選手がいないのと同じだ。3打数しか立たない打者なら3本連続ホームランを打って打率10割ということもあるかもしれないが、年間400打席も立っている打者で打率10割などいない。それと同じで、人間、長く生きていれば、だれもが悪いカルマを作ってしまっているのだ。どんなに立派な人間でも、やることなすことのすべてで良いカルマばかりを作っている人などいやしないのだ。

 でも、悪いカルマを作ったことを嘆いていてもしかたない。だから今後は、極力、悪いカルマを作らないように注意すべきだが、過去のことはあまり深刻にならず、これから良いカルマを作っていき、「平均打率」を高めて行けばいいのである。というより、私たち人間にはそれしかできないのだから、少しでも良いカルマを作ることを心がけるべきであり、過去のことは悩まないことである。

 さあ、今日から新しい出発だ。過去のことは忘れ、今日から一つひとつ良いカルマを作っていこう。小さな小さな親切でいい。隣人愛を実践していくことだ。

 今1割の打率も、一日一日、頑張っていれば、1年後には1割2分になっているかもしれない。それを一生続ければ3割も夢ではないぞ。そこまで行けば、人間としてそこそこ頑張ったと言えるのではないか? 

 

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隣人愛とは特定のだれかを愛することではない

 私が、この世で生きる上で最も大切なのは隣人愛だと何度も述べているが、隣人愛とは「特定のだれか」に向けた愛のことではない。隣人愛とは、だれかを愛することというより、「人間性そのもの」を愛するということだ。

 言っている意味が難しいだろうか? 

 説明をわかりやすくするために、隣人愛の逆を考えてみよう。

 隣人愛の反対は自己愛である。自己愛とは、「自分さえ良ければいい、他人のことなんかどうなってもいい」ということだ。

 妻を愛している、子供を愛している…というのは、隣人愛ではなく、自己愛の延長だ。なぜなら、妻を愛するのも、子供を愛するのも、結局は、自分にとって都合がいいから愛しているにすぎないからだろう? 

 隣人愛は、そういった「自分さえ良ければいい、他人はどうなってもいい」という心を捨て、相手の立場になって考えるということだ。「相手も自分と同じように大切にする」ということだ。

 分かりやすい例をあげよう。

 例えば、ある会社員がいるとしよう。会社でしか使えないパソコンソフトがある。それを自宅で使う自分用のノートパソコンにインストールすれば、ただでそのソフトが使えると思い、隠れて自分のノートパソコンにインストールしてしまった。明らかに違法行為であるが、世の中にはこの人のように「ばれなきゃいいんだよ、こんな高いソフト、買ってられないよ」とついつい違法行為をする人もいるわけだ。そういう考え方自体が自己愛の産物だと言っているのだ。

 ソフト制作会社の社員は、まじめにソフト開発に時間と労力をかけて制作しているわけである。彼らの立場を考えれば、とても、ただでインストールなどできないだろう? こういう風にソフト制作会社の社員の立ち場になって考えるのが隣人愛の始まりだ。この例からも分かるように、「特定のだれか」ではなく、「目に見えないところにいるだれか」に対して思いやりを持つことが隣人愛の始まりだ。

 違法行為を行わないというのは、人間として最低限のことだが、それを出発点として、日々、できるかぎり「世のため人のためになること」をやろうと努力することが大切だ。

 例えば、「困っている人を助けてあげたい」と思っているのなら、具体的に何をするのがいいのか考えなければならない。ボランティア活動か、献金か、チャリティーか、それとも会社員として真面目に誠心誠意心をこめて働くことか? 方法はいくらでもある。小さな小さなことでも、やろうと思えば、いくらでもあるんだ。それを生きているうちに、一つでも多くやった人が天界に入るんだ。

 あなたは天界に入りたくないのか? 自分のため、自分のため、自分のため…と自己愛におぼれて生きていると、いくらお金を稼いでも、いくら名声を得ても、その挙げ句に地獄に落とされることになるのだ。 

 

 

 

 

 

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あなたは自分を磨くための目標をもっているのか?

 先日、韓国の前大統領が自殺しただろう? 報道によれば、巨額のワイロを受け取っていたことが発覚し、窮地に追い込まれたようだ。もし、それが本当であれば、彼はほぼ間違いなく地獄に行くことになるだろう。前大統領ほどの人が、である。

 今までも何度も言ってきたことだが、この例からも分かるとおり、どんなに巨額の金をもっても、どんなに名声を得でも、あの世に行くときには、なんにも役に立たないのだ。あの世に行ったときに、役立つものといえば、自分の魂をどれだけ磨いたかだけだ。巨額のお金を手にしても、地位や名声を手にしても、その挙げ句に地獄に行っていては何の意味もないだろう?

 今、私は霊界研究をしているのだが、実際、死んだ後に天界に入れる人もごくわずかだがいるようだ(600~700人に1人くらいの割合のようである)。しかし、天界に行けるか否かは地位や名誉や富とはまったく無関係のようだ。天界に行く人は、意外と平凡な主婦だったり、無名の会社員だったりすることもある。彼らが他の人と違うのは、自分の魂を磨いていたという点だ。魂が浄化されているから天界に入れるのである。

 では、自分の魂を磨くにはどうすればいいか? 方法はいろいろある。ただ、楽なことをやっていては磨かれることはない。日々まわりで起きている出来事に反応して生きているだけでは、魂は磨かれない。だって、そんなことならネコでもできるだろう? ネコでも、日々まわりの出来事に反応して生きているだろう? それと大差ないわけだ。そんな生き方をしていて天界など入れるわけはない。人間ならば、人間しかできないことをしなければならないのだ。

 例えば、字でもそうだろう? 字も、うまく書く練習をしなければ、ただ適当に字を書いているだけでは何年経っても決してうまく書けるようにならないだろう。字が汚かった子供がが、字を書く練習をしないまま生きて、40歳になったら驚くほど字がうまくなっているか? 50歳になったら字が綺麗になっているか? 汚いままじゃないのか? いや、むしろ変な癖がついているのがオチではないか?

 それと同じように、自分の性格も、ただ単に生きているだけでは磨かれることなどないのだ。自分の性格も、字をうまく書く練習をするように、自ら率先して、欠点を直していなかいかぎり、磨かれることはないのだ。もう一度いう。ただ周りの出来事に反応して生きているだけでは、何年経っても、性格は磨かれない。困難なことに挑戦することで初めて性格が磨かれるのだ。

 あなたは日々、自分を磨くためにどんなことをやっているだろうか。

 何? 何をやったらいいのか分からない?

 1日1時間、偉人伝を読んでみるのもいいのではないか。人生論を読むのもいいかもしれない。外国語ができる人なら、それを原書で読むのもいいだろう。あるいは、ボランティア活動に参加してもいいのではないか。時間のない人なら、公園に行って落ちているゴミを拾ってもいいのではないか。役所の福祉課に行けば、献金を受け付けてくれるはずだから、匿名で献金してもいいのではないか。世の不正を糾弾する活動に参加するのも一つの手ではないか。世の中を明るくするアイデアがあったら雑誌や新聞に投稿してもいいのではないか。あるいは、本を書いて出版社に売り込んでもいいのではないか。

 あなたは、このような「自分を磨くための目標」を持っているか? お金儲けとか、昇進とか、異性を口説くとか、そういった「自らの欲望を満たすための目標」ではなく、純粋に「自分の魂を磨く」ための目標は何だ?

 かくいう私は今日これから図書館に行き、哲学書(英語)と格闘するつもりだ。それは何かの資格取得のためでもなく、他でもない自分を磨くためだけの目標だ。

 

 

 

 

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他人から尊敬される人になるには(2)

 あなたは一体、何のために生きているのか?

 何度でも言うが、私たちは、いずれあの世に旅立つ。だから、この世で地位だの名誉だのお金だのを求めて、自分のため、自分のため、自分のため…とアクセクがんばることなんて、実に愚かなことなのだ。なぜなら、お金も地位も名誉もあの世にはもっていけないからだ。

 ソクラテスも言ったように、私たちは、この世に「自らの魂をすぐれたものにする(善い人間になる)」ために生まれて来ている。お金を稼ぐためでもなく、地位や名誉を得るためでもなく、他人からの評判を良くするために生まれてきたのでもない。

 では、「自らの魂をすぐれたものにする」にはどうすればいいか。

 そもそも魂とは何か?

 これは哲学者によっていろいろ解釈があるが、共通しているのは、魂には理性の部分と欲望の部分があるということだ。(プラトンなどは、これ以外にも気概の部分があるというが、話が複雑になるので、ここでは一応、魂には2つの部分があるということで話を進めていこう)。

 つまり、「自らの魂をすぐれたものにする」というのは、理性の部分を開発し、欲望部分をうまくコントロールできるようになることに他ならないのだ

 理性の部分を開発するには、学問が一番だ。人間は、ただ単に自分の身の回りで起きている出来事に反応して生きているだけでは理性は開発されない。そんなことはネコだってできるだろう? ネコでも身の回りに起きる出来事に反応しながら生きているだろう? 人間ならば、何が真実かを常に問うていく姿勢が必要なのだ。

 欲望の部分をうまくコントロールできるようになるには、良い習慣を身に付けることである。犯罪を犯す人の多くは、「やってはいけないと分かっていながら、ついついやってしまう」人たちだが、それは欲望の部分をコントロールできなかったのが原因だ。だから、欲望の部分をうまくコントロールできるようになるには、日頃から良い習慣を身に付けることが必要なのだ。

 さて、では、理性の部分を開発し、欲望部分をうまくコントロールできるようになったら、それですぐさま「尊敬に値する人間」と言えるだろうか?

 答えはノーである。

 たしかに、理性の部分を開発し、欲望部分をうまくコントロールできるようになれば、それはそれで「善い人間」だといえる。しかし、「ただの善い人間」にすぎないかもしれない。「尊敬に値する人間」になるには、それにプラスアルファーが必要なのだ。

 では、その「尊敬に値する人間」と呼べるプラスアルファーとは何か?

 それは次回お話しすることにしよう。

 

 

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他人から尊敬される人になるには(1)

 だれでも、他人から尊敬される人になろうと思うだろう?

 あなたは、他人から尊敬される人になるには、どんなことをすればいいと思うだろうか。

 おそらく、ほとんどの人は、頭の中で次のような図式を描いているだろう。

「結婚式(あるいは葬式)にあれだけ大勢の人が出席していた」=「それだけ人望が厚い証拠だ」→「よし、俺も、自分の結婚式(葬式)には、できるかぎり多くの人に来て貰えるような人間になろう!」→「そのためには、俺も、他人から評判の良い人間になろう!」

「年賀状を毎年1000枚も出している」=「それだけ人脈がある立派な人なのだ」→「よし、俺も、マメに手紙やハガキを出そう。あの人のように莫大な数の年賀状を出す人になろう!」

 このようにして、彼らは「他人からの評判」を良くし、広い人脈を築こうとする。彼らの基準はあくまで他人だ。他人にどう思われるかが基準なのだ。なぜなら、彼らは「他人からの評判が良いこと」=「尊敬されること」という図式が頭にインプットされているからである。

 しかし、考えて貰いたいのだ。それは錯覚ではないか? 他人からどう思われるかが、本当に尊敬に値する人間になることに重要なことか?

