私は、学問はずっと続けていくつもりだが、学問が人生で一番大切だとは言っていない。学問をするのは、あくまで自分を磨くためであり、最終的には学んだことを隣人愛に活かすことが大切なのである。学んだことを、ただ自分の名誉のため、自分のお金儲けのために活かしただけでは、尊敬に値するとまでは言えない。
「隣人愛が大切なことは分かったよ。だけど何をするの? 偉そうなことを言っているけど、実際、何をやっているの?」
こんな声が聞こえてきそうである。
隣人愛といっても、何も大きなプロジェクトに取り組まなければならないというわけではない。できる範囲ないのことをコツコツやっていけばいいのだ。例えば、献血でもいいだろう。献金でもいい。コンビニやマクドナルド、スーパーなどに行けば、募金箱はたいていおいてある。それに小銭を入れてあげてもいいだろう。あなた自身がお金に困っているのなら、ベルマークを集めてどこかの学校に持っていったっていいのではないか。
「なんだ、隣人愛、隣人愛って、たったそれだけか?」
そう思うかもしれないが、何もそんなことが隣人愛だというつもりはない。というより、そういうことを特別しなくても、もっともっと大切なことがある。
隣人愛の第一歩は「倫理的な言葉を使うこと」だ。隣人愛はそこがスタートだし、それをしないで隣人愛は実践しようがない。
「倫理的な言葉を使う? う~ん、よく分からないなぁ。倫理的な言葉って」
そういう声が聞こえてきそうである。
分かりやすく説明しよう。「倫理」というのは「人間関係」という意味だ。だから「倫理的な言葉を使う」ということは「人間関係を大切にする言葉遣いをする」ということだ。さらに言い換えれば、「もし自分が相手の立場だったら、言ってもらいたくない言葉遣いをしないこと、言ってもらいたい言葉遣いをすること」といえるだろう。
例えば、図書館である青年がペットボトルを持ち込んで飲んでいた。それを見たある中年男性は激怒して、つかつかとその青年のところに歩み寄り、こう怒鳴った。
「このバカが! 飲むんじゃねぇよ。掲示板よく読め!」
これは「倫理的な言葉」ではない。言い換えれば、「人間関係を大切にした言葉」ではない。話しかけているのは確かに人間ではあるが、モノとして扱っている。相手の人間性を認めていない。ただ、マナー違反をしているのに腹を立てて、怒りを爆発させただけである。
同じ注意をするのであっても、「倫理的な言葉」が使える人なら、
「この図書館は、その掲示板にも書かれてあるとおり、飲食は禁止になっていますよ。気をつけられたほうがいいのではないですか?」
というふうに、相手の人格を傷つけないように注意するだろう。
「な~んだ、たったそれだけのことか。そんなんなら私もいつも倫理的な言葉を使っているよ」
そういうかもしれない。しかし、「倫理的な言葉」を使うことは意外と難しいのだ。特に他人を注意するときは、カッとなっているときが多いので、ついつい他人の人格を無視して、けなすようなことを言いやすいのだ。
先日、私が自転車で道路を走っていたら、私の後ろから猛スピードで飛ばしてくる自転車があった。私が道を曲がろうかどうしようか迷いながら自転車の方向を変えようとしたとたん、後ろからきたその自転車と一瞬、ぶつかりそうになった。私は、後ろから来ている自転車にはまったく気づいていなかったし、何も私が危険な走行をしていたわけではない。なのに、その自転車に乗っていた男性は、私とすれ違いざまに、大声でこう怒鳴った。
「あぶね~んだよ、このバーカ。死ね!」
私は、一瞬、殺気を感じた。しかし、こういう風に、たった一言ののしられただけで、私はその日、一日中、気分が晴れなかった。わざと危険走行をしていたわけでもないのに、なんで「バーカ」と罵られなければならないのか。おそらく、その男性は、ふだんから、ちょっとでも気にいらないことがあったら、すぐにこのように相手をののしったり、見下したりするのだろう。言い換えれば、「倫理的な言葉遣い」のできない人なのだろう。そう思うと、むしろ可哀相な人だと思えた。
言葉遣いが大切だということがお分かりいただけだろうか? 隣人愛の第一歩は倫理的な言葉遣いをすることだということもお分かりいただけただろうか? 人間は、言葉によって励まされたり、口論したり、憎しみあったりするのである。倫理的な言葉、つまり、人間関係を大切にする言葉が使えるようになることが、隣人愛の第一歩ということがお分かりいただけだろうか?
あなたは、自分の同僚、友達、配偶者、子供、見知らぬ人…に対して、どういう言葉を使っているのかな? 倫理的な言葉を使っているだろうか? 配偶者や子供だけでなく、見知らぬ人に対しても、倫理的な言葉を使えるようになることは、それだけでもとても重要なことではないかな?