 古くは古代ギリシャ時代にソクラテスがいみじくもこう警告していた。

 人間にとって最も重要なことは「自分の魂をすぐれたものにすること(善い人間になること)」であり、最も気にしてはならないことは「他人からの評判」だと。

 つまり、ソクラテスが言いたかったのは、他人からの評判が良い人が尊敬される人間ではなく、魂がすぐれている人間(善い人間)が尊敬される人間だということだ。さらに言い換えれば、「日々、尊敬に値することをコツコツとやっている人間が尊敬される人」なのだ。尊敬されるか否かの基準は他人ではなく、本人の生き方にあるのだ。

 もう一度よく考えてもらいたい。人脈があったり、人気があることが、本当に尊敬される条件か?

 例えば、某お笑い芸人が莫大な費用をかけて盛大な結婚式を挙げ、何千人から祝福されただろう。ファンも含めれば、全国でも何百万人が祝福しただろう。彼ほど人気のある人など日本中探してもそうそういないだろう。しかし、2年もしないうちに、自らの重なる不倫によって結婚生活を破綻させてしまっただろう。いくら彼のファンであれ、不倫は軽率な行為だったとしか言いようがないだろう? しかも一度の不倫などではなく、度重なる不倫だったわけだろう? 私はそのお笑い芸人を非難したいわけで書いているのではない。ただ、「人気があること」と「尊敬に値する人間であること」は必ずしもイコールにはならないという例を挙げたに過ぎない。

 誤解しないでほしいのは、私は「他人からの評判」を良くしようと努力してはいけないとは一言も言っていないことだ。他人からの評判を良くしたいのなら、そうすればいい。ただ私が言いたいのは、「他人からの評判」を良くすることよりも「自らの魂をすぐれたものにすること(善い人間になること)」ほうが遙かに重要だと言っているのだ。もっと言ってしまえば、「自らの魂をすぐれたものにすること(善い人間になること)」のほうが「他人からの評判を良くすること」の数百倍も数千倍も大切なことである。

 では、「自らの魂をすぐれたものにする(善い人間になる)」には具体的にはいったい何をすればいいのか? 

 さて、あなたに質問だ。あなたなら、どう答える? あなたは日々、こういう目標のために何をしている? あるいは、こんなことなどしなくてもいいと思っているだろうか?

 私は私なりの答えを持っている。それは次回お話しすることにしよう。

 

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あなたはお金に関して錯覚を抱いていないか

 ある人に、人生の究極の目標は何かと尋ねてみたところ、こういう答えが返ってきた。

「お金儲けだよ。一生、食うに困らないだけのお金を手にしたいよ」

 彼は、きっと、お金持ちになれば幸せになれると思っているのだろう。

 しかし、お金持ちになれば幸せになれるのだろうか? それは錯覚ではないだろうか? ガムシャラにお金儲けに奔走して、お金持ちになったあとで、「こんなはずではなかった」と後悔することはないだろうか?

 我々人間は、動物でもあるわけだから、霞を食べて生きるわけにはいかない。どうしても一定のお金は必要である。それは私も否定しない。アリストテレスも「幸せになるにはほどほどのお金は必要だ」と認めている。

 しかし、あくまで必要なのは「ほどほどのお金」にすぎない。それ以上のお金は、無理をしてまで稼ぐ必要はないし、無理に稼いだところで幸せになれるわけでもない。

 なのに、多くの人は、あたかもお金そのものに価値があるかのように、アクセクアクセクとお金を求めている。それではけっして幸せにはなれないのである。

 ハッキリと言っておこう。お金そのものに価値があるのではない。お金は、お金以外の価値あるものと交換してはじめて価値が生まれるのだ。そして、その交換のしかたがうまい人が幸せになれるのであって、お金をたくさん持っている人が幸せになれるのではないのだ。

 私たちは、お金に関して実に多くの錯覚を抱いているものだ。その錯覚を気づかせてくれる本が『ベンジャミン・フランクリン 富を築く100万ドルのアイデア 』である。

 お金持ちになりたければ、投資テクニックばかり学ぶよりも、まずはお金持ちになる精神を持つべきだろう。もちろん投資テクニックも重要だ。だがその前に本書でお金に関する錯覚を解きほぐそう。

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あなたにとって幸せとは何か

 私の友人が年賀状を書くのを止めたという。きっとそれまでは、「年賀状の枚数が多い=人脈が多い=幸せ」という図式を描いていたのであろう。

 しかし、あまりにも年賀状の枚数が多くなった今、果たして年賀状をたくさん書くことに意義があるのかと疑問視し始めたというわけである。

 昔、どこかで読んだことがあるが、たしかこんな話があった。ある大企業の社長が毎年1000枚以上もの年賀状を貰っていたのが、会社を辞めたとたんに、元社員から1枚も年賀状が来なくなってショックで鬱病になっという。つまり、彼が1000枚もの年賀状をもらっていたのは、「社長」という地位に対してであり、一人の人間として慕われていたからではなかったのである。それを知って愕然となり、鬱病になったわけだ。

 私は、何に価値を置くかは本人の自由だと思っている。だから、年賀状をたくさん貰えば貰うほど、幸せな気分になれるのなら、どんどん書けばいいのではないか。山登りが好きなら、とことん山登りをしたらいいのではないか。ドイツ語の勉強が好きなら好きでトコトンやればいいのではないか。私は、人それぞれが持っている価値観を否定しようとは思わない。(もっとも、中には下らないとしか思えない価値観を持っている人も多いのもたしかではあるが)。

 イギリスの哲学者J・S・ミルは「他人に危害を与えない限り、何をしようが本人の自由である」という危害原則を提唱した。成熟した社会に住む人々は、危害原則さえ守れば、何をしてもいいという自由を認めてもいいとは思う。

 ただ、私は一つだけ、提案したいのだ。

 今あなたが「これこそが私を幸せに導いてくれる」と思っている価値を常に反省していきたらどうだろうか。何をしてもいい。他人に危害を与えないかぎり、自分の好きなことをしてもいいのだ。しかし、好きなことをがむしゃらにやり続けるのではなく、ときたま「今私がやっていることは果たして私を幸せに導いてくれているのだろうか?」と反省しながら生きるのだ。

 先に紹介した鬱病を発症した元社長も、自分の価値観を反省して生きていれば、鬱病なんかにならなくてすんだのではないかと思う。

 

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哲学する意味

 私の友人が年賀状を自分から出すのを止めたという。それは「年賀状の枚数=人脈」という錯覚から目覚めたからだという。

 年賀状の枚数を増やそうと思えば、いくらでも増やせるだろう。極端なことを言えば、知り合った人全員に出し続ければいれば、枚数は増やせる。例えば、勉強会やセミナーにやたらめったら出まくり、その後一生会わないかもしれない人にも、名刺交換した人全員に出しまくっていれば、幾何学的に枚数を増やせるだろう。

 しかし、そんなことに時間を割くだけの意義があるのか。将来、都知事選にでも出馬してやろうというもくろみがあるのなら、そういう人脈も築いていく意義もあるかもしれない。しかし、ほとんどの人にとっては、自分の「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」をかなえる上で、単なる知り合い程度の人に年賀状を書くのは時間と労力のロスではないか。

 「人間は独断と錯覚の動物である」と、ある哲学者が本に書いていた。その独断と錯覚から解放されるには、哲学をやるのが一番である。

(今まで年賀状の枚数は多ければ多いほど善いと思っていた。しかし、その根拠は何だろうか? それは、だれにでも当てはまる真理であろうか? 私はこの価値観に従って生き、この後も500枚、600枚、700枚…と年賀状の数を増やし続けるのだろうか。そうすることによって私は今よりも何倍も幸せになれるのだろうか?) 

 こうして今まで抱いていた自分の価値観を疑うのが哲学の始まりなのである。

 哲学をしないで生きる人は、独断と錯覚の中で生きるということであり、本人はそれで幸せだと思っているかもしれないが、それが後になってとんでもない錯覚だと分かる可能性だってある。そういう意味でも、常に哲学をしながら生きるほうがより幸せな人生を歩める可能性は高いといえる。

 多くの人は、「哲学なんてやって何になるの? それだけお金が儲かるの?」と批判めいたことを言う。しかし、哲学をやっている人間からすれば、「哲学することなく、独断や錯覚の中で生きて何になるの?」と言いたくなるだろう。

 あなたも哲学をやってみないか。哲学といっても何も小難しいことばかり考えなければならないというのではない。日常生活で、ふと、「これって、本当のところ、どうなんだろう?」と疑問に思うことがあるだろう。それを突き詰めて考えてみることが、すでに哲学の始まりなのだ。 

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哲学する人、しない人

 プラトンは、哲学をする人こそが幸せになる資格があると考えていたようだが、逆に、哲学することなく、世の中の価値観に振り回されて暮らしている大勢の人は「羊の群れ」くらいにしか思っていなかったらしい。

 「羊の群れ」とは、ちょっと言い過ぎかもしれない。人間は、たとえどんな人間であれ、一応は人間であるわけだから、「人間」と呼んであげてもよいだろう。しかし、哲学をすることなく、ただ世の中の価値観に振り回されて生きている人は、人間としてレベルが低いのは間違いない。それは私も強く思う。

 では、「哲学する」とはどういうことか。

 「哲学する」とは、知を愛するということである。言い換えれば、真理とは何かを考えて生きることである。そしてそのためには学問をやるのが一番なのだ。

 もちろん、学問をやり続けたとしても、人間には究極の真理は知りようがない。しかし、真理を知ろうと努力し続ければ、そういう努力をせずに欲望の赴くまま生きるより、遙かに真理に近いことが分かるはずであり、何にも勝る喜びが得られるのである。そういった喜びを感じず、お金・名誉・地位・快感などを求めてさまよう人々は、プラトンの言葉でいえば「羊の群れ」にすぎない。

 あなたは今、どんな目標を持っているだろうか。

 あなたの目標の中に学問は入っているだろうか。

 それとも、お金だの、権力だの、名声だの、世界旅行だの、快楽だのと、そういった「モノ」を求めることしかないのだろうか。

 しかし、学問をせずに、そういった「モノ」をたくさん手に入れたとしても、プラトンに言わせれば「羊」のままである。

 一方、学問の喜びを知った人間は、学問によって真理に近づけば近づくほど、心が洗われたようなさわやかな気分に浸ることができる。それはお金や地位や名誉や名声よりも数百倍も数千倍も心地よい境地である。言葉ではうまく説明できないが、それはとにかく次元の違う世界に入り込むようなスリリングな喜びであり、その喜びを知れば、この世のモノなど色あせて見える。

 あなたは、そんな魅力的な学問をやろうとは思わないのか? 一生、お金とか権力とか名声とか、そういったモノを求めつづけてさまようのか? さあ、今からでも遅くない。学問をやろう。真理を探して旅だとう。

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もう惰性で生きるのはやめたらどうか

 あなたに聞く。クリスマスはどう過ごしただろうか。十分愉しんだだろうか。クリスマスが終わった今、早速、気を引き締めて、自分の夢に向かって取り組んでいるだろうか? 1日1日、やるべき「最重要なこと」が決まっているだろうか。それとも、なんとなく、正月休みを過ごしてしまうだろうか。

 私は、あなたに聞いているのだ。あなたにだ。今この文章を読んでいるあなたにだ。

 さあ、答えてほしい。あなたには1日1日すべき「最重要なこと」が決まっているだろうか。それとも人生のほとんどが「惰性でやっているだけのこと」、「義理でしかたなくやっていること」、「単に愉しいからやっていること」、「やらざるを得ないからやっているだけのこと」ばかりで埋め尽くされてしまって、何が「最重要なこと」かが分からないだろうか? 

 エジソンがクリスマスの日に結婚して、その日も数時間は研究室で研究に従事したことは以前お話ししたとおりである。本当に「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」があるのなら、クリスマスだろうが正月だろうが、結婚式の日だろうが、葬式の日だろうが、自ら率先して時間を作って、それに打ち込むはずだ。私も、父の葬式の日、喪主を務めた後、深夜に数時間英語の勉強に取り組んだ。あなたには、そういった「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」があるのか? 

 惰性で生きていると、あれよあれよという間に時間が過ぎていくだけで、夢なんか実現しない。だから「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」が見つかっていない人は、今すぐ自分の人生を見直してほしい。いつかではなく、今だ。今すぐ、見直してほしい。

 例えば、こんなことを語る人は多い。

「○○の検定試験を狙っています。仕事に役立つかもしれないと思って勉強を始めたのだけど、勉強自体は面白くなくなった。今は惰性で続けているだけです。早く合格して、勉強を止めたい」

 惰性で勉強するくらいなら、いっそのこと止めてもいいんじゃないか? 嫌々ながら続けるくらいなら、「やむにやまれぬ、どうしても勉強してみたいこと」を探して、そっちの勉強をしたほうが人生、何倍も楽しくならないか? 続けるのなら続けるで、その分野の勉強の中に愉しみを見つけて頑張るしかないんじゃないか?

「あと○年したら定年だ。自分で選んで入った会社だが、今は惰性で仕事を続けているだけだ。ああ、早く引退したい」

 惰性で仕事を続けるくらいなら、いっそのこと会社を辞めてもいいんじゃないか? 嫌々ながら続けるくらいなら、「やむにやまれぬ、どうしてもしたい仕事」を探して、そっちの仕事を懸命にやったほうが人生、何倍も楽しくならないか? 定年まで働くのなら働くで、今の仕事の中で自分でできる最大限のことは何かを自分で探して頑張るしかないんじゃないか?

 「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」が見つかっていない人は、勉強にしろ、仕事にしろ、なんとなく惰性でやっているだけではないか。でも、そういう人生を続けても、誰もあなたの代わりに「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」を見つけてくれない。それは自分で見つけるしかないのだ

 自分にとって「最重要なこと」が分からないという人は、今すぐ『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則 』を買って読むことをお勧めしたい。この本に書かれてあることを実践すれば人生が変わる。劇的に変わる。本当に変わる。惰性で生きていた人もきっと「やむにやまれぬ、どうしても実現したい夢」も見つかるはずだ。そしてその瞬間から、あなたの人生は知的冒険に変わる。「こんな人生があったのか!」と歓喜するに違いない。

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具体的に何をしたいのかを決めたらどうか

 あなたに聞く。あなたには夢があるのか。あるとしたら、具体的にそれを説明できるのか。

 私が聞いているのは、具体的に説明できるか否かだ。

 「何かでっかいことやってみたいんだよね」とか寝言みたいなことを言っていても、いつまで経っても夢は実現しやしないぞ。

 例えば、「私にはこんな夢がある」といって、こんなことを言う人は実に多いのだ。

「将来、本を書いてみたいのよ。エッセイもいい、童話もいい、紀行文もいい。とにかく何か書いてみたいのよ。自分の本を出してみたいのよ」

 しかし、こんな、たわごとを言っている人の中で実際に本を書いた人は見たことがない。そもそも、書きたいものが決まっていないのに、何が書けるというのだ。こんなことを言っている人は、いつも「何か書いてみたい」「何か書いてみたい」と言っているだけで、何も書こうとはしないのだ。だいたい、本人にも何を書けばいいのか分からないのだから、書き始められるわけがないのだ。そうは思わないか。

 これと同じことが、ありとあらゆる夢について言えるのだ。

 例えば、あなたは将来、店をやりたいと思っているかもしれない。あるいは、学校を設立したいと思っているかもしれない。あるいは、研究者になりたいと思っているかもしれない。

 ならば、「何かの店をやりたい」、「何かを教えてみたい」、「何かを研究してみたい」などと目標をあいまいなままにしておくのは止めて、今すぐ何に取り組むか決めたらどうか。それが決まらないのに、何ができると思う? 

 例えば、「洋菓子を扱う店をやりたい」、「中国語を教えたい」、「カントの思想の研究をしたい」などと具体的な目標が決まれば、やるべきこともより明確になるだろう? そしてそれが明確になればなるほど、何をすべきかが見えてくるのだ。

 もう一度いう。「何かをやってみたい」みたいな抽象的なことを何千回、何万回と繰り返しても、何も実現しないまま時間が過ぎるだけである。

 本気で夢を実現させようと思ったら、具体的に(何を売るのか、何を教えるのか、何を研究するのかなど)取り組むことを決めることだ。明確であればあるほどよい。なぜなら、明確であればあるほど、今、何をすべきかが明確になるからだ。

 なお、「夢そのものが見つかっていない」という人には、まず、問題意識を持つことから始めることをお勧めしたい。なぜなら、問題意識を持てば自然と「自分がすべきこと」は見つかるからだ。問題意識を持つために、私がお勧めしたい本を紹介しよう。これからも順次更新していこうと思うが、とりあえず現時点でお勧めしたい本を数冊リストしてある。(一部、検定試験用の受験参考書も含まれているが、いずれはきちんと整理したいと思っている)。

 http://homepage3.nifty.com/MIYAZAKI/books.htm

 

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「時間泥棒」に時間を奪われるのを阻止せよ

 あなたは、自分の夢を実現させる上で「最重要なこと」は何かを知っているというかもしれない。しかし、それを実際に実行に移せているだろうか。毎日毎日、計画どおりに実行しているだろうか。

 大切なことは、実際に実行したかしなかったかだ。「実行しようと思った」だけで終わるのはタダの人だ。実際、「実行しようと思う」だけなら誰でもできる。実際に実行したかしなかったかだけが問題なのだ。

 実行できているのなら、これから先は読む必要はない。しかし、「なんだかんだで忙しくて実行できていない」というあなたなら、ぜひ読み続けてほしい。自戒も込めて書くが、これは読者の方々のみならず、私自身に対する切なるメッセージでもある。

 考えてみてほしい。一体全体、あなたはなぜそんなに「忙しい」のか。そんなに「最重要なこと」ばかりやって生きているのか。実際は、多くの時間を「時間泥棒」に奪われているからではないか。

 「時間泥棒」とは、「重要でも緊急でもないのにあなたの時間を奪ってしまうもの」である。代表的な例でいえば、テレビ、新聞、雑誌、インターネット、年賀状、義理でのつきあい、つまらない口論、病気、故障…。こういった、あなたの夢の実現にほとんど役に立たないもののことである。

 あなたはこうした「時間泥棒」に時間を奪われていないか。もしあなたが「忙しい」という本当の理由がこうした「時間泥棒」が原因なら、ただちに時間の使い方を見直す必要がある。それをしないかぎり、あなたは一生「忙しい」ままだ。

 平凡な人間は、こうした「時間泥棒」に振り回されるがままの人生を歩んでいる。例えば、次のようなことはよくあることだろう。

 テレビをつけたらいつの間にか2時間3時間経っていた。ネットサーフィンをしていたらいつの間にか2時間3時間経っていた。年賀状を書くのに1ヶ月かかった。年末年始は忘年会と新年会ばかりだった。虫歯を直すのに莫大な時間が奪われた。結婚式の司会を頼まれて断り切れなかったが、練習の時間も含めれば、莫大な時間を費やした。知人と口論になって莫大な時間が奪われた。

 しかし、こういうことばかりに時間を奪われていたら、「最重要なこと」をする時間はいったいどこに残っているというのだ。

 私は、こういう「時間泥棒」には非常に気をつけている。だからこそ、自宅にテレビは置いていないし、新聞も雑誌も購読していない。年賀状も自分から書かないし、知人・友人とのつきあいも、本当に行きたいとき以外は行かないようにしている。また、病気で時間が奪われるのは馬鹿らしいので、風邪対策は万全である。

 ただ、私にも弱点はある。今の私にとって一番の「時間泥棒」は、インターネットだと言えよう。ついついネットサーフィンを始めると、本当にあっという間に時間が奪われてしまうのだ。

 こうした「時間泥棒」に時間を奪われないようにするには、その「時間泥棒」と物理的な距離を取るのが一番だ。例えば、テレビをダラダラ見る癖のある人であれば、いっそのことテレビを処分してもいいかもしれない。ネットサーフィンで時間が奪われる人は、喫茶店や図書館などで勉強するとネットサーフィンそのものができなくなる。

 こういう時間泥棒には本当に気をつけよう。自戒をこめて書いてみた。

 

 

 

  

 

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あなたは一日一日を大きな目標につなげて生きているか

 以前、私が会社員だったころ、年賀状にこんなことを書いてくる人が何人かいた。

「昨年は何もしないまま1年が過ぎ去りました。今年も何もやらないまま1年がすぎさるのかなぁ。こんな私ですが、今年もどうぞよろしくお願いします」

 こんな「独り言」を書いてこられても、返事のしようがないわけである。とはいえ、私も当時は会社員だったので、礼儀として返事は出したが、フリーになってからというもの、この種の「独り言」が書かれた年賀状は放置することにした。こういう人は、こういう意味のない年賀状を書いているからこそ、「何もしないまま1年が過ぎ去る」わけである。

 何度でも言う。目的意識をもって、一日一日を大切に生きていないかぎり、本当にあっという間に人生なんて終わってしまうのだ

 あなたは究極の目標を見極めて、一日一日を大切に生きているだろうか。一日一日を究極目標を達成するために役立てているだろうか? その場その場で、「楽しいこと」、「愉快なこと」、「やらざるを得ないこと」、「やったほうがいいこと」、「義理でやること」ばかりに対応して生きていると、「最重要なこと」は何一つできないまま、先の年賀状を書いた人のように「何もしないまま」人生を送ることになるのである。

 目的意識を明確に持てば、たとえばブログの書き方も違ってくるのではないか。

 例えば、某大学の通信課程に在籍している人のブログからは、「大学で学位を取り、教養のある人間になる」という究極目標に向かって1日1日突き進んでいるような印象を受ける。書いている内容は、レポート課題、試験、学問のことが中心だが、その人は、ブログを書くことで、自分で自分を励まし、進捗状況をチェックし、同じ道を進んでいる人たちと励まし合い、あるいは、コメントをもらってそれを情報として活用している。

 「今、社会学の課題に取り組んでいます。テキストは理解しにくいので、易しめの参考書を探してします。もしこの科目を取った人で、良かった参考書を知っている人は、コメント欄で教えてください。どうぞよろしく」

 このように書いていると、数日すると、親切な人がコメント欄に記入している。このようにしてブログがその人の究極の目標に大いに役立っているのである。

 どんなブログを運営するか、あるいは、どんな生き方をするかは人それぞれだ。だから私は他人を非難したり否定したりしようと思っているわけではない。ただ、これだけは言っておきたい。目的意識を明確に持たず、ただ「楽しいから」という理由で、あれこれ手を出して生きていると、時間だけが素通りしていくだけである。先の年賀状の送り主のような「何もしないまま1年が過ぎ去る」のだ。

 かくいう私であるが、自分なりに、これから1年先、2年先まで、すべき「最重要なこと」を見つけている。だから、1日1日が真剣勝負だ。

 なお、自分の今の時間の使い方に疑問をもっている人は、ぜひ『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則 』を読むことをお勧めする。私はこの本を読んでから、劇的に人生が変わった。嘘ではない。まさに劇的に変わったのだ。この本に書かれてあることを実践すれば、「何もしないまま1年が過ぎ去りました」というようなことは一切なくなる。

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大切なのは実行すること

 いろいろな方のブログを拝見していると、ブログで夢を宣言しても、実際に次々と実行している人もいる反面、いつも計画倒れになる人がいるということに気づく。

 面白いもので、計画倒れになる人は、ほぼ毎回計画倒れになっており、宣言した目標が当初のまま成し遂げられることなどない。

 例えば、通信教育を受けている人の中には、毎回のように、「いつまでにレポートを出す」という目標をブログに宣言している人がいる。しかし、後日、その人のブログを拝見すると、これまたいつものように、できなかったもっともらしい理由が書かれてあったりするのだ。「今度という今度は絶対頑張る」と書いてあっても、なんだかんだで、いつものように計画倒れで終わってしまっている。

 これではブログで夢を宣言する意味がまるでない。このようなブログを拝見していると、「絶対に○日までにレポートをしあげる」と言っている本人も、最初から本気で仕上げる気などなかったのではないかと思わざるを得ない。一応、ブログで目標を宣言はしているものの、本人も「また今回もどうせできなくなるんだろうなぁ」と心の奥底で思っているのではないか。

 結論から言えば、ブログで夢を宣言しようがしまいが、自分で決めた目標を守る人は守るが、守らない人は守らない。大切なのは、ブログで夢を宣言すること自体ではなく、実際に実行するか否かだ。ブログで「いつまでに○○をする」と高らかに宣言しても、それだけでは何も実現しないのだ。実際にやったかどうかで決まるのだ。(ただし、ブログで夢を宣言すること自体は否定しているわけではない)。

 思うに、毎回毎回計画倒れになっている人は、その悪い癖を直さない限り、これから先も、ずっと計画倒れの人生になるだろう。自分で決めたことが守れないという実績がどんどん積み重なると、それが当たり前になってしまい、小さなことすらでもできなくなってしまう。小さなことができないということは、当然、大きなことなどできるはずはない。

 もう一度言う。大切なことは、実際にやるかどうかだ。

 だから、実際にできそうもないことを書いてみたり、書いたけど実際にやらなかったりということは極力なくすことだ。言い換えれば、書いたことは絶対にやり遂げることだ。また、実行できるかどうか分からないことは書かないことだ。

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急な出費のために

 私は、毎月、数万円は投資信託にかけるようにしている。毎月毎月かけ続けることによって、分配金がどんどん増え、自由に使えるお金が増えるからである。

 理想としては、毎月、5万円以上は投資したい。それができれば、分配金も面白いようにどんどん増えてくれるだろう。

 しかし、現状では、なんだかんで、毎月、急な出費がかさんでしまい、ここのところ、ずっと2万円しか投資できていない。2万円でも、毎月投資し続けているので、受け取る分配金は増え続けているのであるが、微増にしかすぎない。

 面白いもので、本当に急な出費というのは、まったく想定外のときにかかってしまうのだが、これがなくなることはない。

 私の最近の例でいえば、パソコンの修理に5万、モニターの修理に4万、自転車の修理に4万、ドアホンの買い換えに4万…。こういうのが、不思議と1~2ヶ月に1回くらいの頻度でかかってしまうのだ。そんな「急な出費」などなくなってしまえと願っているのだが、どうしてもかかってしまう。

「今月こそは、5万円は投資したいなぁ。今月こそは何も起こらないように…」

 先日も、そう祈っていた矢先、使用しているパソコンが急に調子悪くなった。保証期間のすぎているものなので、見積もりを出して貰うと5万円という数字が提示された。

 これはもう悟るしかない。

 毎月「最低これだけで生活できる」という生活費ギリギリでやっていくのは非常に困難だ。なにしろ、モノは壊れてしまうのだ。そして、それは予告なしに急に壊れる。しかも放置しておくわけにもいかないのだ。

 結論として、急な出費のために月に5万円ていどあったほうが望ましいということが分かった。まあ、そのためにコツコツと投資信託にかけているのではあるが…。

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良いことかどうかを判断する基準は何か?

 私の友人に、住宅ローンが残っているのに、さらにローンを組んでアパート経営をしたいという人がいる。

 妻は、そんな話を聞けば、当然、反対するだろう。「だって、まだローンが莫大残っているのに、さらにローンを組むの? そんな危険なこと、やっていいわけないでしょう。万が一、投資に失敗したら、とんでもないことになる。反対です」。こう言うのが普通であろう。

 しかし、そういって猛反対していた妻が、ひとたび、「旦那が亡くなればローンはチャラになる」ということを知るやいなや、「ぜひ、買って」と態度を豹変したという。

 こういう話を聞けば、彼女の行動基準は、「アパート経営という新たな投資をすることが良いことか悪いか」ではなく、「自分にとって都合が良いか悪いか」だったのではないかという印象を受けてしまう。

 誤解しないでほしい。私は「自分にとって都合が良いか悪いか」で物事を判断してはいけないといっているのではない。私の見る限り、世の中の95%以上の人は、「自分にとって都合がいいか悪いか」だけで物事を判断している。都合がよければいい顔をしているが、いったん都合が悪くなったら、手のひらを返したように機嫌を悪くする。それが普通なのだ。「自分にとって都合は悪いけれども、やったほうがいいからやる」ということが実際にできている人などほんのわずかしかいないのだ。

 しかし、行動基準が「自分にとって都合がいいか悪いか」だけになっている人は、カントに言わせれば、なんら道徳的価値内容を持っていない。言葉は悪いが、その点においては下等動物と大差ない。なぜなら、下等動物も、自分に都合の良いことばかりやって生きているからだ。ネコでもエサをくれる人にはなつくが、エサをくれない人は見向きもしないだろう。ある意味、それと同じだ。

 話は変わるが、ここで、ある既婚女性の話をしよう。彼女には旦那と息子がいた。そんな彼女の旦那は住宅ローンを3000万円も残していた。もちろん、金利も付くし、ローン返済のためには延々と働かなければならない。そんな彼女に遺産が手に入った。

 当然、家族のことを本当に思っているのであれば、その遺産を住宅ローンの返済に充てるべきだと思うであろう。なのに彼女は、自分の遺産は、住宅ローンの返済に充てず、日本円で持っておくというのである。

 私は不思議で不思議でしかたがなかったので、彼女にこう聞いた。

「なんで遺産を住宅ローンの返済に充てないの? だって日本円で持っていても、利子だってゼロに近いし、意味ないじゃん。早くローンを返して、少しでも早く楽になったら?」

 多くの人はそのほうが「良いこと」だと思うのではないだろうか。しかし、彼女は冷笑しながら、こう言った。

「馬鹿ねぇ。もし旦那が死んでくれたら、その時点で住宅ローンはチャラになるのよ。だから私にとっては旦那が死んでくれてもいいし、生きているのなら生きているで自分で返済させておけばいいのよ。ここで遺産を住宅ローンの返済なんかに充てたら、私のお金が無くなるもん」

 この女性も、「住宅ローンを早めに返すのがいいことか悪いことか」を「自分にとって都合がいいか悪いか」だけで判断しているのだろう。彼女にとっては、いくら金利がかかろうが、ローンは全額旦那に返させたほうが、自分にとって都合がいいのだ。だから、遺産をローンの繰り上げ返済に使いましょう、などということは絶対に言い出さないのだ。

 では、私はこのエッセイで何がいいたいのか? 

 本当に尊敬に値する人間になろうと思えば、自分にとって都合が良いか悪いかだけで物事を判断するのではなく、それ自体が良いことか悪いことかを理性的に判断できるようになることだ。(もちろん、「自分にとって都合の良いこと」が理性的に判断してやっていいことなら、やってもいい)。その判断が正しくできるようになってこそ、真に精神的な自由を勝ち得ているといえるのだ。「自分にとって都合が良いか悪いか」というレンズでしか物事が見られないとしたら、その人はまだ精神的な自由は勝ち得ていないということなのだ。

 

 

 

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お金は幸せの源泉にはなりえない

 昨日、衝撃のニュースが日本を駆けめぐった。

 小室哲哉プロデュサーが詐欺の容疑で逮捕されたのだ。報道によれば、本人も罪を認めているというから、有罪になることはまず間違いがないだろう。

 しかし、一時は100億円を超える資産を持つとも言われていたカリスマ音楽プロデューサーがなぜ詐欺をはたらかなければならなかったのか。

 報道によれば、海外事業の失敗で多額の借金を抱えてしまったのが原因の一つらしい。地位も名誉も富もすべてを手にした人間が、まさかまさかの転落劇である。

 この事件を照らして、自分の夢が、お金とか、名誉とか、権力とかを追い求めるだけになっていないか、今いちど反省してみようではないか。

 残念ながら、私が見る限り、この世のほとんどの人は、「お金持ちにさえなれば幸せになれる」、「名誉が手に入れば幸せになれる」、「権力が手に入れば幸せになれる」と思いこんでおり、お金、名誉、権力を求めてアクセク、アクセク立ち回っている。

 しかし、そのすべてを手に入れた人間でも、不幸のどん底に落ちる人もいるのである。この例からも分かるとおり、お金は幸せの源泉ではないのだ。

 では、どうすれば幸せになれるのか。何が幸せの源泉なのか?

 本当に幸せになるには、善い人間になる以外に方法はない。

 善い人間(分別のある人間、思慮深い人間、節制のできる人間)になればなるほど幸せになれるのに、多くの人は、善い人間になろうと真面目に努力するのではなく、それ以外のもの(お金、名誉、権力など)に幸せの源泉を求めるから、おかしなことになるのである。

 例えば、小室氏は、海外事業に失敗したらしいが、莫大のお金を投資するのだから、当然「成功するはずだ」と思って投資したに違いない。しかし、読みがはずれてしまった。投資額がもっと少なければ、こんなことにならなかっただろう。きっと、莫大な投資をしたのも、さらなる名誉を得ようとしていたのであろう。

 だからといって、私は投資をするなと言っているのではない。賢明な投資であれば積極的にしてもいいと思う。しかし、どんな投資であれ、リスクはあるということは忘れてはならない。

 「もっとお金を稼いでやろう、もっとお金が入れば幸せになれるはずだ」

 こういう風に、お金儲けのことだけ考えて投資しようとすればするほど、そこに潜んでいるリスクが見えなくなってしまう。言い換えれば、金銭欲にとらわれるがあまり思慮の足りない投資をしてしまうのだ。冷静になって考えたら「止めておくべきだ」と分かる投資でさえも、冷静さを欠いているために投資してしまうのだ。その結果、自ら悲劇を招くのである。

 何度でもいう。お金儲けを第一に考えるな。億万長者になったところで幸せになれるとは限らないのだ。そんなことよりも、善い人間(分別のある人間、思慮深い人間、節制のできる人間)になることを第一の目標にすべきなのだ。 

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投資信託の考え方

 私が投資信託(毎月分配型)を勧めるのは、それがマネーツリーになってくれるからである。

 だから、投資信託は、基準価格が値上がりしたときにキャピタルゲインが得られると考えている人向けではなく、ずっと寝かしておき、分配金をちょうど家賃のように得ようと考えている人向けである。もしそう考えることができれば、年の利回り7~8%程度入ってくるわけだから、けっして悪くはないのだ。

 しかし、今、基準価格が暴落して、多くの人は大騒ぎしている。損した、損した、損した…。彼らは、あたかも、投資信託などすべきではなかったと言わんばかりだ。

 でも、よく考えてほしいのだが、マンションにしろ、アパートにしろ、購入しても、毎年資産価値は上がったり下がったりするだろう。それをいちいち心配するだろうか? 家賃さえ入ってきていたら、資産価値などあまり関係ないだろう? というより、資産価値など気にしていたら、マンションにしろ、アパートにしろ、買うことすらできなくなる。マンションにしろ、アパートにしろ、数十年という単位で見るのが普通であり、5年や10年で売り飛ばすために買おうと思っている人などほとんどいないだろう。 

 それと同じで、投資信託も20年~30年というスパンで見たらどうだろうか

 正直、私は、基準価格が下がっても、ほとんど何も心配していない。私は5年も前から投資信託にかけているので、すでに投資した額の4分の1程度は、分配金で戻ってきているのだ。言い換えれば、基準価格が4分の1ほど下がっても、「トントン」なのだ。

 今、基準価格が下がって、「投資信託なんてダメだ」と言っている人に聞きたいのだが、ではもしも基準価格が期待以上に上がっていたらどう言っていたのだろうか? 「いや~、投資信託って素晴らしいよ。マンション経営なんかより、よっぽどいいよ」と言っていたのではないか? 

 短期的にも長期的にも、自分の目標をよく把握して、投資することである。投資なのであるから、どんなことをしても、リスクはある。マンション経営にしても、空室が出る可能性もあれば、ひどい場合は地震でマンションが倒壊することだってありうる。リスクがゼロという投資などないのだ。

 

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チャレンジすることで人生は刺激的になる

 チャレンジすることは簡単ではない。努力を要する。だから、平たくいえば、しんどい。

 人間、しんどいことはしたくないものだ。だれだって、ずっと楽ができるなら楽をしたいだろう?

 だが、しんどいことをしなければ、人間、成長はしないのだ。

 例えば、チャレンジすることを止め、必要最低限のことだけしかやらない人間にあなたは魅力を感じるであろうか。やるといえば、直接お金儲けにつながること、直接快楽につながること、そういった見返りを求めてすることばかりである人間に魅力を感じるであろうか。

 私は、人生の究極の目標は、善い人間になることだと思っている。

 だが、善い人間になろうと思えば、生半可な気持ちでは無理だと思う。ダラダラとテレビを見て、何の努力も払わない人間が、単に「性格が良い」というだけで善い人間になれるかといえば、そんことなどけっしてないのだ。

 善い人間になりたければ、なし得る最大限のことに常にチャレンジする気持ちがなければならない。

 私は、今後もいろいろなことにチャレンジしてみようと思う。それはお金儲けのためでも、快楽を求めるためでもない。ただ単に善い人間になるためだ。

 善い人間になるための一つに、分別のある人間になるというのがある。

 その一環として、私は資格試験に挑戦している。

 今後受けてみようと思うのは、「WEB検定(WEBデザイン)」「ビジネス数学検定」「CASEC」「ドイツ語検定2級」などである。

 「ビジネス数学検定」というのは、自宅でもインターネットで受験できる。次回は12月からなので、早速リベンジをしたい。(前回は初回だったため、慣れずに不本意な点数で終わったためである。少なくとも「A」の評価に相当する点数を出したい)。

 この検定試験は、ビジネスマンにはお勧めの試験だ。テキストとしては『ビジネス数学検定―新しいビジネスのかたち 』『ビジネス数学検定―カナりマナべる 公式テキスト 』の2冊が出ているので、早速買ってどんな試験が見てみるといいだろう。面白いし、数学的センスを試すいい機会だと思う。

 

 

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投資信託の勧め

 私は、今までにも、「お金を稼ぐことが人生で一番大切なことではない」ということを繰り返し述べてきた。

 しかし、これは、お金に余裕があるからこそ言えることでもある。

 実際のところ、お金に困っている人は、とにもかくにもお金がほしいであろう。お金のことに悩まなくてすむような人生を歩みたくなるだろう。だからこそ、お金、お金、お金…とお金ばかりを求める生活を送るようになるのだ。

 「お金を稼ぐことが人生で一番大切なことではない」のは確かだが、「お金がないことは人生で一番辛いこと」といっても過言ではないだろう。

 では、素人でも簡単にできるマネーツリーの作り方を伝授しよう。

 それは、投資信託にかけることである。

 もちろん、リスクはある。短期で儲けようと思うのであれば、やるべきではない。しかし、本当に超長期的な視野でマネーツリーを作ろうと思うのなら、投資信託がお勧めだ。

 今は、アメリカを中心に景気が悪化しており、投資信託の基準価格も軒並み下落している。私のかけている投資信託も全滅である。100万円投資しているものが80万円の価値しかなくなっていたり、70万円の価値しかなくなっていたりする。

 しかし、私のかけているもののほぼすべては「毎月分配型」というものであり、すでに投資した額の2割程度は日本円で受け取っているため、全然心配などしていない。これからもずっと寝かせておけば、毎月毎月分配金を受け取ることができるし、何年かすれば基準価格も元に戻るであろう。

 基準価格が下落している今は、解約するのではなく、むしろ、どんどん投資すべき時期なのだ。

 「リスクを負うのはイヤだ」という人なら日本円でずっと寝かせておくとよい。しかし、それでは一生かかってもほとんど増えはしない。さまざまな経済学者も予測しているが、今後、日本で定期預金の利率が1%を超えることはないと言われている。一方、リスクはあるものの、投資信託にかけておけば、年率8~9%の利回りも可能なのだ。

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ベストを尽くしさえすれば満点

 私は、この後もたくさんの資格に挑戦するだろうし、いくつかの大学にも入学するだろう。それだけではなく、人生のありとあらゆる面で、なしうる最大の努力を払おうと思っている。それこそがアリストレスのいう「エウダイモニア(幸せ)」だと思っている。

 そんな私を見て、ある人はこう不思議がるかもしれない。「この人って、落ち込むことって無いのだろうか? 例えば、試験を受けて、試験問題と相性が悪くて腹が立ったり、できたと思っていたところ不合格になったりしても、落ち込むことってないのだろうか? 私なら、そんなことがあったら、すぐにイヤになって落ち込むけどなぁ」

 私は、正直いって、試験に合格しようがすまいが(あるいは、目標としていることが達成できようができまいが)落ち込まない。というより、より正確に言えば、落ち込まないようにしている。

 私にとっての基準は、すべて私の内部にある。つまり、目標に向かってベストを尽くしたら、結果はどうであれ、私としては満点なのだ。逆に、ベストを尽くさなければ、私としては不合格だ。外部の基準ではなく、自分自身の基準で自分に合格・不合格を与えている。だから、正直、ここ何年もの間、私はずっと満点だらけだ。自分なりにベストを尽くしてきたと自信を持って言えるからだ。

「そんなの独りよがりではないの? だって客観的に見れば、不合格は不合格でしょう?」

 そう反論する人もいるだろう。それは私も理解している。不合格になればそれは客観的に不合格だ。それは認める。しかし、人間、「ベスト以上」のことはできないのだから、「ベストを尽くしたら、それで満点」としないで生きていると、人生、やってられないと思うのだ。

 例えば、野球の選手が練習に練習を重ね、ホームランを打つ実力をつけたとしよう。実際、ホームランを打った。と思ったら、信じられないような強風が吹いて、ギリギリのところでファールになったとしよう。実力としては「ホームラン」だが、結果としては「ファール」だろう? そのとき、「結果」だけで判断する人間なら落ち込まなければならないだろう。もちろん、だからといって「今のはホームランにしてくれ」とは言えないが。

 あるいは、難関試験でもいい。勉強に勉強を重ね、合格するだけの実力をつけたとしよう。しかし、なぜか今年は悪問ばかりが出題されている。従来どおりの問題なら、間違いなく合格なのに、こんな変な問題が出たが為に、1点足りずに不合格となった。実力としては「合格」だが、結果としては「不合格」だろう? そのとき、「結果」だけで判断する人間ならば一気にやる気をなくしてしまうだろう。

 言っている意味が分かるだろうか?

 この世のありとあらゆる「結果」というのは、「実力」を正しく反映することもあれば、間違って反映されることもあるということだ。本当は「実力」がない人間でも「間違って」合格することもあれば、本当は「実力」がある人間でも「間違って」不合格になることもあるのだ。そんな「結果」に拘ってばかりいて、どうする? そんなもので自分を判断して右往左往するのではなく、自分で自分を判断できるようになったらどうだろうか。自分のことは自分が一番分かるのではないか。

 私は、試験に合格しようがしまいが、自分さえベストを尽くしていれば、それで満点だと思っているので(というより、そう思おうと努力しているので)、試験の結果にそれほど右往左往されない。もちろん、合格なら嬉しいことは嬉しいが、不合格になっても、別にどうってことはない。

「なんだかんだいっても、不合格になったらダメだ」みたいに思っている人、考え方を変えてみたらどうだろうか。そんな外部基準で自分を判断するのではなく、自分がベストを尽くしたか・尽くしていなかったかという内部基準で自分を判断するようにしたらどうだろうか? 

 

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主体的に生きる

 世のほとんどの人は、金、地位、名誉、権力、試験の合格、異性といった「外的なもの」を手にしたら幸せになれると思いこんでおり、そういった「モノ」が手に入ることだけをやっている。というより、そういうことしかやっていない。

 しかし、それでは主体的な生き方とは言えない。自分の欲望に反応して生きているだけだ。カントの言葉でいえば、「傾向」にしたがって生きているだけである。

 よくよく考えてもらいたいのだが、ネコでも自分の欲望に従って生きているのだ。求めているものは違うが、「傾向」に従っているという点はネコと同じなのだ。

 一方、主体的な生き方は人間しかできないものである。これは、欲望に反応したからでもなく、また、必要に迫られているからでもなく、ただ単に自分が本当にやりたいことを自らの意志で主体的に行う生き方である。

 では、主体的な生き方と反応的な生き方の違いは何か。具体例で考えてみよう。

 私は4つの大学を経験したので、よく知っているのだが、「単位さえ取れればいい」と考えている学生は、夏休みも冬休みも春休みも自発的に勉強などすることはなく、レポートとか試験とかがないかぎり勉強をしない。それはそうだろう。なんといっても、彼らが勉強するのは「単位を取るため」だからだ。もしも、例えば経営学部の学生から、「僕は夏休みの間、ずっと経営学の専門書を20冊も30冊も読んでいた」なんて聞かされたら、主体的な勉強をしているなと感心してしまうだろう。いや、畏怖の念さえ覚えてしまうだろう。しかし、「公認会計士試験のための勉強に明け暮れていた」と聞かされたら、努力は素直に認めるが、畏敬の念までは覚えないだろう。

 しかし、私の見る限りり、主体的な勉強をしている人はそれほど多くはなさそうだ。多くの学生は反応的な勉強しかしていない。そんな彼らが長期休暇中にやることといえば、やはり「外的なもの」が得られることである。最も多いのがアルバイトをすれば金が手に入るという理由でアルバイトに精を出す。なぜなら、彼らにとって「外的な報酬」が得られないことは、やる意味がないことだからだ。だから、「金」という別の「外的な報酬」を求めるのだ。

 私は、青山学院大学時代も、シェフィールド大学大学院時代も、夏休みなどの長期休暇中は、まわりの友人らがアルバイトに精を出しているのに気を止めず、ずっと図書館にこもって本を読んでいた。感銘を受けたところには線を引き、大学ノートに書き留めたり、その下に自分の感想を書き込んだりしていた。それは試験のためではなく、自分自身のためだ。自分が勉強したいから勉強するという、ただそれだけのための「主体的な勉強」だった

 そんな私を見て、青学時代の友人も、シェフィールド大学大学院時代の友人も、「試験もないのに、いったい何でそんな勉強しているの? なんでアルバイトやらないの?」と不思議がっていた。それはそうだろう。彼らにとって、勉強とは、「試験のために」あるいは「単位取得のために」するものであって、自ら主体的にするものではないからだ。だから「お金にもならないのに何でそんな勉強しているだろう?」と不思議がっていたのだ。

 でも、彼らのように「外的な報酬」ばかりを求める生き方が果たして主体的な生き方をしていると言えるのか。答は、当然、ノーである。というのも、彼らは、勉強したいからという理由で自発的に勉強しているのではなく、単位が取れるからという「外的な目標」のためにやっているにすぎないからだ。

 しかし、そのように「外的な目標」ばかり求めて勉強したとしても、小粒な人間になるのが関の山ではなかろうか。というのも、彼らは一つ「外的な目標」を得たとしたら、それはそっちのけで、別の「外的な目標」を求めるからだ。そんな浅はかな勉強しかしなければたいした実力はつなかい。

 例えば、英語の勉強にしても、「大学入試があるから」「単位を取らなければならないから」「就職試験があるから」というような「外的な目標」をクリアするだけのために勉強している人は、その目標をクリアしたらもう勉強しなくなるだろう? そんなのでホンモノの英語の実力がつくわけがない。その証拠に、そこそこの大学を出てても、ロクに英語の本が読めやしない人が多いだろう。

 「外的な目標」でも、まだあるうちは、いいかもしれない。だが、反応的な生き方をしている人は、「外的な目標」もなくなったら、暇で暇でしかたがなくなるはずだ。というのも、彼らは、自発的に、伝記を読んだり、外国語を学んだり、書道をやったり…といった「外的な報酬」が得られないようなことは、やっても意味がないと思っているからだ。

 一方、主体的な生き方をしている人であれば、「外的な報酬」が手に入ろうが入るまいが、次々と自分を高めていく。試験がなくても、伝記を読んだり、勉強したり、外国語を学んだりと、次々と勉強していくだろう。だからこそホンモノの実力がつくのだ。

 何度でも言う。ホンモノの実力をつけたいのなら、ただ単に「これがしたいからやる」ということを自ら率先して行うことである。「外的な報酬」を求めてはいけないというつもりはないが、それが第一の目標になっているとすれば、主体的な勉強とはかけ離れてしまう。

 なお、主体的な生き方について詳しく知りたい人は『7つの習慣―成功には原則があった! 』や『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則 』を読まれることをお勧めしたい。  

 

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外的な報酬ばかりを求める人が隣人愛を実践できるか

 今まで、善い人間になるには学問は必要だということを繰り返し述べてきた。

 しかし、当然ながら、学問だけできても、本当の意味で幸せはつかめない。なぜなら、アリストテレスがいうように、人間は本性として社会的な動物だからである。一流大学を出ても、自分のことばかりしか考えない人間は社会から爪弾きにされるのがオチである。

 では、社会の中でうまくやっていく秘訣は何か?

 最も重要なことは、自己中心性を捨てるということだ。

 それが隣人愛を実践するときの基礎となる。

 ところが残念なことに、この世のほとんどの人は、この世の「モノ」が手に入れることが、すなわち幸せへの道だと思いこんでおり、毎日毎日、アクセクアクセクと「モノ」を求めて頑張っている。

 金銭、名誉、試験の合格、異性、昇進、権力…。

 彼らはこうした「外的な報酬」こそが自分を幸せにしてくれると思いこみ、これでもか、これでもかとこうした「モノ」を追い求めるのである。けっして「善い人間になろう」という「内的な報酬」を求めて頑張っているのではない。

 「女、女、女…。女さえできれば幸せになれる」。学生時代そう思っていた人間が、いったん結婚すると、今後は「昇進」を目標とする。「昇進すれば幸せになれる」と考えるからだ。そこで「昇進」の可能性が高まることなら何でもやる。仕事に関連する試験に挑戦し、ゴルフにつきあう。もはや考えていることのほとんどが「昇進」である。しかし、そんなある日、ふと思う。本当に幸せになるには、一生涯困らないお金を手にすることではないか。そこで「金が入れば幸せになれる」と考え、財テクに走る。

 しかし、「女」→「昇進」→「お金」と求める対象が変わっただけで、やはり自分の外側に幸せの源泉を求めていることに変わりはない。「善い人間になることで、他人に喜んでもらえるようになろう」という「内的な報酬」に幸せの源泉を求めることはない。

 「外的な報酬」を求めてはいけないと言うつもりはない。しかし、そこに隣人愛の方向性がなければ、幸せどころか、不幸に突進しかねないのだ。

 なぜか。なぜならば、「外的な報酬」ばかりを求めている人は、どうしても自己中心的になりやすいからだ。「モノ」が自分を幸せにしてくれると思っている以上、どうしても「モノ」を手に入れたくなる。目に映っている夢は、その「モノ」を手にした自分しかないのだ。そこに自己中心性を増殖させる罠が潜んでいるのだ。

 

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学問と同様に大切なこと

 私は、今までに何度も、善い人間になるには学問が必要だと説いてきた。

 しかし、学問だけやっていれば善い人間になれるかというと、けっしてそんなことはない。よくいう「論語読みの論語知らず」という人間はごまんといるし、だからこそ、学問の嫌いな人は、「学があっても悪い人間もいっぱいいるよ」と反論するのだ。

 では、学問以外には何が必要なのか。

 その一つは、良い習慣を身につけることだ。カントの言葉で言えば、訓練である。我々人間はだれしも動物的な欲望をもって生まれてくるのであり、それを恥じる必要はない。しかし、欲望の赴くまま悪いことをする人間になってはならないし、もし自分にそういうところがあるのなら訓練によって改善する必要がある。カントに言わせれば、改善こそが人間に課せられた義務なのである。

 例えば、やらなければならないことがあっても、なんだかんだと言い訳をして、なかなかできないという人がいる。手紙の返事を早く書くといっておきながら、なんだかんだでいつも遅くなる人間は格好の例だろう。

 あるいは、やってはならないことでも、ついついやってしまう人がいる。ダイエットのために夜食や間食は控えなければならないことが分かっていても、ついついカロリーの高い食べ物に手が出てしまう人がその例である。

 では、良い習慣とはどんな習慣か。どんな習慣を身につければ、いいのか。

 その答えを知るには、『7つの習慣―成功には原則があった!』が大いに参考になると思う。私はこの原書である『7 Habits of Highly Effective People』を留学中に読み、感激に酔いしれたことがある。古典としてはアリストテレスの『ニコマコス倫理学〈上〉』『ニコマコス倫理学 下』 がお勧めである。

 7つの習慣のうち、最も重要な習慣が時間の使い方に関する習慣である。

 では、どんな時間の使い方をすればいいのか。その回答は『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則』に詳細に書かれてある。英語ができる人、あるいは、英語も学んでみたいという人であれば、その原典『First Things First』と併読すると良いだろう。

 では、同書には、どんな時間の使い方をすればいいと書いてあるのか。一言でいえば、重要なこと(自分を成長させること)に割く時間を増やし、重要でないことに割く時間を減らしなさい、そしてそのためには、重要なことから先にやるようにしなさい、ということである。

 平凡な人の多くは、そもそも重要なこと(自分を成長させること)が何なのかが分かっていないし、自分を成長させることの重要性にも気づいていない。だから、テレビをダラダラと何時間も見たり、旅行だの外食だのと快楽を追求したり、お金・権力・名誉などといった本当は重要でないものを追い求めることにばかり時間を費やすのである。というか、そういうことしかやっていない。というのも、彼らは、外的な報酬ばかりに目が向いているので、本当に自分を成長させることには関心が向いていないのだ。

 逆に、時間の使い方のうまい人は、重要でないものを追い求めるという愚かなことはしない。また、自分を成長させる重要性を知っているからこそ、常に自分を成長させる時間を作る。例えば、読書をしたり、勉強したり、ITのスキルを高めたり、運動をして健康管理に努めたり…。彼らは、だれからも指示されなくても、自分を高めることを次々と自ら見つけて行っているのだ。だからこそ、常に成長するし、難易度の高い仕事もできるようになるのだ。当然、お金持ちにもなり、ますます自分を成長させる機会が増えるのである。すべてが好循環なのだ。

 あなたは、自分の時間の使い方を見直してみたくないだろうか。しっかりと見直してみたいというあなたなら『7つの習慣 最優先事項―「人生の選択」と時間の原則』がお勧めである。私が太鼓判をおしてお勧めする本である。

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一生遊んで食べていける不労所得を得るには

 私には、正直にいって、一生遊んで食べていける不労所得がある。だから、もはや、お金を稼ぐために働く必要がまったくない。これからは、自分の好きな研究や学問に打ち込み、それを生かせる道で社会に貢献できることをしていきたい。

 そんな私に、ある人はこう尋ねるだろう。

「どうやったら、そんな不労所得が手に入るのですか?」

 不労所得の手の入れ方は様々ある。例えば、本を書いて印税を得る、特許出願して特許料を得る、アパート経営で家賃を得る、株でキャピタルゲインを得る、投資信託で分配金を得る、アフィリエイト収入を得る…。

 もちろん、こうしたお金を稼ぐテクニックも必要だ。しっかり勉強するとよい。

 しかし、お金、お金、お金…とお金儲けのことばかりに走るのではなく、それ以上に大切なことを忘れてないでほしいのだ。

 それは、より善い人間になる、ということだ。

 お金に関連していえば、勤勉な人間になる、虚栄心を捨てる、お金を賢明に使える人間になる、の3つが重要だ。というのも、せっかくお金を稼ぐシステムを作っても、そのお金を垂れ流していては、一生遊んで食べていける不労所得などできはしないからだ。

 ベンジャミン・フランクリンの言葉を捧げよう。

「今日わたしたちは、たいへんな重税を課せられております。しかし、それにしても、わたしたちが収めなければならない税金が、ただ政府が課しているものだけというのでしたら、比較的容易に支払うことができもしましょう。ところが、わたしたちは、ほかにもいろいろな税金を収めなければならず、また、人によっては、政府が課した税金とは比べものにならぬほど重い税金を背負っておるのです。つまり、怠惰であるがために二倍もの、虚栄心を持つために三倍もの、愚かであるために四倍もの税金を背負っているのです」(『フランクリン自伝』)

 どうやったらお金が稼げるという点に関しては、個々のケースによるので、私はどれが一番いいかなどと言うつもりはない。文章を書くのがおっくうな人間に、「売れる本を書けば印税がどんどん入ってくるよ」というつもりはないし、当分寝かしておく余裕資金のない人間に「投資信託は毎月分配金を生み出してくれるよ」ともいわない。それは自分にはどれが一番合っているかを自分で探してみるべきだ。

 だが、すべての人に共通して言えることは、お金持ちになりたければ、勤勉な人間になる、虚栄心を捨てる、お金を賢明に使える人間になる、という普遍の原理を身につけることのほうがもっと重要だということである。お金を儲けるテクニックだけを学んで、例えば、株で大もうけしたところで、その儲けたお金を賢明に使えない人間なら、お金持ちにはなれはしないのだ。 

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本当に尊敬できる人間とは?

 あなたはどんな人間になりたいのか?

 金持ちになりたいのか。名誉を手に入れたいのか。役員というポストがほしいのか。美女にモテモテになりたいのか。豪邸を手に入れたいのか。一生遊んで暮らせるだけのマネーツリーを作りたいのか。子供を一流大学に入学させて「偉いお父さん」だと近所の人たちから評判を得たいのか。

 でも、仮にそんなことをすべて実現したとしても、ただの「良い人」で終わりだ。それだけでは、けっして「尊敬に値する人物」とはみなされない。実際、上のような条件をすべて満たしたというだけで、偉人伝に登場した人など皆無だろう? 

 しかも、そんなことを実現したとして、たったそれだけで楽しいのか。あなたの人生、それだけのことで終わっていいのか? あなたの夢というのは、それだけのことか?

 カントは、こういう人のことを「傾向」によって生きている人であり、何ら尊敬に値しないと言ったのである。

 「傾向」によって生きているというのは、言い換えれば、ただ自分がやりたいことをやっているというだけだということだ。

 「傾向」によって生きている人の例を挙げよう。

 女がほしい。これは健全な男性なら誰もが思うことだ。そこで女を求めた。女を得た。だけど、これがどれだけ人間として立派なことか。「傾向」によって生きているだけの話ではないのか。

 お金がほしい。これは裕福ではない人なら誰もが思うことだ。裕福な人でさえも、さらにお金をほしいと思っている人がほとんどだ。そこでお金を求めた。お金が得られた。これもただ自分がしたいことをしただけであって、「尊敬」には値しない。自分がお金がほしいから、アクセクと立ち回って小金持ちになったというだけの話だろう?

 難関資格に合格して昇進したい。これは野心のある人間なら誰もが思うことだ。そこで難関資格に挑戦した。合格した。しかし、それはただ自分がやりたいと思ったことをやっただけの話であり、だれでもやろうと思えばできることだろう? そんなことをやっても「尊敬」には値しないのだ。せいぜい、「ああ、よく頑張ったね」で終わりだ。

 偉人伝に出てくるような人たちは、こういった「ただの良い人」とは、違う何かを持っていた。

 では、違う何かとは何か?

 カントは『道徳形而上学原論』の中で、尊敬に値するには道徳的価値内容をもった生き方をしなければならないと説いている。難しい言葉になるが、定言的命法を守った生き方してはじめて尊敬に値するのだ、ということである。たくさんお金が稼いだかどうかとか、結婚しているか否かとか、どんな地位にまで登り詰めたかということは、一切関係ないというのだ。

 ただ自分の好きなことをして生きるのであれば、誰でもできるのだ。ネコでも自分の好きなことをして生きている。カエルにしても自分の好きなことをして生きているだろう。言い換えれば、自分の好きなことをトコトン求めて、それを得たとしても、「傾向」によって生きているという点では、人間も動物もまったく変わりがないのだ。

 理性のある人間ならば、たんに自分の好きなことだけをして生きるというのではなく、理性のある人間として、本当は自分はしたいとは思わないことであっても、「すべき」だからするという生き方をしなければならないのだ。

 言っていることが分かるだろうか? 

 例えば、お金がほしいという欲望のまま突進した人がいるとしよう。株でもいい、アパート経営でもいい、なんでもいい。とにかくガムシャラに金儲けに奔走したのだ。そしてある程度の財産を築いたとする。しかし、だからといって、それが尊敬に値するだろうか? 

 私は、「あっ、それは良かったですね」ていどの感想しか持たないだろう。けっして尊敬というところまでは行かない。

 しかし、例えば、その人が株で儲けたお金の半分を困っている人に寄付していたと知れば、私はその部分においては尊敬する。ただし、それも匿名で寄付していたとすれば、だが。(というのも、名前を出して寄付するのなら、そんなに難しいことではないからだ。お金と引き替えに名誉が手に入るからである)。

 もう一度いう。本当に尊敬に値するような人物になりたければ、道徳的価値内容のある人生を送ることだ。

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お金儲けを第一に考えるな

 何度もいうようだが、人間は、この世に魂を磨きに来ているのであって、より善い人間になることが人生の究極の目標なのである。それが第一の目標になるべきであって、お金儲けや、難関資格の取得、役員の地位を得ること、結婚することなどといった外的な目標が人生の第一目標になってはならないのである

 ところが、私が見る限り、100%近くの人は、より善い人間になろうと努力するのではなく、外的なものばかりを得ようとする。それは、金銭であったり、社内での地位であったり、資格取得であったり、結婚という地位であったり、性的快感であったりする。それらが自分を幸せにしてくれると思いこんでいるのだ。

 しかし、それは果たして本当なのだろうか。

 金銭にしろ、名誉にしろ、地位にせよ、資格合格にせよ、こういったこの世でしか役に立たないもののことをアリストテレスは「外的な善」と呼び、本当に大切な「善そのもの(節制・自制・勇気・正直・博愛など)」とは別物だと考えたのである。そして、アクセクアクセクと「外的な善」ばかりを追い求めている人をプラトンは「囚人」だと言ったのだ。

 「囚人」の例をあげよう。 

 ある青年は、「女ができれば幸せになれる」と思い、毎日毎日考えていることは女のことばかりである。いきおい彼の周りにも、同種の人間が集まってくる。彼らが話す内容のほとんどは「いかにすれば女ができるか」ということであり、どうすれば自分が磨かれるかということではない。彼らは、女を得ようとしてあの手この手を使うが、彼らには「外的な善」しか目に入っていないのである。

 ある既婚男性は、「社長になれば幸せになれる」と思い、社長になるためのプランを考え出す。昇進するためにゴルフ接待し、残業し、上司の引っ越しの手伝いを買って出る。なにしろ、「社長になること」が人生の第一目標なのだ。社長になれるためなら、なんでもするのだ。読書をしたり、語学の勉強をしたり、身体を鍛えたりということは「社長になるため」に何の役にも立たないからやっても意味がないと考えるが、上司の引っ越しの手伝いは昇進に結びつくから意味があるし、上司に勧められた難関資格に合格するのも昇進に役立つと考える。しかし、彼のやっていることは「社長になる」という「外的な善」のためでしかない。けっして会社をより良くしようとか、より社会に貢献できる人間になりたいという「善そのもの」のためではない。だから、彼にとっては昇進に直接結びつかないことは努力のしがいがないのだ。

 また別の既婚男性は、「お金持ちになれば幸せになれる」と思い、毎日毎日、どうやったらお金が稼げるかばかりを考えている。ある人から「株がいい」と聞いたら、株に手を出してみる。ある本に財テクが紹介されていたら、すぐに試してみる。今や彼の関心事は、「どうやったら金が儲かるか」だけである。「お金持ちになれば幸せになれる」と思っているわけだから、お金儲けに直接つながらないことはやっても馬鹿らしいと考える。つまり、彼の目からすれば、お金儲けに直接つながらない学問や資格取得は「やるだけ損」なのである。だから、彼は、ひたむきに学問に取り組んでいる人がいると不思議で不思議でしかたがない。「なんでそんな(金儲けにつながらないこと)に努力しているの? いったいなぜ?」と不思議がる。

 またある男性は、「難関資格に合格すれば幸せになれる」と思い、難関資格に挑戦する。専門学校で、どうやったら合格するかというテクニックを学び、そのテクニックを駆使して試験に臨む。しかし、彼がやっていることは、「高度な専門知識を身につけて、より分別のある人間になろう」という「善そのもの」のためではない。あくまで試験に合格することが目的であり、「分別のある人間」になろうがなるまいが関係がないのだ。「合格すれば意味があり、不合格になれば何の意味もない」と考えているのだ。

 しかし、プラトンは、こうした人々をみな「囚人」だと言ったのだ。本当に自分を幸せにしてくれるのは「善そのもの」であり、「善そのもの」のために努力してはじめて幸せが手に入るというのに、「囚人」は「善そのもの」に目を向けようとはせず、「外的な善」ばかり求めて日々アクセクアクセクしているのだ。

 あなたは「善そのもの」を求めて生きているだろうか? つまり、善い人間になろうとして努力しているだろうか。より分別のある人間になろうとしているだろうか。より思慮深い人間になろうとしているだろうか。より愛情深い人間になろうとしているだろうか。より正しい行為ができる人間になろうとしているだろうか。このような「善そのもの」のために努力しているだろうか。

 「善そのもの」を求めようとすれば、自然と知を愛するようになるし、良い習慣を身につけようとし始めるのだ。いわゆる「学がある」というのはこういう人のことを言うのであって、学歴は一切関係ない。

 誤解してもらいたくないのだが、私は「外的な善」を求めることが悪いとは一言も言っていない。アリストテレスもある程度の「外的な善」は必要だと述べている。しかし、気をつけてもらいたいのは、ある程度の「外的な善」さえあれば、もうそれ以上「外的な善」を求めることに拘泥していないで、それよりも遙かに重要な「善そのもの」に目を向けよ、ということである。言い換えれば、「外的な善」を人生の第一の目標にしてはならないということである。

 お金儲けが人生の第一の目標になっていると、お金儲けに直接つながらない努力はばからしくなる。書道してもお金儲けにつながらないから馬鹿らしい。絵を描いたところでお金儲けにつながらないから馬鹿らしい。文学作品を読んでもお金儲けにつながらないから馬鹿らしい。資格も、直接お金儲けにつながらない資格だと受けたところで馬鹿らしい。スポーツしても馬鹿らしい。芸術作品を鑑賞するのも馬鹿らしい。馬鹿らしい、馬鹿らしい、馬鹿らしい…。お金儲けに直接つながらないことに努力するなんて、ああ、馬鹿らしい。そういう人間になってしまう。

 こうやって彼らは、自分自身を磨く機会をことごとく自ら失っていくのである。 

 例えば、大学の通信教育にしても、最後までやり抜く人はせいぜい1割程度だ。残りの9割は途中で、「こんなことやっても、直接お金儲けにつながらないから馬鹿らしい」と言い訳をして止めていく。本当は努力するのが嫌になっただけなのだから、正直にそれを認めればいいのに、認めたくないからか、「こんなこといくら勉強してもお金儲けにつながらない。なんでこんなこと覚えなければならないの?」などと屁理屈をつけて辞めていくのである。しかし、そういう人たちは、中退することで、自ら自分を磨く機会を放棄しているのだ。

 一方、最後までやり抜く人は、学問のすばらしさに目覚めている人が多い。というより、学問のすばらしさに目覚めた人くらいでないと、最後までやり抜けない。こういう人たちは、異口同音にやり抜いて良かったという。では、何が良かったのか。学問をやり抜くことで、洞察力、思考力、忍耐力、文章執筆能力、語学力、計画性、実行力…などが高まったと考えるのだ。

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プラトンのいう「囚人」とは

 プラトンは、世に生きるほとんどの人は「囚人」だと言った。(『国家〈上〉 (岩波文庫)』『国家 下  岩波文庫』を参照)。

 では、「囚人」とはどのような人をいうのだろうか。私なりの解釈を述べてみたい。

 「囚人」は、何が真実かを知ろうとせず、この世の出来事がすべてだと思いこんでおり、したがって、この世だけでしか価値のない「モノ」を求めて日々アクセクしている人たちのことである。

 金銭、名誉、地位、昇進、合格、性的快楽、結婚…。

 彼らが考えていることは、こうした「モノ」を手にすることだけである。なぜなら、こうした「モノ」が自分を幸せにしてくれると勘違いしているからだ。

 なるほど、こうしたこの世の「モノ」は、この世では価値がある。しかし、逆に言えば、この世でしか価値のないものでもある。にもかかわらず、「囚人」は、こうした「モノ」がすべてだと勘違いしているため、こうした「モノ」を手にすれば幸せになれると期待し、日々こうした「モノ」の獲得にアクセクと努力するのである。

 したがって「囚人」の掲げる目標とは、「お金をたくさん稼ぐこと」「名誉を手に入れること」「世間的に認められること」「難関試験に合格すること」…といったものになるだろう。

 だから、何かを勉強するのも、「合格」するためだけに勉強するわけである。けっして「分別のある人間になろう」とか「思慮深い人になろう」といった目的で勉強するわけではない。したがって、彼らが試験を目指しても、「合格しなければ勉強したところで意味がない」としか考えられないのだ。

 一方、真実に目覚めた人は、試験合格とか、学位取得、資格手当の獲得、昇進といった「モノ」にこだわることはない。

 真実に目覚めた人は、この世の「モノ」はこの世でしか価値がないことを知っており、また、それよりも大切な、この世を超えても価値のある「本当に価値のあるモノ(善そのもの)」を知っているのだ。

 いや、それだけではない。「善そのもの」のほうが、この世の「モノ」の何倍も大切であることも知っている。したがって、彼らが努力するのは、「善そのもの」を求めてであって、この世の「モノ」を獲得するためではないのだ。

 だから、彼らが勉強するのは、分別のある人間になるため、思慮深い人間になるため、正しい知識を持った人間になるため、正しい判断ができる人間になるため…といった「善そのもの」のためであり、学位取得や単位取得、試験合格などといったことは第二義的な意味合いしかないのだ。

 難関試験を目指している人や、通信教育をしている人などは、途中で嫌になって投げ出す人が多い。しかし、それは「合格」とか「資格手当の獲得」とか、そういった「モノ」を目指して勉強しているからではないか。だから、なかなか合格しそうにないことが分かると、「こんなこと勉強して何になるんだ、実生活に何にも役に立ちはしないではないか。こんなこと勉強するくらいなら、お金儲けにつながることを勉強したいよ」といって投げ出すのである。

 しかし、「分別のある人間になろう」とか「思慮深い人間になろう」という目的のために勉強している人は、なかなか合格しそうになくても、お金儲けに直接結びつかないことが分かっても、途中で投げ出すことはないのである。なぜなら、もともと、そういう「モノ」にはそれほどこだわっていなかったからである。

 何度でもいう。金銭、名誉、資格手当、学位…。そういった「モノ」を第一の目的にはするな。そういった「モノ」を求めてアクセクして努力しても、得られるのは、そういった「モノ」だけなのだ。しかし、「善そのもの」に目を向けて努力すれば、「分別」「思慮深さ」「節制」「自制」「正義」などが身に付くのである。

  

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どうしたら幸せになれるの?

 世の中のほとんどの人(私の見る限りほぼ100%の人)は、金銭・名誉・地位などを手にしたら幸せになれると思っている。しかし、果たして、そうだろうか。

 例えば、子供から、「お父さん、幸せになるにはどうすればいいの?」と訊かれたとしよう。そのとき、あなたならどう答えるか。ほとんどの人はこう答えるのではないだろうか。

「幸せになりたいのなら、お金をたくさん稼げるような人間になりなさい。そして、一生涯、遊んで暮らせるような金の成る木を作りなさい。ある程度の歳になったら、いい奥さんを貰いなさい。独身でいたら、社会的にも変な目で見られるので、ビジネスにも悪影響する。結婚したら、早く子供を作りなさい。それで漸く一人前の社会人になれる。しかし、そのためにはお金がたくさん稼げるように、一流企業に入ることを目標としなさい。そしてそのためには、できるだけいい大学に入ったほうがいい。勉強はしなくてもいいが、ただ、いい企業に入るには、できるだけいい成績を取りなさい。一流企業に入ることができたら、少しでも早く昇進できるように、売り上げナンバー1になりなさい。あの手この手を使ってナンバーワンのセールスマンになりなさい。資格も次々と取ってたくさん資格手当をもらいなさい。そうすれば幸せになれるよ」

 すべては「お金をたくさん稼げるようになること」や「世間体を良くすること」と関連づけて話されるのである。善い人間になれ、ということは語られないのである。

 しかし、果たしてそれで本当に幸せが手に入るのか。

 このような生き方をしていれば、お金儲けに直接つながらないことをやっても意味はないことになる。例えば、大学でやる学問など、ほとんどは直接お金儲けにはつながりはしない。それでもこうした人たちが子供たちにいい大学に行かせたいのは、「いい企業に就職させたい」という外的な目的のためである。

 こういう躾けをしていれば、子供は「単位さえ取れれば、まじめに授業に出なくても、他人のノートを写して一夜漬けで勉強しておけばいい」と考えるようになるだろう。企業に就職しても、「この資格は取っても資格手当が出ないから、受けるのはやめよう」と外的な報酬が得られるか得られないかだけで物事を判断するようになるだろう。なにしろ、彼らは、直接お金儲けにつながらないことなどもともとやる意味などないと教え込まれているのだから。

 古代ギリシャの哲学者たちは、こうした生き方をしている人々を「囚人」だと言ったのである。古代ギリシャでもほとんどの人は「囚人」であったが、今の日本でも状況は変わっていないようだ。私の見る限り、ほとんどの人は、金、金、金…である。

 では、古代ギリシャの哲学者が、子供たちから「幸せになるにはどうすれいいの?」と訊かれたらどんな答え方をしただろうか。おそらくこんな感じだったのではないか。

幸せになりたければ、善い人間になるように努力しなさい。善い人間とは、分別のある人間、正しいことをする人間、勇敢な人間、節制のできる人間、他人に親切のできる人間のことだ。分別のある人間になるには、何が正しくて何が正しくないかを知る必要がある。そのためには学問に打ち込むことだ。節制のできる人間になるには、良い書物を読み、良い芸術作品に触れ、身体を鍛えることだ。このようなことを繰り返し続けていれば、良い習慣が身に付くのだ。お金が儲かるか儲からないかとか、他人がどういう評価をするかとかを第一に考えるな。それよりも、自分自身が善い人間になるかどうかを第一に考えよ。善い人間になればなるほど、幸せになれるよ」

 こういうふうに躾けられた子供は、分別のある人間になるために学問に打ち込むだろう。それは単位を取るとか、学位を取るとか、偏差値を上げるとか、そういった外的な目的のためではない。あくまで「分別のある人間」になることが第一の目的になっている。そのため、試験に落ちても何らショックは受けないのだ。「分別のある人間になる」ことが目的なのだから、試験がなくても、勉強は続けるのである。

 あるいは、こうういうふうに躾けられた子供は、節制のできる人間になるために、書道に打ち込んだり、音楽に打ち込んだりする。「書道をやっていれば就職に役立つ」といった、外的な目的のためではなく、あくまで「節制のできる人間」になることが第一の目的になっている。

 さて、もう一度、あなたに訊く。あなたは子供から「幸せになるにはどうしたらいいの?」と訊かれたとき、どう答えるだろうか。

「お金をたくさん稼げる人間が幸せである。だから、幸せになりたければ、お金がたくさん稼げる人間になりなさい」

「善い人間が幸せである。だから、幸せになりたければ、善い人間(分別のある人間、勇敢な人間、正直な人間、節制のできる人間)になりなさい」

 あなたなら、自分の子供に、どう答えるだろうか。

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いつまでも色あせない幸せを手にするには

 幸せになりたければ「善そのもの」を人生の第一の目的とすることである。

  これは言い換えれば、「より善い人間になることを第一の目的にせよ」ということである。「仮象の善」は求めてならないものではないが、けっして第一の目的にはしてはならない。

 世の中のほとんどの人は「善そのもの」ではなく、「仮象の善」を第一目的として生きている。「善そのもの」が何かが分からないからだ。いや、「善そのもの」は何かを知ろうとさえしていない。しかし、それでは幸福にはなれないし、逆に、不幸になる可能性のほうが高い。

 例をあげて説明しよう。

「仮象の善」とは、言い換えれば、「目に見える目標」といっていい。合格、昇進、名誉、権力、金銭、就職、結婚…。多くの人はこうした「仮象の善」が手に入れば幸せになれると勘違いしている。だから、あれこれと画策して、こうした「仮象の善」を手に入れようとするのだ。

例えば、「仮象の善」を第一目標としている人が、子供に書道をやらせる場合、書道を通して自分を磨くという真の目的のためではない。「書道をやっていれば、履歴書に綺麗な字で書けるから、いいところに就職できるかもしれない」という「仮象の善」を求めているためである。

同じように、ある程度のレベルの大学に行ったほうがいいと考えるのも、レベルの高い大学ではそれだけ質の高い学問を通して自分が磨けるという真の目的のためではない。「いい大学のほうが、いいところに就職できる可能性が高まるからだ」という「仮象の善」を求めているからだ。

あるいは、難関試験を受けるにしても、その目的は、専門的な知識を身につけることで自分を高めようという真の目的のためではない。「合格して、その資格を武器にしよう。そうすれば資格手当も入ってくるし、昇進に役立つかもしれない」という「仮象の善」を求めているからだ。

あるいは、ブログで文章を書き続けるのも、良いブログを作り上げ、読む人のためになるブログにしようという真の目的のためではない。「ブログでアフィリエイトをやっていればお金儲けになる」という「仮象の善」を求めているのだ。

しかし、努力し続けていても、「仮象の善」が達成せきそうにないと分かることがあるだろう。例えば、努力し続けても試験に合格しそうにない。努力し続けてもお金儲けにつながらない。努力し続けても思い通りの名誉が手に入らない。

そんなとき、「仮象の善」を求め続けてきた人は、ふと思うのだ。

「こんな試験に通ったところで、いったい何になるんだ。ばかばかしい」

「書道なんてやって何になるんだ。字を書く機会なんてないじゃないか、ばかばかしい」

「ブログなんて書き続けて何になるんだ。お金儲けにならないじゃないか、ばかばかしい」

しかし、最初の最初から「善そのもの」のために頑張っている人は、「仮象の善」(昇進、金銭、名誉、権力)などに執着していないので、仮に「仮象の善」が手に入りそうにないことが分かっても落胆しないのだ。

例えば、学問を志し、社会人になってから難関の大学院を目指している人がいるとしよう。その究極目的は「合格すること」ではなく、「より善い人間になること」だったとしよう。すると合格することそのものは、それほど大切なことではなくなる。なにしろ、究極目標は「善い人間になること」なのだから、「合格するか否か」など小さな小さな目標にすぎなくなるからだ。その人にとっては少しでも善い人間になるほうが、合格するよりも遙かに大切なのだ。

逆に「合格すること」そのものにこだわって生きている人は、合格するか否かだけが関心事になる。だから不合格になれば落ち込むことになるのだ。不合格になれば、「俺っていったい何のために頑張ってきたんだ? ばかばかしい。こんなの、何の得にもならないじゃないか」ということになるのだ。

何度でもいう。

これをすればお金儲けにつながるかとか、そういう目先のことばかりにとらわれて生きるな。そういうお金とか、権力、地位、名誉、快楽といった「仮象の善」があなたを幸せにしてくれることはないのだ。一時的には幸せにしてくれるかもしれないが、あくまで一時的なものにすぎない。そんなものを手にしたところで、いずれすぐに色あせる。「これを手にすれば幸せになれると思っていた。だが、手に入った今思うことは、『なんだこのていどのことだったのか』ってことだ」と思うのだ。あなたはそんな「すぐに色あせる幸せ」を手に入れるためにアクセクしたいのか?

いつまでも色あせない幸せを手に入れようと思えば、善い人間になることでしか方法はないのだ。少しでも善い人間になることを第一の目的にすることだ。それ以外の方法で、いつまでも色あせない幸せが手に入ることはないのだ。しかも、意外なことに、そういう人ほどお金は寄ってくるものなのだ。

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